プロローグ
たまに夢を見る。遠い過去の色褪せたワンシーン。
幼稚園に通っていた私は短い期間ではあるけど、白くてふわふわとした女の子と遊んでいた。曖昧な表現なのは仕方がない。夢の中の彼女の顔はぼんやりとしたイメージでしか現れないから分からないの。
遊ぶっていっても彼女は室内で本を読んでいることが多くて私はその横でひとり喋っているだけ。彼女は聞いていないような様子だけど本当は聞いていて、たまに返事をしてくれる。
彼女との始まりはなんだったか。小さな出来事──そう、あれは彼女が廊下で男の子に名前のことでからかわれていたとき。彼女は男の子に対して冷ややかな目を向けているだけで平気そうに、今思えば無関心な様子をしていたけど、私はその男の子を怒って追い払って。
「だいじょうぶ?」
「なぜ助けた。私には必要ない」
「だってー、あのこ。ひどいことをいってたでしょう? おんなのくせにおとこみたいななまえだー! って」
「……ああ」
「そういえばあなたのおなまえは? わたしはみくっていうの! たじりみく!」
「……────だ」
「わぁ〜! かっこいいね! ねえねえ、だいちゃんってよんでもいい?」
「……ふん。好きにしろ」
“だいちゃん”。それが私が覚えている彼女の名前。フルネームは悲しいことに記憶の波に飲まれて押し流されてしまった。あだ名で呼んでばかりだったからかな。
彼女を助けてからは私は彼女の姿を見かけてはすぐにそばに寄っていた。いつも彼女が独りだったからかな。……ううん。違う。私は彼女に惹かれていた。
俗に言う一目惚れ。幼稚園児にそんなこと分かるわけないから、あのときは友達だからと思っていたけどね。彼女への恋の感情が分かる今だって正直驚いている。女の子が好きだったんだ、って。
でもそう思ってしまうくらいに綺麗な子だったのを感覚的に覚えている。もしかしたらあの男の子も私と同じ気持ちからちょっかいを出したのかも。そんなことをしても嫌われるだけとは、幼いゆえに気づけなかった。
そんなあの子との別れは突然だった。ある日、今日もあの子と会えると思って登園して少しして。黒くて高そうな車から親と降りてきただいちゃんは先生経由で私を呼び出すと、今日引っ越すのだと静かに告げた。
引っ越すという言葉がピンとこなかった私は首を傾げるばかりで、そんな私に向かって彼女は小さな子どもでも分かるように「遠い場所に行くことになった」と言い直してくれた。
小さな私もさすがに“遠い場所”という言葉は分かった。もう会えないの……? と、涙を浮かべる私を見て彼女は少し困ったように「さあな」と告げる。
小さいながらもここで泣き喚いてもどうにもならないということが分かった私はごしごしと乱暴に涙を拭うとポケットの中から一枚のハンカチを取り出して、彼女に渡したっけ。
「これ、あげる! わたしだとおもって!」
お店でお母さんにせがんで買ってもらった、りんごの刺繍がワンポイントとして端に入っているお気に入りの白いハンカチ。とても大事なものだからこそ、彼女に持っていてほしかった。まるで私のことを忘れないでと言うように。
あの子は数秒ハンカチを見つめると、受け取ってくれた。と、同時に親が先生と話が終わったようで彼女は車に乗ってしまった。
窓越しにこちらを見つめる彼女。発進する車。私はたとえ彼女から見えなくなっても、先生に優しく止められるまで車が消えた方向に手を振り続けた。
ここで、いつも夢は終わる。
「…………また、あの夢」
ぱちり、と目を覚ますと私の目元は濡れていた。決まっていつもそう。“だいちゃん”の夢から覚めると私は涙を流している。
こんなに……夢で泣くほどあなたへの初恋を拗らせているのに。
あぁ、どうして。何年も経った今でも夢を見るほどに大切な人なのに。
私はあなたの名前も、顔も思い出せないでいる──。