ベリアル(猫)と会社員グランの話

 任されていた大きな仕事がようやく終わり、スーパーで半額の弁当やマグロの刺し身を買ってそこそこの年数住んでいるマンションに帰ってきた。
 正直へとへとだけどこの扉を開ければきっと……!
 そう思いながら玄関の扉を開ければ、いつからそこにいたのか。チョコレート色の毛を持つ猫が僕の帰りを待っていたかのように行儀よく座っていた。
「ベリアルただいま〜」
「にゃぁ」
 明かりを点ければ僕を見上げる紅い目が見えた。見れば見るほどアイツを思い出させる。
 僕には前世の記憶というやつがある。子供の頃は夢の中の出来事だと思っていたけど……歳を重ねるうちに色々なことを思い出し、やがてすべての記憶を取り戻した。
 僕は前世で空の世界という──今のこの世界からすればファンタジーな世界に生きていて、大きな騎空団を率いる団長だった。
 その宿世すくせの記憶に特に深く、深く刻まれている奴にこの猫はよく似てるんだ。
 アイツを思い出させるダークブラウンと血のような目。どこか優雅な振る舞い。
 この子と出会ってからもう十年くらい経つか。拾ったときは首輪をしてなかったし、誰かが探している様子もなかったから野良猫だったんだろう。
 ある日、ずーっと僕のあとをついてきて、僕自身もこの子に思うところがあって飼うことにしたんだ。ちょうどペット可のマンションだったし。
 それからはこうして一緒に暮らしている。アイツに似てるからってベリアルの名前をつけるなんて本当にどうかしてるけど、僕にとって特別なんだ。ベリアルは。
 そりゃあ敵だったさ。それにアイツには口では到底言えないこともされたりしたけど……でも、一緒にいて気楽だった。
 団長じゃなくて、ただの人間としていられたから。
「ベリアル聞いてくれ。やっと仕事終わったんだよ〜」
 靴を脱ぎ、リビングへ向かいながらの会話。猫に言ってもその意味なんて分からないだろうけど、なぜか彼は相槌のように鳴いてくれる。本当に不思議な猫だ。

「はぁ……ようやくベリアルを満喫できる……」
 ご飯もお風呂も終わり、テレビのバラエティ番組を適当に流しながらベリアルを膝に抱く。柔らかい毛は本当に気持ちがよくて何度も撫でてしまう。
 ベリアルも機嫌がいいのか、喉をゴロゴロと鳴らしている。
 しばらくベリアルを思うがままに可愛がっていると、ふと……黒い男が脳裏によぎった。
「アイツのこと……嫌いではなかったな……」
 もちろんベリアルがしていたことは許されるものではない。もしかしたら僕が死んだあと、次元の狭間からルシファーと出てきてまた終末をもたらそうとしたかもしれない。
 けど……新しい命として、普通の人間として生まれた今もベリアルのことが忘れられないってことは……そういうことなんだろう。
 だってベリアルを思い出させるこの猫にアイツの名前をつけ、街ではいつもどこかで彼の姿を探している。もしかしたら僕みたいに人間に転生しているんじゃ、と思って。
 はは……仲間だった人とさえ出会えてないのに、ベリアルと会える確率なんて──。
「はぁ……ベリアル」
「にゃお?」
 彼の名前を口にすれば、同じ名前をつけている猫が顔を上げた。鳴き声も好きだなぁ。耳障りがいいというか。そういえばベリアルもすごくいい声をしてたな。低くて、甘くて。性格以外は完璧だった。
「まあ……僕には猫のベリアルがいるし」
 気を取り直し、膝に乗せているベリアルを抱き上げるとお腹に顔をうずめて思い切り吸う。本当にいい毛並みだ。ずっとこうしていたいほどに。丁寧にお世話しているおかげかな。
 ベリアルは嫌がることなく僕のしたいようにさせている。思えば拾ったときからベリアルは頭がもの凄くよかった。一度なにか教えたら忘れないし、行儀もいいし……。
 もしかしてこの子がベリアルだったりして? まさかね。
 このあと、僕はベリアルを心ゆくまで堪能した。今まで忙しすぎてあまり構ってあげられなかったし。

