結婚というものは、まだ自分にはあまり縁のない世界だとカラスバは思っていた。
──事務所のセイカの部屋には現在彼女とカラスバしかいない。
相談したいことがあるの。と、呼び出されたときはメガ結晶の破壊か、ポケモン関連の“仕事”なのだと思っていた。
だが今回は違った。ソファに対面に座り、紅茶を口にするセイカは普段と変わらない。
肩より長い暗い茶髪。肩にかけた毒デザインの黒のジャケットに、紫のシャツとネクタイ。
黒のトラウザーズに包まれた長い脚を組んで微笑む彼女の口から「結婚式があるんだけど、カラスバくんも出席してくれない?」と、平淡に言われたカラスバは思考が真っ白になった。
結婚? 誰が? ……セイカさんが?
言われた刹那。胸がずん……と重くなる。彼女が知らない誰かの女になる。
自分の知らない誰かがいたのに、距離がおかしかったのか。自分は弄ばれたのか。
カラスバ自身、信じられないほどにショックを受けていることに驚いてしまう。セイカから向けられていた強い好意は、いったい何だったのかと。
セイカとの曖昧な関係が心地よかったのは事実。
眼鏡の奥の双眸は見開かれ、こがね色の瞳に宿る感情は見れば誰でも理解できる。
ジプソがこの場にいれば、あまりにも言葉が足らない上司に苦言を呈している頃だ。
セイカはカラスバの様子を見て、カップをソーサーに戻した。カチャ……と品のいい音が、己の意識に取り込まれそうになっていたカラスバを引き寄せる。
「今度ね。うちの子同士の結婚式があるんだけど、それに君も出席してほしくて」
微笑みを口元にたたえ、セイカは言い直す。
するとすぐに胸のつかえが取れたように呼吸が楽になる。
安堵と同時に、さっきまでの早とちりが一気に熱になって押し寄せた。
うちの子同士。つまりしたっぱ同士の結婚式。
セイカと目を合わせているのが気まずくて、カラスバも紅茶に手を伸ばすが肝心の味はよく分からない。
「あの、そもそもの話。こういうモンは身内でやるんやないです?」
「ふふっ。カラスバくんはもう身内みたいなものだし。新郎新婦に聞いたらぜひ、って言っていたよ」
「……まあ、ええですけど」
新郎新婦に“聞いたら”の発言からしてセイカがカラスバの出席を提案したのだろう。
彼女からの特別扱いには慣れているが、まさか部下の結婚式にまでお呼ばれするなんて。着々と外堀を埋められているような気がする。
けれどせっかくの招待。断るのも違うと思い、カラスバは承諾した。こういう経験も若い内からしておくのも勉強になるのだから。
「服もユカリトーナメントの時のやつでええです?」
「どうせなら新しく作ろうよ」
「は?」
「式まで日にちもあるし。プレゼントしてあげる」
「作るて……オーダーメイドっちゅうことですの?」
「うん。そういうのを一着くらいは持っていると、後々も便利だよ」
にこやかに当然のように言われて、カラスバは返す言葉を失った。
押し付けがましくない顔をしながら、実際にはもう結論まで全部決めているのだから。
まさに手のひらの上である。
***
式当日。ミアレの空は雲ひとつない澄み渡る空が広がっていた。まさにハレの日にはぴったりな天候。
式はカラスバが想像していたよりもカジュアルなガーデンウェディングだった。
カジュアルといっても会場は華やかで音楽も柔らかい。出席者はセイカを始めとするサビ組の人間ばかりで、カラスバも知っている顔ぶれだった。
ウェディングドレスに身を包む女性も、その隣に立つタキシード姿の男もどこか誇らしげで、それでいて周囲からの祝福に幸せそうに笑っている。
──いい式やな。
カラスバは素直に思った。
「はい。カラスバくん」
「どうも」
グラスを両手に持ったセイカがやって来た。彼女もまた、普段とは違う服装だ。
静かな威圧感を出すいつもの服ではなく、上品な雰囲気を醸し出すドレス姿。まさにミアレジェンヌという言葉が似合う。
彼女からソフトドリンクを受け取るカラスバも、フォーマルスーツに身を包んでいた。
新しく仕立てられたスーツは体によく馴染む。全てがカラスバひとりに合わせて作られたオートクチュール。
畏まった衣装だからといって動きにくさもない。
逆に動きやすく、ワイルドゾーンでローリングしても問題なさそうなくらいだ。さすがに実行することはないが。
「あのふたり、元はストリートチルドレンでね。天涯孤独の身同士。……“家族”っていうものに強い憧れがあって、事実婚ではなく敢えて法律婚を選んだの」
「家族……」
浮かぶのは両親の顔。コガネシティにいるふたり。喧嘩もするが最後は仲直りして、カラスバが知る限り関係は良好。
いつか自分も誰かと結婚するのだろうか。若い故に未だ明確な想像はできない。
