さんにんごはん─涼、感じませんか?─

 学校終わりの帰り道。冬ならばすでに暗くなっている時間でも夏に近い時期の今は十分に明るい。
 爽やかな空を連想させる制服に身を包んだ女子生徒──田尻未来は額から流れる汗をハンカチで拭った。まだ夏ではないというのに今日はとても暑く、部活終わりというのもあって今すぐにアイスを食べたいという欲求が内側から溢れる。
 そんなことを考えながら一人歩いていると遠くに見える木の根本に誰かが座っているのか、後ろ姿が見えた。見慣れない光景に気になっていると必然的にその人物との距離は縮まっていく。
(えっ? あれって……)
 先ほどは距離もあってよく見えなかったが、こうして近づくと見える特徴的な銀髪。都会ならまだしもここは田舎。思い当たる人物は一人しかおらず、また、未来の想像は当たった。
「不破君……?」
 不破大黒。見た目からして不良ですと示すように素行は悪いが学校で一番頭がよく、天才と呼ばれる人物。彼には友人の菊田蒼人の件でそこまでいい印象はないが、その彼が木陰でぐったりとしている様子に慌てて駆け寄った。
「……なんだ」
 閉じていた目を気だるげに開眼し、冷たい氷の瞳に未来を映す。目元はとても冷ややかだというのに彼の顔はどこか熱っぽく、喋るのも億劫の様子。明らかにこの暑さにやられている。クラスメイトの中にも体調を崩して保健室に行った子がいるくらいだ。
「別に用はないけど……。こんなところでぐったりとしていたら心配するよ」
「……ただ涼んでいただけだ。お前には関係ない」
 そう突き放すように言って、不破はまた目を閉じた。そういえば織部はどこにいるのだろうか。不破と彼は一緒にいるのが当たり前なくらいに行動をともにしている。だが今は別行動のようだ。周りを見ても織部らしき姿はいない──そもそも、織部がいたら不破をこんなところに放置したりしない。
「ねえ不破君。具合悪いんでしょ? 家まで送るよ」
 この間訳あって織部の家を彼に教えてもらった際、彼は隣に建つ和風の家に消えていった。成り行きで不破の家も知ることになったため当然場所も覚えている。
 明らかに体調を崩している彼をこんな場所に置いていくわけにはいかない。早く家屋の中で休ませなければ。未来は自分にこれは織部君の家を教えてもらったお礼と言い聞かせ、片手を差し伸べれば不破は細く目を開け不満げに眉間に皺を刻んだ。が。
 未来の差し出された手に不破は己の手を伸ばすと、彼女に引っ張り上げられる形で立ち上がる。
 今の今まで見下ろしていた人物が立った途端に見上げる形になり、こうして間近で見ると想像以上に身長が高く、感情のこもらない冷徹ながらもどこまでも美しい双眸は人によってはドキドキしちゃうんだろうなと未来はなんとなく思った。
「……変な女だ。お前にとって俺は織部と菊田蒼人の件のきっかけになった人間。助ける義理などない」
「そう……だけど……。この間織部君の家を教えてもらったし、そのお礼だよ。うん。それに目の前で困っている人がいるんだもん。助けられるなら助けたいよ」
「理解できんな」
 当たり前だと微笑む未来に不破はため息まじりに口にするが、口調からは棘は感じられなかった。あとは家まで向かうだけ。さあ行こうとしたところで背後から数人の足音。土を踏む足音を立てながら向かってくる存在に未来が振り向けば相手は近隣の高校の制服を着崩した男子生徒。その後ろを金魚の糞のように歩く数名の男子は自分とは別の中学に通う生徒だろう。
 見た目で不良と分かる存在に未来の体に緊張が走り、不破も不機嫌そうに舌打ちをした。
「あっ、あの……私たちになにか用ですか?」
「ん〜? 君のことは知らないけど用事があるのは後ろにいる不破大黒って奴」
 女だからと未来を軽んじている高校生の男は不破を見つめる。それに倣って未来も不破へと振り返るがその表情は固い。
(どうしよう……! いま不破君は不調だし、なんでこういうときに織部君がいないの……!)
