出口は8番 不破と未来の場合

 ほんの少し暑さを感じる季節の土曜日の昼下がり。駅のホームは空いており、人はまばら。一本の電車がホームにやってくると私服に身を包んだ田尻未来はそれに乗り込む。
 内部は田舎方面に向かう電車ということでかなり空いており、ボックス席も余裕で座れる。普段はあまりボックス席には座らないのだが、今日はなんとなく座りたくなって肩にかけている鞄の持ち手を握ると適当なボックス席に座った。本当に人が少ないので周りの席にも乗客の姿はほぼない。
 未来はちょうどいいと鞄から一冊の本を取り出す。購入したばかりの小説はつい先日発売されたばかりのもので、休みの日に隣町にある大きな書店に行こう──と思って、未来はその帰りなのだった。
 降りる駅までまだ時間がある。動き出した電車の揺れや音をBGMにさあ読もうとしたところで彼女の耳に届く男の声。
「もしかしてキミ、ひとり?」
「……げ」
「そんなあからさまに嫌な顔しなくてもいいだろぉ~? オレとキミの仲じゃないか」
 聞いたことのある声に嫌な予感を感じながら顔を上げれば予想どおりの存在に未来の顔が引きつる。未来の座るボックス席にやってきたのは織部と不破だった。
 不破は普段とあまり変わらない服装だが、織部は未来と同じように私服。黒を基調にしたシンプルな装いだが、高身長・イケメンである彼が着ればどんな服も似合ってしまうのだからずるい。
 織部は未来の私服姿を舐め回すようにじっくりと見つめ、にやにやとしている。対して不破は未来を一瞥するといつまでも動かない織部のふくらはぎを蹴飛ばし、当たり前のように未来の反対側の席、入り口側に座った。肘置きに片腕を置くと頬杖をついて視線を遠くへと向ける。相変わらずの様子に未来も苦笑いをするしかない。
 痛みに体勢を崩す織部は口では痛みを訴えるが、その表情はどこか嬉しそう。彼らの間ではもう当たり前のコミュニケーションなのだと未来が悟ったところで、織部は未来の隣に座る。
 てっきり不破の隣に座るものだと思っていた未来の体に緊張が走り、お尻を浮かせると不破の隣へと避難した。
 あのまま壁側に逃げたとしても織部は喜んで距離を詰めてくるだろう。不破ならば織部のような不埒な雰囲気はないのでまだマシというもの。存在感という“圧”が強いが、それでも前よりかは苦手意識は薄れていた。成り行きとはいえ、彼らとは不思議な関係になっていたからだ。
 本来ならば幼なじみであり、大切な人である菊田蒼人と大きなトラブルになったきっかけである不破、そして蒼人を苦しめた張本人である織部に対して最悪な印象しかなかった。だがひょんなことで織部に求愛という名の執着をされ、体調不良で動けない不破を助けたことがあったりと未来の彼らに対する悪いイメージは徐々に氷解していっているのも事実。
 現に未来は織部に対して塩対応が常でありつつも、たまにデレたりと態度を軟化させていた。
「ちょっ、逃げるなんて酷くないか? ファーさんもなんとか言ってくれよ」
「うるさい。黙れ織部」
「まあでも、たまたまとはいえ未来ちゃんと同じ電車に乗れたなんて嬉しいねぇ。私服姿も見れたしな。とっても可愛いよ」
 不破に一刀両断されても織部は全く気にせずに話題を変える。これも彼らなりのコミュニケーションのひとつだと未来は受け取り、可愛いと言ってくる織部に少しだけ嬉しいという感情が生まれるも、それ以上に誰にでも言ってそうという信用のなさにいつも通りスルーすることに。
「はいはい……。で、織部くんたちは遊びに行って帰りだったりする?」
