風邪を引いた織部を看病する未来ちゃんの話

(織部君……どうしたんだろう)
 今日は月曜日。部活終わりのちょっぴり遅めの帰宅時間。夕暮れの夏の気配漂う爽やかな風を肌で感じつつ帰宅路を歩きながら考えるのは、織部のことだった。
 先週の金曜日、突然の雨に降られて困っていたところを彼に助けられた。自分の制服の上着と折り畳み傘を未来に貸して去った織部は雨に濡れてずぶ濡れだったはず。
 そして今日、彼は学校を休んだ。今までどおりの彼ならば特に気になることはないが、最近は未来との約束を守って不破がいなくとも毎日登校してきていた。
 加えて金曜日の件。担任教師はなにも言ってなかったが、もしかして体調を崩してしまったのだろうか。
 彼に借りた物とお礼のお菓子が入った紙袋の持ち手を、未来はキュッと握りしめる。
 もし彼が体調を崩してしまったのなら、間違いなく自分のせいだ。そう考えるとなんとなく落ち込んでしまう。
「ぅう……」
「ん……? 声……?」
 どこからか聞こえてきたうめき声に未来は俯き加減になっていた顔を上げる。きょろきょろと辺りを見回しても声の主は見当たらない。見慣れた風景が広がるばかり。
「ゃ……やめてくれ……!」
「えっ……!?」
 今度は先ほどよりもはっきりと聞こえた。この声は木々が生い茂る方角から聞こえてくる。
 危険な香りが漂うが、正義感の強い未来は声の主を探すために歩き出す。
 緊張の面持ちを崩さずに声が聞こえた方向へ歩いていくと声が少しずつ鮮明になってきた。そして前方に見える開けた場所には黒い服を着た銀髪の男性がこちらに背を向ける形で立っており、その足元付近には数名の男子生徒が倒れている。
「あなた……不破君?」
「お前か……。なんの用だ」
 声をかければ振り向く男の顔は日本人離れしているほどに美しいが、その声は非常にドスの利いた声で聞く者を震え上がらせる。
 不破大黒。織部が崇拝にも似た巨大感情を抱く相手。蒼人が織部に絡まれるきっかけになった人物だが、未来は怯んだりしなかった。彼が理由なくこちらに危害を加える人間ではないと分かっているからだ。
「苦しそうな声が聞こえたから来てみただけ。……不破君。この人たちは……」
「織部がいないことをいいことに、俺に絡んできた奴らを返り討ちにしただけだ」
「あはは……。そうだ、織部君のことなんだけど……今日休んだ理由とか知ってたりする?」
 織部と比べると小柄な不破だが、その力量は計り知れない。それが分からずに複数人だから勝てると思い込んで絡んだ哀れな男たちに心の中でご愁傷さまと同情の言葉を送りつつ、未来は織部のことを聞いてみた。
 織部とセットでいることが多い彼。もしかしたら理由を知っているかもしれない。
「そんなことを聞いてどうする」
「もし、体調を崩して休んでいるのなら──私のせいだから」
 別の理由で休んだならそれでいい。でももし、具合が悪いのなら……と未来は不破を見つめる。夕焼けの光を反射するはしばみ色は揺れており、彼女の本気を垣間見た不破は目を閉じるとため息ひとつ。
「風邪をこじらせたそうだ。正直、織部が風邪を引くところなど初めて見た」
「やっぱり……」
 想像どおりの答えに未来の背中に“責任”という文字が重くのしかかる。織部自身の意思とはいえ、自分を助けなければ雨に濡れて風邪を引くことなどなかったはず。
「ねえ不破君。お見舞いに行きたいから織部君の家を教えて」
