小さな夏の恋物語─初恋は、夢の中のあなた─ - 6/8

第五章

「リーダー、本当にこの女を餌に不破を呼び出せるんですかねぇ?」
「さあな。だがあの男が恋人にするくらいの女だ。どれほどの上玉かと思ったら中の上、ってトコか。ま、来なかったら来なかったで……なあ?」
「うわ、ひっど〜〜!」
「…………」
 不破の家から帰宅途中だった未来の姿は現在誰も住んでいない家が多い場所の奥まったところにある空き地にあった。不破の家から出るときはオレンジだった空もだいぶ夜の色に染まり、あと数十分もすれば完全に暗くなるだろう。
 数人の明らかに不良な面構えの少年たちに囲まれている未来は今日の自分の運のなさを呪った。不破に襲われかけ、逃げられたと思ったら彼や織部に恨みがある不良グループに捕まり、こうして不破をおびき出す餌にされたのだから。
 か弱い女子ひとりに大勢だからと未来は拘束はされていないが、到底逃げ出せる状況ではなかった。ここで下手に動いたらどんな目に遭わされるか。不破のことを憎んでいる彼らからすれば未来は不破の恋人。それが契約上のことだとは当然知らない。知っていたとしても、利用するだろうが。
 リーダーと呼ばれた男の品定めするような下品な言葉と視線に奥歯を噛み締めながら耐える。きっと彼は来ない。普段でさえも分からないというのに、契約違反した女をわざわざ助けに来るとは思えない。
 ああ、竹刀があればもしかしたら抵抗しつつ逃げられるかもしれないのに。なにか周囲にそれらしい物がないかな。
 不破と織部への恨み言を仲間内で喋っている男たちを尻目に未来は周囲を見渡すも菓子やパンの空パッケージやカップラーメンの残骸などゴミしかない。量の多さからして恒常的に使っていた溜まり場だろうと推測する。
「っと……噂をすればなんとやら、だな」
「不破君……!?」
 絶望の中でもわずかな希望を求めて脱出方法を思索しているとリーダーの男がこちらに向かってくる存在を認識して呟く。そばにいた未来も男の声につられて顔を上げれば、不破がひとりで歩いてくるではないか。
(織部君は、いない……)
 彼らの話からして不破ひとりだけを呼び出した様子。彼も喧嘩が強いといっても敵が跋扈するこの場所にひとりは無謀ではないか? 織部がいたならば安心感が増すのだが、彼よりも華奢な不破だけとなると心配が募る。いいや、そもそもなぜ助けに来てくれたのか。私はあなたを拒絶した女なのに、と未来はただひたすらに不破を見つめることしかできない。
 泣きたくないのに自然と涙が溢れる。静かな怒りを内に秘めているのを纏う雰囲気で感じる不破が怖いのか、それとも契約を破った女だというのに助けに来てくれたことが嬉しいのか未来には分からないでいた。
 いいや、おそらく後者だ。彼が敵の危険な誘いに乗ってまでここに来てくれたことが嬉しい。
「不破……くん……」
「…………」
 彼と目が合うと未来からは一縷の涙が流れる。すると極寒の冬を連想する眼差しは一度閉ざされ、再び開けるとそこには果てしない怒気が込められた瞳があった。
 感情を──特に怒りを表に出すことがほぼない彼。そんな彼の怒りは未来に根源的な恐怖を芽生えさせるほどだが、男たちは不破の登場にエキサイトしているせいで気づいていない様子。
「まさか本当にひとりで来るとは……。人の心がないお前でも彼女が大切だ、って気持ちはあるんだな。これだけでもおもしれぇけど、お前のせいで俺たちのグループの多くがポリ公にパクられちまった。そのお礼参りってわけ」
「俺は二度とこの町に近づくなと言ったはずだが?」
「おいおい、初っ端から煽ってくんなよ。手が滑って彼女ちゃんを殴っちまうかもしれないだろぉ〜?」
(気持ち悪い……!)