「緊張してる?」
セイカがカラスバの顔を覗き込む。ヒール分高い視線。甘い毒を秘めた瞳がこちらを見つめてくる。
思考が深くなってしまい、神妙な顔をしているのを緊張してのことだと思ったようだ。
顔の距離が思いのほか近く、速まる鼓動。きっと誰だって同じような反応をするだろう。
カラスバは悟られぬように視線を外した。
「してへん」
「ちょっとしてる顔だよ」
「してへん言うてますやん」
「ふふ」
ぶっきらぼうに告げれば、セイカは喉の奥で小さく笑った。年上の女にいいように転がされている気がする。
けれどそこに不快感はない。むしろ心地よいとさえ──。
***
和やかな雰囲気で進む結婚式。カラスバは後ろの方でなるべく目立たないようにしていた。
いくら身内判定とはいえ、新郎新婦とは顔見知り程度。祝う気持ちは他の参加者と変わりはなくとも、前に出る必要はない。
そんなカラスバの横には寄り添うようにセイカが立っている。ボスである彼女は最前列にいるべきだろうに、とは思うがカラスバが指摘することはない。
言ったら「君の隣にいたいから」と当たり前のように言うのが目に見える。
周りの人間もカラスバの隣はボスという認識があるのか、特になにか言う者もいなかった。
「それではブーケトスのお時間です!」
式も終盤に差し掛かると、司会の声がひときわ明るく響いた。
わっ、と歓声が上がり独身の女性たちが前に出ていくのに混じって、男性もちらほらと集まっていく。
ブーケトスに参加しない者たちは左右へと一列に分かれ、カラスバもその列の最後尾に混じっていた。もちろん、セイカも。
「ブーケトスか……セイカさんは参加せえへんの?」
「私はいいよ」
「独身なんやし、参加資格あるんちゃいます?」
「そういうの、君が気にするんだ」
「いや、別に深い意味はないですけど」
「カラスバくんは出ないの? 君もまだ独身でしょ?」
「この年で既婚者はあんまりおらんと思いますよ……」
やり取りをしている内に、新婦が背を向けた。
高揚する会場の空気。
白いブーケが、ふわりと宙へ放られる。
高く投げられた花束は中央辺りに落ちる軌道だった。
──そのとき。
どこからともなく、一陣の風が吹き抜けた。
風に煽られたブーケはくるりと向きを変える。まるで誰かに呼ばれるように。
すると。
「っ!」
セイカの手元へ飛び込んできた。
ほとんど反射だったのだろう。彼女は目を見開いたまま、ブーケをしっかりと抱え込んでいた。
会場が一瞬だけ静まり、それからすぐにどよめいた。
「おぉ……!」
「すご……」
「まさかあそこ行くんか」
そんな声があちこちから上がる。
カラスバも思わず目を丸くした。
ここまで綺麗に風に乗って、一番後ろまで来るなんて。運命めいたものすら感じられてしまうほどに、出来すぎている。
「へえ〜! すごいやん! 幸せのお裾分けやんな!」
ブーケトスの知識は少ないながらも覚えていたことを告げれば、セイカは腕の中のブーケを見下ろしたまま小さく息をつく。
それから、どこか不思議そうに口を開いた。
「まさか私のところに来るなんて」
彼女の横顔は本当に予想していなかったようで、静けさの中に驚きが混じりつつも口元には微笑みが浮かんでいた。
「……ブーケトスには幸福のお裾分けっていう意味もあるけど、次に結婚できるっていう意味もあるの」
「へえ。ほな、ええこと尽くしやん」
普通の返事だった。だがカラスバの言葉にセイカは一拍だけ黙る。
花束に注がれる視線。きゅっ、と結ばれる唇を見て周囲の音が少し遠くなる。
セイカがなにを考えているのかまでは読み取れない。けれどその沈黙には妙な重みがあった。
「結婚」
セイカがぽつりとその言葉をなぞる。
「私には、一生縁のないものだと思っていたけど」
セイカがこちらを見る。
視線が絡んだ刹那。空気の温度が変わった気がした。
人々の声。音楽。すべてここにあるはずなのに。
セイカとカラスバ。ふたりだけが、そこから切り離されたようだった。
カラスバは言葉を失う。なんて返事をすればいいのか、年若い男にはすぐ浮かんではこなかった。
セイカはそんなカラスバを見て一層えくぼを深めると、静かに告げる。
「最近は“いいな”って思うようになったんだよね」
形のいい、艶やかな唇が言葉を紡ぐ。カラスバの視線は縫い止められたように釘付けになる。
柔らかな声でそっと、言の葉を散らすと、セイカはいつもと変わらぬ微笑みを浮かべた。
それだけで意味は充分すぎるほどに伝わってくる。
(いや、待て。待て待て待て)
湧き上がる感情の行き先がない。
(オレを見ながらってことは……いやいやいや、そういうことやんな? 絶対そういうことやんな!?)