「今日はファーさんとデートでさ。隣町の本屋に行ってきたんだ。あそこ、ここら辺で一番デカいだろう? ネットで注文するのもいいが、たまには直接足を運んだ方がいいんじゃないか。ってね。運命の出会いがあるかもしれない」
「それがその紙袋ってわけね……」
 織部の傍らに置かれている紙袋には未来が訪れた書店のロゴが入っている。あの中身はたくさんの本が入っているに違いない。以前自分の前に並んでいた客が本を大量に購入し、紙袋に入れてもらっていたのを未来は思い出す。
 まさか彼らも同じ本屋に行っていたなんて。広い店内だ。気づかなかっただけでもしかしたら近くのフロアにいたかもしれない。遭遇していたら織部に絡まれるのは必至。落ち着いて本を選べないのが容易に想像できて未来は店内で会わなかったことにホッとすると、どんな本を買ったか聞いてみる。
 さすれば織部はぺらぺらと話し始めるが、本のタイトルからして難解なのと、驚くことに全て不破が買った本だという。すぐに読みたい一部を除いて残りは宅配を依頼したとも言われた。どれだけの本を買ったのだろうか。未来は不破の底が見えない知識欲と、謎の財力に乾いた笑いしか出ない。
「ところで未来ちゃんはひとりでどこ行ってたんだい?」
「私も織部君たちと同じ本屋に行ってたの。読んでるシリーズの新刊が出たし、他に読みたい本が見つかるかもしれないから」
「へぇ? 言ってくれれば一緒に行ったのに。さっき読んでた小説、確か恋愛小説だったかな? いま売れてる作家の」
「織部君、知ってるの?」
「まあね。前に遊んだ子も好きで読んでるって言ってたような。それにしても恋愛小説か……。トキメキが欲しいならオレとかどう? キミに最高の時間を提供できる自信があるよ」
「…………」
「うんうん。その冷たい視線、腰にクるねぇ」
 前に遊んだ子。織部の周りには常に女子がいる。噂では大人の女性を何人も侍らせているとも。前々から彼の悪い噂のひとつ、というよりも恐らく事実を知ってはいたものの、本人の口から他の人間の話が出てくると胸の辺りがモヤモヤとする。今までこんなことなかったのに。
 未来は自分でもよく分からぬ感情のまま織部に冷たい視線を投げるも彼は変態なのでどこか嬉しそう。通常運転の織部に内心ため息をつくと、隣の不破を横目に見た。織部にうるさいと言ってから今に至るまでずっと黙っている彼。景色でも見ているのかと思ったが、いつの間にか頬杖をやめて顔を伏せて眠っているようだった。
 鋭くも美しいふたつの宝石が閉じられているだけでどこか幼く感じる寝顔を見ていると、未来も口元を手で隠しながらあくびをひとつ。早く新刊が欲しいからと休日にしては早起きをして出かけたのと、静かでのんびりとした空気や電車の揺れが心地よくて睡魔が襲ってくる。
 寝過ごす可能性があるので寝るのは家に帰ってからにしようとは思うものの、目蓋が急激に重くなって開けているのが逆につらい。どうしてこんなにも眠いのだろうか。
 うつらうつらとしていると、織部が声をかけてきた。
「もしかして眠い? オレが起きてるから寝てていいよ。駅に着いたら起こしてあげるからさ」
「うん……。ごめんね、織部君。お願い……」
 そう言って目を閉じると、未来の意識は暗闇へと引きずり込まれた。

   ***

「…………あれ?」
 パッ、と目の前が明るくなる。失っていた意識が急に戻ったかような不思議な感覚があった。自分はなにをしていたの? と、とにかく情報を得ようと周りを見渡せば白いタイル壁が一面に広がっている。どこかの通路のようだ。しかし自分の記憶の中にはこのような光景はない。
 ここは、どこ?
