私と先生のその後

「ジ、ジータさん、よかったら今から飲みにでも……」
「すみません。私、夫が迎えに来てくれているんで。失礼します」
 流れるような銀髪に赤い瞳。すらりとした小柄に身に纏うのは丈の短いミニワンピースに黒タイツ、白衣。今日の仕事は終わったと更衣室へと向かうひとりの女医に声をかけたのはこの病院に勤める男性医師だ。
 勇気を出して飲みに誘うも女性はクールな表情を崩さず、軽く会釈すると夫が迎えに来ているからと告げて足早に去っていく。
 男性医師も女医が結婚していることは結婚指輪をはめていることから知っており、もしかしたら……という希望的観測で声をかけ、あえなく失敗。がくりと肩を落とし、高嶺の花の女性の背中を見えなくなるまで見つめた。
 女医の名前はジータ。高校在学中に医師の道を志すことを決め、無事免許を取得すること数年。現在は彼女が住んでいる地域で一番大きい病院に勤めていた。
 地毛の金髪を銀髪に染め、服装も学生時代に比べると派手になっているが全ては夫であるベリアルの影響。
 ベリアルとの馴れ初めはなかなかに複雑だ。まずジータの祖父が日本のヤクザの半分を束ねる組のトップ、その祖父が高校生になる孫に変な男が寄り付かないか心配で送り込んだのがトップの子分の子分──三次団体であり、最近名前をよく聞くようになった組、ルシファーという若い男が頭を張るインテリ系の組の若頭であるベリアルを教師として送り込んだのがきっかけだ。
 当時のベリアルは本来の彼とはかけ離れた、ドジっ子・弱々しい・頼りない男性教師を演じジータの心を掴むと高校生活の三年をかけて恋愛感情を抱かせるように仕向け、彼の思惑どおりジータはベリアルに恋をした。
 彼女の卒業と同時に自分の正体、なぜ教師をしているのか全てを打ち明け、最初はジータも祖父の正体や彼が親であるルシファーのために動いていたことにショックを受けたものの、最後はそれでも構わないとベリアルを選んで交際、結婚に至り、ルシファーの組はベリアルが絵を描いたとおりジータの祖父と親子の盃を交わして直系へとのし上がった。
 異例のスピード出世。政略結婚だと古株は声を上げたがルシファーの上納金は他の組と比べて頭ひとつ飛び抜けており、安定しているために彼らはこれといって物申せない。それでもルシファーからすればうるさいことに変わりはないが。

   ***

 着替えを終えたジータは職員用の出入り口から出ると外はすっかりと暗くなっていた。本来ならばこれから自由時間なのだが、あいにく今日はこのあと緊急の手術が入っていることにため息をひとつ。
 ジータは闇医者でもあった。表立って病院にかかれない事情がある患者をベリアルの紹介を通して治療する。ベリアル──もとい、ルシファーの組はその報酬として大金を得る。数あるシノギのひとつでもあった。
 最初は抵抗があったものの、愛するベリアルのため、その彼がメシアと呼んで愛するルシファーのために自らの腕を振るうことを続けてもうどのくらいになるか。今では慣れたもので後ろめたいという感情などなくなった。患者の背景はどうであれ、今も心の芯にある人を助ける仕事をしたい、という点は表の仕事だろうと裏の仕事だろうと同じなのだから。
 正義感が強くて明るい少女がベリアルという闇の存在に染められ、今では日陰の人間になってしまったが彼女の中には後悔はない。むしろ愛する男の好みに染められて嬉しいとさえ思う。
「ただいま、ベリアル。待たせちゃった?」
「おかえり、ジータ。さっき来たばかりさ。それよりいつも悪いね、疲れてるっていうのに」
 近くに停車していた一目で高級と分かる車の助手席にジータは乗り込むと、夫であるベリアルに微笑みかける。
 ベリアルは深紫のジャケットに黒シャツ、黒パンツとなにげに着こなすのが難しいアイテムを身に着けているが、神に愛された容姿なので似合っている。そもそもどんなにダサい服を着ていてもこの男の圧倒的イケメン力によって似合ってしまうのだ。
 ただいま、おかえり。なにげない夫婦の会話をしながら軽いキスを交わすと車は目的地へ向かって走り出す。向かうはルシファーのフロント企業が所有する建物。その中に今回の患者が待機しているのだ。
 極々普通の町並みの中に存在しているその建物の見た目は周囲によく馴染んでいる。今日あった出来事や、今晩の食事内容など夫婦の会話を楽しみながら車を建物の駐車場に止め、ベリアル同伴のもとジータは中へ。
 明かりが点いている屋内へと入れば体格のいい中年の男がそばにやってきて、ジータへ懇願する。どうか、どうか親父を助けてくださいと。自らのプライドを捨ててまで若い娘に頭を下げる理由は己の大切な人の命を救ってほしいからだ。
「暗殺されかけてタマが体内に数発。それでも死んでないのは運がいいんだか、悪いんだか……」
「ベリアル……! いや、今はそんなことはどうでもいい。ジータさん。お願いだ。親父を……!」
「できる限りのことはします。ベリアル、もう組長さんは手術室に?」
「あぁ。キミが到着し次第オペできるように指示しておいた」
「分かった。行ってくる」
 一般の病院に行くことが難しい背景を持つ者たちが頼るのがジータを始めとする闇医者。ジータはルシファーの組お抱えの医者で若いながらも才能があったのか医者としての技術は高く、報酬が高いながらも指名してくる者が多かった。
 ジータはベリアルたちと別れるとひとり建物の奥へ。手術着に着替えるとオペ室へ入る。そこにはジータと同じように闇業界に身を置く看護師がすでに準備を整えていた。
「あなたも大変ねぇ。表の医者のオシゴトが終わったら今度は闇の仕事なんて」
「それがルシファーさんのため……ベリアルの喜ぶことに繋がるなら私は構わない」
「んもう、若頭さんには嫉妬ちゃうわ。こんな可愛いコにここまで愛されてるなんて」
「お喋りはここまでです。早く終わらせましょう」
「はいは〜い」
 彼女も組お抱えでジータと組むことが多く、彼女のほうが年上だからか、もともとの性格ゆえなのか気さくに話しかけてくる。こうして話すのも悪くはないが、手術を成功させるためにも時間は惜しいとジータは早速オペに入る。
 自分が依頼された仕事を成功させればさせるほど、ルシファーの地位は揺るぎないものへとなる。誰だって死にたくない。生きられるなら生きたい。大怪我をしたときにジータの治療を受けるためにはルシファーに下るしかないのだから。
 今ではジータはルシファーの組にとってなくてはならない存在になっていた。そしてジータ自身分かっているのだ。自分がルシファーの役に立てば立つほど、ベリアルはもっと愛してくれると。
 一般的に見れば歪んだ愛情かもしれない。だがそれでもいいのだ。高校生のときの純粋な愛は今や過ぎ去りし時の中に埋もれてしまった。

