私の先生⇔悪魔の先生 - 3/8

第二章 ジレンマ

(ベリアル先生、またあの先生にいいように使われて……)
 昼休みの開始から少し経った校内は生徒たちの話し声で賑やかだ。昼食を終えたジータはひとり廊下を歩いていると前方に見慣れた猫背を見つける。彼はなにかを運んでいるようで少しだけ近づいて持っているものを見れば両手には分厚い本が何冊も重なっていた。冊数もあり、見た目からして重そうだ。ひ弱そうな彼だからこそ余計にそう感じる。
 ジータは心の中でため息をつく。ベリアルに雑用を押し付ける教師がひとりいるのだ。ベリアルがなにも言わないからと色々押し付け、自分は楽をしている。以前少しは抗議しては? と提案してみたが、彼は「あの先生は忙しいから」と笑うだけ。争いは苦手だろうから逃げの姿勢を取ることに理解はしつつも、ベリアルが軽んじられて胸が重くなる。
「先生、また雑用を押し付けられたんですね」
「ぁ、ジータさん。用事があるから代わりに図書室に戻しておいてって渡されてね。はは……はぁ」
「ため息つくくらいなら断ればいいのに」
 そばに寄り、斜め後ろから声をかければベリアルは立ち止まってジータの方を向く。雑用を押し付けた人物の名前こそ言わないが、彼の口調からしていつもと同じ人間で間違いない。
 肩を落として深く息を吐き出すベリアルにジータは呆れた顔で告げるも両手は本の塔へと伸び、真ん中あたりから持ち上げて抱えた。
「そうなんだけどね。ごめんね、いつも手伝ってくれて」
「いいですよ。ちょうど暇だったので。それにこういうときは“ありがとう”ですよ、先生」
「うん。ありがとう、ジータさん」
 両目を閉じてにっこり笑顔。元気ハツラツというよりかは大人しい笑みだが、それがどこか幼く見えてジータの中の母性本能が刺激されてしまう。これでモテないというのが不思議でたまらない。それか自分の好みがこういう人なのか。つらつら思いながらも談笑しながらベリアルの少し後ろを歩いている、と。
「うわぁっ!? うぅっ、っ〜〜!」
「先生!」
 教室の扉が連なる廊下を抜ければ階段があるフロアに差し掛かり壁が途切れる──というところでベリアルがいきなり前のめりに転倒した。派手な音を立てて床に散乱する本たち。ベリアルは顔を床に伏せながら痛みに呻く。ジータは慌ててベリアルに駆け寄り、本を脇に置いて大丈夫かと心配するがその後ろからクスクスと笑う声に柳眉を逆立てて彼が転ぶ原因となった人物を睨みつけた。
 壁が途切れたところに隠れるように立ち、片足を差し出して転ばせた人物はジータのクラスメイトでベリアルの授業を妨害したり、嫌がらせをしたりする不良三人組のリーダー格である少女。
 普段のちょっかいは怪我しない程度だが、これは明らかにやり過ぎている。感情を強く乗せた眼差しで少女を見れば、彼女は「フン!」と鼻を鳴らして吐き捨てる。
「先生みたいなナヨナヨした男、すっごいムカつくんだよね」
「だったら関わらなければいいじゃない! 自分が気に入らないからってこんな……! 一歩間違えれば怪我をするかもしれないって考えられないの!?」
 なんて自分勝手な言い分。普段は温厚なジータも堪忍袋の尾が切れ、叫ぶ。他の生徒たちの視線が注がれているのにも気づかずに。それほどの怒気なのだ。
「……チッ。うるせーな。いい子ちゃんヅラした生徒会長サマは。あ、もしかしてベリアル先生とデキてるから色々首を突っ込むとか? ハハッ、気持ち悪っ」
「……!!」
「気づいてないようだから教えてあげるけど、あんたらの距離感バグってんだよ」