「おい」
「ひ……ッ!!」
 驚き過ぎると悲鳴すらも出ない、と誰かから聞いたのはどうやら正しいらしい。未来は背後からかけられたドス声に身を縮こませると、恐る恐る振り向く。そこには眉間に皺を寄せた不破が立っていた。
 あぁ、そういえば不破君や織部君と電車で一緒になって……というところまで思い出したところで、織部の姿がないことに違和感を覚える。彼らはほぼと言っていいほど常に行動を共にしており、電車を降りたならば彼がいてもいいはず。
 いや、そもそもの話ここはどこなのだ。いつも使っている駅構内では絶対ないのは断言できる。こんな地下通路みたいな場所などないのだから。
「田尻未来。お前はここがどこだか分かるか」
 驚いたことに不破も分からないらしい。未来は申し訳なさそうな顔で首を左右に振れば、不破は舌打ちを返してきた。こちらに不満をぶつけないでほしいと思ったが、どこか分からない場所に不破という頼りになる存在がいることに安心感が芽生えたのも事実。
 未来は状況の整理のために電車内での出来事を一つひとう思い出すように不破に話しながら、改めて周りを確認すれば壁に設置されている四角い白い看板が目に入った。そこには、

 君たちは無限に続く地下通路に閉じ込められている。
 周囲をよく観察し、「8番出口」まで辿り着こう。

 異変を見逃さないこと
 異変を見つけたら、すぐに引き返すこと
 異変が見つからなかったら、引き返さないこと
 8番出口から外に出ること

 と、箇条書きになっていた。無限に続く地下通路。あまりの内容にこれは夢なのでは? という気持ちになってくる。実際に自分たちは眠っていたはずだ。
 未来は試しに自分の頬を抓ってみるが──痛い。横から突き刺す氷の視線に耐えながら「これを見て」と指差せば不破は未来の隣に立って看板を睨みつける。
「くだらん。無限に続く地下通路だと? 御伽噺にもほどがある」
「でっ、でも、なんか変な雰囲気だし……。ねえ、あれ見て不破君。0って表示されてる……」
 未来から見て前方。曲がり角の手前の壁に大きく黄色い看板が設置されており、そこには数字の0の表示と共に下部には公園や学校など主要な場所が書かれているも、やはり覚えがない。
「あっ、そうだ。PHS……って、鞄がない……!」
 地下通路でPHSが使えるか謎であったが、もしかしたらという一縷いちるの望みにかけたものの、鞄を持っていないことに気づく。あの中に全ての荷物が入っているというのに!
 未来はそろりと不破に視線を向ければ、視線の意味を理解した不破が、
「持っているわけがないだろう」
 と、一蹴。未来は異常な事態を肌で感じ、本当にそんな空間に閉じ込められたの? 誰が、なんのために? 湧き上がる疑問を抑え込み、不破に声をかけると歩き出す。ずっとここにいるわけにはいかない。とにかくこの先を確認しなければ。
 珍しく不破も同意見なのか、未来の後ろを着いていく。
 ふたり分の靴音がコンクリートの床に響いていく。0番通路の角を曲がれば、正面にも曲がり角があった。まるでクランクの道。そこも抜ければ眼前には一本の通路が広がっていた。
 通路の真ん中で止まる未来の右側には壁に禁煙広告、いくつかの扉。左側の壁には求人などのポスターが数枚掲載されていた。一般的な地下通路だとは思うが、状況が状況なので妙な不気味さがある。
「人……?」
 奥の通路から歩いてくるのはワイシャツにスラックスと会社員風の姿をした“おじさん”と呼べる年代の男性だった。日本人というよりかは外国人に思えるダンディな顔つきの男は未来たちの存在に気づいていないかのように未来から見て右側、扉が続く壁側を前進してくる。
 まさか人がいるとは思わなかったので未来は意を決して声をかけてみるも、むなしく響くだけ。男はなんの反応も示さない。未来の横を通り過ぎる際もただ真っ直ぐ見つめているだけ。
 不破は横目に男を見つめ、自分たちが来た道へと去っていくのを見届けると、困惑顔の未来を放置して歩き出す。
「ま、待ってよ不破君……!」
 どんどん進んでいく不破に恐怖心に駆られた未来は慌てて彼に付いていく。奥はまた曲がり角になっており、既視感を覚えながらも進めば、
「また0番……」
 黄色い看板には先ほどと同じ数字が。最初はくだらんと言っていた不破も自分がおかしな事象に巻き込まれているのを理解すると忌々しげに看板を睨みつける。それでも未来のように不安感はない様子。
 いつもと変わらぬ不破に「行こう?」と声をかければ彼は未来を無視して歩みを進める。身長差から歩幅が大幅に違うので離ればなれにならないように未来は小走りで一生懸命ついていく。
 すると一本道に再び出た。向こう側からは髪の毛の後退が進んでいる中年男性が歩いてくる。看板の指示どおり異変を見つけたら戻る。見つからなかったら進むというふうにしなければ永遠にこの地下通路に閉じ込められたまま。
