猫耳生えたジータちゃんとファーさんの話

 空の世界で特異点と呼ばれる存在であるジータには遥か遠く、全ての始まりである──今とは異なる世界・時代にルシファーという男と夫婦関係にあった。そしてルシファーが造り出した人工生命体であるベリアルを息子同然に可愛がり、三人で平穏な日々を過ごしていた。
 しかし運命というのは残酷なもので家族は望まぬ形で別離してしまい、ジータは最愛の人たちを求めて気が遠くなるほどの時間、輪廻転生を繰り返し、ようやくこの空の世界で彼らと再会することになった。だがここでも運命はどこまでも非情。
 ルシファーは神を否定するために終末を起こそうとし、ベリアルは前世と同じく彼のために動いていた。対するジータは彼らと生きたい。この空を一緒に旅をしたいと終末計画を止めるために衝突し──最終的にはルシファーを止めることに成功したが、次元の狭間に吸い込まれそうになっている最愛の人を見捨てることなんてできないと、一緒に戦った仲間や相棒のビィ、一度死んだ生命に再び輝きをくれたルリアにお別れをしてルシファーと共に次元の狭間に消えていった……はずだった。
 ジータがルリアたちと別れてから数日後。大きな戦いのあと、休息の時間としてとある島に停泊していたグランサイファーの上空に位置する空間が突如割れ、そこからジータを抱えて堕天司の王が舞い降りたのは記憶に新しい。
 預言者という存在にルシファーの力は半分以上封印されており、ベリアルの力もサンダルフォンや四大天司たちによって封印を施された上でふたりがグランサイファーに滞在することを許された。広大な空の世界に放つよりかも同じ艇に乗ってもらった方が監視しやすいからだ。
 そもそも次元の狭間にいる間にジータとルリアの間にある繋がりに割り込む形でルシファーがほとんど生命のリンクを乗っ取り、今では彼によってジータは生かされていた。なので無理に離せばジータの命も危ぶまれるというどうしようもない状況だった。
(まさかこんなことになるなんて……。明日には治ってるかな?)
 とある日の夜。起きている団員たちも少なくなり始める頃。ジータは夜の見回り当番ということでひとり甲板を歩いていた。
 現在彼女は外套を纏い、フードを深く被ってはいるがその中身がある意味では大変なことになっていた。
 頭部には猫の耳がぴょこっと生え、スカートの中からは長い猫の尻尾が伸びている。なぜこんなことになっているのか原因は不明。朝起きたらすでに猫耳と尻尾が生えており、かといって体調不良などもないためにとりあえず混乱を避けるため一日中黒猫道士のジョブで過ごす羽目になった。
 見回りも他の誰かに頼めばいいのだがジータは猫の耳と尻尾が生えているだけだからと、こうして大きめな外套を羽織って仕事をしていた。夜は冷えるのでフードを深めに被っていても怪しまれることはない。
 夜間の巡視といっても周囲に魔物の気配はなく、とても穏やかな夜空が広がるばかり。ジータはちょうど物陰になっている場所でフードを外すと、大きく伸びをしたのちに星々が瞬く空を見上げる。外套の中でゆらゆらと揺れる長い尻尾は彼女の機嫌を表すかのよう。
(そういえば今日、ルシファーと一回も会ってないな……。猫化のことを相談しようと思っても会ってくれないし)
 星の天才である彼ならば原因が分かるかもしれないと彼の部屋を訪れたがベリアルが入れてくれず、理由を聞いてもはぐらかされるばかり。
 怪しさはあるがどうしても外せない依頼があったので部屋に押し入ることはせず、あっという間にこんな時間になってしまった。明日になれば会ってくれるかな。そんなことを思いながらジータは夜という名のカンヴァスに墨を垂らしたかのような空を見つつ、少々寂しげな笑みを浮かべていると、
「っ、誰……! ……ルシファー。こんな時間にどうしたの?」
 足音もなく近づく気配に振り返れば、そこにいたのはルシファーだった。グランサイファーに滞在するようになってからの彼の服装はかつての研究者時代のもの。
 薄手の黒いグローブに包まれた片手には温かい飲み物が入った赤と青のマグカップがふたつ。もう片方の手には毛布を持っていた。
