ジータちゃんのあったかごはん

「ただいま〜」
 持たされている鍵で部屋の扉を開ければ綺麗に整理整頓された広い玄関には誰の靴も置かれていない。見慣れた光景ながらも少し寂しさを感じてしまうのは自分が帰ってきたときに“彼”が迎えてくれる温かさを知っているから。
 それでも時間的に彼が留守にしていることが多いのでちょっぴりの青い感情は胸の奥底にしまい込み靴を脱いで上がると、玄関とリビングを隔てる扉を開けた。
 キッチンとリビングが一つの部屋にある間取り。空間を彩るインテリアはどれもセンスがよく、すっきりとした印象だが子どものジータからすればより広く感じられるリビングはがらんとしていた。
 そんなリビングを通って自分の部屋へ向かうと背負っていたランドセルを机に置き、代わりに愛用のショルダーバッグを手にして部屋を出る。
 バッグの中にいつも入れているエコバッグと財布の中身を確認し、出かける準備を整えると帰ってきたばかりだというのに外へ。まだまだ明るい空の下、向かうのは近所のスーパーだ。

   ***

 ジータの置かれている環境は普通のようで少しばかり特殊だった。彼女の本当の親は行方不明。ルシオという人物が代わりに育ててくれたが、今は彼の代わりにベリアルがジータの親代わりをしていた。
 そのベリアルは前世ではジータの敵。彼の周りの人間は記憶を保持していたが、肝心のジータにはなかった。その影響なのかジータはベリアルに対して密かに恋の感情を抱きながらも穏やかな生活に身を委ねており、今では家事全般が彼女の仕事になっている。
 もちろん自分からベリアルにやりたいと伝えてのこと。子ども、しかも血の繋がりのない子を育てるのは大変だと分かっているし、少しでも彼の役に立ちたいという考えからだった。
「そうだった……」
 スーパーで必要なものを買い、帰宅して数時間後。外は夕暮れどき。台に乗りながらコンロの前でジータは思い出したかのように呟く。
 朝、ベリアルが言っていたのだ。今日は飲み会だから夕飯は要らないこと、帰りが遅くなるから先に寝ているようにと。それらをすっかり忘れていつもの癖で作ってしまった料理たち。
 おかずを数品に豆腐とわかめのお味噌汁、炊きたてのふっくらツヤツヤご飯。一般家庭と変わらない食事だがベリアルは毎回美味しいよと言ってくれ、それが嬉しくて、大好きな人に自分の作った料理を食べてほしくて、ジータの料理の腕は現在進行系で上達中。
 並べられた皿にのせられた料理たちを見てジータは忘れていたことに肩を落とすが明日に回せばいいかと思考を素早く切り替えると、自分の分を取り分け残りはラップをして冷蔵庫へ。
 二人用のダイニングテーブルに夕食を運び、着席するもいつも目の前にいる人物がいないことに違和感が凄まじい。一緒に住むようになってからは基本一緒に夕飯を食べてくれて、味の感想だったり学校であったことを聞いてもらったりと談笑しながら楽しいひとときを過ごしていたのだから。
 ベリアルにも大人の付き合いがあるとは分かっている。それでも思わずにはいられない。早く帰ってきてくれればいいのに。たった一日でさえもこんなに胸が苦しくなるなんて。本当に重症だ。
 歳が離れている、かつ、ベリアルは同じバンドのメンバーであるルシファーのことを愛している。それでもこの想いは止められない。
 ルシオにルシファーたちを紹介され、その場に同席していたベリアルを見た瞬間、体に電撃が走った。まるで出会う前から求めていたような。まさに運命の出会い。
「……ごちそうさま」
 静か過ぎる食事はつつがなく終わり、ぼんやり思うのはベリアルのことばかり。
 今頃なにをしているのかな? 美味しいものを食べているのかな? お酒を飲み過ぎていないかな?

   ***

「これでよしっと」
 風呂も終わり、あとは寝るだけ。パジャマ姿のジータは冷蔵庫に夕飯のおかずが入っていることを一応メモに残し、テーブルに置く。おそらく明日の朝食べるだろうがもし小腹が空いていたら食べれるようにと、ほんの小さな心遣い。
 さあ寝よう。としたところで視界の端に映るのはベリアルの寝室。浮かんだことに対して脳内では「駄目」とストップをかけるが、脚はふらふらと寝室の方へ。
 誰もいないというのに極力音を立てないように扉を開けて、部屋の電気をつける。瞬時にシーリングライトが明るく照らし、シックな雰囲気に満ちた部屋をジータの目の前にさらけ出す。
 大きく息を吸い込めばベリアルの香りが肺を満たしていき、どこか安心感を抱きながらゆっくり吐き出す。この部屋には掃除のときに出入りしているので見慣れてはいるものの、今の状況からしてとてもイケナイことをしている気分になってくる。
 少しだけならいいよね? そう自分に言い聞かせて部屋の中心で存在を主張する黒くて大きなベッドへと歩み寄る。まるで高級ホテルの寝室を思わせる雰囲気を相まって心臓が高らかに鼓動を打ち鳴らし、無意識に呼吸も浅くなっていく。
(少しだけ、少しだけだから……)
 何度も自分に言い聞かせてベッドの掛け布団をまくり、現れたシーツとの間に体をスローな動きで滑り込ませる。一人で寝るには広すぎるベッドの端の方にちょこん、と仰向けになると前からも後ろからもベリアルに包まれているような気がして自然と体温が上昇。室温は決して高くないのに暑くてしょうがない。
(枕もフカフカで気持ちいい〜……)
 押し付けるように頭に数回力を入れて上質なふんわり感を楽しむ。自分の部屋にある枕も同じくらいの感触なのだが、ベリアルの枕の方が満足度が高い理由は彼のことを好いているからだろう。決して実らない恋。それでも彼と一緒に暮らしていることを思えば恵まれている方だ。
 果たしてこの先いつまで彼と一緒に暮らせるのか。大人になったらさすがに今のまま……というのは難しい。いつか訪れる結末を想像すると目元が湿ってきてジータは鼻を啜るとうつ伏せになり、枕に顔をうずめると安心感を得たいがために何度も香りを吸い込む。
 しばらくすると今度は少しずつ眠気が襲い、意識が薄れていく。自分の部屋に戻らなきゃ……とは思うが体が動かない。重くなっていく瞼に抗うことはできず、やがて寝室には静かな寝息が広がっていった。