「あれ? このポスター……」
 さすがの不破も思うところがあるのか、今度は進まずに立ち止まると周囲を見渡す。それに倣って未来も注意深く辺りを確認すると、ポスターに違和感を感じた。さっきと変わらぬ内容だが、よく見れば段々と大きくなっているではないか。
 これが異変なのか。間違い探しと同じだな、と感じながらも不破に声をかけて指を差せば彼は数秒広告を見つめ、大きくなっていることを確認すると来た道を戻っていく。異変を見つけた未来のことを全く気にかけない辺り、どこまでも彼らしい。
 未来はいつもの調子の彼に小さく微笑むと、その背中を追いかける。短時間ではあるが見慣れてしまった一本道を進めば数字の書いてある看板が0から1に変わっているではないか。
「不破君! やっぱりルールが書いてあった看板のとおりにすれば出られるみたいだよ!」
 数字の書かれた看板の前で立ち止まる不破に鼻息荒く訴えれば、彼からは冷めた目で見られるも出られるかもしれないという興奮の方が上回っているので気にならない。
 正しい選択をし続ければやがて8番へと辿り着き、外に出られる。希望が湧き上がってきたことに未来は次も頑張ろうと不破と並んで進んでいく。
 1の通路は異変は見つからず、進めば正解だったようで次のカウントへと進む。その後も壁に設置されているポスターの目が動いたり、あるはずの扉がなかったり、音楽フェス広告の女性がホラー系の画像になったりと脅かし要素もあるが順調に進んでいた。しかし。
「あっ……! 不破くん!」
「っ……!?」
 6番通路に差し掛かったところだった。ふた手に分かれて異変を探しているとお馴染みのおじさんの姿が見えたが、彼の移動速度が速いような気がする。加えて、邪魔をしなければ特定の場所を歩いていく彼が進路を変えて広告側にいる不破に早歩きで突撃してくる。
 それに未来が気づいたときにはもう遅い。不破とおじさんが接触したかと思った刹那、未来の目の前は真っ暗になった。
「…………不破、君?」
「……チッ」
 視界に開け、目に入ったのは眼前に広がる異変探しの一本道。曲がり角を曲がってすぐの場所に戻されていた。
 ゲームでいうならばゲームオーバー扱いか。どうやら外見に変わりはなく、ペナルティは今のところなさそうだ。
「ああいうタイプの異変もあるんだね。捕まっても体に異常はなさそうだけど、たぶん……最初からやり直しだよね」
「フ……。内部カウントされてるかもしれんがな」
「い……嫌なこと言わないで……」
 微笑しながら脅かしてくる不破に未来は顔を引きつらせ、気を取り直して異変を探すも見つからない。早々に進む不破についていけばそれは正しい選択だった。

   ***

「きゃぁっ!」
「っ、おい……」
 異変を見つけられずに何度も0番に戻されながらもふたりは進んでいく。しかし精神面が強靭な不破と違って未来は普通の女の子。いくら織部に勝った少女といえど、いきなり謎の空間に閉じ込められて、怖い異変にも何度も遭遇した。
 不破がいなかったらもっと早くに悲鳴を上げていた精神もすり減り続け、気丈に振る舞うのも難しくなってきたときに一番手前の分電盤室のドアが内側から何度も叩かれ大きな音を立てた。
 反射的に近くにいた不破に未来は抱きついてしまい、体を振動させている様子に不破は口を小さく開いてぽかん、としてしまう。
 なぜならば彼女は竹刀という武器を使ったといえど、本気の織部に勝った女。普段も彼に対して強気だったりと不破の中では他の有象無象に比べて“田尻未来”というひとりの強い女として認識していたというのに、これはなんだ。
 抱きついてきたことに下心がないのは理解できるが、こんなにも繊細な部分があるなんて。
 もしこれが他の女ならばすぐに不愉快だと引き剥がす不破だが、自分の胸元で震えている未来に対して伸ばしかけた腕は途中で止まり、静かに下げられる。
 彼の脳裏によぎるのはいつかの日。熱中症で動けないところを未来に助けられたシーン。頼んでもいないのに勝手に助けた彼女に妙な借りを感じてしまう。
 ひとまず拒絶はしないが、受け入れもしない。というスタンスに不破は落ち着く。
「っ、ご、ごめ……なさ……! 私、こういうの得意じゃなくて……っ!」
「これで借りは返した」
「借り?」
「お前が勝手に俺を助けた日の借りだ。お前の今の行動に拒絶をしないでやる。受け入れもしないがな」
「ありがとう、不破君……」
 半分パニックになっていた未来も我に返ると不破に抱きついてしまったことに慌てるが、彼が怒ったりせずに借りを返すという名目で今の状況を──受け入れはしなくとも、許してくれているということに感謝すると、未来はゆっくりと不破から離れて涙で濡れた目元を指で拭う。