「……分からんな。お前は織部のことを嫌っているはずだ。お前と奴の間になにがあったかは知らんがそんな男の家に行きたいとはな」
「それは……そう、かもしれないけど。渡したい物もあるし。お願い……!」
 嫌っている。その言葉を聞いたときに感じたのは違和感。だが理由は分からない。
 織部は蒼人を苦しめた張本人。今は大人しくしているとはいえ……。
 けれど前に比べると悪感情は若干薄れているのかもしれない。彼にほだされかけている。それがいいことなのか、悪いことなのかは置いておいて。
 一歩も引くことのない未来の目に不破はどこまでも冷たいアイスブルーの瞳を不意に逸らすと、踵を返して歩き出す。
 戸惑っている未来に対して気だるげに首だけで半分振り返る。その顔は“ついてこい”と言っているように思えた未来は改めて紙袋を握り直すと、一定の距離を保ちながら不破のあとをついていく。
 互いに無言のまま歩くというのは気まずいものを感じるが、不破となにを話せばいいのか分からないので結局口を閉ざすしかない。
 重たい沈黙を引きずりながら数分。普段通らない道を進んでいくと緑が少なくなっていき、閑静な住宅街が見え始めた。大小様々な家が並ぶ中にどうやら織部の家はあるようだ。
「……ここだ」
「ここが織部君の家……」
 とある戸建て住宅の前で不破は立ち止まり、未来もそれに倣って止まる。見上げる先にある家は洋風の作りで自分の家よりも大きい。ここに家族で暮らしているのか。
 織部の母や父はどんな人なのだろう。もしかして彼のような性格をしてるのか。ちょっぴりの不安を感じながらも未来の心はひとつに決まっていた。
「あっ……、教えてくれてありがとう! 不破君」
 無言で立ち去ろうとするその背中に感謝の気持ちを伝える。彼からの反応はないが、それが不破らしいと未来は口元を緩めると、彼が消えた先に驚愕から瞠目した。
(えっ!? 不破君の家って織部君の隣なの!?)
 織部宅の隣に建つ和風の家。こちらも大きく外観からして庭も広いと思われる。
 噂では小学校以来の付き合いらしいが隣人同士ならば濃密な関係も頷けるものがあった。
 もしや家に帰るついでに教えてくれたのでは……。という確信にも似た考えが浮かぶ。仮に織部の家が不破の家から離れていたら──言葉では教えてくれるかもしれないが、こうして案内まではしてくれないだろう。意外と親切と思っていたが、やはり不破は不破だった。
 結果的には織部の家を教えてくれたのだ。未来は気を取り直すと玄関へと向かい、呼び鈴を鳴らすも屋内からは物音ひとつしない。
 少し間を開けてもう一度鳴らしてみるが無反応。もしかして織部君は寝ていて家族は留守なのかな? と思いを巡らせ、なんとなく、自分でもどうしてそうしようと思ったのか分からぬまま体が先に動いていた。
 玄関のレバーハンドルを動かせば、無施錠の扉があっけないほどに簡単に開いてしまったのだ。
(ぶ、不用心……!)
 まさか鍵がかかってないなんて! 泥棒に入られたらどうするんだろうと自分のことのように思いつつ、勝手に入るなんて……! という後ろめたい感情を抱きながらも中へと未来の体は動いてしまう。どうしてなのかは分からない。
「あのー……すみませーん……。誰かいませんか〜……?」
 中は意外と普通で洋風な空間が広がっており、がらんとしている。玄関にある靴は織部のもののみで他の家族の靴は見当たらない。やはり出かけているのだろうか?
