幻のひと、夏の日のあなたと。 - 6/6

エピローグ

 ひぐらしが鳴く夕涼み。夏祭りから数週間が過ぎ、学校も始まって今日はテスト最終日。未来の姿は夕方の学校にあった。その表情はどこか元気がない。その理由は夏休みのあいだ一緒に過ごした女性にあった。
 夏祭りで別れて以来、未来は彼女に会えていなかった。図書館を訪れてもあの美しい女性の姿はない。彼女に連れて行ってもらった喫茶店にも。出かける先々で彼女を求めて彷徨うも見つけられない。
 名前も知らぬ銀髪の女性など、最初からいなかったように。
 あれはひと夏が見せた幻なのかな。そう思うほどに女性の痕跡を見つけることができなかった。
 白い日傘を差し、白い服を着た、薄氷の麗女に未来の心は奪われたまま。
 忘れ物を取りにひと気のない校舎内を歩きながら教室へ着くと、スライドドアにある窓から見えた教室内に誰かの姿が見え、開けようとしていた手が止まる。
(不破君? もしかしてテストを受けてたのかな)
 テスト中に彼の姿はなかった。いないのにいつも当たり前のように首位をキープしているのだから、どこかでテストを受けているとは思っていたがみんなが帰ったあとだとは。
 彼は一番後ろの窓側の席に座り、本を読んでいた。もしかしたらいつも一緒にいる織部を待っているのかもしれない。
 夕日に照らされる銀の糸。冷たい青の瞳。白い肌にどこか気怠げな横顔はどうしても記憶の中の女性の顔がちらつく。
 以前、女性に不破のことを聞いてみたが赤の他人と言われ、一応は納得したものの本当に? という気持ちが今になってあふれ出す。
 女性と出会う前の未来ならば一瞬とはいえ不破しかいない教室に足を踏み入れる気はあまり起こらないのだが、今の彼女は違う。正直忘れ物は明日でも構わない。けれど誰にも邪魔されずに不破と話す機会はこれを逃したらもうないかもしれない。
 またあの人に会いたい──。女性自身が不破とは関係ないと言ったのだ。きっと彼女の言うとおりだと思う。それでも、ほんのわずかでも可能性があるのなら。
 その気持ちが衝動となって未来を突き動かし、手は扉の取っ手へと向かい、静かに戸が開けられる。
「…………」
 不破は一瞬だけ横目に未来を見たが、すぐに本へと視線が戻っていった。未来も彼に聞くぞ! という気持ちのまま扉を開けたのはいいものの、いざそのときになるとタイミングが分からなくなってしまう。
 想像よりも気まずい雰囲気に未来は視線を泳がせ、硬い面持ちのまま自分の席へと向かった。
 机の中に入っている忘れ物を鞄の中にしまうと数秒固まったが、このままでは駄目だと迷いを振り払うように真剣な表情になると意を決したのか、不破の前へ。
「……なんだ」
 底冷えのする声と自分に向けられる絶対零度の青い宝石。
 天才ゆえになにを考えているのか全く分からない彼は織部とまた違った意味で怖いが、どうしても聞きたいことがあると未来は己を奮い立たせると、緊張した顔でゆっくりと話し出す。
「あの……不破君ってお姉さんがいたりする? あるいは親戚とか。白い日傘や服が特徴の、長い銀髪の女の人」
 こうして正面から見るとより強く彼女の面影が感じられる。
 もしかしたら彼が女性の正体なのでは? 不破君が女装なんてあり得ないとは分かっているものの、勝手にそういう考えが浮かんでしまう。それほどに似ているのだ。ふたりは。
 不破は強い思いを秘めた未来の声音に本を閉じると、静かに目を閉じる。鋭い視線も閉じられると豊かなまつ毛に縁取られ、あまりの綺麗さに不意打ちのように未来の胸が高鳴った。
「俺に姉はいない。親類にもその条件に該当する奴はいない」
「そ、そっか……。ごめんね、変なことを聞いちゃって」
 訝しむことなく素直に答えてくれたものの、不破の言葉は未来に──分かりきっていたこととはいえ、ショックを与えた。
 彼からの否定は女性の手がかりが本当にないのだとありありと自覚させられ、鼻の奥がつんとして目頭が熱くなる。
「……フ。その女に恋心でも抱いたのか?」
 心に傷を負う未来に不破は口角をほんのりと上げて違和感のある言葉を放つも、未来はそれどころではないので気づくことはない。