 もう大丈夫と告げ、異変を見つけたということで来た道を戻っていく未来だが、その顔は明らかに無理をしている。不破も彼女の本当の意味での限界が迫っていることに気づきはしても気遣ってやるという気持ちはないので、無言のまま未来の後ろを歩いて次のステージへと進む。
 壁に同化した謎の人物がダッシュしてきて走って逃げたり、扉のひとつが開いて暗闇が広がる空間へいざなってきたりと異変が続く中、それは5番通路で起きた。
 通路の途中でなにか音が聞こえ、未来が嫌な予感がすると考えた瞬間に全ての明かりが消えてしまい、辺りが真っ暗闇へと閉ざされてしまったのだ。
「ぁ──いやあぁぁぁぁぁぁっ!!」
 摩耗した精神にはこの異変はダメージが大きい。悲鳴を上げ、頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまう未来にそばにいた不破は舌打ちをすると彼女の腕を乱暴に引っ張り上げて立たせると、手首を掴んだまま走り出す。
 こんな分かりやすい異変でまた0番に戻るなど愚の骨頂だと、来た道を戻れば再び明かりが点いた。その地点で不破は未来の腕を離すと、彼女は力が抜けたように腰が床に吸い込まれ、へたり込んでしまった。
 俯く彼女からはすすり泣く声が漏れ、雫が服に落ちて点がいくつもできている。
「も、いや……! なんで、こんな目に……ただ本を買いに行って、その帰りでっ……! 家に帰ったら本を読みたかったのに……! ひっぐ、うぅ……」
「お前はこの程度で音を上げる女ではないと評価していたが……俺の誤りだったか。泣いて状況が改善するならそこで恥を晒していろ。俺はこの巫山戯た空間から出る」
 未来を見下ろす不破の目には蔑みの感情が宿る。不破自身も未来のことを珍しく評価に値する人間だと思っていたからこそ、己の考えが間違っていたかもしれないと不快な気持ちになったのだろう。
 しかし不破のこの言葉は負けず嫌いなところがある未来の心に火をつけた。
「なによ……人のことを勝手に色々言って。私だって早くこんなところから脱出したいんだから……! ……ありがと、不破君」
 未来が顔を上げ、涙で濡れた顔のまま不破を睨みつけると腕で乱暴に雫を拭って立ち上がる。その顔には弱気な感情はもうなく、活力に満ちていた。
 まさか不破に──彼にその気がなくとも、励まされる日が来るなんて。本当に彼が一緒でよかったと未来は今日何度目かになる不破に対する心強さを思うと、再起した彼女を見てどこか機嫌よさそうに鼻を鳴らして歩き出す不破の隣に並んでいく。
 次は6番。これでもう何度目か。
 おじさんに異常はなし。扉も大丈夫。ポスターや奥の壁にも異変はない。視覚障害者用のタイルも正常。なら進んでも問題なさそう……? と、感じたとき。
「防犯カメラが点滅してる……」
 天井に設置されている防犯カメラが赤く点滅していた。今までそんなことはなかったため、あれが6番の異変なのだと理解する。
 よく見なければ見落としてしまう小さな異変に今までもこういった異変を見逃してしまい、最初に戻されていたのかもしれないと思うと本当にこの空間全部を疑って慎重に確認しなければと未来に緊張感を持たせた。
 8番は、もう目の前なのだから。
「ポスターや壁に異変なし。おじさんもオッケー……。不破君、天井や床はどう?」
「異変は見られん。行くぞ」
 異変を見つけた6番を戻って次は7番。異変なしということで進めば正解。ついに8番のカウントまできた。この先にはなにが待っているのか。不安と希望が綯い交ぜになって未来の胸を渦巻く。
 硬い床をふたり分の靴音が進んでいき、いつもの一本道に出ると……。
「階段?」
「出口だ……!」
 未来たちの前に広がるのは見慣れた空間と少し違っていた。ポスターや扉は健在だがおじさんはおらず、地上へと続く階段がふたりを待っていたのだ。
 未来はようやくこの異空間から出られると一気に駆けたい気持ちを抑えながら早歩きで階段の目の前へ。そんな彼女の真横にはとある数字が表示された黄色い看板が設置されているのだが、未来はようやく出れるという興奮で注意力が削がれていた。
「待て」
 今にも階段を上ろうと踏み出しそうな彼女の手首を強い力が止める。無遠慮に掴まれた手首は手加減というものがろくになく、少し痛いものの舞い上がっていた未来の意識を階段から逸らすには十分だった。
「これを見ろ。0番だ。これも異変だと俺は推測する」
「確かに変……かも」
 どこまでも冷静な不破の指摘に未来は助けられた。ここで仮に階段を駆け上がってしまっていたら……と考えると身震いしてしまう。最後の最後でミスして逆戻り。なんてことは避けたい。
 この空間において不破の指摘に全幅の信頼を寄せている未来は素直に彼の言うとおりにし、道を戻っていく。すると彼の考えは当たっていたようで一本道を進んでいくと今度は扉やポスターもない、階段だけの道に出た。
 階段そばに設置されている看板の数字も8になっている。8番出口だ……!