 これじゃあ泥棒みたいだ。日を改めてまた訪ねようと外へ出ようとしたとき、なにかが聞こえた。
 静寂の空間に突然の音は未来の心臓を少しばかり縮み上がらせ、耳をそばだてれば、奥から苦しそうな声が。
 そこは正義感あふれる未来。デジャヴを感じながらも意を決すると靴を脱ぎ、声の聞こえる方──リビングへと向かえば、そこには床に倒れる織部の姿があった。
「織部君!?」
 荷物を床に放り出し、彼に駆け寄る。両膝をついて彼の顔を覗き込めば彼の白い肌は赤く染まり、その眉間はつらそうに皺が寄せられていた。
「織部君、織部君」
 上下ともに黒のスウェット姿の彼の肩を優しく揺り動かしてみるも、反応がない。
 服越しに触れた肌は熱を持っており、風邪をこじらせたというのはどうやら事実の様子。
 声かけを続けながらどうしようと考えあぐねていると、織部が目覚めたようだ。重たそうに目蓋を持ち上げ、視界に映った人物に瞬間目を見開く。
「未来ちゃん……!? どうしてキミが……」
 魅惑的な低い声は掠れており、織部の体調不良の度合いがそれだけで窺える。
「私は……その、織部君が学校を休んで、たまたま不破君に会ったから理由を聞いたら風邪をこじらせたって。……私のせいで……ごめんなさい」
「別にオレが勝手にヤッたことだからキミが気に病む必要はないさ。それよりも、オレが学校に来なかっただけで気になっちゃった? こうして家にまで来るなんて結構大切に思われてる?」
「そんな軽口が叩けるなら大丈夫そうだね。じゃあ私帰るから」
「ちょっとちょっと……! 床に倒れてる病人を放置するつもり?」
「……ねえ、他の家族は出かけてるの? こんなに具合の悪い織部君を置いて」
「この家には今オレしか住んでないよ。だからどれだけ待っても誰も帰ってこない」
 見た目高校生とはいえ、織部は自分と同じ中学三年生。それぞれ家庭の事情があるとは思うが、中学生がひとり暮らしというのは……と思考したところで未来は考えることをやめた。そもそも彼の家庭のことを突っ込んで聞くような間柄ではない。
「とりあえず寝るならベッドの方がいいと思うんだけど……起きれそう? 肩くらいなら貸すよ」
「ならここはキミの優しさに甘えようかな……っと」
「っ……重い……。もう少し自分の力で立ってほしいんだけど」
「悪いねぇ。普段だったら一人で勃てるんだが今はキミの身体を借りないと勃つのは難しいんだ」
 織部に自分の肩を貸すことで立ち上がらせることができた未来だが、思いの外重くてふらつきそうになる脚に力を入れることで耐える。
 織部がまた卑猥な言葉遣いをしているが、なんだが慣れてしまったのもあってスルーするとゆっくりとした足取りでリビングを出た。
 大切な友人を苦しませた人間のプライベートな部分まで踏み込んでいる。少し前ならばあり得ないことだ。
 織部の指示で一階にある彼の寝室へと向かうことになった。玄関から奥まったところにある部屋。扉を開ければシンプルながらも大人な雰囲気が漂っており、肝心のベッドは一人で寝るには大きい。誰か他の人間と肌を寄せ合って眠ることもあるのだろうか?
「心配しなくても家にはファーさん以外上げたことないし、この部屋に至ってはオレしか使ってないよ」
「なんで私がそんな心配をすると思うのか不思議だよ」
 まるで心を読まれたように欲しい言葉を紡ぐものだから内心驚くが、それを表に出すことはない。
 ツンとした態度ながらも未来は織部をベッドまで連れていく。少し乱れている掛け布団を軽くまくり上げ、さあ寝かせようとしたところで背後から押し倒され、男の重みが一気に全身にのしかかる。
 熱を孕んだ体に苦しそうながらもどこか艶っぽい呼吸。その息が耳にかかり、未来の意思に反して体がビクッ! と小さく跳ねてしまう。
(織部君の匂いが……っ……!)