 恋心。そう他人に言葉にされ、自分の本当の気持ちが表層へと現れる。無自覚に抑え込んでいた大切な気持ちはじわじわと痛みを伴って心から全身へと広がり、泣きたくないのに目が潤み、このままでは不破に情けないところを見られてしまうと未来は窓へと歩み、彼に背を向けた。
「────そう、かもしれない」
 不破の目が驚きに見開かれるも、未来には見えない。彼に背を向け、夕方の校庭を見下ろしながら続ける。それはまるで後悔を懺悔するかのように。
「これからも会えると思っていた。互いの連絡先も知らないのに。漠然とそう感じていた。……好きです。そう言えばよかった。……名前も知らないあの人は、夏が見せた幻影なのかもしれない」
 独り言のように呟く未来。目を閉じれば今でも鮮明に思い出せる彼女との楽しい日々。現実にいる人で、彼女との時間は紛れもなく実際に起きたことのはずだが、夏の幻と言えばすんなりと受け入れられるほどに浮世離れした美を持つ人だった。
 あぁ、駄目だ……。こらえるのを諦めると栗色の目からは涙があふれて頬を流れ落ちる。夕日を受け、きらきらと反射する滂沱ぼうだは悲しみの色を宿すというのにどこまでも清らかだ。
(酷いよ、お姉さん……。私、あなたに囚われたままだよ)
 こんなにも好きだったんだ。勝手に恋をして、勝手に失恋した身ではあるが、心の中で彼女をなじる。きっとこの先もあなたの影に恋の気持ちは囚われたままだと。
 いつかは踏ん切りがつくとは思う。その日がいつになるのかは分からないが……。未来は声もなく涙を流すも、いつまでもこうしているわけにはいかないと指で拭う。
「変なことを聞いてごめんね、不破君。それじゃあ……」
 振り向くと、赤くなった目を見られたくないがために不自然なにっこり笑顔を浮かべ、未来は教室を出ていく。不破はなにも言わずにその背中を見送ることしかできなかった。

   ***

「遅い」
「ごめんよファーさん。馬部センに捕まってさぁ……。ところでさっき未来ちゃんとすれ違ったけど……泣いてたぜ? 彼女。なにかあった?」
 未来が教室から出ていって少しして。頬杖をつきながら窓の向こうの景色を見ていた不破は入ってきた人物を見ることなく告げ、言われた織部はやれやれと肩をすくめると馬部先生に捕まっていたと言いながらも未来のことを話題に出す。
 彼女が去る直前、背を向けて泣いていたことなど不破は分かっていた。特に指摘する必要も──そもそも、自身の胸に渦巻く不可解な感情に気を取られていたため、なにも言わずに見送ったのだ。
「もしかしてアレ関係だったり?」
 織部は不破の前の席に背もたれを前にして座ると、心当たりがあるように告げた。
「……ああ。田尻未来は女の俺に恋をしたそうだ」
「はぁ!? ま、まぁファーさん綺麗だったからねぇ。もちろん本来のキミも美しいことに変わりないが……」
 明らかな動揺。さらりとトンデモ発言をする不破に思わず織部は大きな声を出してしまうが、最後は未来が女装した不破に惚れてしまうのも無理はないと納得する。
「そうそう夏休み……。出かけると女たちがきゃあきゃあと煩いからと、なら女装してみたらってオレがおふざけ半分で提案したら珍しくファーさんノッてくれてさ」
「女どもからの接触は田尻未来以外なくなり、男も……まあ一度だけあったがそれだけ。悪くない結果だった」
 未来が恋い焦がれた女性の正体は彼女があり得ないと断じた答え──不破が女装した姿。
 不破は織部と並んで見目麗しく、たとえ性格には難があっても自然と女子の取り巻きができるくらいには人気だ。
 不破からすれば有象無象、自分に不要な者たちがノイズを発生させることに不快感が溜まり、それは外出先の見知らぬ女たちからもいわゆる逆ナンパされたりとさらに加速。
 織部にどうにかしろと無茶ぶりをしたら彼から女装を提案され、不破は実行した。しろがねの麗人は織部が手ずから作り上げた存在。
 そして初めて女装をして隣町の図書館に向かった先で未来と出会ったのだ。女装した不破が喋れない──喋れなかったのも、声を聞いたらすぐに女装していることが露呈するからだった。
