第四章
(また、この夢か)
今の学年に上がってから見るようになった夢は、幼少の頃の忘れていた記憶を見せる。まるで思い出せというように何度も、何度も。通常幼い頃の記憶は忘却するものだ。覚えていたとしても霧に覆われたように朧げ。
俺には不要だったからこそ、今の今まで忘れていた。だというのに、これはなんだ。俺の意識が届かぬ深層心理が影響しているのか?
夢の中で俺は幼稚園児時代の自分を通して目の前の幼児とのやり取りを強制的に見ることになる。思えば、全ての夢に共通する事項がある。それは、
「ねぇねぇ、どうしてだいちゃんはわたしいがいにおともだち、いないの?」
「友達だと? そんなものは必要ない。現にここの奴らは私にとって不要なものばかりだ。……不用品をそばに置いておく趣味はない」
相手がこの幼児ということだ。どの夢でも俺はこいつとなにかしら話をしている。が……顔は不明瞭。性別は声からして女だと判別できるが、本来顔のパーツがある部分は輪郭以外文字通り霞がかって見ることはできない。
だいちゃんなどと巫山戯たあだ名で呼ぶこの女の名前さえも俺は──思い出せない。夢の中で互いに名乗るシーンもあるが女の名前は酷いノイズが走って聞き取れない始末。
「ふよーひん?」
「……私にはいなくてもいい奴らだ」
「じゃあだいちゃんにとって、わたしはいてもいいひとってことだね!」
「今は、な。お前には利用価値があると判断した。そもそも……寄るなと言ってもお前の方から寄ってくるだろう。毎日まいにち懲りずに。……私といてなにが楽しい? お前の興味を惹くことはなにもしていないはずだ」
「たのしいよ! だいちゃん、むずかしいこといっぱいしってるし……ほんをよんでてもわたしのおはなしちゃんときいてくれてるし!」
当時の俺は今よりも陽の光に弱く、登園しても毎日屋内で読書をする日々を送っていた。教師の奴らも事情を知っているので無理やり外に出すことはなかったが、屋内で他の奴らと協調性を持つように仕向けることは多々あった。
塵芥どもと関わる時間があったら少しでも知識を得たいと俺は拒否をし続け、今日も屋内に設置されている机に着いて読書をしていると例の幼児が隣に座り、ベラベラと──まるで織部のように取り留めのない話を口にし、まともに反応してやらんというのにその声には喜悦に満ちていた。
俺も本気で排除しない辺り、煩いと感じながらもコイツと過ごす時間に価値を見出していたのだろう。
現に、今の俺もこの幼児へ興味が尽きない。どこの誰なのかも分からぬ女。今この町にいるのかさえも不明だ。
お前はいったい誰だ。その顔は? 名前は?
なぜ俺はお前のことをなにも思い出せないというのに、こんなにも記憶にこびり付いて離れない?
