夢より深い毒

 夜のミアレシティは昼間とは違う顔を見せる。
 複数のエリアではZAロワイヤルが開催されており、今日もトレーナーとポケモンたちで賑わっていた。
 ──路地裏。建物と建物の隙間に溜まった夜の空気は妙に重い。
 その静寂の中で、カラスバは立ち尽くしていた。
 指先が震え、肩が激しく上下する。何度も何度も息を吸っているのに、肺の奥まで空気が入ってこない。
 彼の目の前にはうつ伏せに倒れた男がいた。
 ぴくりとも、動かない。

「……ちが……」

 ずりっ、ずりっ。数歩下がり、カラスバは掠れた声で漏らす。自分の声なのに、他人のもののように聞こえた。

「ちがう……そないなつもり、なかった……」

 寒いわけでもないのに体の震えが止まらない。体を巡る血が氷のように冷たく思える。
 ことの始まりはついさっき。カラスバはホテルZに戻るために歩いていた。
 表通りと違い街灯は少なめながらも気にせず歩みを進めていると、突然現れた男に絡まれ、ベタベタと触れてくる手が気持ち悪くて振り払った。
 すると逆上した男がナイフを取り出し、揉み合いに。カラスバも突如として現れた死の気配に無我夢中で抵抗し──気づけば刃は男に刺さり、そのまま地面に倒れて、今に至る。
 広がっていく赤い血溜まりを見て、全身が粟立つ。

「なあおい……! うそやろ……!?」

 あまりにも常識を逸した光景は、十年と少ししか生きていない青年には受け止めきれなかった。
 ミアレを救った救世主と言われる彼も、所詮は一般人。
 どうすればいいのかは分かっている。なにを呼ぶべきなのかも。けれどその先に待っていることが脳裏をよぎると、体は思うように動かない。
 自分は捕まるのか。親やエムゼット団のみんな、知り合った人々に迷惑をかけてしまう。
 様々な思いが大波となってカラスバを飲み込み、思考がぐちゃぐちゃに絡み合った状態ではまともな判断はできない。
 そのときだった。

「カラスバくん」

 耳心地のいい柔らかな声が、背後から落ちた。
 声に誘われるように振り返る。そこに立っていたのはセイカだった。
 街灯がスポットライトのように照らす彼女はいつもと同じ、整った装い。
 肩よりも長い髪。毒を連想させるデザインの黒ジャケットを肩に掛け、紫色のドレスシャツを柔く押し上げる胸元には、ネクタイが垂らされている。
 夜の路地に立つ彼女は妙に鮮やかに見え、その顔に浮かんだ表情は冷静そのもの。
 しかしカラスバの後ろに倒れているものを認識すると、一瞬だけ瞠目した。
 けれど驚きはそれだけ。すぐに全てを把握した鋭い眼差しになる。

「ぁ……」

 カラスバの喉から、酷く情けない声が漏れた。
 強気で生意気な青年の姿は今はなく、小さな子供のように体を震わせ、視線はセイカを映すことができずに地面へと逃げてしまう。

「ち、が……オレ……こんなつもりやなくて……」
「……」
「絡まれて、刺されそうになって……気づいたら……、たお……れて……」
「…………」
「…………起きへん、ねん……」

 言葉の最後が掠れた。
 泣き出しそうな声になってしまい、どうしようもなく惨めになる。
 黒のトラウザーズに包まれた足がゆっくりとカラスバへと近づく。
 その足取りは静かで、迷いもなかった。
 凛とした表情で歩いてくるセイカは、今のカラスバにとって救世主だ。

「カラスバくん。私を見て」

 体はカラスバの意思とは関係なく顔を上げ、セイカと視線が交差する。
 怒ってはいない。悲しんでもいない。
 まるで迷子の子供を相手にするような慈悲深き微笑みを浮かべているセイカを見ると、過呼吸気味だったのが少しだけ落ち着くような気がした。

「深呼吸して」
「でき……へん……」
「できるよ。ほら、吸って」

 ふわり。己の体が揺らいだと認識すると、カラスバは自分がセイカに抱きしめられているのだと理解した。
 過度の緊張という名の、絡まった糸がほどけていくような感覚。
 体から力が抜けていく。だがセイカがしっかりと抱きとめているので、倒れることはない。
 ヒール分身長が高いセイカの肩口に顔をのせているカラスバは、言うとおりに大きく息を吸ってみる。
 肺に満ちる酸素。未だ苦しいながらも呼吸が徐々に楽になっていき、指先の痺れが引いていく。