 男はそばにいる未来の肩に腕を回すと自分の方へと引き寄せる。不破を挑発するため、未来の顔の位置に並ぶように背を屈ませる男に感じるのは激しい嫌悪。不破に感じたものよりかも強かった。
 鼻につく煙草の匂いは強く、未成年でありながら常日ごろから喫煙しているのが分かる。それに比べると不破はひんやりしたような、清潔な香り。いい匂いに分類されるものだ。
 ベタベタと気安く触れてくる男が本当に気持ち悪い。未来が顔を引きつらせていると、別の男が一歩前に出た。
「お前のせいで……! お前のせいで……ッ!」
「そうそう……コイツが慕ってた兄貴分がパクられてよぉ。俺たちの中で一番お前を恨んでるんだよ。とりあえず一発殴られてくれや」
 不破と違って知性の欠片もない喋り方の男は一歩前に出た少年の背中を押すように言えば、彼はどんどん不破へと距離を縮めていく。
「おっと! 動くなよ? この子がどうなっても知らないぜ?」
「不破君! 私のことはいいから、んぐっ!? んんっっ!!」
「お前は黙って彼氏がやられるところを目に焼き付けてな」
 臨戦態勢に入ろうともしない不破に未来は叫ぶも、男の手の平を口に当てられてくぐもった声にしかならない。暴れようにも腕の動きを封じるように抱きしめられてしまい、どうにもならない。
(不破君、どうして! 私のことなんていいから……! あなたがやられちゃう……!)
 涙で濡れる視界の先には未だ構えぬ不破と射程距離に入った少年の姿が映る。このままだと不破が怪我をしてしまう。自分のせいでそんなことになるなんて嫌だと心が叫ぶと同時に、少年の拳が空を切った。
「ンんんぅぅぅぅーー!! んーーーーっ!!!!」
 殴られた不破は衝撃により後ろへとよろけながら片腕を口元を拭うように当てる。表情は涙や暗さもあって見えないが、彼が自分のせいで殴られてしまったことに未来は酷く打ちのめされる。
 つい先ほど彼に襲われかけたというのに今はそれに対する彼への暗い感情は吹き飛び、今はひたすらに不破の無事を願う。私はどうなってもいいから戦って! と。
「あぁ、ヤッバ! アイツが殴られるところなんて初めて見たわ。そもそも織部が腰巾着のようにくっついてて不破まで辿り着けねぇっていうか。ま、今は彼女ちゃんを助けに本当にひとりで来たみたいだし、織部がいなけりゃ──はうう゛ぅッ!?」
「きゃっ!」
 あの不破が一発とはいえ大人しく殴られたという事実に男たちは湧き、誰も未来を捕らえているリーダー格に忍び寄る影に気づくことはなかった。
 ズドン! という衝撃が男の手を伝って未来にも届くと男は情けない声を上げながら前のめりに倒れ込む。いきなりなにが起こったの!? と混乱する未来ではあるが男の腕から解放されたことに急いで彼から離れると、リーダー格を攻撃した人物が誰なのか分かった。
「やぁ……。呼ばれた気がしたから出てきたよ──っと!」
「ひぐぅっ!!」
 織部だ。彼は男たちの意識が不破に集中しているのを見計らって音もなく背後を取ると、その長い足で金的を喰らわせたのだ。男の急所であるソコを思い切り蹴られては無事では済まない。
 倒れるリーダー格の男の脇腹をサッカーボールのように蹴り飛ばすと男の体は吹っ飛び、地面を転がっていく。まるで漫画のワンシーンのような見事な飛びっぷりに未来も思わず見つめてしまう。あんなに余裕しゃくしゃくだった男がたった二発で行動不能にまで陥るなんて。
「おっ、織部ぇ!? お前どこから、ふごっ!?」
 不良グループも不破よりヤバいと言われる織部の登場に半分パニックになる。今度は不破から織部へと意識が集中すると、不破を攻撃した少年がこれまた情けない声を上げて地面に倒れる。殴ったのは、不破だった。彼は殴った拳を開いたり閉じたりして調子を確かめている様子。
