堕天司の香りの中でおやすみ

 夜の海を泳ぐ騎空艇。静まり返る艇内にウトウトしながら目的の部屋へと向かう少年の姿があった。彼の名前はグラン。この艇に乗る者たちをまとめる団長である。
 依頼で疲れきった彼は入浴を済ませ、あとは自室で眠るだけだ。
 長い廊下。誰ともすれ違うことなく私室へたどり着くと、気怠そうにその扉を開けた。明かりのない部屋は暗く、窓の向こうは濃い雲が月を覆っている。
 閉めた扉を背にその場で大きなあくびをすると、生理的な涙が目尻に溜まった。とにかく眠いとゾンビのようにのっそりとした足取りで、部屋のほとんどを占めるキングサイズのベッドに潜り込む。
 疲れた体を癒やすには睡眠が一番。眠りにこだわりのあるグランは依頼の報酬などで貯めたお金で寝具を調え、ときには魔物を狩って自分好みの安眠グッズを作ったりしていた。
 疲労が蓄積した体を優しく受け止めるマットレスに肌触りがたまらないサラサラの純白シーツ。グランに合わせて作られた枕は夢の世界へと緩やかにいざなってくれる。
 己のために作り上げたベッドお城。その中心に仰向けに寝転んだ彼は抗うことなく意識を手放し、夢の世界へと旅立った。