   ***

 ──手術は問題なく成功した。体内に残っていた弾も全て摘出し、あとは患者の生命力しだい。他のことは看護師の女性に任せてジータはベリアルと共に車に乗り込んでいた。これでようやく家に帰れる。
「本当にお疲れ様。よく頑張ったね」
「ふふっ……」
 車のシートに体を預けながら向き合うジータの髪を優しく撫でて労るベリアル。その手が気持ちよくてジータはうっとりとしながら大きな手を受け入れていた。彼が喜んでくれてよかった。心の底から思っていると顔を出すのは別の感情。
 彼の手が髪から耳へと移動する。耳に触れられただけで体がビクッ! と反応し、溝をなぞられると背中からゾクゾクとした電流が這い上がってきて変な気分になってきてしまう。そういえば最近はご無沙汰だった。自分やベリアルが忙しかったという仕方がない理由はあるが……。
 幸いなことに明日ジータは休み。ベリアルは違うだろうが多少ハメを外してもいいのでは? という欲望が下腹部に渦巻く。
「んっ……ん……!」
 ベリアルもジータがナニを求めているかは承知の上で耳をまさぐり、学生時代と比べて成長し、ベリアルによって育てられた妖艶な肢体がくねる。どうしても揺れてしまう腰。潤む瞳。
 耳を弄っていた指先は唇へと移動し、美しい白魚の親指が下唇をなぞった。交差する視線。自然と縮まるふたりの距離。顔が近づくにつれて閉じていくジータの双眸。ぴったりと視界が閉ざされると重なる唇の感触はいつだって極上。
 ジータよりも年齢が上だというのにベリアルはいつまでも若々しい。唇はふっくらとしていて荒れもなくて、こうして触れているだけで満足感がある。
 啄むようにちゅっ、ちゅっ、と軽いキスを繰り返しているうちにジータの情欲が激しく燃え盛る。全身が火照ってきて、彼が欲しくて欲しくてたまらない。
「っは……ベリアルっ……」
 顔に触れるベリアルの手をジータは両手で包むとハリのある若くて大きな果実へと触れさせる。アピールするように押し付け、紅潮した顔で呼吸を乱しながら視線でおねだりをすればベリアルは「オーケイ」と口の端を持ち上げる。
「最近は互いに忙しかったからな。明日キミは休みだし、思いっ切りハメを外そうか。このままホテルにでも行く?」
「い──」
 “く”という答えはジータの腹の虫が鳴ったことでかき消された。甘くて妖艶な雰囲気が台無しである。固まってしまうジータに対してベリアルは喉の奥で笑い、家に帰ろうかと彼女の頭をぽんぽんと撫でると車を発進させた。
 夕食の仕込みは終わっており、冷蔵庫の中。帰って少しの時間を貰えればすぐに温かい食事の出来上がり。仮にジータに外食を提案しても夕食の仕込みができていることはすでに話していたので彼女は家でゆっくりとベリアルの料理を食べることを選ぶ。
 外食ももちろんするときはあるが、ベリアルの手料理の方がジータの好み。すっかりと胃袋を掴まれており、ベリアルから離れることができない。
 すっかりと黙ってしまったジータを乗せて車は高級マンションへ。ベリアルと一緒にならなければ一生縁がないかもしれない住居だ。
 駐車場に車を停めるとベリアルのエスコートを受けながらマンションの中、エレベーターへと乗り込む。向かうは最上階だ。なんとルシファーは最上階すべてを買い上げており、そこにルシファー・ベリアル・ジータが暮らしていた。
 ベリアルとジータが一緒に住んでいる部屋に入れば玄関には汚れひとつ見えない艶やかな黒色の革靴がひとつ。ルシファーの靴だ。