 なぜかフードを被っている彼。無表情ながらもそこまで機嫌が悪くない、むしろ少しだけよさそうなルシファーの様子にジータの顔からはつい先ほどまでの寂寞せきばく感は消え、柔和な微笑みが浮かぶ。
「ベリアルが、お前に会いに行けと煩かったから来てやっただけだ」
「あの子が……。記憶があるのか、ないのか……。どちらにしても気を利かせてくれて嬉しいかも。あなたに会えなくて寂しかったし」
 隣にやって来たルシファーから赤いマグカップと毛布を受け取りながら聞かされた話では、ベリアルに言われてだという。
 ただ会いに行けと提案するだけでなく、寒さ対策として温かいココアとふたりで包まっても十分な大きさの毛布を持たせる辺り、きめ細やかな配慮に本当はかつての記憶があるのでは? と勘ぐってしまう。
 ジータからすれば昔年の記憶。ルシファーからすれば前世の記憶を完全に引き継いでいるのは彼女たちのみで、ベリアルは記憶を保持していない……と、これまでの彼との会話で推測するが彼は本音を隠すので正直なところは不明だ。
 近くにちょうどいい高さの木箱が置かれていたのでジータはそこに座ると、ルシファーも隣に座った。その距離はついこの間互いの意地をぶつけ合って戦ったとは思えないほどに近く、彼から香るひんやりした匂いとココアの甘い誘惑がジータの心身をリラックスさせ、外套からはみ出ている尻尾がゆったりと揺れる。
「フン。今更だろう。たった一日でなにを言う」
「だから、だよ。ルシファー、あなたがいない──永遠とも思える時を過ごしたからこそ、あなたとのたった一秒でも愛おしいの」
 たった一日だと、ルシファーはココアを一口飲むと目を閉じる。彼らしい言葉だが、ジータは違う。ルシファーを、そしてベリアルを喪った果てに身を投げて生涯を終えた先に待っていたのは前世の記憶を保持しての転生。
 その生を全うすれば次に待っていたのも人の生だった。立場や生まれは前の人生と違えど、ジータはこの特異性は家族を取り戻すためのものなのだと定義付け、その命を散らすまで生きることを誓った。
 決して楽ではない人の道。途中で投げ出してしまいたい気持ちになったこともある。こんなにもつらくて苦しい今世、いっそのこと自分で終わらせて次へ──と考えたこともある。けれどそうしなかった。理由は単純。再び自ら終わらせてしまったら、もう転生できないような気がしたのだ。
 それからは記憶を蓄積しながら何度も何度も生と死を繰り返した。十五歳辺りで今までの膨大な記憶を突如として思い出し、“ジータ”として覚醒する。それからようやく彼女の人生が真の意味で始まるのだ。
 王宮に仕える騎士団長や精霊と契約することで力を行使する魔術師、戦場を渡り歩く傭兵や、癒やしの力を振るう女神的存在など実に様々な経験を積み、それは現在のジータの力に集約する。
 特異点だから様々な武器やジョブを使いこなせるのではない。今までの経験があるからこその賜物。
「ところでルシファー。私の耳や尻尾を見てもなにも言わないんだね?」
 走馬灯のように流れる記憶たちの回顧を終え、ルシファーの顔を覗き込む。今のジータはフードを被っておらず、立派な猫耳が丸見えである。前世と変わらず研究者気質の彼ならば『なんだそれは』と最初の方で食いつくと思っていたが、どういうわけか今になっても話題にすら出さないことに違和感を感じて問いかけてみると、青星にジータの姿を映しながらもルシファーは涼し気な表情で呟く。
「想定の範囲内だからだ」
「想定……。ところで、フードを被ってるなんて珍しいね? 町なら分かるけど。……もしかして」
 妙な言い回しに疑問を抱くが、彼がジータと二人きりのこの場でフードを被っていることに、とある疑念が確信に変わっていく。
「っ……」
 零さぬよう、ココアを傍らに置いたジータは深めに被られた白い布を優しく脱がせると、そこに現れたのはふわふわの銀髪から顔を見せる白い猫耳だった。ふるりと小さく動く耳はルシファーとは別に意思があるかのよう。
「わ、わぁぁぁっ……! ねこ、猫ちゃん!? っていうかなんでルシファーも猫耳生えてるの!?」
