時刻は二十三時を回ろうとしていた。
カラスバは頭から熱いシャワーを浴びながら眉を寄せていた。なにか難しいことを考えるように険しい顔をし、片手は壁についたまま。
原因は昼間の抱き枕騒動。セイカの柔らかさ。まさに馥郁たる香りと表現しても差し支えない彼女の匂い。
心地よい体温に包まれた感触が、どうしても抜けない。
距離が近い、などというレベルではない。セイカは時々、平然とカラスバの理性を壊しにくる。
(いやいやいや……あれは事故みたいなモンや。セイカさんは寝不足やったし、変なこと考えるなオレ……!)
事務所を出たあと、ワイルドゾーンでポケモンを捕まえようとしても集中力が途切れ、逃げられることの連続。
さらにはZAロワイヤルも身が入らなかった。言ってしまえば調子が悪く、早々に切り上げて今なのだ。
どんなに熱い水流で流しても、セイカの感触が抜けない。忘れたいのに、余計にはっきり思い出してしまう。
(カラスバくん)
頭の中のセイカが微笑みながら、胸へとカラスバの顔を抱き寄せてくる。
抱き枕にされたとき、顔に押しつけられた柔らかさが鮮明に再現される。
あの人の裸なぞ見たことがないのに、妄想力が爆発的に強まった頭は彼女の淫らなイメージを次々と映し出す。
「っ……!」
ずん……、と重たくなる腰。視線を辿れば大きく反応していた。
信じたくない。まさか、たったあれだけのことで?
(こんなん童貞丸出しやん……。いや、実際そうやけども……って、やかましいわ!)
ひとりでノリツッコミしてしまうほどに様々な思いがぐるぐると頭の中を巡るも、こうなっては逆に出さないとつらい。
興奮を極めたカラスバは、観念したかのように片手を下腹部へと伸ばした。
***
──最悪や。
何度もそう呟いた。けれど、止まれなかった。
全て終わり、排水口へと消えていく体液を冷めた目で見遣ると、カラスバは壁に額を押し付けた。
セイカは恋人ではない。告白もしていない。されていない。
それなのに。彼女を想像しながらシてしまった事実が、興奮から解放されたカラスバを打ちのめす。
「オレ……ほんまに何してんねん……」
後ろめたさに大きく息を吐く。彼女を穢してしまったように感じてしまって。
シャワーの音に紛れるように零れた声は、情けないほどに弱々しく掠れていた。
***
シャワーを浴び終え、部屋着に着替えればさすがに落ち着けると考えていた。
しかし、心のざわめきは完全には治まらなかった。あのあと、しばらくシャワーを頭から被り続けたが、思考は少しも静かにならない。
鏡に写る自分の顔を見る。力のない表情。リフレッシュしたはずなのに、疲労を極めたような。
こうなったら早く寝てしまおう。ドライヤーに手を伸ばしかけたところで。
──ロトロトロト……。
扉の向こうでスマホの着信音が聞こえた。風呂に入るからとベッドの上に置いたが、こんな時間に誰なのか。
けれど無視することもできなくて。カラスバは濡れた髪のままバスルームを出た。
「っ!?」
画面を見て、心臓が跳ねる。呼吸も、一瞬忘れた。
ドッドッドッ、と耳元で心音が聞こえてくる感覚にも陥る。
表示されていた名前は“セイカさん”。
彼女の言動の節々から監視が続いていることはなんとなく想像していたが、さすがにバスルームまで監視していないだろう。していないと思いたい。
最中。つい呼んでしまった名前も、水流の音でかき消されていたはず。
バレていない……とは考えるが、あまりにもタイミングがよすぎて疑いは膨れ上がるばかり。
(ほんま、なんでこのタイミングやねん……!)