 ──気持ち悪い。距離感がおかしい。言葉がナイフとなってジータの心に深く突き刺さる。学校で名物になっていると言われて、ベリアルを助ける生徒会長として堂々と彼の力になれることが嬉しくて、客観的に見てどう思われるか気づかなかった。だからこそ少女に言葉にされて自分と彼が生徒と先生という立場なのだと思い知った。
 一年生の頃から今に至るまでずっと助け、助けられの関係。しかも男女だ。そういう疑いが生まれてしまうのも必然。もしかしたら自分の耳に届いていないだけでそういう噂をする生徒がいるかもしれない。もしなにか問題が発生したら責任を追求されるのは大人であり、教師である──ベリアルだ。
「ジ、ジータさん。ボクなら大丈夫だから! ね、落ち着いて」
 言葉を失い、心ここにあらずなジータを放置して少女は去っていき、起き上がったベリアルが肩に手を置いてなだめるもすぐに反応することはできなかった。
「……ジータさん?」
「……あっ、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃって。……さっ! 気を取り直して図書室に行きますよ、先生!」
 彼に余計な心配をさせたくなくてジータは無理やりの笑みを浮かべると立ち上がり、本を持つ。その際にベリアルに怪我がないか、彼の体に素早く視線を巡らせて確認するが見た目の怪我はなさそうだ。派手に転んだのでもしかしたら顔に……と思ったがその心配もなさそう。眼鏡にも破損は見られない。
 ベリアルもジータの様子に違和感を感じながらも散らばった本を集めて改めて一緒に図書室へ。
 不良少女と生徒会会長という正反対の二人のやり取りを固唾を呑んで見守っていた生徒たちもやがてそれぞれの時間へと戻っていき、和やかな空間が戻ってくる。
「いっ、つ……」
「どうしたの? 先生」
 図書室まであと少し。先ほどと違ってジータが前を歩き、ベリアルがその後ろを歩いていると背後から聞こえた声にジータは振り向く。その際一瞬だけ見えたのはなにかを我慢する顔。けれどすぐに取り繕うとベリアルは「なんでもないよ」と笑うが、明らかになにかを隠している。
「先生、もしかしてさっきのでどこか痛くしたんじゃ……」
「べ、別にこんなの平気だよ! っ……!」
 反応を見せる片脚を見て、見えない場所を負傷しているのだと知る。ここで普段の口調で言ってもベリアルは聞かないだろうと考え──それ以外にもジータなりの考えがあるが。
「先生。強がらないでください」
 ぴしゃりと告げればベリアルは観念したかのようにおずおずと話し始める。
「足を、捻ったみたいで。でも本当に大丈夫だよ! このくらい」
「……先生。私が本を返しておきますから先生は保健室に行って処置してもらってください」
「でっ、でも……」
「いいですから! 絶対に保健室に行ってくださいね? 分かりましたか!?」
「……ハイ」
 有無を言わさないジータの迫力に押され、ベリアルはジータに本を任せて大人しく保健室へ。どこかしょんぼりしたように見える彼の丸まった背中を見つめていたジータはその背が見えなくなると小さなため息。
 これじゃあまるで八つ当たりだ。彼が悪いわけではないのに。少女の言葉にここまで動揺している己を叱責し、口の中で彼に謝罪の言葉を呟くと本を抱え直して図書室へとひとり向かう。
 ──本の返却は滞りなく終わった。これで一応はフリーに戻った。昼休みの時間もまだある。教室に戻って友人たちと会話を楽しむか、それとも。
(先生、ちゃんと手当て受けたかな。っ、でもここで行ったらいつもと同じだし……)
 図書室をあとにしたジータはベリアルを想う。少女に言われて彼と少し距離を取るべきかと現在進行系で悩んでいるが、今までずっとしていたことをいきなりやめるというのは大変だ。どうしても彼の心配をしてしまう。
(先生が保健室に来たか聞くだけなら、いいよね?)