 ルシファーがベリアルに与えた部屋であるため当然彼は部屋の鍵を持っているので、時々勝手に上がっては寛いでいた。
 ジータがベリアルと交際を始める前からそうなっていたので新参者であるジータはなにも言えず。最初こそ気になっていたが今では慣れたもので逆に嬉しさを感じるほど。ベリアルの影響は根深い。
「こんばんは、ルシファーさん。お夕飯は今からですか?」
「……ああ」
「なら一緒に食べようか。すぐ作るよ」
 広々としたリビングに置かれている革張りのソファーにはスーツの上着を脱いだルシファーが長い脚を組みながら洋書を片手にワインを飲んでいた。
 人様の家だというのにまるで自分の家のように──厳密に言ってしまえばルシファー所有の部屋だが、振る舞えるのだから彼らしいとジータは思う。
 堂々を通り越して傲慢ともいえる性格。だからこそ最年少でジータの祖父と盃を交わし、直系へ昇格しても古株たちを恐れることなく己の自由意志を貫けるのだろう。
 彼が全国のヤクザを従える未来すら見えてくる。彼にその意思があるかは不明だが。
 ジータはルシファーの隣にちょこん、と座るもルシファーは意に介さず。黙々と読書を続ける。
「ファーさん、ジータにご褒美をやってくれ。今日手術した組長さんは厄介な古株の爺さんのお気に入りでさ、これで少しは黙るんじゃないかな?」
 ベリアルはキッチンで夕食の支度をしながらルシファーに視線を投げかける。すると彼はなにを思ったのか読書の手を止め、横に座るジータを見つめるとおもむろに片手を伸ばし、後頭部を引き寄せると彼女に口付けた。
 いきなりのことで驚愕するジータだが無遠慮に口内を這う男の舌に思考が蕩け、また、目を開けたままキスをしてくる彼の綺麗な青い瞳に見つめられるのが恥ずかしくてジータは目を閉じる。
 ベリアルとキスをするのとまた違う感情が突き上げる。ルシファーからの思いがけぬご褒美にジータの身体は忘れかけていた性熱でじわじわと身を焦がす。
 ベリアルは自分の妻が他の男に触れられているというのに逆に嬉しそうだ。ニヤニヤとしながらふたりの情交を見つめつつ調理を続けている。
 そもそもの話すでにジータはベリアルとルシファーの女になっていた。最初こそ夫であるベリアルだけだったがルシファーとベリアルの肉体関係を知り、やがてベリアルに誘われるがままに三人で夜を共にし、今では二人きりのときに夫の上司であるルシファーに抱かれることも。
 ベリアルはファーさんが望むのなら受け入れて当然のスタンスなので不倫とも思っていない。むしろ楽しんでいる節さえある。かつてのジータならば想像もしなかった爛れた関係。それが倫理観が歪んでしまった今ではベリアルの愛するルシファーに妻である自分が奉仕するのは当然と思っていた。
「ふ……ぁ……、ん、んぅ……」
 長めのキスが終わり、ルシファーが顔を離せばふたりを繋ぐ架け橋ができたかと思えばすぐに途切れてしまった。彼はなにごともなかったように普段と変わらぬ無表情で本を読むことに戻り、ジータはというと腰が砕けてしまってソファーにくったりと沈んでいる。
 ベリアルとの軽い触れ合いで赤くなっていた顔もついさっきまでは落ち着いていたというのに、また赤く染まり子宮が疼いてたまらない。欲しく、なってしまう。欲張りだから、ふたり分。
「ところでファーさん。今日泊まってくだろ? 最近彼女、ご無沙汰だったから相当溜まっているみたいで。フフッ。若いっていいねぇ」
「ほう……」
「っ……」
 二匹の蛇が獲物を見定める。奥底に見える情欲の炎にジータは息を呑むと、今夜の己の痴態を想像して笑みを深めた。