 未来の性格からして嬉々として吹聴することはないだろうが、面倒なので黙っていた。その日だけで終わる……はずだった。
「夏祭りが終わったらパッタリとしなくなったけど、もしかしなくても未来ちゃんとなにかあったんだろう? 最初は女装することに若干抵抗感があったけど、段々とそれもなくなってきてさ」
「俺が……?」
「おいおい自覚なし? キミが特定の女の子に、わざわざ女装して何度も会ったり──お気に入りのカフェに行ったり、夏祭りに行くなんて普段なら考えられない。それにさ、未来ちゃんと過ごしているキミはどこか安らいでいたよ。思わずジェラシー感じるくらいに」
(俺が……、ひとりの女に……)
 未来との出会いは偶然。助けてもらう必要などなかったがナンパ男から引き離してくれ、その後も目的地が同じだからと好きにさせた。
 こちらはそこまで暑くなかったというのにコンクリートに囲まれた隣町は急激に暑く感じ、体調を崩しかけているところに未来と出会い、再び助けられた。
 それからは不破は借りを返すという名目で動いていたがいつしか休憩という彼女との時間が生まれ、自然と誘うようになっていた。さらには読書感想文も手伝い、最後は夏祭り。
 こちらの素性を一切明かさなかったというのに未来は好意的に接してきて──あの夜、不破は胸にくすぶる不可解な熱に浮かされ、彼女の唇を奪った。
「認めたくないケド、キミ……未来ちゃんのことを好きになってるだろ」
「…………」
 否定できなかった。冷静に思考すれば自分の今までの行動は普段の己の思考からは導かれるはずのないイレギュラー。喧騒とはかけ離れた穏やかな時間。
 一帯の不良という名の有象無象は排除し続けてはいるが、不破大黒として過ごしていると他校の不良が名を上げるために喧嘩を仕掛けてくることがある。結果がどうなるかなど、目に見えているというのに。
 だが女装して過ごすとそういったものと途端に無縁になった。そして未来との日々は、彼女とともに過ごす日常の一端は、意外と悪くなかったのだ。
「彼女に真実を打ち明けたりは?」
「田尻未来が好いているのは俺ではない。むしろ俺には嫌悪感があるだろう。……主にお前の勝手な行動のせいでな」
「え〜? ファーさんだって蒼人のこと、好きに使ってただろ」
 夏休み前のこと。織部と蒼人の件で織部は当然、原因になった不破のことも未来はよく思っていなかった。
 カフェに行った際に親戚や家族に不破大黒という男の子がいないか聞かれ、否定したのちになんとなくどう思っているのかを聞きたくなり──らしくないことをした。
 未来からは不良だし、なにを考えているのか分からないから怖いという一般的な感想をもらい、なぜか胸に不快感が生まれたのは今でも強く記憶に残っている。
「……俺はもう女の装いはしない」
「未来ちゃんとのアレコレは別として、なかなか快適だったのに?」
 窓から差し込むオレンジがふたりの美しい横顔をより際立たせる。不破は静かに双眸を閉じると立ち上がり、窓辺へと歩む。
 室外と室内を隔てる透明な板の向こう側、眼下に広がる校庭にはひとりで歩く未来の姿があった。彼女以外に誰もいないからこそ、その小さな背中がより寂しさを醸し出す。
 ──なぜこうも、お前は俺の精神を掻き乱す。
 他者に基本興味がないのが不破だ。自身に不要だと断じた者は容赦なく排除する。未来に対しても夏休み前は剣道が得意な蒼人の幼馴染、という認識しかなかった。
 それなのに今では彼女が悲しんでいる姿を見て、男の自分では解決できない事実がなぜか腹立たしい。自分の感情が他の人間に左右されるのに苛立ちを感じざるを得ない。
「織部。俺も人間だ。ときに不合理な行動や感情に支配されることもある。……田尻未来との時間は夏の暑さに浮かされた結果だろう。…………過ぎ行く季節とともに置いていく」
 未来を許容し、彼女を求めてキスをしたのも夏の熱が齎したモノ。全てを夏が見せた幻として、忘却することを選択した。その言葉はまるで自分に言い聞かせているようにも聞こえ──。
 鳴き止まぬひぐらしの声は、ひと夏の幻の恋に終わりが訪れるのを示すようにいつまでも響き渡る……。