衷心は涙雨に隠して

「ぁ……」
「チッ。降ってきたか」
「織部くんがいれば折り畳み傘があったのにね〜」
 空はどんよりとした雲が広がる今日この頃。夏へと向けて徐々に暑くなってきたが、夏の前には梅雨がある。天気予報では午後から雨になると言っていたのを銀髪の少女、マリシャスは思い出しながら隣にいる少年の不機嫌そうな横顔を見た。
 不破大黒。悪魔召喚の術を用いて別世界の存在──自称悪魔なマリシャスを召喚し、彼のことを気に入ったマリシャスの方からキスひとつで契約したのだ。
 いつも一緒が当たり前な織部明彦は珍しく用事があると別行動をしていた。彼は陽の光に弱い不破のために折り畳みの赤い日傘を常時携帯しているのだが、あいにく今はいない。
 ぽつり、と雫が地面に落ち始めたのを見てマリシャスは織部くんが〜と呑気に呟くが、直後に不破の背後に傘代わりになるものを出した。
 マリシャスの背中から生える巨大な片翼の羽。蝙蝠の羽のように飛膜状になっており、赤黒くて禍々しい。まさに悪魔と表現してもいいほどの力強くて立派な羽だ。
 人間をすっぽりと覆い隠せるほどの羽で不破の頭上に屋根を作り、雨に濡れないようにしてやる。誰もいない田んぼ道といえどこの世界の常識と外れた行動をするのは通常憚られるが、マリシャスは自身に認識阻害の魔法をかけているために不破と織部以外には見えない。なので常日ごろから浮遊して移動したりなど、人外らしい動きを多用していた。
 不破は雨粒が急にやんだことに頭の上にある黒い羽を見上げる。青星の瞳は大きく見開かれ、その輝きの奥には隠し切れない知識欲が見える。マリシャスがこうして羽を広げるのは今回が初めてなのだ。この世界の動物とは違う質量、そもそも人外の翼。彼が興味を惹かれるのも無理はない。
「ご主人様を濡らすわけにはいかないからね」
「お前に羽があるとはな。フ、悪魔ならば当然か。……お前自身は濡れるようだが」
 マリシャスを守るものはなにもない。もう片翼を出現させるか、魔法でなにかしらの濡れない方法があるとは不破は考える。しかし彼の隣に立つマリシャスはどこか憂いを帯びた微笑みを浮かべると、曇天の空を仰ぐ。
 少量の雨はまたたく間に大雨と変化し、心を落ち着かせる音を伴って大地に降り注いでいく。マリシャスの全身をずぶ濡れにしていくも、やはり彼女はなにもしない。
「私の心配をしてくれるの? 意外と優しいんだね、不破くんって。でもいいんだ。たまには──雨に濡れたいときもある」
 そう呟くマリシャスの横顔、魅了の魔力が秘められた紅石はどこか泣きそうに細められ、頬を流れる雨粒が涙のように見えた。
 時折マリシャスはどこか寂しげな表情だったり、今のような顔を浮かべることがある。今回も不破はマリシャスの精神の揺らぎを感じ取ったが、彼が気遣うことはない。けれど。
「今日も学校に付いてきて有象無象たちを観察していたようだが。……元の世界に俺や織部以外の似た奴らがいて、懐かしんでいるのか」
 家に帰るため、歩き出した不破は珍しくマリシャスの素性に関して一歩を踏み込む発言をした。言われたマリシャスは彼の速度に合わせて足を動しながら逡巡したが、重い口を開いて「そうだね……」と肯定した。
 通常時はひょうひょうとして問題児である不破や織部を手玉に取る上位存在だが、今の彼女は見た目の年相応の少女に見える。それほどに深いところが影響を受けているのだ。いつもの余裕すら見えない。
「戦いとは無縁の平和な世界で穏やかな生活を送る彼ら彼女たち。やりたいことに打ち込んで、将来に向けて少しずつ羽ばたく準備をしているのを見て──私は…………」
 その先の言葉をマリシャスは言えなかった。
「……元の世界に帰りたいのか」
「帰れるわけないじゃない。不破くんってば意地悪なんだから」
「…………」
 本当に泣いているかのように歪むマリシャスの顔。その真実は雨のみが知る。
 “帰れるわけない”という言葉が、帰還の方法がないという意味ではなくもっと違う意味のように感じられた。
 マリシャスは不破に異世界──人間が暮らす島々が空に浮かぶ、空の世界の様々な知識を授ける代わりにこちらでの生活を保障されている。
 異界の知識は魔法だったり、生態系だったりと幅広いジャンルを網羅している。しかし。
 マリシャスは自身が空の世界でどのように生きていたのか、自分のバックボーンを語ることはなかった。今のように話しても似た存在がいた程度の小さなことだけ。己に関わることは一切話さない。まるで口にすることを恐れているように。
「俺はお前が元の世界でなにをしていたかには興味がない。たとえ世界を滅ぼしていたとしても。だが……いつかお前が吐露したくなったときは、聞いてやってもいい」
 不破は正面を見たまま足を止めることなく平坦に告げる。他人への興味が極端に薄い彼の言葉とは思えない発言にマリシャスは数秒呆けてしまう。
 が、我に返ると隠し切れない嬉しさを雰囲気に滲ませながら小さく笑った。
「……あは、不破くんデレ期? 可愛いんだけど。…………ありがとね」
 余裕たっぷりの人外を装いつつもマリシャスは素直に感謝の気持ちを述べた。まだ話せそうにはないが、いつかは。
 不破からは返事はなく、ふたりの間には沈黙のカーテンが下りるものの、彼の横に並んで帰路につくマリシャスのかんばせは、憑き物が落ちたように晴れ渡るのだった。

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