 自然と浮かぶ彼の存在。味方ならば頼もしい彼がいないことに未来の中に焦りが生じる。果たして自分ひとりでこの人数を相手にできるのか。肩にかけている竹刀袋を握り締めれば額から雫が一筋の線となって肌を滑り落ちた。
 そして気づかない。普通の人間ならばまず考えないことを自分がしようとしていることに。
「不破クンさぁ、俺ンとこの奴をだいぶ可愛がってくれたみたいだねぇ? 今日はそのお礼に来たんだ」
「お前の後ろにいる犬どもが自らの力量も顧みず噛み付いて来たから躾をしてやっただけのこと。飼い主なら飼い犬の躾くらいしておけ」
 体調が優れないというのに煽り返す通常運転の不破に場が分かりやすくピリつく。男の方は青筋を立てて今にも一触即発の状態。今の不破でもこの人数相手も大丈夫かもしれないがお人好しの未来は見捨てるようなことはできなくて。
「あのっ……今日はやめてください! 不破君、具合悪くて……!」
「君……不破クンの彼女? まあどうでもいいけど。不破クン以上にヤバいって聞く織部クンもいないみたいだし、彼も不調。こんなにも都合のいい日を逃すつもりはないね」
「っ……」
 どうしてもやり合うつもりだ。視界の端に映る不破も引くつもりは一切ない。どうして不良というのはこんなにも喧嘩早いのか。心の中で大きなため息をつくと未来は肩に掛けていたスクールバッグをその場に落とし、竹刀袋から得物を取り出すと不破と男の間に立つ。
 竹刀を構え、臨戦態勢に入った未来に対して男は不敵に笑う。
「ふぅ〜ん? 君、剣道やってるんだ。にしても情けないなぁ不破クン。女の子に庇われるなんて」
「……一つ、忠告してやろう。この女が得物を握った以上、大人しく帰ったほうが身のためだぞ? こう見えてコレは織部よりも厄介だ」
「へぇ? こんな女のコがねぇ……。でも俺、女のコにも容赦しないから。悪いけど邪魔するならちょ〜〜っと痛い目に──イッ……テェェェェェッッッ!!!!」
「あっ、兄貴ィィィっ!?」
 女相手でも容赦しないと男は殴りかかってきたが、織部とタイマンを張った未来からすればスロー再生のように遅く、呆気ないほどに簡単にがら空きの胴体を打ち抜き、男を悶絶させた。
 腹を押さえて地面を転げ回って痛みを訴える男はとても情けなく、舎弟の間にも動揺が広がる。武器を持っているとはいえこんなにもあっさり女に負けるなんて。
「え……。織部君より弱い……」
 織部とは本気で戦ってなんとか勝てたが、今はそれほど本気ではなかった。それなのに簡単に勝ててしまった。自分でも驚いていると、未来の無意識の言葉に目を丸くして固まっている相手グループの一人が恐る恐る口を開く。
「そ、その口ぶり……。もしかしてお前、織部と戦って勝ったのか……?」
「うん……まあ……」
 肯定の言葉に質問をした男の体は縮み上がり、まるで恐ろしいものでも見るかのような怯えた目を未来に向ける。それは他の者たちにも伝染するように広がり、さっきまでの強気はどこへやら。
「この女はお前たちが想像している以上に凶暴で残酷な女だ。竹刀で叩き潰しただけでは満足せず、無抵抗の織部に馬乗りになって顔を何度も殴打し、血まみれに……」
「な……! 抵抗できなくなるまで潰した上で、織部が血まみれになるまで殴った……!?」
「やべぇよこの女……!」
「鬼だ……!」
「悪魔だ……!」
 薄く笑いながら不破は未来が織部にしたことをかなり大袈裟にして告げるが、男たちはあの不破が言っているからと真実にしか思わず場がさらなる恐怖に半分パニック状態となり、好き放題に言う男たちに未来がムッとした顔を向ければ女子のような悲鳴が上がった。
 舎弟たちは未だに呻いている男を半分引きずりながら退散し、慌ただしかった場所に静寂が戻ってくる。まさかあんなハッタリで逃げてくれるとは思わなかったが、改めて自分は不良たちや一般人の間でやばい奴で通っている織部に戦いを挑んで勝利したんだとしみじみと思う。
 だがあれは織部が油断していたからこその勝利。きっと彼が本気を出していたらこちらが負けて、今頃どうなっていたか。
「それにしても……不破君! あんな嘘を言わなくてもいいじゃない!」
「俺は嘘を言ったつもりはないが? 現に織部を打ち負かしたあと奴の言葉に激昂したお前が馬乗りになって殴り、鼻血が出ただろう」
「そ、そうだけど、血まみれってほどじゃない……し」