 今まで生きてきて色々な香りを経験してきたが、彼自身の匂いはそのどれよりかも圧倒的に良い匂い。この香りをずっと嗅いでいたいと思ってしまうくらいには。
 制服の残り香でも相当なものだったのに、今は密着している。濃厚な幸福フレグランスに未来の心臓は少女漫画の主人公のように高らかに脈打って止まらない。
 やばい。非常にやばい。頭の中で警報がけたたましく鳴り響くも、織部の体は筋肉のせいか見かけよりも重くて動けない。
 熱い体に押し潰されているというのに妙に心地よくて変な気持ちが湧いてくるが、このままではいけないと全力でもがけば、なんとか織部の下から這い出ることに成功した。
「ちょっと織部君! いきなりなにを……」
「っ……はぁ……はぁ……わるい……」
「織部君……」
 うつ伏せの体勢で呟く彼にとって今の行為は不本意だったようだ。素直な謝罪と様子で相当具合が悪いのだと知り、手を貸してやることでベッドに仰向けに寝かせ、布団を掛けてやる。
 目を閉じている彼は苦しげに呼吸を繰り返し、今までの態度も無理をしていたのだと理解した。
「織部君。薬とか熱冷ましのシート、ある?」
「あ〜……引き始めのときに薬局で買ってきたのがリビングに……」
「分かった。ちょっと待っててね」
 織部を残して未来は再びリビングへ。キッチンと繋がっているタイプの居間は広く、ソファーやテレビ、様々なインテリアが鎮座していた。
 織部が言っていた物はダイニングテーブルの上に袋に入ったまま置いてあった。なんの変哲もない白いビニール袋の中身をテーブルに出してみるとスポーツドリンクや薬、熱冷ましシートが入っており、薬の箱を読めば食後と書いてあった。
 なにか食べれればいいけど……と思いつつ、まずはシートと飲み物を持って寝室へ。借りてきた猫のように大人しい織部の額にシートを貼り、飲み物を飲ませようと起き上がるように告げるが、彼はなにかを訴えるようにジーッと未来を見つめてくるばかり。
 目を見れば分かる。起こしてほしいのだと。
 心の中で若干怯んでしまった未来だが、責任感と弱り切った彼を見捨てることができない性格なのでベッドのサイドに置いてある小さなテーブルに飲料を置くと、彼の首の下に腕を回して起き上がらせてやる。
「なにか食べれそう? 薬を飲むにしても少しでも食べたほうがいいと思うけど……」
「その口ぶりだともしかして未来ちゃんが作ってくれたりする?」
「……お粥くらいなら作るよ」
「キミが作ってくれるならなんでも食べるさ。食材も冷蔵庫に入っているやつは好きに使ってくれて構わない」
 織部がペットボトルを傾けながら中身を飲むのを見つつ、話しかければ自然な流れで料理の話になった。
 料理は特別得意というわけではないが、簡単なものなら作れるとお粥を提案すれば織部は嬉しそうな顔をし、そんな表情もできるのかと少し驚く。
「じゃあキッチン借りるね。大人しく寝ていてよ?」
「はぁ〜い」
 この男は本当に織部なのか。そう疑ってしまうくらいに彼は未来の知らない一面を見せてくる。
 噂レベルながらも織部なら……と納得がいってしまう話の中に大人の女性たちを侍らせているという話があった。
 彼の性格はともかく、なぜこんな田舎にいるのか不思議なくらいに見てくれだけは都会のモデル級。特に年上の女性に今のように甘えれば彼女たちはイチコロなのではないか。うん。きっとそう。
 キッチンは新品のようにピカピカで普段あまり料理しないのかと思いきや、冷蔵庫には食材が豊富で調味料もひと通り揃っている。
 明らかに一人の量ではないのでもしや誰か──不破に作っているのか? と思ったが、とりあえずお粥を作る材料を揃えると未来は調理を開始した。
 体調を崩した母に作ったことのあるお粥。そのときのレシピを思い出しながらしばらくして。小鍋に作ったたまご粥を茶碗に盛り付け、スプーンや水、薬と一緒にトレイに載せると寝室へ。
 部屋に入ると織部は横になっていたが、未来が食事を持ってきたことに今度は自分の力で起き上がった。
 やっぱり自分で動けるんじゃないか。そこまでして甘えたいものなのかとも思ったが、ここは我慢。薬と水をナイトテーブルに置くと、茶碗が載ったトレイを掛け布団越しの彼の膝へ。
「味の保証はできないけど……」
「キミが作ってくれた食事だ。絶対に美味しいさ」
 一応味見はしてあり、不味くはないはず。それでも予防線を張れば、彼は自信たっぷりに美味しいと告げ、そのまま。