 目を輝かせながらルシファーの猫耳をじっくりと記憶に焼き付ける。前世でも猫っぽいところが感じられた彼ではあるが、こうして実際に猫の耳が生えると実によく似合っている。
 彼に言ったら怒られてしまいそうだが、とても可愛い。きっと彼が本物の猫ちゃんになったら真っ白でふわふわとした毛並み、青い瞳にふてぶてしい態度なんだろうなと容易に想像できる。
 ジータはデレデレしただらしのない表情でルシファーの耳や頭を撫でたりするが、彼はやめろとは言わずにボソッと原因を告げた。
「……実験に失敗しただけだ」
「なんの実験をしていたのかは今回は聞かないけど、なるほど。あなたの体に起きた異変が生命のリンクを伝って私にも現れたと」
 現在ルシファーによって生かされているジータなので彼の体に異変が起き、それが糸を辿るように己の身に起きてしまったことに納得がいく。ルリアとの繋がりも残ってはいるが、今ではか細く……それでも決して切れぬ糸のような線のために彼女には影響がいかなかったとジータは推測する。
「うぅ……さむっ。ほら、もっとくっついてルシファー」
「……人間とは、脆弱だな。この程度で身体機能に影響があるとは」
 ジータはぶるりと身を震わせると外套の中で自身を抱きしめて腕をさすり、ルシファーにくっつくように言いながらも自分が距離を詰めると彼が持ってきてくれた毛布を広げた。
 毛布はルシファーとジータをすっぽりと包み込み、幾星霜の時を経てようやく取り戻した存在が隣にいるという事実にジータは感慨深い気持ちになり、今までの人生で幾度となく味わってきた苦痛や絶望も、全て乗り越えてきたかいがあるというもの。
「ねえルシファー」
「なんだ」
 毛布の中でルシファーの手を握れば、彼からも軽く握り返される。彼は直接“愛”を伝えることはしないが、代わりに行動で示してくれるのだ。それがたまらなくジータは嬉しかった。
「今もいつかは終末を……って思ってる?」
「……肯定する。忌々しい預言者の封印を必ずや打ち破り、力を取り戻したときに再び俺は神を否定する」
「そっか」
「そのときは、お前が立ち塞がるのだろう? 生殺与奪の権利は俺が握っているというのに」
「そうだね。だって生きていたいもん。あなたと、そしてあの子と。そのために私は終わりが見えなかった暗闇をずっと彷徨い歩いたんだから。……けど、神を否定するあなたの考えにノーは言わないよ。私自身神様の存在なんて信じてないし、結果的にこの空を守ることになったのだって自分の願いのためだから」
 ルシファーを止めた理由はふたつある。ひとつは自分のため。もうひとつは大切な仲間たちを守りたいというものだった。
 大事な人が増えると別れがつらくなる。弱点にもなる。かつての人生で嫌というほど身に沁みたのでこの空でも……と、ジータは考えていたが、彼女の思いに反して気づけば両手でも抱え切れないほどに増えていた。
 仲間たちの、そして自分の未来のためにルシファーと戦ったのだ。
 裏を返せばこの空で大事なものが少なかったら、ルリアと出会う前の──外の世界を知らないただの村娘だったら、ルシファーの終末計画に身を委ねていた。
 彼女は疲れていたのだ。永遠と思えるほどに永い独り旅に。
 ジータが空の世界で記憶を取り戻したのはルリアたちとザンクティンゼルを発って少しして。なのでもしベリアルが研究所時代のルシファーが造っては廃棄していたジータという少女と同じ名前・顔をした人間を先に見つけたら……。
 結局はタイミング。ルリアと出会い外の世界を知り、仲間にも恵まれたためにもう一度だけ頑張ってみようと奮起したか、誰とも出会わず外の世界も禄に知らぬまま記憶だけを取り戻し、疲弊した心が赴くままにルシファーの終末を受け入れたか。
「お前、それでも特異点か?」
「別に特異点になりたくてなったわけじゃないから。……ようやく私の時間が動き出したんだもの。今度こそ私は私の幸福のために生きる。あなたが好きな自由意思ってやつだよ」
「随分と逞しくなったものだな。幾度となく輪廻転生を繰り返した影響か。かつてのお前も妙なところで強情なところがあったが、今では我を通す力もあるのが厄介か」