──不愉快だ。
***
「お、ナイスタイミングだ。オハヨウ、ファーさん。少しうなされていたようだけど、嫌な夢でも見た?」
「……例の夢を見た。それよりも織部。お前に探させたものは見つかったか?」
「繰り返し見る幼稚園時代の夢、ねぇ……。荷物置き場になってる部屋を探したらあったけどさ。はい、コレ」
ここは不破の部屋。和と洋を併せた室内は広々としており、襖で仕切られている寝室に置かれているサイズの大きいベッドの上で夢から覚めた不破の傍らには、織部が立っていた。
昼寝中にうなされていたと心配する彼に不破は淡々とした口調で返し、織部から古いアルバムを受け取る。ハードカバータイプの大きな本の中身は幼い不破の写真が収められているがどれも機嫌が悪そうな顔をしており、笑顔なんてひとつもない。
それらを興味なさげにパラパラとめくり、とあるページで手が止まる。そこには幼稚園の制服をきた不破が景色と一緒に撮られていた。
「今も魅力的だけど小さい頃のファーさんは本当にカワイイよねぇ。思わず魅入っちまったよ。ああ、それと幼稚園に関連する写真はそれだけだったぜ? どんだけ写真嫌いなんだか」
今の織部の話に必要な情報はほぼないので聞き流すと、不破はベッドから下りて襖で区切られた向こう側の部屋へ。デスクの引き出しからハサミを取り出すと制服姿の写真を切り取った。懐かしむこともなく、必要な情報のみを取り出すために手段を選ばない辺り彼らしい。
「それとさ。アルバムの近くでこんなモノを見つけたんだ。ファーさんはハンカチを持たない──しかもこういうタイプは嫌いそうだから他の家族のものかねぇ?」
歩いてきた織部から渡されたのは劣化し始めているハンカチ。元は白かったのか面影はあるが、全体的に汚れていた。隅には林檎の刺繍が施されており、年頃の女が選びそうなデザインをしているがあいにく不破が持つようなタイプではない。
しかしこのハンカチを見ているとどこか懐かしい気持ちになるのも事実。なにかを忘れている。この布に関する重要な情報を。
廃棄しとくかい? とハンカチを処分するか否かを問う織部を無視して彼から白い布を奪うと、不破はデスクの引き出しに写真と一緒にしまった。
これらがどのように自分に作用するかは現時点では判断できないが、早急に廃棄する必要もない。しばらく保存し、様子を見ることも必要だ。
──数日後。ハンカチが不破の引っ越しの際、例の幼児とのお別れのときに贈られたものだと夢で知った。
いつまでも手を振っている正体不明の幼児を車内から見て、形容し難い感情が不破の胸に渦巻く。認めたくはないがあの子どもとの別れは若干の喪失感を与え、再びこの手にという欲も生まれる。
「──……お前はいったい、誰なんだ」
明け方に目覚めた不破は目元を片手で覆い、独りごちる。
幼い頃の夢を見るようになったのは数ヶ月前から。ならばこの間に過去の記憶に起因するなにかがあったはず。
「……田尻、未来……」
彼女と一緒のクラスになったのは三年になって初めて。
織部に女避けとして田尻未来を提案された。彼女自身、蒼人の件で自分のことを嫌っているのと、面倒なことをせずとも蒼人との契約をちらつかせればすぐに御せると判断したから織部の案を受け入れた。
ただの女避けなのだから彼女自身に触れる必要すらないのに込み上げる衝動のまま彼女の初めてを奪い、今ではさらに深い仲になっており、それを良しとしている。
ただの女避けの、はずなのに。他の男と話している彼女を見て時折苛立つことがあるのも事実。
不破は思索を巡らせた果てに織部に持つようにと渡されていた携帯電話を操作して電話で織部を叩き起こすと、田尻未来の幼稚園時代を調べろと告げるとなにやら言っている織部を無視して電話を切る。この程度の情報ならばすぐに報告が上がってくるだろう。
小学生のときから今に至るまでそばに置き続けているのは、そういう意味だ。
***
織部の報告は不破の想像どおり次の日に上がってきた。