 保健室にいつもいる養護教諭にベリアルの来訪を聞くだけなら彼と直接関わるわけではないからいいよねと判断を下し、ジータは保健室に向かって歩き出す。その速度が早歩きになっていることには彼女は気づかない。
 いつもと変わらぬ廊下の長さだというのになぜか今日は酷く長く感じながら、学年の違う生徒たちとすれ違いつつ保健室に着いた。他の教室と同じスライドドアをノックし「失礼します」と入室すれば。
「ジータさん! 本を返してきてくれだんだね、ありがとう。でもどうしたんだい?」
「せ、先生こそなにしてるんですか? 保健の先生は、いない……」
 部屋にいたのはベリアルだった。彼は治療に使う道具や薬が入ったガラス戸の棚を開けてなにやら探している様子。てっきりもう手当てを受けていると思ったら肝心の養護教諭は留守。もしや彼は自分でやろうと道具を探しているのでは? と考え、聞いてみればジータの考えどおりの答え。
 仕方がない。こんな場面を見てしまったら助ける以外の選択肢はないのでジータは保健室に置いてあるベッドに腰掛けるように言い、棚の奥からテーピング用のテープを取り出すと小さめの丸椅子と一緒にベリアルのところへ。保健室の先生にはあとで事後報告すれば許してくれるだろう。
 ベッドに座る彼の前に両膝をつくと痛めた方の足の靴と靴下を脱いで椅子の上に乗せるように言えばベリアルは大人しく指示に従う。基本彼は長袖のシャツに長ズボンなのでこうして彼の足を見るのは初めてだ。
 すねが少し見えるくらいまで裾をたくし上げ、見えた肌は無駄毛が一本も生えていない白い肌。美しく整えられた爪は光沢がありまるで女性の足を見ていると錯覚してしまう。見た目とのギャップに思わず言葉が漏れる。
「ぇ……先生、足が綺麗すぎませんか……!?」
 身近な異性である父親の姿を思い浮かべる。家で楽な服装をしているときに見える脚には毛が生えており、爪だって伸びたら切る程度で形も悪い。指毛なんて脛同様に放置だ。それに比べて彼の足はなんだ。下手をしたら女である自分より綺麗かもしれない。
 そう思いつつもジータは痛む場所を聞き、足に手際よくテープを巻いていく。今は手当てが先だ。
「ところでよく道具の場所が分かったね、ジータさん。巻き方も慣れてるというか」
「今はもうないけど、一・二年生の頃は運動系の部活の助っ人を頼まれたりして怪我の手当てをしたことも多いから」
 ベリアル本人は当たり前のことなのか特に自慢したりもせずに流すとジータの腕の良さを褒め、道具の場所も把握していたのはなぜかと聞き、彼女の返答に「なるほど」と呟くと黙って処置を受ける。
 いつもならば会話のキャッチボールができるというのに今は気が重い。ベリアルとの距離感が今までおかしく、それを適切な距離にしなければという気持ちが急いてしまうのだ。
(先生は、私が卒業したらどうするんだろう)
 黙々と手を動かしながら不意に浮かんだのは自分がいなくなった後のこと。来年にはもう自分はこの学校にはいないが、この学校ではなくとも彼はきっと教師を続けるだろう。
 また自分のような世話焼きが現れて助けてやるのか。彼自身の気の抜けたところはそう簡単に改善できないと思うので自然と知らない誰かに世話を焼かれている彼の姿が浮かんでしまう。
(──嫌だ)
 もしものことを想像して出てきた感情は拒否だった。彼が他の誰かに甲斐甲斐しく世話をされているのを受け入れることができない。
 ジータは改めて自分の彼に対する想いの強さを知る。こんなにも苦しい思いをするなら今すぐにでも胸の内に秘めた恋を彼に告げてしまいたい。あぁ、駄目だ。そんなことをしたら彼に迷惑をかけてしまう。せめて自分が卒業したらにしなければ……。
「ジータさん、大丈夫? なにか思い詰めたような顔してるけど」
 肝心のベリアルはジータが思い悩んでいることを露知らず、彼女の頭の上から心配の声を発する。その気持ちは嬉しいが言うわけにはいかないとグッ、と我慢してジータはなにもないような顔で平坦に答える。
「先生のことを考えていたんです。私が卒業したあと、大丈夫かなって。本当に心配ですよ」
「あはは……。じゃあ留年してもう一年先生の面倒を見てくれるかい?」
「……はぁ。もう、なに言ってるんですか。先生なんですからもっとしっかりしてください!」
「あだっ、」
 なんとも気の抜けた言葉にさすがのジータも呆れを通り越してちょっぴりの怒り。こっちがどんな思いをしているかも知らないで! と最後にテープをキツめに巻くと脛の部分を軽くはたく。患部でないのは拭いきれない彼への想いゆえだ。
「あっ、もう戻らないと! それじゃあ先生、しばらくは転ばないように気をつけてくださいね!」
 予鈴が鳴ったことでジータは弾けるように立ち上がり、一方的にまくし立てると保健室をあとにする。そんな彼女に声をかけようと片手を伸ばすベリアルの腕は行き場をなくし、静かに下げられるのだった。

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