序章
「教室……?」
ふっ、と意識がはっきりすると無人の教室に置かれている机の一つに茶髪のショートヘアの女学生──田尻未来は座っていた。
自分の通う学校の教室にそっくりな場所。窓の向こうに見える青空や地上に降り注ぐ陽光は夏の気配が感じられ、思い出したようにほんの少しだけ暑さを意識する。
一定の間隔で置かれた机と椅子のセット、黒板に教卓。席だって自分の席だ。が、いつ学校に来たのか記憶が定かではない。
それだけではない。今まで自分はなにしていたのか全く思い出せない。もしかして学校に来てずっと寝ていたのか。だが教室──外からも人の気配、ましてや物音すらしないことに激しい違和感を覚える。
まるで誰もいない校舎に迷い込んでしまったような……。
可愛らしい顔を険しいものに変えていた未来だが、ずっとこのままでいるわけにはいかないと立ち上がる。澄み渡る空を連想させる色をしたスカートがふわりと揺れ、そこから伸びるみずみずしい乙女の太ももが太陽の光を受けてきらめく。
愛用の鞄の姿もないことに不安が蓄積されていくが、教室を出てみる。眼前に広がる廊下は見知った道。窓から見える他の場所も記憶の中の風景。どうやら自分は三階にいるらしい。
人ひとりさえいない学校は未来に緊張を与え、暗い感情が心を蝕む。楽しい学校も無人となると言い知れぬ恐怖があった。
「誰か〜……」
言いながら隣の教室を窓越しに覗いてみるが、当たり前のように誰もいない。未来がいた教室と同じような配置の空間が広がるばかり。
「…………」
どうして学校にいるのか理由は分からないが、誰もいないのだ。家に帰った方がいいだろう。ぞわぞわと這い寄る焦燥感に煽られるように玄関へのルートを──本当は駆け出したいのを我慢して小走りで辿る。誰もいないとは思うが、校舎の中を走らないという基本的なルールが未来を縛っていた。
***
しばらくして。上履きが規則正しく廊下を鳴らす音がピタリと止んだ。前方に見える黒い“なにか”が人の姿をしていることに気づいたのは数秒後。この季節に全身黒ずくめで深い紫色のファーを纏っている人物に若干の暑苦しさを感じつつ、ドキドキしながら控えめに「あの……」と声をかければ、こちらに背中を向けていた人物が振り返る。
「……織部君?」
体ごと反転した男は同じクラスメイトであり、不良の織部明彦の顔に瓜ふたつ。
短く切り揃えられたダークブラウンの髪に赤い瞳。整い過ぎているほどに整っている顔はモデル並。身長も隣に立てば未来の頭ひとつ分くらい高く、日焼け知らずの白い肌は誰もが羨む。
しかし醸し出す妖しい雰囲気、大胆に開かれた胸元や腹部から覗く肉体が織部とは違う大人の男の人だと認識させた。
「キミ……。特異点、ではないな……」
織部君とどういう関係なんだろうか。そんなことを思っていると、謎の人物が呟く。トクイテンという単語が引っかかったが、その一言に覚えはなかった。
顎に手を当て、考えるポーズをしながら見つめてくる男はこの辺では見かけないくらいに美しくて、そんな人の目線に自然と心臓の鼓動が速まる。
顔と声は苦手とする織部と同じなのに、雰囲気だけで別人のように思えるくらい違うなんて。織部だったら蒼人の件で嫌悪感の方が先に来るのだが、黒い男に関しては違った。
けれど全身を舐めるような赤い目に居心地の悪さを感じるのも事実。なんとかこの状況を打破したくて話かけようと口を開きかけたとき、男のセクシーな低音が耳に届く。
「特異点の夢にアクセスしたはずなんだが……別の回線に引き込まれたのか、それともこれが特異点の見ている夢なのか……どちらにしろ、楽しめそうだ」
自らの唇を舌で舐める様子は獲物を見つけた肉食獣。血の目が細められたことに胸の高鳴りは違う意味のものへと変化する。
──最後の一言に、とても嫌な予感がした。
「えっと、あの……」
「あぁ、悪いね。オレの名前はベリアル。キミは?」
今度は爽やかな笑みを浮かべる男に答えるべきか逡巡してしまうが、有無を言わせない圧を感じ、大人しく名乗れば「未来ちゃんか。かわいい名前だね」と当たり障りのないセリフを返される。
「……織部明彦という名前に心当たりは?」
「知らないな。……もしかしてオレにそっくりとか?」
浮き出る冷や汗が頬を伝うのを自覚しつつ、少しでも情報が欲しいと考えた未来はまず織部の名前を出してみるが、やはり彼は知らない様子。首をかしげ、未来の想像どおりの返答だ。
「オレのそっくりさんねぇ。特異点の夢の産物なのか、別世界のオレの姿なのか」
この男は人の心が読めるのか。こちらが答える前に返事を読み取り、ひとり呟く。
「さっきからトクイテンってなんなんですか……? それにこの状況もあなたには覚えが?」
「そうだな。特異点はオレの知るキミの別の姿。もしかしたらキミは彼女の夢の住民かもしれないし、別の世界での特異点の姿かもしれない」
男の言っている意味が分からない。自分が夢の世界の住民? 別の世界の特異点の姿?