今日は気分じゃないからと学校をサボって自宅で過ごしていた不破のもとに彼がやってきたのはちょうど放課後の時間。
居間として使っている部屋。壁に寄りかかりながら読書をしている不破の隣に織部は腰を下ろすと得た情報を話し出す。
不破の予想は的中。やはり未来は同じ幼稚園に通っていたらしい。もしや、という可能性が不破の中で大きくなる。
あと少しで、確信に至ることができる。
「ついでに蒼人も彼女と同じ幼稚園だ。まさかファーさんとあの子たちにそんな繋がりがあったなんてねぇ」
「……田尻未来と早急に問答せねばならん。行くぞ、織部」
「ファーさん。彼女がどこにいるか分からないだろう? 確か部活がない日だから……学校を出ている可能性もある。毎日ここに来る話になっていても、寄り道するかもしれない。オトモダチに聞いてみるから少し時間をくれ」
未来のもとに行くため腰を浮かせた不破だが、織部がそれを止めると自身の携帯電話で誰かに電話をかけて未来に関することを少々問えば、相手からは必要な情報が得られたらしい。
不破は特に指示していないが織部が独断で未来の周囲にいる一部と“仲良く”なり、彼女に関する情報をいつでも得られるようにしていた。全ては不破のためだ。
最後にアリガトウと電話を切ると、織部は簡素に報告する。
「未来ちゃん、蒼人と駄菓子屋に行ったってさ。ファーさんも存在自体は知ってるだろ? 可愛らしいマダムが店主の」
「菊田蒼人、と……」
「さてと。間男から彼女を取り戻すためにも行きますか。ファーさん」
分かりやすく不機嫌になった不破に嫉妬という感情があることを知り、織部は思いのほか人間らしい一面を見せた不破を愛おしそうに見つめると先に立ち上がった彼に倣って腰を上げると外へ。
向かうは駄菓子屋。果たして三角関係の修羅場に突入するのかと織部は内心楽しみながら不破とともに駄菓子屋と向かう──。
***
「未来。今日って予定空いてる? 話したいことがあるんだけど……」
「どうしたの? そんな改まっちゃって。今日は部活も塾もないしいいよ。それじゃ、おばあちゃんのところに行こっか!」
不破と織部が家を出るだいぶ前のこと。学校が終わり、帰り支度をする生徒たちに混ざって未来も今日は部活がないのと、珍しく不破や織部が学校に来ていないということで平和だと思ったところに声をかけてきたのは蒼人だった。
最近は不破の機嫌を損ねぬよう、まともに彼と話せなかった未来は妙にかしこまった様子の蒼人に苦笑しながらもせんべい婆のところで話そうと幼馴染と一緒に教室を出る。
不破の彼女だというのに他の男と親しげに話しながら歩く未来の姿に一部のファンは鋭い視線を向け、陰口を叩くが今の未来は久しぶりに蒼人とゆっくり話せるということで全く気にならなかった。
本格的な夏が近いということで日中は暑さを感じるこの頃だが、夕焼けどきになると涼しい風がそよぎ、気持ちがいい。未来は駄菓子屋に向かう道すがらも蒼人と談笑し、誘った当初はどこかためらいがちだった彼の顔も自然と柔らかな笑顔が浮かび、楽しげだ。
「おばあちゃん、こんにちはー!」
「あらあら。未来ちゃんに蒼人ちゃん。いらっしゃい。今日は暑かったわね、アイスなんていかがかしら?」
「じゃあそうしようかな。確かに今日暑かったし。蒼人はどうする?」
「僕もアイスにするよ。……これとかどうかな? 二本入ってるから分けて食べれるし」
「味もソーダだから暑い日にぴったりだね! じゃあ半分出せばいいかな?」
「いいよ、これくらい奢るよ。未来は先にベンチで待ってて」
「ありがとう、蒼人」
大切な友人の心遣いに未来のすり減りつつあった心が癒やされていくのを感じる。絶対に耐えてみせる! とは誓っているが、それでも周囲の陰口や視線はやっぱりつらくて。でも弱音を吐くわけにはいかなくて。
こうしてそばで心置きなく話せる存在のありがたみを改めて未来は思うと、外のベンチに向かう。周りの道には誰もおらず、深呼吸をするとそばに設置されているベンチに腰を下ろす。するとすぐに蒼人がやって来て、未来の隣に座った。
