胸の奥の、手放せない光 - 5/7

第四章

 朝起きて、当たり前みたいにサビ組事務所へ向かう。
 セイカさんに出会う前はあり得なかったことだ。
 生活も、リズムも変わった。
 酒に逃げることはなくなったし、肉体労働の疲れもあって夜は早く眠るようになった。朝も、陽の光で自然と目が覚める。
 見た目も気にするようになった。顔の造形はどうにもならないから、とりあえず不潔に見えないようにするくらいだけど。
 昨日貰ったかみなりの石でピカチュウをライチュウに進化もさせたし、今日はその報告もしたい。
 早く彼女に会いたい。仕事をして認められたい。
 借金の返済とか、そういうことはもう頭になかった。
 どうでもいいとさえ、思い始めていた。

「おはようございます。今日も仕事をしに来ました」
「あんた毎日熱心だねえ……。通りな」

 門番の人に挨拶をすればすんなりと通してくれた。中に入ればセイカさんの補佐をしている組員の人が待っていて、そのままエレベーターでセイカさんがいる部屋へと向かう。
 つい数日前は緊張でどうにかなりそうだったのに。
 今では事務所の雰囲気にもすっかり慣れてしまった。

「おはようございます。いい顔つきになりましたね。初めてお会いしたときと比べると見違えるようです」

 大きすぎるボスの席に座るセイカさんはいつもと変わらずのスーツ姿。髪も下ろしている。
 俺にとってはもはやこちらの姿の方が馴染みがあるくらいだ。

「おはようございます、セイカさん。少しずつですけど……変わりたいと思ってるんで。……そうだ。セイカさんから貰った石でピカチュウをライチュウにしたんですよ」

 変わりたいという気持ちになったきっかけはセイカさんだけど、それは心の奥底にしまう。

「らいらーい♪」
「ピカチュウのときの愛らしさを残しながらも、ライチュウになってより頼りがいのある姿になりましたね」

 快活、というより静けさが感じられる笑みだけど、その顔が俺に向けられていると意識すると全身の血が沸騰していくようだ。
 ライチュウのお披露目も終わり、ボールに戻すとセイカさんは顔の前で指を組んでいた。
 ただそれだけなのに代理とはいえボスの名に恥じぬ“圧”がある。
 自然と背中も伸びるってもんだ。

「今日の仕事ですが、事務所で保護しているポケモンたちのお世話をしていただきます」
「ポケモンの保護……。サビ組って色んなことをしているんですね」
「ええ。街のなんでも屋さんですから」

 ──セイカさんに連れられてエレベーターで向かった先には広々とした部屋が広がっていた。
 そこにはアーボやスボミー、フシデ、水槽にはコイキングなど……色んなポケモンがのびのびと過ごしている。

「この子たちは怪我をしていたり、群れからはぐれた子なんです。元気になったら組員の手持ちになったり、野生に返したり。ちょうどご飯をあげる時間ですから、手伝ってください」

 サビ組のことよく分からなくなってきた。慈善団体なのか? 純粋な、とは言えないけど。
 セイカさんとキッチンに並んでそれぞれのタイプに合ったポケモンフードを皿に移す。というだけの簡単な作業だけどこんな近い距離でなんて。
 もしかして俺、思っていたより信頼されている?
 変に意識してしまうけど、やっぱり異性に向けるような感情じゃないんだよな。セイカさんに感じるのは。
 俺をもっと見てほしいという承認欲求。他の誰でもない、セイカさんにだけ認められたい。
 それぞれのポケモンたちにフードを与えるとお腹が空いていたのか元気よく食べ始める中、部屋の一番奥の角でジッ……と動かないフシデが目に入る。
 目の前の皿にはセイカさんが用意したフードが盛られているけど全く手を付けようとしない。

「あのフシデ。群れからはぐれて、他のポケモンの攻撃で怪我をしてしまって。体の傷は治っても心は……」

 俺の視線を汲み、セイカさんが教えてくれた。
 傷つき、怖い思いをして誰も信じられなくなって……。
 ああ、なんか似てるな。俺も社会という群れに馴染めずにここまで落ちてしまった。
 なんだか放っておけなくて。フシデを刺激しないよう、床に腹を付けた。
 視線の高さを合わせ、ゆっくりと這う。
 フシデは俺をじっ……と見つめたまま動かない。
 一定の距離で止まる。まずは少しでも信頼を得るのが先決だ。

「群れからはぐれたんだってな。俺も似たようなものさ」

 じとりとした眼差しながらも幸いなことに逃げもしないし、威嚇もされなかった。とりあえずはよかったと言える。
 本来フシデは小柄な見た目に反して食べる量は多い。だがこの子はセイカさんの言葉のニュアンス的にあまり食べてなさそうだ。
 誰も信じられないのに。保護されたからといってすぐに心を開けるか?

