第五章
今日もミアレは快晴だった。まるで俺の心を映したみたいに。
心身ともに軽く、事務所へ向かう足取りさえ弾んでいる気がした。
今日はどんな仕事を任されるだろうか。
どんな内容でも、セイカさんからの仕事なら手を抜くつもりは毛頭ない。
全力でやる。そうすればまた、褒めてもらえるかもしれない。
俺という存在を認めて、あの瞳に映してもらえるはずだ。
(車?)
サビ組事務所が見える場所まで来ると、門のところに黒塗りの高級車が停まっているのが見えた。
嫌な予感が、する。
心がざわつき、緊張の糸が張る。けど足は事務所へと向かってしまう。
明日も来ますとセイカさんに約束したんだ。
焦燥感が肌をちりちりと焦がしていくのを感じながらさらに距離を詰めると、車で見えなかった門の向こう側がようやく見えた。
(ぁ……)
門から事務所へと続く道の左右にはしたっぱたちが列をなし、セイカさんがちょうどカラスバを迎えているところだった。
嬉しそうにカラスバへ抱きつくセイカさん。
俺からはあいつの顔は見えない。けど、髪を撫でる手つきだけで分かる。
きっと、ひどく柔らかい顔をしているのだろう。
そのカラスバの後ろにはジプソが控えている。上司と恋人の睦み合いを見てなにを思うのか。
(あぁ……セイカ、さん……)
無理だ。これ以上見たくない。見たくないのに、目が離せなかった。
俺に向けてくれた静かな微笑みとは違う。
あれは、恋人に甘える女の顔だった。
ガラガラと音を立ててなにかが崩れていく。
最初から分かっていたはずだ。セイカさんはカラスバの恋人。
けど……俺を救ってくれた神様みたいな人が、黒く塗り潰されていくようだった。
──耐えられない。逃げ出したい。そう思ったとき。
「あなたは……」
「セイカ……さん」
セイカさんとばっちり目が合う。
すると彼女はカラスバから離れ、車のそばにいる俺のところまでわざわざ来てくれた。
おはようございます。昨日と同じように挨拶してくれる声は、カラスバの帰還を喜ぶ抑え切れない歓喜が感じられた。
「そうだ。嬉しいお知らせですよ。あなたの頑張りを評して、カラスバさんが借金を帳消しにしてくれるそうです」
「え?」
耳を疑う。セイカさんが口にした言葉の意味が理解できない。
「よかったですね。これで晴れて自由の身。もう組の仕事を手伝わなくていいんですよ」
待ってくれ、待ってくれ、待ってくれ!
それはつまり……もうセイカさんに仕事を与えられることがないってことか?
もう、彼女に褒められることも?
──認められることも?
「あ、あのっ……! セイカさんもカラスバ……さんが戻ってきたから、もう代理は……」
「はい。これで終わりです。終わってみれば意外と寂しいものですね」
「そんな……!」
「……もしかしてお仕事をもっとしたいんですか?」
俺の反応に少々驚くものがありつつも、彼女が口にする言葉は穏やかな声になって耳に届く。
ああ。この人は本気で善意だけで言ってる。
俺の知らないところでカラスバに掛け合い、借金を無しにしてくれたのに。彼女の心遣いが嬉しいはずなのに。
──違う。そうじゃない。
俺はサビ組の仕事がしたいんじゃない。
借金だってもうどうでもよかった。
セイカさん。あなたに与えられた役目を果たして、あなたに“認められる”。それだけでよかったんだ。
けど、カラスバが……サビ組ボスが戻ってきた今。もう彼女はボス代理ではない。普通のセイカさんに戻ってしまう。
「なんやおにいさん。アンタもっと仕事したいんか? 働き手は多いほうがええねんけど──」
すると奥にいたカラスバが俺のところまで来て、セイカさんから少し離れた場所へと連れて行かれる。
「ちゃうよな。オマエは“セイカ”に与えられた仕事をしたい。あの子に自分を見てほしい。オレの下で働くなんてまっぴらゴメン。そないな顔しとるで」
「っ……!」
そのとおりだ。毎日頑張ったのも借金返済のためじゃない。全てセイカさんに俺を見てほしかったからだ。
彼女は俺がほしい言葉をくれる。
だからセイカさんがボスではないサビ組の仕事なんて……する気はない。
「それになあ……。あの子、言うとったで。アンタが変わりたいって努力しとること。自分に重ねたのか、思わず嫉妬するくらいにオマエを気にかけてな」
「セイカさんが……!」
「せやからもう、オレらには関わらんと生きや。セイカはサビ組のお月様やさかい、オマエとは違う世界の人間や。あの子のことを思うなら、カタギとして立派になることやな」
ここで、お別れ。
ああ。分かっている。分かっているさ。セイカさんは俺とは違う世界に生きる人だって。
分かっていても……未練たらしく彼女を求めてしまう気持ちは、すぐには消えない。
きっと、永遠に……。
彼女の毒は、もうずいぶん深いところまで回ってしまっていた。
「あの、カラスバさん。なんの話を……」