契約があるとはいえ、未来は不破の女。だが蒼人と未来の間にある空間は以前となんら変わらない。
アイスのパッケージを開け、中身の棒アイスを割った蒼人から片方貰うと未来はひとくち。ほどよい甘さと爽快感が口の中いっぱいに広がり体が内側から冷えていき、彼女の口元がほころぶ。
「……あのさ、未来」
同じくアイスをひとかじりした蒼人は口の中が空になったタイミングで切り出した。
「その……不破の彼女になって、色々大丈夫かな……って。僕が言うのもおかしな話だけど」
「蒼人……」
俯く蒼人の横顔は苦しげだ。
膝に置かれた片手が強く握りしめられるのを見て、未来も胸が痛む。蒼人は最初、自分が我慢すれば周りの人間に被害が及ぶことはないと考えてひたすらに耐えていた。
しかし、そんなときに未来が不破から提示されたとはいえ条件を受け入れ、守ろうとした人に逆に守られている現状に酷く憤ってはいるが、なにもできないでいる自分に苛立ちを感じているのだろう。
蒼人が苦しんでいるとき、彼が耐えているのだからと下手に動かない方がいいと同じようになにもできないでいた気持ちが痛いほどに理解できる未来は、代わりに蒼人を許すというように空いている手でそっと……握られた拳をほどいた。
「私は大丈夫だよ。確かに……不破君の彼女になって他の人たちに負の感情を向けられることになって、つらいときもある。でも意外と彼自身はなにもしてこないというか。もっと酷いことを想像したりもしたけど、全然そんなことなくて」
本当は無理やりファーストキスを奪われ、その後も拒否権がないからと大人のキスをされることが多々あるが、そこまでに留まっているのだ。これが織部ならば早々に体を……なんてことになっているだろうが、未だに不破からは先の行為を匂わせる行動はない。
キスはしている。そんなこと恥ずかしくて言えないので未来はあえて伏せると、明るい表情を浮かべ、空を見上げつつ続ける。
「不破君、格好いいからファンの子たちがうるさくて嫌だから……女避けのために私に契約を持ちかけたみたいなの」
女避けの件は本当だ。彼が言っていたし、未来をそばに置くようになってからは纏わりついていた女子たちは近寄らなくなった。黄色い声を上げているといっても不破の選んだ女を差し置いて行動して、もし不破の怒りに触れたら……とでも思っているのだろう。
「その見返りの一部──なのかは分からないけど、最近だと勉強を教えてもらったりしてて。ほら、この間の期末テストの順位覚えてる? 上位に入っててびっくりしちゃった。塾の先生よりも不破君の教え方が上手でさ」
あれはいつの日のことか。不破の自宅に強制的に連れてこられ、かといって居間で読書をする彼に放置されてやることがないからと勉強をし始めたのは。
それからは不破の家に行く度に居間で勉強をし、気まぐれなのか勉強を教えてくれるようになった。彼の教え方は辛辣な言葉があるも非常に分かりやすく、正直塾よりかも不破のおかげでテストの順位がいきなり大幅アップ。
勉強を教えてもらう報酬として舌を絡めるキスを彼が満足するまでされる身ではあるが、今ではすっかり慣れてしまった。慣れって怖い。こちらも蒼人に言う必要がない事項なので未来は己の心にそっと仕舞う。
「だから、心配しないで。むしろ蒼人の方が怪我をしたりとか酷い目に遭っていたのに私は全然そういうこともないし! 契約者が織部君じゃなくて不破君だからかな」
「確かに不破は織部よりマシだとは思うけど……。織部以上になにを考えているか分からないし、未来は女の子なんだ。だからもし、不破に酷いことをされたらすぐに言ってほしい。……僕は、もう逃げない。アイツらと戦うよ」
「蒼人……! ……ありがと」
幼馴染の決意に満ちた力強い言葉に心打たれ、未来は泣きそうになったが、涙は堪える。卒業まで一年もないのだ。高校だって不破と自分のレベルを考えれば一緒のところに行くこともないはず。
