巧緻で狡知な人形③

「ジータ、起きてくださいジータ」
「お〜い、起きろよぉ〜」
「ううん……? ルリ、ア? ビィ……?」
「おはようございます、ジータ。今日のジータはお寝坊さんですねっ」
 心地よい眠りの中、誰かに体を揺らされたことでジータは重たい瞼をなんとか持ち上げた。薄い視界からぼんやりとした視界へ。ジータの蒼い双眸に映るのは自分の半身である少女と、家族であるのと同時に相棒の赤い竜。
 ジータはいるはずのない二人の姿に一気に眠気が吹き飛び、上体を起こせば、ルリアたちの表情は驚いたものへと変わる。
「どうしたんだ? オイラたちの顔をじーっと見て……」
「なんで、だって私は別世界にいて、二人とは離ればなれのはず……」
「ジータ、もしかしてまだ寝ぼけてます? 私たちはちゃんとここにいますよ」
「そうだぜ! オイラたちがジータを置いていくわけないだろ?」
「そう……そう、だよね。あはは……私、変な夢見てたみたい……」
 ジータのことを心配する二人は確かにここにいて、ベリアルと二人きり、知らない世界での出来事は夢だった。そう考えると納得がいく。そもそも彼女は次元の狭間。簡単に出てこられる場所ではない。
 あれは悪い夢。夢にしては長く感じたが、夢だからこそだろう。ジータは安堵の息を吐き出すと、ちょっぴり遅めの朝食をとるためにルリアたちと一緒に部屋を出た。
 見慣れた廊下。前を歩く二人と楽しい会話をしながら足を動かしていると、おかしいことにどんどん距離が離れていく。
 どんなに速く歩いてもその距離が縮まることはない。逆にさらに開く始末。遠くなっていく二人の背に言いようのない不安感がジータを蝕み、それは懇願に似た叫びに変わる。
「待って! ねえ待ってってば! ルリアっ! ビィっ!」
 手を伸ばし、必死になって呼びかけるも、ルリアたちは止まらない。まるで最初からジータがいないかのように先に行ってしまう。
「お願い! 置いて行かないでっ! 私をっ、一人にしないでっ……!」
 自然と溢れる涙。苦しくなる呼吸。彼女の心情を表すように背後から闇が迫り、色鮮やかだった世界を漆黒の闇が塗り潰していく。
「いやっ……! こんなの嫌っ……! 行かないで、ルリアっ、ビィっ……!」
 黒に飲み込まれていく世界。ジータの大切な人たちもろとも全てが消え、彼女自身も常闇が覆い尽くす──。
「いやぁぁぁっ! 行かないで! 私を一人にしないでっ!!」
 現実で目を覚ましたジータはルリアたちを求めるように片腕を伸ばし、勢いよく起き上がった。潤んだ目の前に広がるのはグランサイファーの自室ではなく、宿屋の壁。周りを見渡してもそれは変わることなく。
 ジータのいるダブルベッド。その隣には長いまつ毛に縁取られた両目を閉じて眠っているベリアルの姿。
 元の世界では眠ることをせず、ずっと起きていた彼女。だがこの世界は元の世界と似て非なるもの。気配を隠し続ける必要もない。
 仮にもし天司たちがやってきても、話せば分かるはず。駄目でもベリアルを守る力がジータにはある。
 そもそもルリアとの生命のリンクが切れている彼女がこうして生きていられるのは、ベリアルにリンクを繋いでもらっているから。ベリアルの身になにかあったら非常に困るのはジータだ。
 逆にジータの身になにかあっても原初の星晶獣であり、ルシファーの最高傑作であるルシフェルと同等の能力を持つベリアルにはなんら問題はない。ある意味では生殺与奪の権利を握られている状態。
「あ……れは、夢……?」
 ついこの間まではあちらが現実だったのに、今のジータにとっては異世界であるこの世界が……現実だった。
 叩きつけられた事実にジータの意思とは関係なく涙がぽろぽろと零れ、布団を濡らしていく。
 呼吸も苦しく、息を吸っても吸っても楽にならない。このまま死んでしまうのではないか。そう思った矢先、隣で眠っていたベリアルが起き、星の天才に与えられた頭脳が瞬時に状況を理解したのか、彼女はジータを抱き寄せると唇を重ねた。
