第一章
「それで、私になんの用なの。……不破君」
梅雨に入り、雨の日が多くなったこの頃だが朝から晴天で逆に日差しが強いと感じる日の放課後。部活もあったが用事ができたからと言って学校を出た未来の姿は現在学校裏の林にあった。ひと気が全くないこの場所は木々に囲まれているおかげで日差しが柔らかなものへとなっている。
険しい表情で不破の名前を呼ぶ未来の目の前には現在進行形で起きている蒼人と織部のトラブルの原因になった不破大黒、その傍らには織部明彦がいた。
なぜ未来がたったひとりで彼らと対峙しているのか。それは織部に秘密裏に呼び出されたからだ。
「ファーさんが呼んでる。放課後、ひとりで裏の林に来るんだ。部活は適当な理由で休め」
廊下のすれ違いざまに耳打ちされた内容に未来の体には緊張が走ったが、どんどん追い詰められてく蒼人をもう見てられないと思っていたので、なんの用事で不破が自分を呼びつけたのかは不明だが彼に直談判しようとこうして誰にも言わずにここに来た。
女子ひとりで無謀だと未来自身でも思うが、護身用──に、なるかは分からないが愛用の竹刀が入った竹刀袋をスクールバッグと一緒に肩に掛けては来ていた。
「そんなに睨むなって。怒った顔もカワイイけど」
どこまでも人をおちょくる態度を崩さない織部に怒りが湧くも、今は不破だ。涼しい顔をしてこちらを見つめる彼。なんの目的でわざわざ織部を使ってこんなところに呼び出したのか。
未来がもう一度不破の名前を呼べば、彼はようやく口を開いた。
「俺の女になれ。田尻未来」
「……………………え?」
重い口を開いた彼の言葉に未来は自分の耳を疑った。彼はなにを言っているのだろうか。脳が言葉の意味を理解するのを拒む。
分かりやすくうろたえる未来を見て不破はさらに淡々と言葉を紡ぐ。
「俺の女になることを了承するならば、織部と菊田蒼人の間にある契約を破棄させてやる」
「蒼人の……!」
彼の提示した条件を聞いた瞬間に未来の中では答えが決まっていた。蒼人が自分を犠牲にして周りの人間を守っているように、未来も自分が我慢することで蒼人を今の地獄から救えるのならと。
「私が不破君の……彼女。……期間は?」
「卒業まででいい」
「分かった。ならもう一つ。私が不破君の彼女になったら、蒼人を始めとして私の大切な人たちに近づかないでって織部君に言って」
不破本人はあまり興味がないのか、蒼人に命令を下すのはほぼ織部だ。なので彼に条件を絞って交渉してみる。彼の行動を制限できるのは不破しかいない……とは思いたいが、織部が勝手に色々しているのも事実なのでどこまで影響するかは不明。それでも未来としてはどうしても不破の口から言質を取りたかった。
「キミ、自分が不利な状況でよくそんなコトが言えるねぇ?」
「織部君は黙ってて。私は不破君に聞いているの」
「……なるほどね」
今にも噛み付いてきそうな狂犬に一瞥すらくれずに冷たい声音で吐き捨てれば、織部は大人しく引き下がる。それでも激しい感情のこもった眼差しを向けられているのは変わらないが。
「……いいだろう。お前の条件を呑んでやる。織部、分かったか?」
「マジかよファーさん! まあオレも飽きてきてたからいいケドさぁ……。譲歩し過ぎじゃない?」
「黙れ。そもそもお前が勝手に動いた結果だろう。俺を巻き込むな」
織部が驚くように未来も内心かなり驚愕していた。こんなにもあっさりと自分の要求が通ってしまうなんて。不破は本当になにを考えているのか。天才の彼の思考なんて凡人である自分には分かるわけがないけど、と心の中で呟いたところで不破がこちらを向き、ズボンのポケットからなにかを取り出した。
「封筒? もしかして……!」
「すでに不要な物だ。返してほしければ荷物を置いて取りに来い」
一枚の封筒。それはきっと蒼人が織部に奪われたもの。それを返してほしくて蒼人はずっと理不尽に耐えてきたのだ。
今まで彼らの手中にあったので取り戻したとしてもあの子の住所などは覚えられてしまっているだろうが、それでも大切な手紙を取り戻したという事実は未来、そして蒼人にとって大きい。
未来は一定の緊張感を持ちながらも大切なものを返してくれるという高揚感に、不破の命令どおりに荷物を地面に下ろすと丸腰の状態で彼に近づく。
ざりざりと地面を踏む靴の音を聞きながら不破の目の前までやってくると彼から封筒を受け取り、未来の意識が完全に封筒に向いているのを不破は見逃さなかった。
「きゃっ!? ッ……!?!?」
いきなり腰と背中に回された腕。密着する体。触れる唇同士。なにが起こったのか分からず混乱状態に陥る未来の唇をこじ開けようとなぞってくる不破の舌にいま、キスをされているという事実が未来に叩きつけられる。
嫌っ……! こんなの嫌だ……!
恋人になるという契約なのでキスされても文句は言えないのだが、未来は反射的に暴れて不破から距離を取った。涙目になりながらごしごしと手の甲で唇を拭う。こんなことをしても口づけがなかったことにはできないが、気持ち的な問題だった。
好きでもない人との突然のキスを耐えられるほど、未来はまだ大人ではない。
「酷い……! いきなり、こんな……!」
「酷い? お前は自分の意思で俺の女になる契約をしたはず。それを棚に上げてなにを言う」
「……! ……っ、初めてだったのにっ……!」
ファーストキスは特別なものだと、未来は考えていた。本当は──叶うなら、夢に見る“あの子”とできたらいいのに。今どこにいるのか、そもそも誰なのか思い出せない夢の少女に未来はどうしようもない恋心を抱いていた。だからこそ不破の暴挙は未来に大きなショックを、消えぬ傷を刻みつけたのだ。
「ほう? それはいいことを聞いた」
「最低……!」
「お前が選んだ結果だ。受け入れろ」
不敵に笑う不破に未来の心はズタズタにされる。なまじ彼の言うとおりだからこそまともに反論できなかった。これが彼の女になるということ。卒業まで続く悪魔の契約。
けれど、と未来は歯を食いしばる。ここで自分が契約から逃げてしまったら蒼人や櫂、東京にいるあの子を始めとする大切な人たちに被害が及ぶだろう。彼の言うとおり自分で選んだ道なのだ。逃げない。逃げてたまるものか!
「反抗的なイイ目だ。屈服させたくなる。……あーもう、冗談だよ冗談。ファーさんの女に手を出すほど落ちぶれちゃいないよ」
「今日は大目に見てやる。だが次に拒絶をしたらどうなるか。馬鹿な女でなければ分かるはずだ。……行け」
「ッ……!」
悔しげに顔を歪ませると未来は荷物を持って走ってこの場を離れる。林を抜ける間、流れ続ける涙をどうしても止めることはできなかった。
未来の平穏な日常に終わりを告げるように、学校のチャイムが鳴り響く──。