   ***

 時は流れて深夜。マンションの廊下にて。さすがに時間が時間なので他の住民と顔を合わせることなく自分の部屋に着いたベリアルの白い顔は赤くなっており、アルコールの影響だとひと目で分かる。
 若干フラつきながらも部屋の鍵を開けて中へ。真っ暗な玄関の奥、扉の先にあるリビングは電気がついているのでガラス越しに光が漏れていた。
 ジータはもう寝ているはず。消し忘れたか、オレが帰ってきたときのためか。
 まあどちらでもいいかと靴を脱いでリビングへ。酔いを覚ましたいと水を飲めばダイニングテーブルに置かれたメモが目に入った。ジータからのメッセージに食べる、食べないは関係なく冷蔵庫を開ければ小鍋に入った味噌汁に最初に気づいた。
 他のおかずも魅力的だがそこまで腹は減ってない。だがなんとなく小腹が空いたと感じるのも事実。ならば味噌汁だけでも飲むかと温め直すことに。
 コンロの前に立ち、待っている間に何度もあくびが出てしまう。きっとあのメモを見つけなければ寝室へ直行し、今頃は寝ていたはず。
 そんなことを考えていると温め終わり、お椀に移すと箸を持ってテーブルへ。改めて見ればなんの変哲もないただの豆腐とわかめの味噌汁なのだが、どこかホッとするのは気のせいか。
 ジータと暮らす前は誰かが自分のために料理をしてくれたことなどなかった。パトロンの誰かに頼めば作ってくれるとは思うがなにを入れられるか分からないために気が乗らない。そもそも食べたくない。
 だがジータは醜い欲望とはかけ離れた清らかな世界の住民。彼女の作った料理なら食べたいと思う。実際味も最初に比べて好みの味になった──むしろ自分の好みが彼女の料理に近づいたと表現した方が正しいか。
 温かいお椀を持ち、軽く汁を飲む。口の中に広がるまろやかな出汁と味噌の調和した味は疲れた体のすみずみまで染み渡っていき「はぁぁぁ……」と気の抜けた声が出てしまった。
 さいの目に切られた絹豆腐を箸でつまみ、口へと運ぶ。軽く噛むだけで優しくほどけ、なめらかな舌触りを楽しむ間もなく飲み込んでしまう。まるで腹が早く寄越せと言ってるみたいだ。
(美味い、な……)
 特に珍しい料理でもない。一般家庭の代名詞とも表現できる味噌汁だというのに。
 ──温かいのだ。彼女の作ってくれる食事が。
 ベリアルの産まれた家庭は言ってしまえばあまりいい環境ではなかった。自分の産みの親も今どこにいるか分からないし、そもそも生きていようが死んでいようが関係ない。
 温かい環境と離れており、ジータを引き取るまでは乱れた生活に身を委ねていた。それが彼女を引き取ってからは変わった。
 帰宅すれば迎えてくれる声、心のこもった食事、見ているだけで安心できる笑顔。今までは家に帰ってこないことも平気であったが今は可能な限り毎日帰ってきている。むしろ帰ってくるのが当たり前の認識になっていた。
 お椀一杯の味噌汁はまたたく間にベリアルの胃の中に収まり、最後の一口を飲むと腹の奥から息を吐く。満足。その一言が脳裏に浮かぶと急激に眠くなってきた。
 軽くシャワーを浴びて寝ようと最初は考えていたがそれも難しいほどの睡魔。起きたら入ればいいかと食器を片付け、自分の寝室を開ければベッドには本来いないはずの人物の姿が。
「ジータ……?」
 点けっぱなしのライトが明るく照らすベッドの中にはすぅすぅと寝息を立てている小さな女の子の姿。なぜオレの部屋に? という疑問はあれど別に問題はないので上半身裸になるとそのままベッドの中へ。サイドテーブルに置かれているリモコンを操作してライトを消すとジータを片腕で抱きながら彼女の方へと体を寄せる。
 ボディソープの清潔な香りと彼女自身のほのかな甘い香りはベリアルに心の安寧をもたらし、この先もずっと一緒にいたい。手放したくないという気持ちが湧き上がる。と、同時に幼いうちからドロドロに甘やかして、彼女がそれなりの年齢になったら自分の手で一人の女へと開花させてやりたいという邪な気持ちも渦巻く。
 ぐるぐると回る思考も心地よい睡眠欲には勝てず、ベリアルの意識はゆっくりと薄れていく。けれど胸に抱くジータから決して離れようとしない腕が彼の渇望を示しているようだった。
 ──翌日。ベリアルよりも先に起きたジータが可愛い悲鳴で彼を起こすことになったのは言うまでもない。