「織部。お前には田尻未来の解放のみを指示したはずだが?」
「いやぁ〜悪い悪い。あんまりにも舐めたことを言ってたからさ。ちょっと分からせてあげたんだよ。……ハイハイ。そう怖い顔しないで。もう大人しくするからさ」
 両の手のひらを上に向け、やれやれと織部は肩をすくませると未来の隣へと歩き出す。しかし誰も彼を止めることはできない。場の雰囲気に完全に飲み込まれてしまった。
 未来のそばにやってくると織部はズボンのポケットに片手を突っ込む。どうやら傍観するようだ。未来は加勢しなくていいの……? と至極当然のことを聞くが、
「大丈夫だよ。それに彼の命令を無視して加勢なんてしてみろ。オレが逆にヤられちまう」
「でっ、でも……!」
「心配するなって。ああ見えてファーさんすごく強いんだぜ? 加えて……フフッ、怒張しちゃってる。あんなファーさん初めて見た。正直妬けるよ」
(不破君……)
 状況を楽しむような織部から顔を渦中の不破へと向ける。男たちの怒号と悲鳴のなか、不破は攻撃を的確にかわしながら殴ったり蹴りを入れたりして一人ひとり確実に倒していく。
 後ろから突進してきた男には流れるように背負い投げをお見舞いし、呻く男の顔面を思い切り踏みつけたりと容赦ない攻撃──圧倒的強者による蹂躙を繰り広げていた。
「たっ……たすけ……! がはっ……!」
 たったひとりの男相手に成す術のない不良たちの誰に届くわけでもない助けを絶望で打ち砕くように、不破はもう必要のない暴力を加え、空き地は血で汚れていく……。

   ***

 少しして。騒ぐ者は全員倒れ、空き地に静けさが訪れた。離れたところで見守るしかなかった未来は血にまみれた不良たちの中心に立つ不破を見て駆け寄る。
 衝動的なものだった。あのまま黙って突っ立っているなんて、できなかった。
「不破君、怪我してる……!」
「掠っただけだ」
「でも血が出てるよ。ちょっと待ってて」
 不破は目立った怪我はしていないが、最初の一撃だけは喰らってしまったので口の端から血が流れていた。掠ったという言葉は本当だろう。ほんのりと赤く腫れてもいた。
 地面に伏す不良たちに比べれば軽すぎるほどに軽いが、自分のせいで怪我をしてしまったという罪の意識から未来は心配するとスカートのポケットからハンカチを取り出し、彼の頬を両手で包むと優しく拭う。
 白いハンカチに移る血の汚れ。どうしてあなたを拒絶した女を庇ったの? という思いは自責の念へと変わり、涙が止まったはずの目の奥が痛くなる。
「お前……そのハンカチ、」
「……え? あ、これね、昔……私がちっちゃい頃これと同じようなデザインのハンカチがどうしても欲しくて。お母さんにねだって買ってもらったの。でも──それは引っ越しちゃう初恋の子にあげちゃって。最近になってまた似たのを買ったんだ。まだあの子が持っててくれたらお揃いだなって。……なに言ってるんだろ、私。ごめんね、不破君」
 目の前にいるのは不破で、彼からすれば初恋の話など面白くないだろう。無意識下で聞かれてもいないことを喋ってしまったことに未来は謝ると、不破は彼女を見つめたままなにかに対して思考を巡らせる。
 感情のこもらぬ青の瞳に未来はなんだか責められているような気がして。血を拭うことに集中するとすぐに血は止まった。
「……不破君。助けに来てくれてありがとう」
「フン……。帰るぞ」
「っ……分かった」
 未来の手が不破から離れると告げられた言葉に分かりやすく体を跳ねさせ、未来は縮こまる。おそらく今から向かうのは自分の家ではなく、不破の家。荷物だって置きっぱなしだが、なにより──彼との契約を破り、拒絶した身。なにをされてもおかしくはないし、未来に抵抗する気はもうなかった。