「……信じろなんて言わない。でも腹減ってるだろ。食べるか食べないかは、お前が決めていい」

 皿からフードをひとつ取り、手のひらに載せたまま腕を伸ばす。フシデの触覚が、わずかに揺れる。
 じり……、と近づき、指先に体が触れるとフシデは一度後退した。
 観察するように見つめてきて、俺も変な動きをせずに我慢をしていると、ようやく警戒心が弱まったのか手からフードを取った。
 離れた位置で俺を見ながら食べ、無くなるとまた手に載せて差し出すの繰り返し。交わす言葉はない。食べてくれる。それだけでよかった。
 ──気づけば皿も空になっていた。ジッ、と見つめる眼差しは“もっと欲しい”と訴えているように思えて。

「食べるか?」
「……キュイッ」

 短い返事にフードを取りに起き上がると。

「どうぞ」
「あっ、すみません……」
「お気になさらず。他の子は私が世話をするので、あなたはフシデをお願いしますね」

 視界の端に差し出されたフードの袋。顔を上げればセイカさんが微笑みを浮かべながら立っていた。
 その距離が思ったより近くて。セイカさんから感じる上品な香りに心臓がキュッと高鳴る。
 もうそんな歳じゃないのに。憧れの人を前にしているような反応をしてしまう。セイカさんの方が年下なのに。恥ずかしいったらありゃあしない。
 気を取り直してさっきと同じようにフードを与えれば、フシデは俺の手の上で食べるようになった。
 少しは心の壁が薄くなった、って思っていいのか?
 それにしても……虫ポケモンは苦手な人が多いけど、こう見るとフシデはなかなか愛嬌のある顔をしているな。
 小さく丸い体に、くりっとした大きな目。ジトッとした目つきが可愛い。

   ***

「…………はっ!」

 急速に意識が浮上し、弾けるように目を開けた先にあった壁掛け時計に俺は顔を青くする。
 ソファに座っていたら、いつの間にか寝ていたらしい。一時間以上は経っていた。
 これは仕事なのに。
 せっかく任されたのに、寝てしまった。
 セイカさんはどこだ。
 見える範囲に姿はない。もう執務室へ戻ったのか。
 あの人はボス代理。カラスバの代わりとして組員に様々な指示を出したり、判断をしなければならない立場だ。

(俺はなにをしているんだ……!)

 信頼して任せてくれた仕事なのに。これじゃあ……!
 思考はどんどん冷めていく。彼女が呆れた顔をして離れていく姿ばかり浮かんでしまう。
 嫌だ。お願いだ。見捨てないで。俺を置いていかないでくれ……!

「お静かに」
「ッ!?」

 焦り過ぎて隣から聞こえた柔らかな声に、大げさなほどに体をビクつかせてしまった。
 油を差していない機械のようにぎこちない動きで右側を向けば、そこには見慣れた黒服女性。
 セイカさんが、隣に座っていた。
 さすがに人ひとり分の距離はあるが、彼女と同じソファに座っている事実に心臓が口から飛び出そうになった。
 全身の穴という穴から汗が滲む。どうか、この動揺に気づかれませんように……!

 セイカさんは操作していたスマホロトムをしまうと、唇に人差し指を立てて“しぃ……”のポーズをし、視線を俺の足へと向ける。
 つられて見れば、俺の膝上にフシデの姿が。すぴ〜、と呑気な寝息が聞こえてくるような無防備な姿で寝ていた。
 フシデの存在を認識すると重さを感じる膝。長時間膝にいるのか痺れを感じるけど、この痺れもなんか“いいな”と思う。
 こんな俺に心を許してくれた、っていう事実が嬉しいのかもしれない。

(ん?)

 左側からも重さを感じる。ちらり。視線で確認すれば、ライチュウが俺に寄りかかってスヤスヤと安寧を貪っていた。ボールから出した覚えはないから……自分で出てきたのか。

「……そのフシデ、随分懐いていますね。ライチュウはもちろんですが」

 確かに。セイカさんの話だとフードを食べさせるのも大変だったみたいなのに。というかソファに座っていたとき、フシデは変わらず部屋の端っこにいたはずなんだけどな……。
 本当にいつの間に来たんだろうか。しかも、寝てるし……。

「そう……ですかね。……あの、どうして今日はポケモンの世話を? 俺は債務者で、大切なポケモンに触れさせるなんて……」

 小声で聞く。普通だったらあり得ない。
 カラスバだったらきっと債務者にこんな仕事をさせるはずがない。俺だって同じ立場だったらさせない。
 でもセイカさんは違った。だから聞きたくなった。
 あなたは俺になにを感じて、ポケモンに触れさせたのか。

「確かにあなたは……借金の額や返済状況だけを見れば、悪質な債務者でしょう。私も最初はそう思いましたよ」

 返す言葉もない。返済も滞っていたし、悪質の烙印を押されるのも当たり前。だけどセイカさんに直接言われると、なぜだか無性に悲しくなる。自業自得だってのに。

「ですがあなたと向き合って、変わりたいという思いを知って……。ですかね。そしてそれは間違いではなかった」
「?」
「才能は、意外なところに転がっているものです」

 セイカさんは全てを語ろうとはせず、意味深に口元を少し上げると、立ち上がった。

「──気づいていないだけかもしれませんよ?」

 そう言ってセイカさんは柔らかく目を細めると、部屋を静かに出ていった。
 才能? 気づいていないだけ? ……俺が?
 分かるような。分からないような。
 彼女の言葉に、助言以上の何か──導きのようなものを感じてしまうのは、考えすぎだろうか。
 どちらかと言えば、ポケモンは好きな方だ。人間と違って裏切らないし、愛情を持って接すれば返してくれる。
 けどポケモンに関係する仕事をしようなんて思いもしなかった。専門的な知識もないし、単純な肉体労働ばかりしてきた。
 でも。俺は変わりたいんだ。この生活から脱したい。相棒に今よりもいい生活をさせてやりたい。
 セイカさんに出会う前は、ずっとそばにいてくれた大切な存在の尊さにも気づけなかった。自分のことばかり考えて。

(俺に、できるだろうか)

 不安はある。でも挑戦しなくちゃなにも変わらない。
 家に帰ったら色々調べてみよう。
 そう決意しながら膝で眠るフシデの背中を撫で、隣で眠る相棒をそっと……抱き寄せ、しばしの安息に身を委ねた。