「やった……! やったよ不破君!」
 天井にも床にも異変は見られないため、もうここには異変はないと信じたい。
 未来は小さな子どものように喜び、不破の手を握った。
「いこっ! 不破君!」
「っ……! 急に走るな……!」
 歓喜に未来は不破と手を繋ぎ、引っ張るように駆けると、階段を一気に上っていく。上へと向かうにつれて彼女たちの目の前を光が包み込み、やがてなにも見えなくなった。

   ***

 ガタン……ガタン……。意識の遠くでなにかの音が聞こえる。あれ? 自分はなにをしていたんだっけ?
 ゆるゆると覚醒する意識に委ねれば、未来の閉じられていた両目はゆっくりと開かれた。
「おりべくん……?」
「おはようお姫様。もうすぐ駅に着くぜ? ファーさんもだけどよく眠ってたねぇ? 珍しいものが見れてとても有意義な時間だったよ」
 寝惚けまなこな未来の視界に映るのは不破が購入した本を紙袋から取り出して読んでいた織部だった。彼はニヤニヤとした顔を向けているも、未来がその理由を知るのは数秒後。
「……重い。離れろ」
 不破の声とともに肘で押される半身。覚醒しきってなかった未来は不破のこの行動で自分が彼の肩に頭を預けて眠っていたということに気づく。慌てて起き上がれば眠る前に見た電車内の光景が広がり、地下通路の面影はどこにもない。あれは夢だった?
 不破を横目に見れば、彼も未来の方を向いていた。もしかしたら同じことを思っているのかもしれない。
「不破君。あれ、夢だったのかな?」
「さあな」
 それきり彼は口を閉ざし、目線は反対側の景色へと向けられてしまう。だが未来の発言への返事からして彼も地下通路のことは覚えているようだ。
 ふたりでおかしな夢を見たのか。超常的な力によって精神だけあの地下通路に飛ばされてしまったのか。真相は不明なものの、無事に元の世界に戻れたという事実だけで未来は十分だと思うことにした。天才である不破もあの現象がどういったものか分からないのだ。凡人の未来が考えても答えなど出ないのだから。
 それから少しして。電車は見慣れた駅に止まった。立ち上がる彼らに倣って未来も立つが、彼らと同じ降り口から出るのを誰かに見られると厄介だ。自分は離れた出口から降りるため彼らと別れようとする前に、
「不破君。今日はありがとう」
 にっこりと柔和な笑みを浮かべてお礼を言うも彼は数秒未来を見つめただけで無言で去っていく。織部はふたりの間に漂う雰囲気に未来に理由を聞くも、彼女は「内緒」と言って彼らとは違う場所から電車を降りた。
 未来が降りて比較的すぐに電車は発車し、行ってしまう。ホームはお昼すぎということで人はほぼいない。不破と織部はすでにホームにはおらず、未来ももう読めないかもと半ば諦めつつあった本を読むため、足早に自宅へと向かうのだった。
 ──後日。学校終わりの未来の姿は住宅街にあった。目の前の住宅はどちらも大きく、片方は洋風。もう片方は和風という造りが違う建物が隣接していた。ここは織部と不破の自宅。洋風の家が織部で、和風が不破の家だ。
 今日、未来は不破に渡したいものがあったのだが、織部は学校に来ていても不破の姿はどうしても見つけられなかった。織部経由で渡すことも考えたが、やはり直接不破に渡したいという気持ちが強く、いない確率が高いものの彼の自宅へと来たのだ。
 木製の格子状の引き戸を開けて中へ。広めの庭に囲まれた日本家屋はいったい幾らするんだろうというくらいに立派。玄関の前に立ってチャイムを鳴らしてみるも、反応はない。人の気配も感じられず、やはり留守にしているのか。