 これは罰なのだと。拒絶をした女をわざわざ助けに来てくれて、ほぼ無傷といえど怪我をさせてしまった。不破に対する罪滅ぼしになるなら彼の求めるがままに。
「話は終わったかい? ところでファーさん。コイツらどうする? せっかくキミが慈悲を与えたっていうのにまたこの町に来て、しかも未来ちゃんをさらうなんていう卑劣な行為もした。山にでも埋めとくかい?」
「放っておけ。今は有象無象どもの処遇よりかも確認したいことがある」
「りょーかい。さて。帰ろうか」
「あの……織部君」
「うん? なんだい?」
「助けてくれてありがとう」
「ま、あのファーさんが体を張ったんだ。オレが出ないわけにはいかないし、殴られるフリをしていたとは分かっていたけど、正直彼が殴られたとき頭に血が昇ってキミのことをすっかり忘れて体が動いていたよ」
「織部君らしいね。でも、ありがとう」
「どういたしまして。まぁ今はキミ自身のことを考えるといい。彼との契約を反故にしたんだから」
「……そうだね」
 織部の言葉に未来は力のない顔で肯定の言葉を紡ぐと、前を歩く不破に大人しくついていく。普段の彼女の反抗心を知っている織部からすれば今の彼女は違和感の塊。居心地悪そうに頬を人差し指で掻くと、それきり黙ってしまい、未来をふたりで挟む形で不破の家へと向かっていく。
 道中での会話は一切なく、かといって自分から話す雰囲気でもなかった。必要のないときに口の達者な織部も今このときは無言。沈黙に気まずさを感じながら無心で足を動かし続ければ、ようやく不破の家に着いた。
 和風の大きな平屋。自分の家よりかも大きな建物に入り、連れて行かれた先は不破の部屋。襲われかけたベッドは乱れたままだ。
「さ〜てと。ファーさん。未来ちゃんにどんなお仕置きを? キミを拒絶したんだ。その身に誰の女か思い知らせる? 必要ならオレの持ってるオモチャをいくらでも貸してあげるよ」
「お前の脳味噌には色事しかないのか。それはひとまず保留だ。……田尻未来。お前の持っているハンカチと似たものを俺も持っている」
「えっ……!?」
 沈むばかりだった未来に衝撃が走る。曇った表情は消し飛び、こちらを見つめる不破に目を丸くして視線を返す。平時であればサラリと流された“ひとまず保留”の言葉に感想を抱くものだが、不破が発した後半の言葉に全て持っていかれた。
「幼少の頃、誰かに貰った記憶がある。思い出したのは最近だがな。……三年になってからだ。妙な夢を見ることが多くなったのは。夢の中で幼少の俺と同じ年頃の女が俺のことをあだ名で呼び、俺はそいつがそばにいることを許していた。織部がハンカチを見つけて以来、その夢は俺の記憶を補完するように新たな場面を見せるようになった。……林檎の刺繍が施された白いハンカチは、女に引っ越すことを告げた際に渡されたものだ」
「あっ……!? それは……! そんな……」
 未来の夢の中でも同じシーンがあった。何度も見る場面なので鮮明に覚えている。いくらなんでも偶然とは言えない一致に心臓が激しく脈打って、薄っすらと汗もかいてきた。
 不破は未来の動揺に日本人離れしたアイスブルーの瞳を伏せがちにデスクの引き出しを開けると、中からとある物を取り出した。
「顔も名前も記憶から欠落している。だが何度も夢に現れる女。……まさかお前だったとはな」
 未来の持っているハンカチと似た、りんごの刺繍がワンポイントとして入っている白いハンカチ。適切な保存状態にはなく、経年劣化のためにやや色はくすんでいるが、幼い未来が渡した大切なハンカチは夢の中のものと同一。
「うそ……でも、そのハンカチは確かに私があの子──だいちゃんにあげた物……」
「なぁるほど。大黒だからだいちゃんね。今度からオレもだいちゃんって呼んでもいいかい? ねぇ? だいちゃん」
「どうやら去勢されたいようだな。織部」