 食べないの? そう思って茶碗に向けていた視線を上げれば、またなにかを訴える目。今の状況では食べさせてほしいの意。この男、どこまで人に甘えるつもりなのか。
「一人で食べれるよね? どう見ても」
「身体がだるくて手を動かすのも億劫なんだ。未来ちゃんが食べさせてくれないと薬も飲めないな。もしかしたら明日も休むハメになるかも……」
「さっきペットボトルを持って飲んでたよね」
 息を吐くように嘘をつく男にげんなりとするが、傷ついた子犬のように潤んだ双眸を向けられると変な罪悪感が心をチクチクと突き刺す。
「あー、もう! 分かったよ。食べさせればいいんでしょ、食べさせれば……!」
 やはりそこは織部に対して負い目がある未来。がっくりと肩を落とすとベッドサイドに座り、茶碗とスプーンを手に取る。
 柔らかな雰囲気漂う黄色のお粥をひと口分を掬うと息を吹きかけて冷まし、織部の口元に持っていけば彼は形の整った唇を開けてお粥を食べ始めた。
「ふぅ……身体の隅々まで染み渡る旨さだ。未来ちゃんの作った料理がオレの糧になっていく。想像するだけで元気になってくるよ」
「いちいち変なことしか言えないの? 織部君」
「うん? オレは別に変なことなんて言ってないぜ? キミの料理を食べて体力が回復していく……という意味で言ったんだが。フフッ、キミはナニを想像したのやら」
「ッ〜〜……! ほらっ、まだ残っているから早く食べて!」
 羞恥心やらなにやらで瞬間湯沸し器のように顔が熱くなる。表情からして絶対織部はいやらしい意味で言ったとは思うが、言い逃れもできる言葉の羅列なので悔しい。
 その後も織部との会話を織り交ぜながら食事を食べさせ、薬を飲ませた。あとは寝て体力を回復させるのみ。自分のとりあえずの役目は終わった。
 時間も時間なのでそろそろ帰らなくちゃ。そう思ってベッドの端に座っていた腰を浮かせかけると、織部の手が未来の片手を握ってきた。
 未来よりも大きな手。ただ握ってくるだけの手は“行かないで”と言っているように思える。
「なあ、オレが眠るまでここにいてくれないか」
「でももう帰らないと」
「頼むよ。ここまで体調を崩したことが今までなくて……不安なんだよ」
 織部の言いたいことは分かる。未来自身も体調が悪いとき、なんとも言えない不安感があった。自分の場合は母親が看病してくれるが、織部にはそういう人はいない。
 否。連絡すれば喜んで駆けつける女はいると思う。だが彼は不破以外の他人を家に上げることはしない様子。そして仮に不破に頼んでも彼は来ないだろう。
 完全な一人。もし自分が織部の立場だったらと考えると、とても寂しい。
 ナイトテーブルに置いてあるデジタル時計をちらりと見ればまだ時間に余裕はある。少しだけなら滞在時間を増やしても問題はない。
「……分かった。でもそんなに長居はできないよ」
「ああ。分かってる。帰るときは向かい側の部屋にあるオレの鞄に鍵が入ってるから使って、ポストに入れといてくれ」
 未来が残ってくれることが嬉しいのか、織部は微笑むとその赤い瞳を閉ざした。未来も握られたままの手をほどくことはせず、好きなようにさせておく。
(なんだか織部君のお母さんになったみたい……)
 目を閉じた織部の顔を見下ろし、ぼんやりと思う。
 こうして見るとどこか少年の面影があり、自分と同年代なんだなとしみじみと感じる。
(意外と前髪長いんだ)
 普段は髪をセットしているために分からないこと。些細なことだが、織部のことをまた一つ知ることができた。
 もし蒼人の件がなければもっと違う感情を彼に抱くのだろうか? そんなことを考えながらただ手を握らせているだけの状態で少しすると、静かな寝息が聞こえてきた。どうやら眠ったらしい。
 起こさないように慎重に手をベッドから引き抜くと、そのまま部屋を出た。扉越しに顔だけ振り返り、彼の回復を願うと目の前の部屋に入る。
 そこはデスクやパソコンなどが置いてあり、一角にはりんたろーくんグッズが飾ってある。彼がいつも飲んでいる飲料のイメージキャラで、かなりのファンのようだ。
(ここも織部君の匂いが……)
 本人は反対側の部屋で寝ていることをいいことに未来は目を閉じて深呼吸を数回。全身に巡らせるように彼の香りを堪能すると、目を開けた。
(いい匂い……ってこれじゃ変態じゃない……!)