 そう。鼻血程度だ。だが血が出たのは事実。当時の記憶を回顧すれば怒りに任せていたとはいえなかなか暴力的な一面を見せたなと少し反省……とも思ったが、織部が悪いので自分は悪くないと己を肯定するように何度か首を縦に振り、手に持っていた竹刀を袋にしまってバッグと一緒に肩にかけ直した。
「それにさ。織部君に勝ったといってもあのときの織部君、本気じゃなかったでしょ?」
 結局は彼が本気じゃなかったところが勝敗の分かれ道。彼がこちらと同じように本気だったならばきっと負けていたのは自分の方。
「俺の目には油断していたのは最初だけのように見えたがな」
「え……。それってどういう……」
「…………」
「その沈黙の意味は!?」
 小さな呟きだったが未来の耳にはしっかりと届いていた。内容の衝撃に目をぱちくりしながら言葉を失う未来に対して不破は沈黙を返し、それがますます意味深になって彼の口から決定的な言葉が聞きたくなる。そんな言い方、まるで織部も本気だったような……。もしそれが事実ならば彼に強烈な印象を残し、執着されるのも分かってしまう気がする。
「うるさい。行くぞ……」
「ちょっと、大丈夫!?」
 歩き出そうとした不破の体は言うことを聞かずにふらついてしまう。考える前に体が動いていた未来は不破に抱きつく形で抱き止め、彼の体が熱いことに熱中症になっていると気づいた。
 これはますます早く涼しい場所に移動しなければ。未来は問答無用で不破の片腕を自身の肩に回して支持搬送の形を取るも彼は不服そうだ。
「離せ。一人で歩ける」
「黙って。……ほら、行くよ」
「…………」
 周囲から恐れられる不良もコンディション不調の今は未来に逆らってもこの状況は変わらないと判断したのだろう。不破が無言で答えを示すと未来は彼の家に向かって歩き出した。
 介助しながらの歩みなので普段と比べて速度は遅くなってしまうが、少しずつながら確実に彼の家に近くはなっている。幸いなことに今のところ他の人間とすれ違うことはないため、未来はほんの少しだけホッとした。もし誰か──特に学校の人間にこんなところを見られたらなにを噂されるか。今でさえ織部関係で一部の女子から妬みの対象にあるというのにこれ以上は勘弁してほしい。
「ところで織部君は? いつも一緒にいるじゃない」
「お前は同じ人間と常に一緒にいるのか?」
「それもそっか……。でも今回は私が不破君を見つけてよかったかも。もし織部君だったらあの人たち、もっと酷いことになっていたと思うし……」
 涼しい風が吹き始め、髪を優しくさらっていくのを心地よく感じながら不破に話しかければ当たり前だが冷たい返答。けれどそれを承知の上での会話なので未来は特になにも思わずに流すと、蒼人の先輩だという人物が話していた会話を思い出す。
 不破に復讐しようとした暴走族が織部に半殺しにされた……。
 先ほども不破に対するお礼参り、しかも彼が体調不良ときた。下手をしたら半殺しでは済まなかったかもしれない。そう考えると少し痛いだけで済ませられたのであの不良には逆に感謝してもらいたいところだ。
「あ、着いたね。お邪魔しま〜す……」
 たわいない会話……といっても、未来の方が一方的に話していただけだが、いつの間にか不破の家に着いていた。住宅街にある洋風の家と和風の家。大きめな洋風の住宅には織部が一人で住んでおり、不破以外の人間は入れたことがないという。
 不破の家は一目でいいところの家だと分かる外観になっており、屋根のついている門のすぐ奥に平屋の大きな日本家屋がある。ドラマの中でしか見たことのない住宅に未来は気持ちが引き締まるような気がしつつ、木製の格子型の引き戸を開けると中へ。
 広めの庭には何種類かの木が植えられており、どれも手入れがされているのが分かる。業者が入っているのか、家族、もしくは織部が手入れをしているのかは分からないが、直感的に不破が手を加えているとは考えられなかった。
「おうちの人、誰かいるかな」
「この家には俺しか住んでいない。よって呼び鈴を鳴らすことに意味などない」
「不破君もそうなんだ……」
 玄関の壁に設置されている呼び鈴。そのボタンを押そうとしたところで不破から一人暮らしというのを聞き、思い出すのは織部のこと。彼も家に住むのは自分しかいないと言っていた。中学生の彼らがなぜ一人暮らしをしているのかは気になるが、それぞれ家の事情があるからと聞きたいことを飲み込むと鍵のことを聞いてみる。
「ねえ不破君。鍵は?」
「鍵はかけていない」
「えっ、不用心……」