「もぉ〜! 怒らないでくれよファーさん! キミにオンナにされるのもやぶさかじゃないケド」
 呆然とする未来を放って背後にいる織部は不破とのコミュニケーションを楽しんでいる。
 織部とやり取りをしている不破を見つめる未来の瞳は揺れていた。夢の一致にハンカチ。疑う余地はない。しかし本当に自分の初恋の──あの“だいちゃん”なの? と思ってしまう。それもそうだ。夢の中の彼女と不破は似てる部分はあれど、違いすぎる。
「その顔。信じていない顔だな。……これで確信が持てるか?」
 未来の表情から考えていることを読み取った不破は開いたままの引き出しから今度は一枚の写真を取り出すと、未来に渡した。
「この写真……! だいちゃん……!」
 写真に映る子どもは未来が通っていた幼稚園の制服を着ており、不機嫌そうにこちらを見つめている。なにが気に入らないのか眉を潜めているがそれでも彼女は可愛らしい。
 そんな未来の初恋の人が、写真の中にはいた。
「でっ、でも……白くてふわふわしてて、可愛かっただいちゃんが……。そもそも、男の子だったの!?」
 そうだ。彼女は女の子だったはず。目の前の不破と性別が違う。もしや当時から自分が勘違いしていただけ?
 目を白黒させる未来に不破はため息混じりに、
「いいや。女だ」
「…………はい?」
 未来の時が止まる。いま、不破はなんと言った?
「俺は女だと言った」
「…………ちょ……ちょっと待ってよ。正直、混乱してる。冗談はやめてよ不破君。あなた、どう見ても男の子だよ? もしかして心が女の子ってこと?」
 不破の唐突のカミングアウトに未来の頭は真っ白になる。見た目はどこからどう見ても男。さすがに織部と比べるとやや華奢ではあるが、女と考えれば身長が高く、喧嘩に明け暮れるせいか未来よりかも体格はいい。声も女にしては低めだ。
 もしや心の方が女の子なのでは? そう考えればまだ納得がいく。しかし不破は未来がどうしても信じないことに不服そうに眉を寄せ、
「違う。俺は心身ともに女だ。男として振る舞っている方が利点が多いというだけだ」
「は……、待って、え? 不破君本当に女の子なの? 女の子なのにあんなに喧嘩強いの意味分からない……」
 何度も女だと告げる不破になるほどそういう理由ならば、と妙に納得してしまうが、女の身でありながら不良たちを殴ったり蹴ったりして蹴散らしていたシーンを思い出して自然と声が小さくなる。
「いつまで疑うつもりだ。……ほら、これで分かったか?」
 渋々納得したような、それでも確信まで至らぬ面持ちの未来にいい加減に痺れを切らした不破は未来の片手を取ると自らの胸部に触れさせた。
 だが女性特有の柔らかさは感じられず、正直硬い。
 不破は掴んだままの未来の手を押し付けるように動かしたりして胸の存在をアピールし、己の性別を未来に受け入れさせようとしているがこの行動でも未来の認識を完全に改めさせるには至らなかった。
「…………? 胸、ないよ……?」
「おいおい、ファーさんがここまでしてるってのに酷いこと言うねぇキミも。ファーさん。気にすることないぜ。オレはキミの絶壁でも、ッ゛……!?」
(うわぁ……痛そう……)
 ベラベラと余計なことを喋る織部を不破は口で黙らせる前に行動に出ていた。素早く射程距離まで詰めると長い片足を振り上げ、つま先が織部の大事なところにクリーンヒット。
 さすがの彼も急所を、しかもつま先で蹴られてはたまったものではない。濁点混じりに呻くと両手で股間を覆ってその場にくずおれた。
 想像を絶する痛みに織部は額を畳に擦り付け、声を詰まらせながら震えている。未来は男ではないので彼の痛みの凄絶さを想像はできないが、とても痛いということは理解できた。引き気味に織部を見下ろしていると、彼へと向いていた未来の意識を不破がとあることをして自分へと向けさせた。