 客観的に考えると恥ずかしいことをしているという自覚がじわじわと未来の頬を紅潮させる。だってしょうがないじゃないか。いい匂いなんだから!
 邪念を振り払うようにして首を左右に動かすと、彼の言葉を思い出しながら鞄を探す。目的のものはデスクの上に出しっぱなしで、中を探ればすぐに鍵を見つけることができた。これで鍵を閉めて帰宅できる。
(お粥の残りは冷蔵庫に入れたし、借りたものは……ここに置いておけばいっか)
 リビングへとやってきた未来は彼が起きたときに気づくように簡単なメモ書きを残すとダイニングテーブルに置いた。
 彼に返すものが入っている紙袋。まさかただ返すだけなのにこんなにも時間がかかるなんて、と苦笑すると袋は椅子へ。
 自分の荷物を手にして外に出るともう夜の帳が降りかかっていた。空はオレンジと夜色のグラデーションで心惹かれる光景が広がっており、つい見入ってしまうものがある。
「……さてと。早く帰らなくちゃ」
 鍵をしっかりと閉めて、彼の言葉どおりポストに入れると未来は住宅街を抜けていつもの通学路へ。見慣れた風景のはずなのに、時間が数時間違うだけで普段とちょっぴり変わった景色を楽しみながら未来はだいぶ遅い帰宅をするのだった。

   ***

「ファーさん。これ、一枚食べてみなよ。結構イケるぜ?」
 翌日。校舎裏の林、いつも彼らがたむろしている場所にて。すっかり快復した織部は木の根元に不破と並んで座っており、その手には彼が好きなキャラクターであるりんたろーくんの顔をしたクッキーが。
「市販品ではないな。お前が作ったのか?」
「まさか。これは未来ちゃんがこの間のお礼、ってくれたのさ。甲斐甲斐しく介抱してくれて、さらには美味しいクッキーまで。しかもオレが好きなキャラ。はぁ、普段はツンツンしているのにさぁ……。こういう優しい面も見せてくれるなんて最高だよ」
「お前を構った果てに自分が風邪を移され休むはめになったがな」
「かわいそうに。オレと濃厚接触しちまったばっかりに風邪を引いて休むだなんて。まぁ彼女のおかげでオレは元気になったワケだけど」
 片手に持つ難読な本に視線を注ぎながら不破はクッキーを受け取り、ひとくち。普段あまり感情の起伏が少ない彼の顔がきょとん、としたどこか幼さを感じるものへと変わったことは未来のことをべらべらと得意げに喋る織部は気づかない。
「でさ、……って、ファーさん! それ最後の一枚……はぁ」
 織部の手にある透明な袋に残っているクッキーを不破は無言で手に取ると、迷わず自分の口へ。織部も最後は自分用に残しておいたのか、まさか不破がおかわりをするとは思っていなかったのも相まってがっくりと肩を落とす。
「もしかしなくても未来ちゃんの味、気に入っちゃった?」
「うるさい」
「フフッ。実はオレもそうなんだよ。なんか癖になる味なんだよねぇ」

   ***

「へくしゅっ! ……なんだか織部君あたりが噂している気がする……」
 一方こちらは未来の部屋。今の彼女は昨日の織部のように額に熱冷ましのシートを貼ってベッドに横になっていた。
 まさか彼から風邪を移されて、学校を休むはめになるなんて。漫画の中の展開ではよくあるが、まさか自分が当事者になるとは思ってもみなかった。
(織部君、風邪治ったのかな)
 自分が具合悪いというのに考えてしまうのは織部のこと。
 確実に自分の中でなにかが変わっていっている。そしてそれ止めることなんてできない。
 未来はなんともいえない気持ちになると布団を顔まで被り、悶えるのだった。

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