「盗られて困る物などない」
「そういうものかなぁ……」
 施錠していないと平然と答える彼に苦笑いしつつ、門と同じく木製の格子状のデザインの引き戸をスライドすれば彼の言う通り玄関の鍵はかかっていなかった。いくら田舎でも防犯意識が低いんじゃ……と内心ツッコミを入れながら中へと入る。
 シンプルを通り越して殺風景とも思える玄関の段差に不破を座らせ、未来は床に荷物を置くと中に上がった。彼になにか冷たいものでも飲ませなければ。
「ねえ不破君。台所ってどこにあるの? 冷たいものを飲んで体を冷やしたほうがいいよ」
「……ついてこい」
 未来と同じく靴を脱いだ不破のあとに大人しく続くと玄関のすぐ近くの襖の奥に居間があり、引き戸で仕切られた向こう側に台所はあった。外観と同じく古風な内装だが、どこか落ち着く。そんな感想を抱きながら不破に断りを入れつつ、居間に設置されている冷房の電源を入れると強風設定にされた機器は大きな音を立てながら冷たい風を送り込む。
 広めの居間には畳が敷き詰められ、大きめな長方形の座卓を挟むように座布団が二つ。部屋の端には数枚の座布団が重ねて置かれていた。
 壁に掛けられている年期の入った時計の振り子が一定の速度で時を刻み、どこか懐かしい気分にさえなってくる。
 不破はというと、冷房が当たる場所に座るとそばに置いてある座布団を折り畳み、枕がわりにすると横になった。それを見ていると亭主関白な不破と甲斐甲斐しく世話をする織部の姿が自然と浮かんできて未来の口元が柔らかくなる。
「不破君。冷蔵庫、開けるね」
「いちいち許可を取らなくていい。好きにしろ」
「はいはい……」
 家主がそう言っているのだ。未来は開けられている引き戸の向こうに広がる台所へと向かった。広過ぎず、かといって狭くもない。ちょうどいい広さの空間にはシンクやガスコンロ、冷蔵庫や戸棚など他の家庭と変わらず。どこか親近感にも似たなにかを感じつつ、ひとり暮らしにしては大きめな観音開きタイプの冷蔵庫を開けた。
 中は綺麗に整理整頓されており、ドアポケットには飲み物だったり調味料などが入っている。棚にはバターや卵、味噌だったりと定番なものたちが置かれ、引き出しやトレーを使って収納がされていた。正直自分の冷蔵庫の中が恥ずかしくなってしまうほどに不破家の冷蔵庫は綺麗。
 だが不破が料理する姿が全く浮かばない。きっと織部が料理をしているのだろう。彼の家の冷蔵庫にも調味料や食材が揃っていたことを思い出す。
 扉部分の収納には麦茶が半分以上残っている冷水筒があった。とりあえずこれを飲ませて、あとは何時になるかは不明だが──いずれ帰ってくるであろう織部に任せればいい。
 食器棚から透明なガラスのコップを取り出すと氷を入れ、麦茶を注ぐ。カランカラン、と氷とグラスが奏でる音は夏らしさを感じ、どこか爽やかな気分になってくる。
「はい不破君。これで少しよくなればいいけど……。じゃあ私はそろそろ帰るね」
「待て」
 座卓にコップと麦茶の入った冷水筒を置くと未来はその脚で玄関に続く廊下に出るため、部屋の襖へと向かうが不破の呼びかけにその動きは止まった。
「ん? なあに?」
「腹が減った。なにか作れ」
「えぇ……」
「お前が始めたことだ。最後までやれ」
 要するに助ける必要などないのに助けたのだ。中途半端なところで勝手に終わるなと言いたいのだろう。なんて自分勝手な人だとは思うが、変に彼の怒りを買うのも……というのが正直なところ。仕方がないので彼の言うとおりにすることに。
 来た道を戻り、台所へ。おそらく織部の料理を食べていると思われる彼の舌に合うものを自分が作れるのか非常に不安だが、やるしかない。
 炊飯器は空。ならば乾麺は、と色々と探せば戸棚からそうめんを見つけた。
(このそうめんって近所のスーパーで一番高いやつ……)
 買えないこともないが、一般家庭の未来にはあまり馴染みのない商品が当たり前のように何個かあり、自分と彼らの金銭感覚の違いを見せつけられる。
 気を取り直すと未開封のそうめんを棚から一袋取り出して台へ置く。ふと、視界の端に見えた黒い布に吸い寄せられるように顔を向ければ壁にエプロンが掛けられていた。
(このエプロン、織部君のだ……)
 黒いエプロン。制服の汚れ防止のために借りようと手にすればふんわりといい匂い。無意識に顔にエプロンを近づければ織部の残り香を感じ、心身がリラックスしていくようだ。
(って、また変態みたいなことを……!)