「なんでもあらへんよ。綺麗な体になったんや。達者でな〜、ってな」
さすがに長かったのか、セイカさんが戸惑いの顔を浮かべてやって来た。
カラスバは振り返ると俺の背中を軽く何回か叩きながら、にこやかに返事をする。この人、こんな優しい顔もできるんだな。
それよりもセイカさんだ。彼女とは……もう、これで最後だ。
だから。
「セイカさん」
「はい」
「短い間でしたけど、ありがとうございました。あなたのおかげで俺は……新しい人生を歩めそうです」
背筋を伸ばして、深くお辞儀する。湧き出る感謝の念を言葉に込めて。
昨日家に帰ってポケモン関係の仕事を色々調べたんだ。そうしたら……ミアレからは遠い場所に住み込みのポケモン牧場があって、しかも求人が出ていた。
借金を返済し終わったら……なんて、考えていたところにこの展開だ。これは挑戦しろっていう神の思し召し。
もしそこが駄目でも他のところを受けるさ。
セイカさん。あなたのおかげで俺はこの道を選ぶことができた。
「……ええ。頑張ってください。人はいつでも変わることができます。きっと、あなたも。──そうだ。少し、待っていてください」
「?」
セイカさんは小走りで事務所の中へ。どうしたんだろうか。
すると数分で彼女は戻ってきた。その腕にはフシデがいた。
俺を見て、キュイキュイと嬉しそうに鳴くフシデは心を閉ざしていたのが嘘のようだ。
ひょい、とセイカさんの腕から飛び降りたフシデは甘えるように俺の周りをぐるぐると回り始める。
「昨日会ったばかりなのに。本当によく懐いていますね」
「キュイッ、キュ〜」
回るのをやめたフシデが俺の足首に擦り寄ってきた。顔をすりすりとしてくる感触に自然と頬が緩む。
「この子、あなたの手からしかフードを食べないんです」
「え……?」
「あなたに会う前は少しですが、自分で食べていたのに。あなたの優しさに触れてからは食べようとしなくなってしまって」
セイカさんはしゃがみ込み、フシデの背中をゆっくりと撫でる。
まさか、そんなことになっているなんて。
ほんの数時間触れ合っただけなのに。と思うと、胸の奥がじわりと熱くなった。
「もし──。もし、あなたに迎える気持ちがあるのなら。この子を、あなたに託したい」
セイカさんは立ち上がり、俺を見つめ少しだけ間を置くと真剣な顔つきで告げた。
芯のある力強い眼差し。ポケモンを託すという大きな決断。彼女はそこまで俺を信用してくれているのか。
たとえフシデがフードを食べないとしても、信頼の置けない人間に託すなんてことはしないはず。
「で、でも。サビ組で保護してるし……」
いくらセイカさんがいいと言っても、彼女は代理。ボスではない。
組織のトップである男が隣にいるのだ。彼に伺いを立てるように視線を向ければ。
「セイカがそう言うならええで。フシデもよお懐いとるしなあ」
すんなりとOKされた。拍子抜けするほどに。
それほどにカラスバはセイカさんのことを信頼している、ってことか。
当たり前か。自分の留守を任せる相手なのだから。
とにかく。ふたりから了承を得たんだ。空のモンスターボールを片手に、片膝を折ってフシデに顔を近づける。
交差する視線。逸らすことなく、俺はフシデの前にボールを差し出した。
「フシデ。……俺と一緒に来るか?」
「キュイッ!」
フシデは“うん!”と答えるように大きく鳴くと、自らボールに額を当てた。
光線がフシデを包み、ボールは一度も揺れることなく捕獲完了。これで正真正銘、俺がフシデの親になったんだ。
ライチュウとフシデ。二匹のためにも、もっと頑張らないと、という強い気持ちが奥底からあふれてくる。
「セイカさん。俺、ミアレを出てポケモン牧場で働こうと思ってます。そこは色んな理由でやって来たポケモンたちがのびのびと暮らしてるらしくて。……受かるかどうか分かりませんけど、もし駄目でも他のところに挑戦します」
「……精悍な顔つきになりましたね。ええ。その気持ちが大事です。さあ、これも受け取ってください」
「これは……?」
セイカさんは肩に羽織っているカラスバのジャケットの内ポケットから一枚の封筒を差し出してきた。
受け取ると厚みがあった。もしや、これはお金……?
「これは私個人から。労働に対する正当な対価です。新しい生活に役立ててください」
私個人から。わざわざそう表現するのはサビ組としてではなく“セイカさん個人のお金”ということか……?
素直に受け取りたい気持ちはあるが、やっぱりボスの顔が気になって見てしまう。
言葉こそ発しないものの、その目は“受け取りや”と物語っていた。
「なにからなにまで、ありがとうございます」
「──あなたの新たなる旅路に祝福を。このミアレの地で、あなたの活躍を祈っています」
「俺も……セイカさん。あなたのことはずっと忘れません。本当に。本当に──ありがとうございました」