「吐いて」

 言われるままに呼吸を繰り返す。
 一回、二回。三回目で、ようやく正常な呼吸へと変わっていった。
 ぐにゃりと歪んでいた視界も元に戻っていく。
 彼女の体温を感じ、縋るように背中に腕を回す。
 日常から切り離された世界に突如として放り投げられた今は、セイカの存在が光のように思えた。
 弱り、混乱の渦中にいるカラスバの頭と背中をセイカは抱き寄せ、安心させるよう髪を撫でる。
 その腕の向こうで、セイカは倒れた男へ冷えた視線を向けた。
 赤い血の中で動かない男にブラウンの瞳を細めると、スマホロトムで電話をかける。
 画面に表示されている名前の人物は、ワンコールで通話に応じた。

「ジプソさん」
『はい。セイカさま』
「来て。……いつもの道具も全部」
『……かしこまりました』

 セイカがジプソとやり取りしているのは内容から分かったが、その中に気になる言葉が出てきた。
 しかしその内容はカラスバの耳に入ってもすぐに抜け落ちてしまい、深く考えることはできなかった。……したくなかったのかもしれない。
 透明な見えない壁の向こうでのやり取りに思いながら、セイカから体を離す。

「セイカさん、オレ……」
「大丈夫」
「大丈夫ちゃうやろ……!」
「大丈夫だよ」

 確たる根拠があるように、セイカは言い切った。
 冷静さを欠くカラスバの両肩にそっと、手が置かれる。
 言葉だけではない。触れているだけで不安が軽くなっていくようだ。

「大丈夫。私がいるから」

 肩に置かれていた手が頬へと移動する。繊細な指先が肌を撫で、カラスバを包み込むと仄暗い光を秘めた目が細められた。

「君はなにも見なくていい」
「っ……」

 その言葉に胸のどこかが酷く痛む。
 見なくていいわけがない。
 後ろに広がる光景は自分がやった。全部、自分のせいだ。
 なのにセイカは不都合な真実は覆い隠そうとしてくる。
 きっと正しいのは、彼女の手を振り払うことだろう。けれど……今のカラスバにはできなかった。

「そんな顔しないで。君はなにも悪くない」
「オレは……」
「…………ね、カラスバくん」

 短く整えられた指先が冷えた肌を撫でる。
 その優しさが今は酷く苦しいと同時に、今にも崩れてしまいそうなカラスバの心を繋ぎ止めていた。

「目を閉じて」
「……?」

 発言の意図が分からないが、光を削いだ瞳には有無を言わせない圧があった。
 ──逆らえない。言われるまま、カラスバは目を閉じる。
 すると視界が遮られた分だけ、セイカの気配が強くなった。

「いい子だね。……少し、眠ろうか」
「ぇ……?」

 言の葉を散らす空気を感じられるほどの距離で聞こえたと思った刹那。口元に布が当てられ、カラスバの意識は急激に引っ張られ──。

「ぁ……」

 世界がすうっと遠のいていく。
 意識が暗闇に閉ざされ、体に力が入らない。
 最後に感じたのはセイカの香りと、自分を抱き寄せる腕の感触だった。

   ***

「っ!?」

 目が覚めた時、最初に見えたのは見慣れない天井だった。
 真っ白の壁に設置されているシーリングライトが、柔らかく部屋全体を包んでいる。
 ここはどこや? なんで知らんところで寝とるんや……?
 思い出そうとしても、記憶のどこにそれがあるのか分からない。

「…………」

 起き上がろうとしたが、すぐにベッドに逆戻り。体が重くて動くのが億劫だ。
 とにかく周囲の確認をしなければ。と、顔を右側へと向ければ。

「おはよう、カラスバくん」

 そこにいたのはセイカだった。
 ベッド横に置かれた椅子に腰かけて、本を読んでいたらしい。
 パタン、と閉じるとサイドテーブルに置く。視線で追い掛ければ、同じ場所にカラスバの眼鏡も置かれていた。
 ぐるりと視線を巡らせれば全体的に物が少ないスッキリとした印象の寝室だった。
 ふたりで寝ても狭くないベッドの片側に、カラスバは寝かされている。
 なにも思い出せないカラスバは戸惑うばかり。そんな彼の考えを読み取ったのか、セイカの手がカラスバの髪を優しく撫でた。

「ここはね、事務所に泊まり込みで仕事するときに使うプライベートルームなの」
「なんで……」

 なんでオレがセイカさんの部屋に? そう言葉にする声は想像よりも細かった。
 ──セイカの部屋。事務所とはいえ、完全な私室。女の人の部屋に寝かされている事実に、変な気持ちになってくる。
 つまり自分は今、セイカの使っているベッドに寝かされている。意識すると彼女のいい香りが部屋に満ちていているのに気づき、体に熱が灯る。
 気まずそうに視線を外す年下の青年を見て、セイカは微笑んだ。