 慌てて居間の方を見るが、幸いなことに引き戸によって不破からは見えない状態。軽く息を吐くとエプロンを身に着け、鍋に湯を沸かしたりと淡々と準備を始めるのだった。

   ***

「ふぅ……こんな感じかな」
 程よい硬さに茹でた麺を冷水で締めるとガラス製の涼しげな皿に丸めて盛り付け、塩分がとれるようにと少し濃いめの味付けにしてあるつゆをガラスの小鉢に。麺を茹でている間に切っておいた薬味を小皿に盛り付けると取っ手が付いているトレーに載せて居間へと持っていく。
 不破は横になって眠っているようだ。起きているときは威圧感があるがこうして眠っているとどこか少年っぽさが残っており、自然とえくぼが深くなる。
 座卓に置かれているコップに入っていた麦茶は空になっており、溶けかけの小さな氷だけが残っていた。グラスの表面に水滴が浮かび、かなり時間が経っていることを示す。現に壁に設置されている時計を見ればいつもならすでに帰宅している時間だが、今日は母親も用事で遅くなると言っていたのでまだ連絡は入れなくてもよさそうだ。
 不破を起こす前にコップに新しく氷と麦茶を入れ、そうめんを食べるだけの状態に用意をすると肩を揺らすことで起こす。
「不破君、不破君起きて」
「…………なんだ」
「ご飯できたよ。お米がなかったからそうめんだけど……」
 寝起きは悪い方のようだ。低音を通り越してデスボイスで不機嫌に呟きながら不破は起き上がると眠気覚ましとして麦茶をひと口。氷によってキンキンに冷えた飲料は彼から眠気を吹き飛ばし、食べやすいようにと未来が気を利かして小分けにした麺のひと束を箸で持ち上げると、透き通った茶色のつゆへと軽く沈ませ啜る。
「麺の硬さとか大丈夫? 塩分摂るためにつゆはちょっと濃いめにしてみだんだけど……」
「……まずくはない」
「そう。よかった」
 彼なりの表現方法だろう。未来は優しく微笑むと正座の体勢から立ち上がろうとしたが、その動きは途中で止まった。玄関の扉が開く音がしたからだ。
「……玄関に置いてある荷物からしてまさかとは思ったが……」
「織部君……」
 居間の襖を開けて入ってきたのはスーパーの買い物袋を両手に一つずつ提げた織部だった。大きめの白い袋の中身は食材がぎっしりと詰まっており、不破ひとり、もしくは織部と一緒に食べると考えても明らかに量が多い。そこで未来は自分の家の買い物量を思い出してみるが、織部が持っているくらいの量を買った記憶はあまりない。
 年頃の男子といえど、食材が痛む前に使い切れるのだろうか? と、地味に考えてしまう。
 織部は玄関に置いたままの荷物からして未来とは分かっていたがやはり不破の家に彼女がいるというのは違和感がすごいらしく、じっくりと未来や不破へと視線を向けたのちに再び未来へと目を合わせる。
「まあ……色々聞きたいことはあるけど、腹減ってないか? 晩飯食べていきなよ」
 織部の誘いに待っていましたと言わんばかりに空腹感が表に現れる。だが相手は織部。誘いに頷いてしまっていいのだろうか? と迷うが、それを断ち切るように背後からは麺を啜る小気味良い音。正直、我慢できそうにない。
「……いいの?」
 不破は織部が帰ってきたというのに一瞥すらくれず、黙々と食事を続けるのみ。麺を啜る短い音が定期的に流れる空間でのやり取りのなかで食事に誘われ、未来も迷いつつも提案を受け入れていた。それが織部に対する拒絶の気持ちが氷解していっている証拠なのだが、自分自身では分からない。
「もちろん。時間は大丈夫かい?」
「あとでお母さんに連絡入れておくから大丈夫」
「そう。さて……と。未来ちゃんもそうめんでいいかな? ファーさんもそれだけじゃ足りないだろ?」
「え、二人分茹でたのに……」
「ハハハッ。ファーさんは見た目からじゃ想像できないくらいに大食漢でねぇ。三、四人前はペロリさ」
「うそぉ……」
「そんな話はどうでもいい。早く茹でろ」
「ハイハイ」
 もし足りなかったらと思い、二人分を茹でて出したところ織部から衝撃的な事実を知らされた未来は言葉を失ってしまう。織部よりも細いその体のどこに入るというのか。
 織部も不破の言い分に苦笑しながらも買い物袋を畳の上に置き、制服の上着を脱ぐと台所へ。そうめんを茹でる支度に取り掛かる。