「…………」
 夜が更けた頃。久しぶりにベリアルとの時間を楽しんだグランは幸せそうな顔をしながら、テレビの前に置かれているローテーブルに突っ伏して眠っていた。
 そのだらしなく緩んだ横顔をベリアルは無言で見つめると、なんと彼から黒い光があふれ出し、体を包み込むではないか。
 まばゆい光はすぐに収まり、見えた姿は小さき獣ではなく──人だった。
 黒いドレスシャツに革のパンツ。紫のファーストール。グランが探し求めていた蒼い空の記憶のベリアルそのもの。
「こんなところで寝ると風邪を引くぜ? 特異点、いや……グラン」
 ずっと求めていた人物がいるというのにグランは目を覚まさない。ベリアルは小さく笑うと、グランを横抱きにして寝室へと向かった。
 くぅくぅと寝息を立てながら眠るグランをシングルサイズのベッドに横たえ、ベリアルもその隣に体を滑り込ませた。
 一人用のベッドに大人の男二人が寝るには狭く、ベリアルはグランのほうに体を寄せながら横向きに寝ると頬杖をつく。
 そういえば、と、なにかを思い出したように腕を軽く振るう。するとリビングのテレビや明かりが消え、部屋に静寂が訪れる。生前と同じく、彼は特別な力が使えるようだ。
「オレの意識が目覚めた日、それがキミに拾われた日だった。まさか転生先がネコだとは思わなかったよ。そして……なにかに引き寄せられるように歩いていたらキミと出会った」
 起きる気配のまったくないグランに対して語りかける。するとグランがもぞもぞとし始め、仰向けに寝ていたのが横向きへと変わり、ベリアルに抱きつく。
 厚く柔らかな胸に顔をうずめながら抱きついており、ベリアルを抱き枕と勘違いしている。
 無意識とはいえ極楽顔──悪く言えばマヌケ面で元・敵の胸に顔を寄せて眠り続ける姿にベリアルの口が歪んでしまう。
「キミはネコのときのオレにもそうだが、本当に胸が好きなんだな」
 グランは猫のベリアルをよく吸っていた。そのときもヒトの体で例えれば胸の部分に顔が当たっていて、今と同じ状況だ。
「でもまさか……キミがオレの名前をつけるとは思わなかった。前世での想いを引きずるほどにオレが忘れられなかったのか。まあそう簡単に忘れられないほど鮮烈な印象を残してやった自覚はあるが」
 初めて出会ったとき、グランのヴァージンを奪ったとき、死闘を繰り広げたとき。グランにとってベリアルという男は本当に強烈に記憶に刻まれていた。
 誰にも言えない、グラン自身もうまく言葉にできない複雑な感情を秘めていたという理由もあるが。
「ネコになって数年。妙にカラダが疼くようになってね。キミがオレの餌代を稼いでいる間に何度もイメージしてみたんだ。元の姿を。そうしたら──科学が発達したこの世界では非科学的なコトが起きた。最初はすぐにネコに戻ってしまったが、衝動に身を任せて回数を重ねるうちに少しずつ時間は伸びていった」
 ねやでの睦言は夜の静寂しじまに溶けていく。
「ぅ、ん……ベリ……ア……ル……」
「起きたのかい? ……寝言か。いったいどんな夢を見てるんだか。オレはここにいるってのに」
 ベリアルは胸元に抱きつき、夢の世界へと旅立ったままの飼い主の髪を細い指先で弄りつつも起こそうとはしない。まだ若いとはいえ特異点時代と比べると体力の差は歴然。
 最近任された大きなプロジェクトがようやく終わったばかりなのだ。ベリアルにも休ませてやりたいという気持ちくらいはある。
 時間制限があるとはいえ、いつでもヒト型にはなれる。グランが起きているときにこの姿になるのもいいが、今はもう少しだけ──純粋に猫としての生活を楽しみたかった。
 猫の中身がベリアルとは知らず、グランは色んなことを話してくれる。それがベリアルにとっては楽しみの一つなのだ。
 きっと猫の正体がベリアルだと知ったらもう話してはくれないだろうから。
「オヤスミ、グラン。い夢を」

 なんか、痛い。すごく痛いわけじゃなくて少しだけ痛い。なんだろうか。この痛みは。
 そんなことを思いながら意識が覚醒する。重たいまぶたを開ければ目の前には茶色い物体。そうか。ベリアルが僕の顔を舐めていたのか。
 朝から愛猫の愛情表現(だと思いたい)で起こされるなんてちょっと嬉しい。サイドテーブルに置いてある時計を見れば、休みの日に起きるにしては早い時間だった。
「なんかとてもいい夢を見た気がする……」
 起き上がり、膝にベリアルを抱いてその背を撫でながら記憶の糸を辿る。鮮明には思い出せないけど、断片的なものは思い出してきた。
「でもこんな夢を見るって相当重症だな。乙女趣味なんてないんだけど……」
「にゃ〜?」
「ん? 聞きたいの? 恥ずかしいな……。実はね、君がヒトの姿になる夢だったんだ。その人は……まあ、僕にとって特別な人なんだけど……」
 駄目だ。めちゃくちゃ恥ずかしい。これ以上は口に出せない。猫だけど! 相手猫だけど!
 ほら、なんかベリアルも目を見開いて真顔になってる! 人間の言葉を完璧に理解しているとは思えないけど、賢い子だからなんかヤバイ雰囲気を感じたんだきっと!
「あ、朝から変なこと言ってごめんね? 朝ご飯にしようか……」
 乾いた笑い声で誤魔化しながらベッドを下りる。本当に朝からなにを言っているんだ僕は。
 自分にウンザリしながら寝室のカーテンを開ければ朝日が目に染みた。空は僕の煩悩を消し去るようにどこまでも青くて、澄み渡っている。
 ──うん。今日もいい天気だ。

0