「気配を殺しているとはいえ、まったく起きる気配がないな。不用心すぎるだろう、特異点」
 くぅくぅと一定の間隔で胸を上下させているグランを見下ろす大きな影。すっかりと寝入っている世界の中心たる少年を高い位置から見つめる血の瞳は、愉快そうに三日月を描いている。
 月を背負って立つ、夜の闇を体現したように蠱惑的なこの男の名前はベリアル。自らを堕天司を称する彼はグランたちと刃を交えた敵のはずなのだが、グランに己の名前を冠した武器を与えたりとなにを考えているのかよく分からない男だ。
 こんな至近距離にいるというのに全く目覚める気配のないグランに口元に手を当てて笑うと、ベリアルは下へ向けていた顔を上げて部屋を見渡した。
 壁に側面をくっつける形で置かれている机には書類が何枚か整えて置かれ、離れたところには水差しとコップ。木製の椅子は立ち上がったときに引かれ、そのままの位置に置かれている。
 服が入っているであろうクローゼットやその他のこまごまとしたものたち。なにせベッドが巨大すぎてあまり物が置けない。
 部屋全体のアンバランスさにまた笑みを深め、なにを思ったのかベリアルはベッドに腰を下ろすと、長い脚も引き上げた。
 グランの真横に頬杖をつきながら寝転び、幼さの残る寝顔を無防備に晒しながら意識を手放している少年の頬を軽くつついてみる。
「う……ん……」
 なかなかに肌触りのいいもち肌の持ち主はピクリと反応を示すが、覚醒するまでには至らない。
「いいのかい? 起きなくて。睡姦がお好み?」
「むにゃ……」
「クッ、ウフフフッ……! おいおい、マジかよ。眠っているときは大胆なんだな。キミ」
 男の大きな手にすっぽりと包まれる小さな頬。撫でればグランは反応するが、その行動はベリアルも予想していなかったようで笑いをこらえながら小さく言葉をこぼす。
 肩を震わせながら笑う彼の胸の中には──グランの顔があった。腕はしっかりとベリアルの胴体へと回され、右脚も彼の太ももの間に挟まれている。
 起きているときは天地がひっくり返っても絶対にしない行動があまりにもおかしくて、ベリアルを高みへと導く。
「堕天司を抱き枕にするなんて本当にキミってやつは……。オレの胸の感触はどう?」
「や……わ……」
「そうか。キミ好みでよかったよ、特異点」
 眼下にある茶髪を撫でながら問いかけ、満足そうな寝言に頭の頂点にキスを落としてやる。相変わらず起きる気配のない少年はどうしたら起きるのか。
 このまま組み伏せて愛撫してやろうか。覚醒したら一気に襲いかかる快楽の波に訳も分からず、混乱の内に吐精するさまを見るのもまた一興。
 狡知ではなくて色欲を司っているのでは、と思ってしまうほどに乱れている堕天司は脳内で清らかな少年を陵辱するシーンを想像し、熱い息を吐く。
 腰辺りがずん、と重くなって、意識のない男の子の無垢な体へと兆し始めた下半身を擦り付ける。
 こうして押し付けても起きないグランにいよいよ醜い欲をぶつけようとベリアルが動こうとする、と。
「ううん……」
「……オレの胸を枕に今度は騎乗位か。本当に楽しませてくれる。そんなキミへのささやかなお礼として──オレもキミを善くしてあげよう」
 大胆な寝返りでベリアルを押し倒し、その上でうつ伏せで眠り続けるグランにもう暴発寸前だ。
 力の入っていないベリアルの胸は柔らかくグランを受け止め、頬に当たる感触が大層気に入ったようで、彼はだらしなく顔を弛緩させるがベリアルからは見えない。
 たとえば、一般的な感覚をもった恋人同士ならばパートナーの可愛らしい行動に胸が温かくなり、両腕で優しく包み込んでやるだろう。が、グランに対してベリアルはそのような感情は持ち合わせていない。
 寝返りを打ったことでナイトウェアの上着が捲れ、腰が露出している部分に骨張った手が伸びる。いやらしい手付きで撫で、その手はズボンの中、さらには臀部を隠す布の下へ──。
「ふわぁ……」
「……ぁ?」
 ベリアル自身、なにが起きたのかよく分からないといった顔をしている。彼らしくない表情。その理由はグランの行動にあった。
 彼の手がベリアルの身に着けている紫羽根のファーストールに触れた瞬間、ものすごい力でベリアルの体はベッドの上を転がったのだ。
 思考停止の状態で瞬きを繰り返す獣はようやく顔を横へと向ければ、視界に入るのはファーに包まれながら眠る小さな背。
 ベリアルはグランにファーを剥ぎ取られたのだ。
 そして気づいたことがもう一つ。
「この部屋に似合わない、広すぎるベッドの理由が分かったような気がするよ……」
 グランのベッドに侵入して一時間も経たないうちに思い知らされたこと。それは彼の寝相がとてつもなく悪いということ。
 この寝相の悪さならば落ちないようにと大きなベッドになる理由も頷ける。
 試しにファーを引っ張ってみるも、グランは唸ってぎゅぅ、とストールを握りしめるばかりで放そうとしない。さらに体を丸めてファーを深くまとわせる。
 そんなに気に入ったのかと腹を抱えて笑いたいところだが、口に手を当てて体全体を小刻みさせる程度に抑えるとベリアルはベッドから下りた。
 窓側からグランの顔が見える扉側へと移動し、屈み込むと、二つのカーディナルレッドを妖しく輝かせながら覗く。
 お気に入りのタオルケットにくるまって満足する小さな子供のような、幸福そのものの顔を見ているとどうにも淫猥な色をした欲は急激に萎んでしまう。
 すっかりと興の削がれたベリアルは軽く嘆息し、近くにあった椅子をベッドの真横に引き、背もたれを前にして座ると天使の寝顔を見つめるのだった。

 やがて空も白み始め、窓から朝の訪れの光が入り込む。そろそろ時間だとベリアルは立ち上がると、まだまだ起きぬ少年の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫で、耳に唇を寄せた。
「それはキミに預けておく。また逢いに来たときに返してもらうとするよ」
 離れる際にふうっ、と軽く息を吹きかければグランがビクッ! と反応したが、それだけ。
 呆れるくらいに無防備な少年の旅をこの場で終わらせるのは容易いが、あまりにも簡単すぎて萎えてしまう。
 なので遠くはない再会を一方的に約束し、ベリアルは静かに部屋を去るのだった。
 ──数時間後。いい匂いと極上の肌合いに包まれながら今までにない最高の目覚めを迎えたグランが謎の状況に絶叫し、団員たちが飛んでくるのはまた別のお話。

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