あと少しすれば、全てが元通り。それぞれの道へと別れることになってしまうかもしれないけど、平和に過ごせる。
「あっ、溶けかかってるよ! 早く食べないと!」
「そういう未来だって!」
ふと、目に入った蒼人のアイスが溶け始めていることに慌てて指摘すれば急いで食べ始める彼からも未来のアイスも、と返される。
特別なことはなにもない。幼い頃からの友人とのささやかなやり取りも今の未来にはかけがえのないものになって。
泣かないようにしていた涙がほんの少し滲んでしまって。未来は誤魔化すように目を閉じて笑いながら自分のアイスを食べ始めた。
***
「あーぁ。あの子、自分が誰の女か分かってるのかねぇ? あんなにイチャついてさぁ。ファーさんには見せない可愛い笑顔まで見せちゃって。一度蒼人をシメとくかい? ファーさんの女に金輪際近づくなって」
蒼人と未来が楽しげに話しているのを遠くから見つめる男たちがいた。不破と織部。未来たちを見つけた彼らはあちらからは気づきにくい場所にいるからとずっと観察していたのだ。
契約だけの関係とはいえ未来は不破の女。それなのに他の男と……、と未来本人ではなく、より彼女に深いダメージを与えることができる蒼人をターゲットに織部は隣に立つ不破に契約違反を承知で提案するが、彼の答えは全く違うものだった。
「…………。織部、数刻のあいだ俺の家に来るな」
「お……! ついにファーさんもその気になったか! あとで具合を教えてくれよ?」
「寝言は寝て死ね」
「それじゃあまたあとで。楽しんでおいで、ファーさん」
その言葉の意味を瞬時に理解した織部はあのファーさんが! と沸き立つ。不破は表情を変えずに切り捨てるが、織部は興奮を抑えつつ足早に去っていった。少しでも早くファーさんの口から感想を聞くのが楽しみだ! と、小さな子どものように。
──それから少しして。そろそろ不破の家に行かなければならないと、帰ろうかと切り上げた未来。途中まで一緒の帰路なのでそこでも会話に花を咲かせ、蒼人と別れてひとりになった後も未来の心は満たされていた。こんなにも楽しいと感じたのは久しぶりかもしれない。
「おい」
「っ、不破君……!? なんで、」
鼻歌交じりの上機嫌で不破宅へと向かっていた未来に不機嫌な声が聞こえた。今の幸せな気持ちを瞬く間に損なう言葉には心なしか怒気が感じられ、未来はいつの間にか背後にいた不破に思わず後ずさってしまう。
「来い」
「いたっ……! 痛いよ不破君!」
不破は理由も言わずにいきなり未来の手首を強い力で掴むと、無理やり引っ張って行く。今までも同じようなことはあったが、今回は掴む力が未来が痛みを感じるほどだ。これだけでイレギュラーなことだと未来は青ざめる。
未来の意思を無視してどんどん進む不破に彼女はついて行くしかない。踏ん張って止まるとも思えないし、逆に彼をもっと怒らせてしまうかもしれない。
あぁ、楽しかった時間が黒く塗り潰されていく。未来は今日は最悪な日だと口の中で呟くと、俯きながら大人しく不破の自宅へと連行されるのだった。
***
「あ、の……不破君? 怖いよ……」
無理やり不破の部屋へと連れて行かれた未来は数歩先で自分に背を向けている少年に言いようのない恐怖を感じていた。
ずっと握り締められていた手首はその跡が赤く浮かび上がり、痛々しい。
常に冷静沈着な彼から怒りの雰囲気が漂い、それが自分に向けられているものだと分かるが、彼が怒っている理由に心当たりがない。あるとすれば学校帰りに蒼人とおばあちゃんのところでアイスを食べながら談笑していたくらいか。まさか、そんな理由で……? と、未来は思うが、彼自身に聞かなければ分からない。
「きゃっ!? いっ、たた……!」
ようやく振り向いたかと思ったら不破は無表情のまま未来の手首を再び乱暴に掴み、そのままベッドへと放り投げるように突き飛ばす。