 鍋の水を新しいものへ変え、それとは別の鍋にも水を入れて沸かしている間に冷蔵庫から必要な材料を取り出す。その後ろ姿を見て未来はなんだか座っているのが申し訳なくなって立ち上がると、買い物袋を持って台所へ。
 作った料理などを一時的に置くためのだと思われる小さなテーブルの上に袋を載せると自分が織部のエプロンを着けたままなのを思い出し、控えめに彼に声をかける。
「あの、織部君。エプロン借りちゃってて……」
「いいよ。そのまま着けてて。制服が汚れたりしたら困るだろ?」
「ありがと。それにしても織部君、手際がいいんだね。慣れてるって感じ」
 織部の真横に立って覗き込めば女性のものかと思うほどに美しい手が包丁を操り、食材を切っていく。プロと言われても納得できてしまうほどの手捌きに未来は思わず魅入ってしまう。
「そりゃあ毎日ファーさんの食事を作ってればね。あ、お湯が沸いたみたいだ。こっちの鍋には麺を、残りのにもやしを入れてもらっても?」
「まかせて」
 必要分のそうめん、そしてもやし一袋をそれぞれの鍋へ。茹で上がるのを待っている間に買い物を冷蔵庫や戸棚にしまったりと手伝い、そして──。
「よし。出来上がりっと。未来ちゃん、悪いけど先にファーさんに持っていって」
「追加で二人前。本当に食べれるのかなぁ……」
 そうめんが茹で終わり、不破から回収したガラスの皿に綺麗に盛り付けると織部は未来に配膳を頼んだ。涼を感じる皿の上に食べやすいように一口サイズに丸めてある麺たちに織部が作ったつゆ。ハムやきゅうり、錦糸卵やもやしを和えて味付けをした冷やし中華を連想させるさっぱり系のサラダ。
 盛り付けも綺麗なのでまるで店の料理のようだ。見ているだけで唾液が口の中に溢れ、ごくりと音を立てて飲み込む。
 肝心の不破はあぐらを掻いた楽な姿勢で本を読んでいた。上げ膳据え膳だが逆にそれが彼らしいと思ってしまうのだから不思議だ。
「はい、不破君」
 目の前に配膳しても彼の視線は本に釘づけのまま。しょうがないなと苦笑していると織部が未来の分を持ってきてくれた。こちらも不破と同じく美しい盛り付けで見た目も楽しめる食事。
「織部君は座ってて。私がやるから」
 家で母の手伝いを率先してやっているせいか、体が動いてしまう。織部も未来の申し出に悪い気はしないのか彼女が座るであろう場所に座布団を敷いてから不破の正面の位置に座り、未来を待つ。
 一方こちらは台所。ステンレスのざるに盛られたままのそうめんを指を使用して器用に丸め、皿に盛り付ける。淡々とこなし、つゆやサラダをそれぞれの食器に入れ、箸と一緒にトレーに載せて織部のもとへ。
 彼の横に両膝をついて皿を座卓に載せていく様子はどこか奥さんのようにも見える。
「こうして見るとまるで未来ちゃんがオレのお嫁さんになったようだよ」
「はいはい。誰にでも言ってるんでしょ?」
「そんなことはないさ。キミにだけ」
 甘い微笑みでの言葉に織部の取り巻きの女子ならば舞い上がるくらいに嬉しいのだろうが、未来は重みのない言葉を華麗にスルーしてトレーを片付けると台所に近い席に腰を下ろす。ちょうど彼らと未来の席を繋ぐと三角形になる位置だ。
「いただきまーす」
 手を合わせて食事の始まり。まさか悪印象を抱いていた人物たちとこうして短期間で食卓を囲むなんて、と不思議な気持ちになりながら丸く纏められた麺を市販のつゆに調味料を足したものにくぐらせる。
 薄茶色のつゆが細麺にほどよく絡まり、つゆの海で揺蕩う姿は美しささえ感じる。麺を掴んでいる箸を数回左右に動かし、もういいかなと思ったところで口の中へ。
 出汁がきいたほんの少しだけ濃いめのつゆの味とそうめんの食感、コシのある麺は噛めば噛むほどに味わい深くなっていく。──美味しい。普段食べる麺も決して不味くはないのだが、やはり値段が高いだけあって全然違ってくる。こんなにも上等なものを食べているのだ。もし安い麺を出したら不破君は食べないんじゃ? そう思えるくらいの違い。
(あっという間に飲み込んじゃった……)
 まるで早く寄越せと腹が訴えてくるかのように口内にあった麺は飲み込まれ、胃へと運ばれてしまった。
 もっと食べたい。その欲求に素直に従って再びそうめんに箸を伸ばし、つゆにつけて食べる。部活終わりでお腹が減っているからか。単調なこの動作がとても尊いもののように錯覚してしまう。
(そうだ、サラダも……)