「うなされてたよ」
「うなされて……? オレが……?」
「ずいぶん夢見が悪かったみたいだね」
「──……!!」

 その瞬間、脳裏に光景が蘇った。
 裏路地。
 倒れた人。
 動かない身体。
 広がる血溜まり。
 自分の震える手。
 静止画を見るように次々とフラッシュバックし、全身が強張る。
 息が詰まり、喉の奥からひゅ、と嫌な音が漏れた。
 呼吸が苦しいからか、それとも信じられない経験をしたからか。
 安全な場所から一気に奈落の底へと叩き込まれたような絶望感に、カラスバの目尻には僅かに雫が滲む。
 セイカはすぐに身を乗り出し、目元に浮いた涙を指で拭う。

「あれが、夢……?」

 ……違う。違うはずだ。
 脳裏に浮かぶ光景たちはあまりにも生々しくて。この手に嫌な感触が蘇る。
 カラスバの混乱を見透かしたように、セイカはゆっくりと言葉を重ねる。
 いつもとなにも変わらぬ、静かな声だった。

「君、最近ずっと無理をしていたでしょう」
「……」
「何日も同じベンチで休んでいる不審者がいる、なんて情報が入ってね」
「……ベンチ」

 セイカの言うようにカラスバはここ最近同じベンチで休んでいた。お目当てのポケモンがなかなか現れず、出現スポットに一番近い場所で粘っていたのだ。

「見に行ったらカラスバくんだった。ベンチなんかで疲れが取れるわけないのに」

 しょうがない子、とでも言うようにセイカの手がカラスバの頭を往復した。

「声をかけたら案の定ふらふらして、そのまま寝落ちちゃって。これはいけないなと思って事務所に連れてきたの」

 起こった出来事を淡々と告げる言葉たちはなめらかで、偽りのないように思えるのだから不思議だ。
 彼女の言うように自分の知らぬ間に疲労が蓄積されて、あんな──現実と見まがうほど鮮明な夢を見たというのか。

「……君がどんな夢を見ていたのかは知らない」

 灰茶の瞳が細められる。

「でもそれはただの悪夢だよ。早く忘れてしまいなさい」

 悪夢。忘却。そう簡単にできるわけがない。
 けれど重ねられた言葉たちはカラスバにあれは悪い夢なのだと染み込ませ、あんなことは起きていないと思わせる。
 わずかに震えるカラスバの指先を、セイカがそっと握る。
 ──温かい。弱った精神を包み込むような優しさに、すべてを委ねたくなった。

「…………そうか」

 喉の奥で言葉が絡む。

「そう、ですよね……」

 セイカの言うようにあれは悪夢。
 あんなこと、現実に起きる方がおかしい。
 自分とは遠い場所にある非現実。
 疲れているから嫌な夢を見たのだ。

「あんなん……オレ、そないなつもりやなかったのに、人を……殺めて……あり得ん……ですよね……?」

 言葉にすればなおさら夢としか思えない。
 どちらが現実か。最初の疑心はもうほぼなく、夢というのがカラスバの出した答えだった。
 だが、疑いの欠片はほんの少しだけ残ったまま。
 それを散らしてほしいようにセイカを見れば、彼女はカラスバの考えを汲むように口角を上げた。

「当たり前だよ」
「……」
「疲れが溜まっているから、そんな夢を見るの」
「……っ」
「今はゆっくりしていきなさい。私がそばにいるから」
「……ありがとう……ございます」
「うん」
「お言葉に、甘えます……」

 セイカに肯定されると残っていた疑念も霧散する。
 張り続けていた緊張の糸が切れたのか、疲れが波のように押し寄せ、酷く眠い。
 薄れる意識に抗うことなく目を閉じた。
 深海の底に沈んでいくように暗闇に身を預ける。
 微かに感じる彼女の手の感触からは、なにがあっても離さないという思いが伝わってくるようだった。

   ***

 目を閉じたカラスバの寝息が深くなるのはすぐだった。
 セイカはじっ、とその顔を見つめるばかり。安心しきった寝顔を記憶に焼き付けるように。
 目を開けていれば様々な表情で人を惹きつける男なのに。無防備に眠っている顔は穏やかで、酷く幼く見えた。
 こう見るとカラスバもどこにでもいる一般人なのだと思い知る。ミアレを救った英雄、救世主と言われる彼。忘れてしまいそうになるが、観光としてやって来ただけの青年。
 運命の糸に導かれるように色んな人やポケモンと絆を結び、ミアレ──ひいてはカロスを救ったに等しいのに現実はあまりにも残酷だ。