いきなりのことで鞄は畳の上に落ち、投げられた勢いのまま仰向けに倒れる未来を柔らかなマットレスが受け止めるものの、スプリングが大きな音を立て、衝撃の大きさを物語る。
痛みに呻く未来を他所に不破は彼女へと覆い被さった。逃げられないようにまたがり、さらには両手首を頭上でクロスさせると未来よりも少し大きな手で封じる。今まで性的な接触はディープキスくらいで、性知識に疎い未来もさすがにこのままだとマズい! と焦り、手足をデタラメに動かして暴れるも不破はビクともしない。
いつもは冷えている青い瞳が今は欲望の炎が奥に揺らめき、未来はひゅ……、と息を呑む。もしかしたらこんな日が来るかもしれないとは考えたこともある。織部と比べると性的な雰囲気はないに等しい不破だって男の子。なにかが切っ掛けでそういう気分になってしまうこともあるかもしれない。
しかし今の今まで舌を絡ませるキスはしても体を暴こうという雰囲気は感じられなかったために衝撃が大きかった。
未来と不破には契約がある。なので未来は受け入れることしか許されない。だが、どうしてもチラつくのは初恋の相手。自分でも馬鹿だとは思うが初めては彼女がいいと夢見る乙女丸出しの感情で胸がいっぱいになる。
それは不破への拒絶の感情へと繋がる。
「や……っ……! やめてよ不破君! こんなの……ッ!」
「契約を忘れたわけではあるまい。それとも、織部ではないからとこうなる可能性は想定外だったか? それは残念だったな」
低い声が紡ぐ言の葉が氷の刃となって未来を突き刺す。想像したことはあるが、実際に起こるとは思っていなかったと言われれば肯定するしかない。
恐怖に怯え、動けなくなった未来に不破は残酷ながらも美しい微笑を浮かべると片手で器用にブラウスのボタンを外していく。ひとつ、またひとつと外され、徐々にキャミソールが露わになっていく。
同年代の女子と比べて大きめなバストはキャミソールとブラジャーによって守られて綺麗な丸みを帯びており、見た目からして柔らかいと分かる。
「っ……! は、」
下着の上から胸に触れられ、未来の身体に走るのは嫌悪と快楽。乳房から広がる弱いながらも確かな悦は経験したことがないもので、未来は眼前で起きていることから目を背けるようにキツく両目を閉じた。
「お前は俺の女、だろう?」
「ひ、っ……や……だ……!」
顔を反らして苦痛に耐えていると不破は未来の首筋に顔を寄せて腹の底から出したような声で囁き、少女の白い喉に吸い付く。唇の柔らかい感触、舌で舐められるこそばゆい感覚に未来の身体は小刻みに揺れる。
浅く速くなる呼吸。閉じられた目蓋から滲む涙。悲鳴を上げる心は未来の意思とは関係なくとある人物の名を呼んだ。
「っ、うぅ……だい、ちゃ……ん、」
「!」
微かな声だが不破の耳にはしっかりと届いたようで彼の動きが止まる。さらには腕を拘束している力も緩み、未来はその瞬間的な好機を見逃さなかった。渾身の力で不破を突き飛ばし、どかすと勢いよくベッドから下りて玄関へ。鞄は彼の部屋に落としたままだが今はとにかく逃げたかった。
大きな足音を立てながら彼の広い家の中を走り、靴を履いて外へ。玄関から離れたところで一旦立ち止まると吸い寄せられるように顔を上げれば外は綺麗な橙色に染まり、未来の身に危険が訪れていたことが嘘のように爽やかな空が広がっていた。
(不破君……どうして……)
後ろを振り返るも不破が追いかけてきている様子はない。それにしてもなぜいきなり呆けたように力が抜けたんだろう……と、未来は想像を巡らせるも無意識で発した言葉なので彼女が知る由もなく。
未来は大人しく家に帰ろうとしたところで自分がどういう服装になっているかを思い出し、こんなところを誰かに見られたら露出狂の変態だと思われてしまうと慌てて服や乱れた髪を直すと、帰路へつく。
不破の自宅がある住宅街を抜け、幼い頃から変わらぬ田んぼ道をひとりで力なく歩く未来の背後を、数人の男たちが下卑た顔をしながら見つめていることも知らずに──。