「って、わぁぁ!? なにしてるの不破君!?」
「これで俺が女だと分かったか?」
 織部を黙らせるために移動した不破は現在未来の隣に立っており、彼──彼女は未来の手を再び取ると今度は自らの下腹部へと触れさせた。
 うずくまる男に向いていた意識は不破へと戻り、未来は自分の手が触れている場所を見てまたたく間に頬を紅潮させて悲鳴を上げながら驚愕の声を上げるも、不破は涼し気な顔でなだらかな丘が広がっていることを分からせるように何度も未来の手のひらを足の間に押し付ける。
「っ……確かに、変な膨らみはない……」
 男ならばあるハズのものがない。つまり不破は本当に女の子で、性別を偽っていたということがようやく未来の中で確定した。ここまでされればもう疑う余地はない。
 未来は分かったからと告げるように不破に触れていた手を離せば、不破もすんなりと解放してくれた。未来はそのまま不破の頭からつま先を見つめる目線を何度も往復させる。
 過去の不破のイメージ──可愛いくて、雪のようにふんわりした美しい髪に顔、守ってあげたくなる小さな体に比べて現在は身長がとても高くて格好良くて、さらさらとした白銀の髪の毛は冷たい冬を連想させる。
 透き通るような青い目は射抜かれたものを凍らせる突き刺すような鋭さを秘めており、男を難なく倒してしまう力を有している真逆の存在。
 けれど、幼少期の初恋を現在に至るまで引きずるほどに恋い焦がれた人が目の前にいる。
「本当に、だいちゃんなんだね……」
 じわりじわりと染み込む事実。夢の中のあの子と不破の共通点を考えたことはあった。それが本当になるとは思いもしなかったが。
 不破大黒。女の子なのに男の子のような名前。夢の中でずっと靄がかかったように見えなかった少女の顔も鮮明に思い出し、記憶という名のパズルのピース、最後のひと欠片がカチリと嵌ったような気がした。
 ──あぁ、ようやく思い出せた。初恋の人。もう永遠に会えないと思っていた人。それがまさか、不破君だったなんて。
 主犯は織部ながらも彼女が蒼人に声をかけなければ彼が苦しむことはなかった。大事な友人を傷つけた存在という苦悩と、初めて恋をした相手が自分の手の届く範囲にいるという歓喜に未来は苛まれる。
「なぜ泣く。……そんなに俺が嫌か」
「違うよ……。ずっと、夢に見る度に泣くほど焦がれた人が不破君で、でもあなたは蒼人を苦しめた人でもあって……嬉しいのに、どうして……、こんな……大切な人たちを裏切ることになる……」
 後ろめたい気持ちと喜ぶ気持ちは一筋の涙となって頬を流れ、雫となって落ちていく。当時はともかく、結果として好きになってはいけない人を好きになってしまった。好きという感情を貫けば、それは同時に蒼人たちへの裏切りに思えて。
 いつもの不破ならば他者の感情に振り回されて己の本当の気持ちを偽ろうとする未来に辛辣な言葉を投げるところだが、さすがの彼女も今回ばかりは思うところがあったのか口を閉ざし、代わりに未来を自らの胸に抱き寄せた。
 不破の低めの体温、冬のような清潔な香りと心地よい心臓の音が未来を迎え、未来の両腕はためらいがちながらも不破の背を抱きしめる。
 なにも言わずにいてくれる。その小さな優しさが余計に嬉しくて、未来は不破のシャツを濡らしていく。
「…………」
 抱き締めあったまま動かないふたりを見上げる不埒な視線を感じ取った不破が、うずくまったままの体勢で顔だけ上げて見つめている織部を睨み付ければ彼は「ハイハイ」と双眸を伏せ、気配を消しながらそのまま部屋からも退出した。不破の胸に顔をうずめている未来がそれに気づくことはない。
 ふたりきりの部屋に広がるのは未来の静かに泣く声だけ──。