 セイカがカラスバの異変にいち早く気づいたのはいつもの日課のおかげ。
 サビ組としての監視は終わっているが、セイカ個人の監視だけは続いていた。
 彼のスマホに仕込んだGPSを確認し、その地区の防犯カメラ映像をノートパソコンで確認すれば、見知らぬ男と言い合っている姿が映った。
 嫌な予感がしてすぐに盗聴もする。どうやら相手はカラスバに下卑た感情を持っている男らしい。
 ここでセイカはジプソを連れて事務所を飛び出した。念のために“処理道具”も持って。
 どうか私が着くまでこれ以上のことは起こらないで。そう願いながら車の中でも盗聴を続けていると、最悪の事態は起こってしまった。
 すぐにカラスバに電話を掛けてみたが出ず。そうこうしている内に現場に着き、男がもう助からないのを見て、“全てを無かったこと”にすることを決めた。

 もしもあのまま警察に任せてもカラスバはすぐに解放されるだろう。正当防衛だ。先に襲いかかってきたのが男というのも、防犯カメラに残っている。
 自分も働きかけるし、事の経緯を知ればあのユカリも放ってはおかないはず。
 それでも手を尽くした理由は、人を殺したという残酷な事実を彼に残したくなかったからだ。
 カラスバは優しい人間だ。自分に否がなくとも、彼の心にあの男が残り続ける。そんなことは許さない。
 ならば最初からなかったことにすればいい。そうすれば、彼の記憶に男が残ることはない。
 目覚めたカラスバは普段の強気な態度はどこに行ったのか。
 悪夢と言い聞かせれば、あまりにも現実離れした真実から己の精神を守ろうとしたのか、防衛本能が働いてすんなりと夢と信じてくれた。

(そろそろ……報告が上がってくるかな)

 後の処理はすべてジプソに一任してある。
 だいぶ時間も経っているので、なにかしらの報告があるはずだ。
 セイカはカラスバを起こさぬように寝室を出ると、そのままリビングを通り過ぎて玄関へ。
 扉を開ければ、すぐに広い廊下に出た。このフロアにはセイカの部屋しかないため、エレベーターも目の前にある。

「セイカさま、ちょうどご報告に行こうかと」

 鉄の箱の扉が開き、中からはジプソが現れた。彼も普段と変わらぬ様子だ。

「聞かせてください」
「処理は完了しています。目撃者はおらず、カメラの記録もこちらで改ざん済みです」
「いつもどおり、ですね。ありがとうございます」
「……彼は?」
「ぐっすりと眠っています」

 まるで天気の話をするかのような雰囲気。
 セイカはジプソからの報告に満足気に微笑むと、その瞳に昏い光を灯す。
 ジプソはその目を見て、宿るものを読み取ると息を呑む。セイカとは長い付き合いだからこそ、以前の彼女にはなかった感情たちが分かるのだ。

 カラスバくんを守りたい。
 カラスバくんを助けたい。
 カラスバくんをそばに置きたい。
 カラスバくんは──私だけのもの。

「……あれは、全部夢」

 セイカは目を閉じ、双眸を縁取る豊かな睫毛をふるりと震わせると静かに言う。

「汚いことは全部、私が被ってあげる」

 その声音は、カラスバ以外の人間に向けたことがないほどに柔らかかった。
 セイカは肩越しに部屋の扉を見遣る。安心できる場所で眠る愛しい青年の姿を思い浮かべながら。
 今まで生きてきて、こんな感情をいだくのは彼が初めてだった。だからこそ、彼ひとりではどうすることもできない理不尽から守ってやりたいと思う。
 自分はもう汚れ切っている。だから今更汚れを重ねてもなんともない。

「……君は私のことを、優しい人だと言うのかもしれないけど」

 眼差しに深淵を宿し、にっこりと笑むセイカは恐ろしいほどに美しい。

「違うよ。……君が私から逃げられないように、少しずつ毒を仕込んでいるだけ」

 ジプソはなにも言わない。
 言うべき言葉がないことも、充分に分かっていた。
 カラスバがセイカの心を掴んだときからすでに彼の未来は決まったも同然。
 幸いなのは、両想いであることくらいか。

「いつか回り切るその時が──楽しみだね」

 自分なしでは息もできないくらい、深く深く回っていけばいい。
 そんなことを思ってしまう自分を、セイカは少しも否定しなかった。
 唇に浮かぶ気配は、どこまでも静かな影を孕む。
 けれどその裏に潜むものは。
 遅行性の、逃れようのない猛毒。そのものだった。