結婚。将来。急に意識させられ、体のどこかでボン! と音が聞こえたような気がすると、全身が発熱していく。
「っ……!」
顔が酷く熱い。
現にカラスバの顔はオクタンのように真っ赤だ。
──この人は大勢の部下の前でなにを言ってはるんや。こんなん、公開プロポーズも同然やないか!
セイカの顔をまともに見れず、カラスバは俯き加減に視線を逸らす。
「カラスバくん?」
「……っ、いや、その…………。なんや急に、そないな……」
「急かな?」
どう考えても急やろ! とカラスバは心の中で叫ぶ。
ブーケトスの意味を説明した直後に意味深な目で見て、そんな声で言われたら誰だって動揺する。
だがセイカ本人は少しも慌てていない。風が凪ぐように穏やかなまま。
「結婚って、案外悪くないのかもしれないって」
「…………」
「そう思わせてくれる誰かがいるのって、すごいことなんだね」
引き寄せられるようにセイカと視線を絡ませる。優しさに縁取られた眼差しに、カラスバは完全に押し黙った。
彼女は本気だ。冗談なんかで流していい話ではない。
だからこそ、余計に分からなくなる。自分がどう返せばいいのか。
「……オレのこと言うてます?」
ようやく絞り出した言葉。情けないとは思うが、許してほしいところだ。
セイカもカラスバの反応は想定内なのか、眩しげに視線を細めると、
「他に誰がいるの?」
「っ……」
分かっていた。分かっていたが、話が飛躍し過ぎではないだろうか。
セイカからの特大の矢印を改めて認識させられて、カラスバの思考は完全に停止する。
ショートしている青年を他所に、ふたりのやり取りを固唾を飲んで見守っていた者たちから祝福の声が飛ぶ。
決定的な言葉はないけれど、もはや結婚宣言と等しいセイカの言葉に「おめでとうございます!」と声が投げられ、セイカも柔らかく微笑むことで返す。
だがカラスバはみんなとは違う場所に取り残されたような気分だった。全ての音が遠い。
部下たちは年上の女性に翻弄される若者の姿に微笑ましいものでも見るように、温かな眼差しを向けているが、カラスバが気付くことはない。
「顔、真っ赤だよ」
「……アンタのせいや」
「ごめんね?」
セイカはブーケを抱えたまま、楽しそうに笑った。
(この人……こんな顔もできるんや)
セイカの笑うといえば微笑みが定番だ。口は笑っているのに目は笑っていなかったり、寒々しいものから、カラスバをからかう時に見せる大人の余裕を滲ませるものまで。
だが、いま見せた笑みは純粋な幸せそのものの笑顔だった。
屈託のないその笑みはカラスバの網膜に焼き付いて、忘れられそうにない。
「セイカさま。そろそろ締めのご挨拶の方を」
「うん。それじゃあ、また後でね。カラスバくん」
「おん……」
ジプソに声をかけられ、セイカはどこか満足そうにブーケを胸元に抱き寄せると、会場の賑わいの中に囲まれていく。
小さな花束を持ちながら凛とした姿で歩く彼女は、まるで花嫁姿を連想させ、カラスバの心を乱す。
その背中を見送りながら、未だ熱の引かない顔に手をやった。
(ありえへんやろ……)
あまりにもタイミングが良すぎる強い風に運ばれて、しかもセイカのところに落ちてきた。
ありえないことが二つも重なったのだ。確率にすれば天文学的数字だろう。
運命めいたものを感じざるを得ない状況。
けれど。
「……ブーケトスのその先、か」
小さな呟きは誰にも聞こえない。
縁がないと言っていたセイカが結婚を“いいな”と思うようになった理由が、自分にあるのだとしたら。
それは……正直に言えば、嬉しい。
自分の気持ちに素直になると、彼女との未来も悪くないと思える。
カラスバはゆっくりと息を吐くと、もう一度セイカを見た。部下たちの前で話す彼女の手にはブーケが大切そうに抱かれている。
風に選ばれた花の、その先。
彼女の隣に夫として立つ未来を想像して、カラスバは思わず耳まで熱くなるのを感じた。
ブーケトスのその先なんて、さっきまでは自分と無縁のものだと思っていたのに。
今は、少しだけ。
ほんの少しだけ、手を伸ばしてみたくなっている。
視線の先ではセイカが花束を抱いたまま、新郎新婦に柔らかく微笑んでいた。
あの笑顔の先に自分がいられるなら。
きっとそれは、思っているよりずっと。
(……悪くないかも、しれへんな)
終