うろたえている間にも男の言葉は続く。
「そしてここは夢の世界。特異点が目覚めるか、キミが目覚めるか。この空間からキミが脱出するにはどちらか片方しかない」
「そんな……」
男の言うとおり夢ならばこの奇妙な空間も納得できる。まさか明晰夢──自分が本当は実在しない存在とは認めたくないので、睡眠中の己が見ている夢と思うことにするが、こんなにもハッキリとした意識で夢路の世界を彷徨うことになるなんて。
どうせ見るなら楽しい夢がよかったと思わずにはいられない。
「いずれは覚める夢だとしてもそれまで退屈だ。お互いにね? ……そうだ。オレと鬼ごっこをしよう」
「鬼ごっこ……?」
「オレが鬼。未来ちゃんは頑張ってオレから逃げてくれ」
鬼ごっこ。小さい頃に友達と遊んだことはあるが、退屈しのぎにただの鬼ごっこ? 警戒心が最大まで高まり、それは眉間に寄せられた皺となって表層へと現れる。
毛を逆立てる子猫を見るような生ぬるい眼差し、口元に軽薄な笑みを貼り付けるベリアルはもちろんそれだけではないと言いたげにさらに続けた。
「もちろんただの鬼ごっこだとつまらない。オレに三回捕まったらキミの負け。負けたら……オレと姦淫しようか。……おっと、意味が分からないかな。そうだな……」
カンインの意味は分からないが、邪悪な意味が込められているのは肌で感じた。全身の皮膚に鳥肌が浮かぶ。
じり、じり、と後退する未来を追い詰めるようにベリアルが距離を詰めてくる。哀れな少女はどんどん壁まで追い込まれていき、最後には頬の両側の壁に手を付かれ、男の腕に閉じ込められてしまう。
相手を誘惑する香りが男の妖艶さに拍車をかけ、互いの呼吸が混ざり合うほどの至近距離に恐怖と魅了効果が綯い交ぜになり、年齢的にもまだまだ子どもである未来を襲う。
「お兄さんとイケナイことをしようってコト」
「ッ……!」
さすがに意味が分かった。瞠目し、全身が震えてしまう。まさかこの年齢で貞操の危機に陥るなんて。相手の様子からするに犯罪だとか、子どもだとか、そういった道徳的感情は皆無。
「じょ……冗談、ですよね……? そんな、」
「逃げないのか? あぁ、もしかして今すぐにでも混ざり合いたいとか?」
壁に置かれていた片手が頬へと滑る。少しだけ体温の低い骨張った手に未来の体温が奪われ、その手はするりと顎を伝い、首──胸元、乳房へ。
服越しとはいえ異性に胸を触られることなどなかったため、一気にパニック状態に引きずり込まれた未来は声を引きつらせながらも男を力いっぱい突き飛ばし、脱兎の如く逃げ出す。
「……フフッ。可愛らしいねぇ。本当に」
小さくなっていく少女の背中を見て悪辣な男はあざ笑う。
さあ、地獄のゲームの始まりだ。