 普段するような深いものではなく、触れるだけの極めて優しいキス。それだけでジータはほんの少し落ち着きを取り戻すことができ、呼吸も若干楽になった気がした。
「ジータ」
 特異点ではなく、ジータ自身の名前を呼ぶ声もとても優しくて。まるで恋人の名を呼ぶかのよう。
 顔を離したベリアルはそのまま自分の胸にジータを抱きしめた。柔らかな体の感触とベリアルの香り、そしてあやすように背中を叩く手にパニック状態だったジータも徐々に安定し始める。
「落ち着いて。ゆっくり呼吸をして……。大丈夫。ワタシはいなくならない。キミを一人にしない」
 ベリアルの言葉通りの呼吸をするように努めれば苦しさも少しずつ引いていき、やがて静けさが訪れた。涙も止まったが、今は動きたくない気持ちが強い。
 背中を優しく叩いてくれる手が、頭を抱いて深く抱きしめてくれる手が、この場だけの嘘だとしても語りかけてくれるその言葉が、真綿にくるまれているような安寧をジータにもたらす。
「ワタシはキミのそばにいるよ。大丈夫。大丈夫……」
 裏にどんな思惑があれ、今の自分に必要な言葉をかけてくれるベリアルに対してジータの胸がきゅっ、と締まる。
 本当は敵なのに、偽りでもこうして優しくされるとこの状況下では彼女に心さえも委ねてしまいそうになる。
 それをしてしまったら最後。元の世界に戻った後に苦しむのは自分自身だとしても、精神が疲弊した今のジータにとってベリアルは心の支えだった。
「落ち着いた?」
「……うん。ありがとう」
「蓄積されたストレス、緊張感……それらが許容量を超えたようだ。……なあ、明日は依頼を休んでワタシとデートしないか?」
「でも……」
「たまには気分転換も必要さ。それに──キミはなにかから逃げるように毎日まいにち依頼を受け続けていた。キミ自身、人助けをするのが当たり前と思っていたようだが……本当は考えたくなかったんじゃないか? 蒼の少女のこと、赤き竜のこと」
 だいぶ回復したジータだが、ベリアルの胸元にくったりと寄りかかったまま動こうとしない。また、ベリアル自身も気にしていないのか、ジータのしたいようにさせている。
 その会話の中で依頼を休むように言われたジータは反射的に迷いを口にするが、本当は彼女の言うように考えたくなかった。人助けがしたいという気持ちももちろんあるが、理由としては前者の方が大きい。
 元の世界のルリアやビィはどうしているのか。彼女たちだけではない。団の仲間たちだって。考えてもどうしようもないのに、ふとした瞬間に想像してしまう。それが嫌で忙しさで自分を誤魔化していた。
 それは目に見えない心の疲れとして溜まっていくばかり。その結果、器から溢れてしまった。
「キミは人間を辞めてはいるが、精神はまだ人間の範疇。それでも充分強い方だとは思うが……脆い部分もある。あまり思い詰めない方がいい」
「……うん」
「で、明日はどこに行く? キミの要望に沿ってプランを立てようじゃないか」
「全部ベリアルに任せる……」
「そうかい? なら……雰囲気のいいカフェがあるんだ。そこに行こう。あとはキミの下着を買いにも。胸のサイズが上がったから今の下着じゃキツイだろう?」
「……うん」
「……ハァ。相当参ってるな、これは。ほら、もうおやすみ。キミが眠るまでこうしててあげるから」
 ベリアルのセクハラ発言にもジータは抑揚のない言葉しか返せない。それが彼女の疲れ具合を示していた。
 胸に顔を寄せたまま動かないジータを見てベリアルも思うところがあったのか、子供を寝かしつける母親のように背中を一定のリズムで叩く。
 それがたまらなく安心できて、ジータの意識は抗うことなく深く、深く、どこまでも落ちていく。
 同じ黒でも今の彼女を包み込むのは夜色の優しい闇。もう怖くないと、ベリアルの腕の中でジータは顔を和らげた。

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