 口内を空にすると今度は織部が作ってくれたサラダへと目を向ける。透明な小鉢に入っているおかずは冷やし中華をイメージさせる色彩を放っていた。具はどの家庭にもあるようなもので味付けはポン酢を使っていたはず。織部の調理の様子を思い出しながら食べればもやしやきゅうりのシャキシャキ感や酢のサッパリとした味付けは暑い日にはぴったり。
「……えと、なに?」
「いや……。すごく美味しそうに食べるなぁ、って」
 ふと、織部の視線を感じ、食事の手を止めれば彼の赤い瞳がじいっとこちらを見つめていた。不思議そうに見てくる眼差しになんだか恥ずかしくなって視線を逸らし、小さな声で聞いてみれば彼の返答に火が出そうなくらいに顔が熱くなる。そんな言い方、まるで食いしん坊のような。
「そうかな? 自分じゃ分からないや」
「キミの幸せそうな顔を見てると、作ってよかったと思うよ」
 けれどここで慌てるわけにはいかない。心を落ち着かせて平静を装ってクールに返事をすると彼は恥ずかしいセリフを当たり前のように言うのだから困る。さすが学校で一番モテる男は違う。
「毎朝お味噌汁作ってあげようか?」
「はい?」
 座卓に頬杖をついて妙に艶っぽい表情でなんの脈絡なく発せられた言葉に、未来の脳内はハテナマークでいっぱいになる。
「別にキミが嫁がなくてもオレがキミに嫁入りしたっていいんだ。毎日丹精込めて料理を作るし、脳天からつま先までバッチリお世話してあげるよ」
「……もともとイカれてると思っていたけどこの暑さでもっとおかしくなっちゃったのね。かわいそうに」
「未来ちゃんって結構お堅いんだな。オレ的には全然アリだぜ?」
 嫁入りだのなんだのと女が言うのならまだしも、彼は男。おかしいと突っぱねるも、織部は逆にこちらの考えが古いと暗に言ってくる始末。
(っ〜〜! ほんと、顔だけはいいから困る……!!)
 性格は最悪でも顔は都会のモデル……いや、それ以上。未来も女の子。織部とは複雑な関係ながらもその顔はずるいと思ってしまう。
 気づかないうちに這い寄り、こちらをがんじがらめにする蛇のような男。危険な男だからこその魅力が生娘でろくに恋愛耐性のない未来を襲う。
 レッドスピネルをそのまま嵌め込んだような目を細め、視線で誘惑してくる男に心臓の鼓動が速まっていく。ドクドクと高らかに打ち鳴らし、汗がじんわりと吹き出て額に浮かぶ。
「おい」
「ん? あぁ」
 完全に二人きりの世界に閉じ込められていた未来だが、図らずも介入してきたのは不破だった。黙々と食事を続けていた彼だが一言だけ発言するとそれだけで織部はなにを求めているのか分かったようで、空になったコップに麦茶を注いでいく。なにをしてほしいか告げずとも分かる二人の関係は小学校からの付き合いを超えて熟年夫婦のようにも思える。
 なににせよ助かったと安堵すると、未来は食事に戻るのだった。

   ***

「ごめんね織部君。送ってもらって……」
「気にしないで。暗い夜道を女の子ひとりで歩かせるわけにはいかないさ」
 食後に市販の中でもお高いアイスを出され、改めて彼らとの金銭感覚の違いを濃厚なバニラの味とともに思い知った未来の帰宅はすっかりと暗くなってからだった。
 親には友達の家に寄るから遅くなると連絡を入れてあり、不破の家を出たところで今から帰るともう一度電話をしたので大丈夫だろう。
 日が出ていたときの暑さが嘘のように涼しくなり、冷たくて優しい風を心地よく思いながら点々と存在する街灯が照らす薄暗い道を二人並んで歩いている、と。
「ん?」
 前方に設置されている自販機。街灯の光に吸い寄せられて飛ぶ虫たちの下、スポットライトのように照らされている特徴的な箱の前に立つのは数時間前に見た男子生徒だった。
 兄貴と呼ばれていた高校生の後ろに控えめな感じでいた彼。凶悪な人相の男たちの中でぽつんと一人だけ大人しそうな顔つきだったので未来も薄っすらと覚えていた。
「……あ! お前──じゃなかった、うっす! 姐さん。あの不破……さんの彼女のあなたが狂犬織部を舎弟にして連れ歩いているなんて流石ッス!」
 あちらも気づいたのだろう。顔をこちらに向けるとだらしのない立ち方だった背がピン、と伸びて頭を下げてくる。なんとも綺麗な姿勢だとぼんやりと思うが、彼の盛大な勘違いに頭の中が真っ白になる。
 誰が不破君の彼女だって? 織部君が舎弟? ──自分の!?