「私は決めたんだ。もうこの手を絶対に放さないって」
 握った手の力を強め、ルシファーに見えるように持ち上げると真剣ながらも優しさの宿る瞳でジータは微笑み、想いの強さを訴える。
 彼女は後悔していた。夫婦だった頃、ルシファーと死別することになった事件が起きた日に嫌な予感がしたジータは彼に仕事に行かないでと引き止めたのだ。しかし彼は行ってしまい、握ったその手を放してしまった。
 記憶を取り戻す度にそのときのシーンを何度も夢に見た。それは魂に刻まれた悔恨。もしあのとき無理やり止めていたらという、どうしようもない過去への執着。
 もう後悔はしたくないと、もしまた巡り会えたら今度は絶対にルシファーの手を放さないと決めていた。
 握られた手をしばし見つめていたルシファーはどこか機嫌よさそうに口角を少し上げるとココアを飲み始め、ジータもそれに倣って温かくて甘い飲み物を口にしながら彼とたわいのない話に興じる。
 そんな彼と彼女の尻尾は毛布から出ており、じゃれるように絡み合っていた。

   ***

「さて、と。そろそろ見回りに戻らないと──ひぁっ……!?」
「…………」
 空になったマグカップを傍らに置き、木箱から降りようとしたジータに走ったのは甘い電流。見ればルシファーがおもむろに彼女の猫耳に触れているではないか。
 軽く触れただけだというのにこの反応。ルシファーは真顔のまま猫耳の形や触り心地を確かめるように指で挟んだり、撫でたりすればジータの体に絶えず甘美な痺れが走り声が漏れ出るのを止めることができない。
 こんな声団員に聞かれたら恥ずかしくて死んでしまいそうだと、ジータは両手で口を押さえて両目もギュッと閉じる。その際に薄く張っていた涙の膜が目尻に粒として浮かび、紅潮し始めている頬と合わさればまるで情事を連想させ、ルシファーの口元に艶やかな笑みが浮かぶ。
「ちょっ、やめ、っ……! っ、ふ、うぅッ……! あッ……!」
「体温の上昇に感覚が鋭敏化している肌。……脈も速いな。ベリアルめ、盛ったか」
 猫耳以外の場所にも触れ、ジータの反応を見ながらルシファーは冷静に判断するもジータ本人はそれどころではなく、話の内容が耳に入ってはくるがそのまま反対側の耳から出て行ってしまう。
「ぁ、ああっ……! ひゃぁぁっ!? しっぽ、やめぇ……!」
 ルシファーに抱き寄せられ、ジータの顔が彼の肩にうずまると冷ややかで好みの香りがいっぱいに広がり、それだけでおかしくなりそうだ。
 毛布がはらりと落ちると、抱き寄せている方と反対の手でルシファーはジータの長い尻尾を掴む。感度を確認するようにそのままスライドさせれば薄手のロンググローブ越しに毛が肌をくすぐり、彼女の反応を見て楽しげに微笑する。
「ベリアル」
「はぁい。ファーさん。オレからのプレゼントは気に入ってくれたかな? キミたちの飲料にオレの魅了の魔力を混ぜたけど、明確に効いているのはジータだけ、と。あぁ、でもファーさんも多少は効いてるっぽいな。顔が若干上気してる」
 誰もいない空間に狡知の堕天司の名を呼べば、どこからともなくベリアルが姿を現す。彼はルシファーとジータの目の前まで来ると男の腕の中で震えている華奢な少女の姿を見て慈愛に満ちた笑みを浮かべてタネ明かしをする。
 ジータは明らかに魅了の影響が出ており、魅了耐性が完璧ではなくともルシファーはほんのりと出る程度。それでもベリアル的には良いらしい。
「フン。余計なことを」
「オレとしてはパパとママには仲良くしてほしいからさ。ここは任せてくれ」
 ウィンクしながら申し出る被造物にルシファーは余計なことと言いつつもジータを抱え直すと、魔法を行使して自らの部屋へと消えていった。
 誰もいなくなった木箱の上に置かれたままのマグカップ。ベリアルはルシファーが今まで座っていた場所に腰を下ろすと、中身が残っている青いカップを飲み干して静かに微笑んだ。

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