胸中で毒づきながらも、出ないという選択肢はなかった。
咳払いをひとつして気を取り直すと、ベッドに腰掛け、カラスバは応答ボタンを押した。
「こんばんは。カラスバくん」
パッ、と画面に映し出されるセイカの顔。
ふたりの電話はいつからかビデオ通話が当たり前になっていた。
軽く握った片手を頬に当てながら喋るセイカの背景に、バトルコートの枯山水が少し見えた。
未だに事務所にいる彼女の口元には、いつもの余裕そうな笑みが浮かんでいる。
「珍しくこの時間にバトルゾーンじゃなくてホテルにいるのは知っていたけど」
「……相変わらず、よう見とるんですね」
セイカは少し目を細める。
些細な変化さえも艶やかだった。陰で毒婦と言われるのも納得してしまいそうなほどに。
「お風呂に入ってたんだ。髪の毛、濡れてるよ」
「そら、まあ……」
「にしても、髪を下ろすとそんな感じなんだ。……可愛いね」
微笑みが深くなる。
体の芯から熱せられていくようだ。あんなことをしてしまった手前、普通の会話でさえも変に意識してしまう。
「男に可愛いはないやろ……」
「そうかな? カラスバくんは可愛いし、格好いいし、綺麗だよ」
「どうせ誰にでも言うとるんやないですか」
「まさか。君にだけ」
ついぶっきらぼうに言ってしまったが、セイカは特に気にすることもなく当たり前のように返してきた。
──顔がひどく熱い。
セイカに自分だけと言われて、意識していないと顔が緩みそうになってしまう。
オレ、チョロすぎるやろ……! そうは思っても湧き出るこの気持ちに嘘はつけない。
セイカよりも白いカラスバの肌は、ほんのりと上気している。風呂上がりだからという説明では納得できないほどに。
「それで……こないな時間に電話してくるなんて、なにか急ぎの用ですか?」
「急ぎじゃないけど……昼間は抱き枕になってくれてありがとね」
「……っ」
やめろ。今その話をするな。
一番触れられたくない話題。よりにもよってセイカの口から出されるなんて。
わざわざこんな時間に話さなければならない内容でもない。
カラスバの内心の悲鳴なぞ知らない顔で、セイカは穏やかに続ける。
「君のおかげで疲れが吹き飛んじゃった。解析も順調だし、また近いうちに情報を提供できそうだよ」
「ほんなら良かったです」
そこまで言って、カラスバは眉を寄せた。
疲れが取れたのはいい。だが、彼女が今いる場所は事務所。いつもの席。
「……で。その背景。まだ事務所ですやん」
「うん」
「また徹夜しよう思うてます……? あきまへんで」
「ふふっ。心配してくれるの? 大丈夫。もう切り上げるから」
「ほんまですか?」
「うん。ちゃんと帰って、家のベッドで寝るから」
「なら……ええですけど」
言いながらカラスバは、自分がなにをしているのか分からなくなる。
セイカに心を乱していたはずなのに。結局はこうして体調を気にしてしまうのだから。
「今日の埋め合わせは、また改めてさせてもらうね」
「いや、別にそんなん気にせんでも……」
指を組み、そこへ緩く顎を預けながらセイカは言うも、カラスバとしてはわざわざ埋め合わせというレベルではなかった。
そもそも。また何に巻き込まれるか分かったものではない。
「だぁめ。こういうのはちゃんとしたいの」
「さいですか……」
セイカはきっぱりと言い切る。こうなったらどんなに訴えても覆ることがない。
カラスバが諦めたように呟くと、セイカはふっ、と声を和らげた。
「髪の毛。ちゃんと乾かして、あったかくして寝るんだよ?」
「セイカさんはオレのオカンか!」
セイカはまるで弟を見るように双眸を細める。
口元に柔らかな笑みを描いたままの言葉に、カラスバが反射的にツッコミを入れると、当の本人は目を柔和に閉じてくすくすと笑った。
その顔は裏社会の女ボスとは思えないほどに優しく、カラスバの胸に妙な感情が渦巻く。
まだ十年と少し生きているだけだが、それでもこんな心情になるのはセイカが初めて。
ミアレにいる個性的な人々と交流を持った上で、そう言える。
「セイカさん、笑い過ぎや」
「ふふっ……。なんとなく、君の声が聞きたくなって電話したけど──」
毒を溶かしたような輝きを秘めた瞳が、カラスバを真っ直ぐに見つめる。
「うん。やっぱりしてよかった」
その一言に、カラスバはぴたりと黙った。
(あかん……! それは……アカンやろ! そういうことを、そんな……自然に言うなや……!)
いつも余裕たっぷりで当たり前のように──実際、セイカからすれば当たり前なのだが、歯の浮くような言葉をさらりと言うのはどうにかならないものか。
容姿が整っているカラスバではあるが、こんなにも距離を詰めてくる異性は初めて。
芯は優しくとも目つきと口が悪いので、地元にいるときは意外と恋愛関係に発展することはなかった。
しかもセイカは年上で、裏社会に生きるボスで、普通に生きていたらまず関わることのない人物。
最初の出会いこそ最悪のものだったが、結局は理由あっての行動だった。
それを知ると悪いイメージは氷解し、今では彼女に振り回されっぱなしである。
画面の向こうのセイカはカラスバの胸中など知る由もなく、口角を緩く持ち上げた。
「それじゃあまた明日ね、カラスバくん。おやすみなさい。よい夢を」
「……おん。おやすみなさい。セイカさんも、いい夢見れるとええな」
最後のカラスバの言葉にセイカは満足気な眼差しをすると、通話が切れた。
部屋に静けさが舞い戻ってくる。この静寂がセイカと交わした言葉たちを、カラスバに深く染み込ませた。
(なんやねん、オレの声聞きたいて……)
長距離走を走り切った後のように心臓の鼓動が速い。
抱えていた罪悪感もどこかに行ってしまった。
いま言えるのはただ一つ。疲れているセイカが求めたのは自分という事実に──悪い気はしないということ。
「あー……クソ。こっちの気も知らんで……」
ぶつぶつ文句を言いながら立ち上がると、カラスバは洗面所へと向かった。
このままだと、また余計なことを考えてしまう。
とりあえず髪を乾かそう。話はそれからだ。
そう思って洗面所へ向かったのに。鏡に映ったカラスバの口元は、どうしようもなく緩んでいた。
終