「は……、え……? なんで私が不破君の彼女になってるの!?」
「俺見たんです。俺たちが離れたあと、不破さんとあなたが抱き合ってるの……。それに具合の悪い彼氏を守るため、竹刀を構えて庇うその姿は女の子だってのにカッコよかったし……! あんなの恋人以外のなにものでもないですよ!」
「ちょっ、それは違くて……!」
「じゃあ俺はこれで!」
 顔を上げ、目を輝かせて無邪気な顔を向けてくるのが逆に申し訳なく思ってしまうほどの勘違いに未来は慌てて訂正しようと口を開きかけるが、その前に男子はビシッと頭を下げて行ってしまった。ああ、もしかしたらまた変な噂が広がってしまうかも……。今にも地面に座り込んでしまうくらいにがっくりと肩を落とす未来にずっと黙っていた織部が励ますように肩を数回叩く。
「なんだか面白そうなことになっているじゃないか。オレが知らない間にファーさんとキミがデキていたなんて」
「だから違うって……! あの人の勘違いなの、本当に……!!」
 完全にこちらをからかっている織部に未来は今日あった出来事を包み隠さすに白状する。まるで神に自分の罪を告白するような変な気持ちになりながら一生懸命に伝えれば、織部は腹を抱えて大爆笑。こっちが大変な思いをしているのに! と眉間に皺を思い切り寄せて顔をしかめれば、目尻に薄っすらと雫を浮かばせながら「分かった、分かったよ」と織部は言うものの、笑い過ぎてヒィヒィと苦しそうだ。
「ハーーーー……。こんなにも笑ったのは初めてかもしれないな」
「……怒らないの? 不破君と私が──とっさのこととはいえ、抱き合う形になっちゃったし。その、相手の勘違いだけど恋人同士とか……」
「え? 別に。逆に美味しいっていうか……。ファーさんのモノになったキミとか、彼から寝取ったみたいで興奮するね。3Pも余裕だぜ? 後ろはファーさん、前はキミってのもなかなかにオツなモノだ」
「…………」
 織部にとって不破は愛という言葉さえ陳腐に思えるほどの過激な感情を抱く相手。そんな彼と自分が恋人と言われ、てっきり怒るかと思いきや、想像をはるかに超える思考回路に言い返すのも馬鹿らしくなって未来は自然と閉口してしまう。

   ***

「送ってくれてありがとう。織部君」
 紆余曲折あってようやく未来は自宅にたどり着くことができた。ただ帰るだけだというのにこんなにも疲れるなんて。彼が持つと言ってくれた竹刀袋やスクールバッグを受け取りつつ、お礼を言えば荷物を渡し終わった織部はついさっきまでふざけたことを言っていたのが嘘のように神妙な顔つきになり、未来の片手を優しく握ってきた。
「なあ未来ちゃん。まだオレの女になる気は起きないのか」
「……最近の織部君は毎日学校に来てるし、校内で問題も起こしてない」
 握られた手を俯き加減に見つめながら学校外は違うと思うけど、と内心付け足す。
「正直、蒼人との件があったのが嘘のようにあなたに対する嫌悪感はなくなっていってる」
「それじゃあ……」
「でもやっぱり駄目なんだ。まだ……。面倒って思うかもしれないけど、私の中で恋人ってそう簡単な関係じゃなくて……。中途半端な気持ちで答えを出したくない。あなたにも失礼になっちゃうから。……ごめんね」
 モヤモヤとした気持ちが未来の中に渦巻く。織部への心の壁が崩れていっているのは事実。彼自身の香りが自分の中で馥郁たる香りになっていることも。答えなんてもう出ているといっても過言ではないのに、決断することを先延ばしにしてしまう。
 引っかかるのは蒼人やあの子のこと。幼馴染の彼を苦しめ、大切なあの子にまで魔の手を伸ばそうとした織部が許せない──いや、それ以上に彼らに対する裏切りのように思えて。
 例えば共通の友人の櫂と恋仲になったとしよう。蒼人やあの子も喜んで祝福してくれるのが目に浮かぶ。だけど織部は……。
 握られた手を優しく彼から離し、未来は力なく微笑む。
「じゃあまた明日ね、織部君」
「ああ、また明日。なんなら通学路で待ってようか?」
「それはやめて。……なんか、あんまり気にしてない感じ?」
「ま、想像どおりだからな。お堅いからこそ、堕とし甲斐があるというものさ。キミも重々承知してるだろう? オレがしつこいってコト」
「私としては諦めてくれた方が織部君のことで頭を悩ませなくていいんだけど」
「へぇ? それを聞いてなおさら諦めが悪くなったな。オレのことで頭をいっぱいにして、懊悩おうのうするキミ……! 正直興奮するよ……!」
 どこまでも平常運転の織部にジト目を向け、嘆息すると未来は彼を放置して家の中へ。閉じられた扉に背を預け、大きくて悩ましげなため息を吐き出せば、気を取り直して靴を脱ぎ始めるのだった。

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