 不破は盗られて困るものがないからと、自宅に鍵をかけていないと言っていた。なのでメモを残して玄関に置いておくことはできるが、家主に無断で入るというのは泥棒みたいで気が引ける。
(う〜ん……。これはもう織部君に頼むしかない、か)
 織部ならば毎日学校に来ているので明日も不破を見つけられなかったら彼に頼もう。絶対に理由を聞かれるし、下手をすればからかってくるだろうが、不破への感謝の気持ちとして作ったお菓子は渡してもらいたい。彼がいなかったら今頃ここにはいないだろうから。
 諦めて未来が踵を返すのと同時に、若い男の声が聞こえた。
「あれ? 未来ちゃんじゃないか。ファーさんちになんか用?」
「ぁ……! 織部君に不破君!」
 幸いなことにちょうどいいタイミングでふたりが帰ってきた。まさか未来がいるなんて、と少しばかり驚く織部と無表情の不破のところに未来は駆け寄ると彼の目の前に口が折り畳まれた茶色の紙袋を差し出す。取っ手がないタイプの紙袋はそこそこの大きさで、中身がそれなりのサイズのものが入っていると分かる。
「これ、この間のお礼。クッキーだけどよかったら食べて」
 以前未来の知らぬところで不破は彼女の作ったクッキーを食しており、気に入ったのか後日未来に壁ドンをしてまでも作ることを強要したレベルなのだ。
 お菓子ならば食べてなくなるし、嬉しいことに自分の作るクッキーを美味しいと思ってくれているからと今回のお礼に選んだのだが、正解だった様子。最初は受け取ろうともしなかった不破も未来の口から中身が聞かされるとおもむろに片手を持ち上げ、袋の底部から抱えるようにして受け取った。
「え? オレの分は?」
「織部君のはないよ。たくさん焼いたから不破君に分けてもらったら? それじゃ、二人とも。またね」
「…………」
 未来と不破のやり取りを横で見ていた織部が自分の分は? とねだるも、未来はないよと即座に答える。なぜ当たり前のように自分にもあると考えるのかと思ったが、そう言われても問題が起こらないように予め多めにクッキーは焼いてあった。不破へのお礼の品なので彼が分けるかは不明だが、そこは織部自身で頑張ってほしい。
 ふわりとした柔らかな笑みを浮かべてまたね、と去っていく未来の背中を織部は見えなくなるまで見つめると、さっそく袋から中身を取り出している不破へと向き直る。
 紙袋の中には透明度の高い袋が入っており、中にはスタンダードな形をしたクッキーや、ココア味の生地と混ぜたもの、ジャムと一緒に焼いてあったりと──専門店で買ってきたような色とりどりのクッキーが大量に入っていた。気合いが入り過ぎではないだろうか。と、織部が思ってしまうくらいには。
「ねぇねぇファーさん。未来ちゃんとの間にナニがあったのさ」
 自分が知らない間にイイ感じの雰囲気になっているふたりに織部はなんとか関係を聞き出そうとするも、不破は無視して袋を留めてあるラッピングタイを外して中身をひとつ摘み、そのまま一口。さっくりとした食感と口の中に広がる程よい甘さは癖になるようで、不破はもう一口かじる。
「未来ちゃんのクッキー結構美味しいんだよな。ファーさん、ひとつ分け──いったぁ!?」
 黙々と食べる不破を見て織部も食べたくなったようだ。未来とのことはいずれ分かるだろうと判断し、クッキーをひとつ貰おうと不破の持つ袋に手を伸ばすが、その手は容赦なく叩き落とされる。
 口ではなにも言わない不破だが、未来の作ったお菓子は彼の中ではお気に入りになっているのだから。

1