第四章
夏祭り当日。夕方頃から始まった祭りは地元の人で賑わっていた。
薄い桃色にピンク色の花が散りばめられた浴衣姿。髪も綺麗に整えていて、普段よりかもおめかしをしている未来は女友達に彼氏でもできた? などと茶化されたりもしたが、いるわけないよ〜とはぐらかす。
本当は彼女になれたら……と思う人はいる。美しい銀髪を持つ未だに名前すら知らない不思議な関係の女性。
人混みが嫌いな彼女は祭りの参加には難色を示したが、花火くらいなら見てやってもいいという話に落ち着き、花火の時間が近くなったら駅で待ち合わせになっている。
かき氷や綿あめ、りんご飴など祭りの定番になっている食べ物を友人たちと楽しみながらも常に脳裏にあるのは流麗の人。
友との時間を大切にしながらも、気づけば約束の時間近くなっていた。未来は「用事があるから帰るね」と当たり障りのない言葉で別れ、逸る気持ちを抑えながら街灯が少ない田んぼ道をひとり歩く。
周囲には花火を見るために会場に向かっているのか、そこそこ人とすれ違う。家族やカップルだったり、友達同士だったり。みんな楽しそうだ。
(あ──、)
駅の出入り口付近で静かに佇む白い人。さらさらの長い銀髪は紛れもなく未来がお姉さんと呼ぶ人物。けれどいつも見るお嬢様風の服装ではなく。
(綺麗……)
あまりの美しさに自然と歩みが止まる。髪は専属のヘアメイクでもいるのか完璧にセットされ、編み込みが施されつつうなじを見せるアップスタイル。薄い青色をした小ぶりの花を模した髪留めもよく似合っている。
浴衣は青と白が調和した涼し気な色。落ち着いた大人な雰囲気を漂わせるデザインは本当に彼女にぴったり。きっと祭りに参加している誰よりも美しい。
首には幅広のチョーカーをしているがそれも和なデサインなので、浴衣の邪魔をしたりしない。
普段は日中会うので白い日傘を差しているが今はもう日が暮れたので白魚の手にはなにも持ってはいなかった。本当に花火を見るだけのつもりなのか、鞄すらも。
未来の想い人は腕を組みながら悠然と立っており、駅から出てきた人々が絶世の美女の存在に見惚れ、ときに連れの人物と小声で話しながらも声をかけようという不埒者はいなかった。美し過ぎて自分には釣り合わないと、逆に気圧されるのだろう。
(っ……)
今からこの人の時間を独り占めするんだ。そう認識するとカッ、と体が熱くなって頬がどうしようもないくらいに熱を持つ。嬉しさと緊張から呼吸も変になってくる。
けれどここで立ち尽くしているわけにはいかない。未来は一歩いっぽ踏みしめるように足を動かすとやがて自然と小走りになり、彼女のもとへと向かう姿は飼い主を見つけた子犬のような愛らしさがあった。
「こんばんは、お姉さん。もしかして待たせちゃいました……?」
清らかな水を連想させる双眸を軽く閉じ、女性は首を横に小さく振る。なんらかの理由で喋ることができない彼女とのやり取りにも慣れたもの。
「お姉さん?」
「…………」
じっ、と空色の輝きがこちらを凝視する意味を未来は知り「に、似合いますかね?」と恥ずかしそうにはにかみながら頬を指で軽く掻く。
浴衣は数年前から着ているが髪までセットしたことはなかった。だが今年は違う。恋心をいだく人との夏祭り。好きな人に良く見られたいとおめかしするのは未来からすれば当然。
女性の反応を伺うように上目遣いで見つめ返せば、彼女は目を細め、口元をほんのりと上げた。まるで“悪くない”と言っているような表情に未来の中には安堵が広がる。
友だちにも似合っているとは言われた。けれど好きな人に好意的な反応をされるとまた違った喜びが心を満たす。自分で考えているよりかもこの人のことが好きだ。未来に自覚を齎し、同時に切なさが巡る。
初恋ながらもこれが壁の高い恋だと未来は分かっていた。一般的に言う友人の関係にはなっている。しかし未だ彼女の素性をなにも知らない。名前さえも。自分ばかり彼女に教えて、彼女からは返ってこない。
むしろこの不思議な関係が心地よいとさえ──。
「浴衣、すごく綺麗です! ……なんだか、ドキドキしちゃいます」
しっかり目を見て告げる。重なり合う青と茶。涼という言葉がぴったりの麗人を今からエスコートするのだと考えると込み上げるものがあり、未来の方が先に視線を逸らした。見つめ合ってそのまま、というのは中々にレベルが高い。
「そろそろ行きましょうか。少し歩きますけど大丈夫ですか?」
こくり、と女性が頷き未来も頷き返すと目的地へと向かって歩き出す。出会ったばかりの頃は身長差からどうしても未来が早歩きで女性についていっていたが、今はそこまで早く歩かなくても横に並んで歩けるようになっていた。
それは女性が意識的にか、無意識か。どちらにせよ歩く速度を落としているからに他ならない。未来は気づいていないようだが。
返事が返ってくることはないと承知の上で未来は様々なことを彼女に話す。読書感想文が終わったこと、大会のこと、友だちと屋台を巡ったこと。
女性は聞いていないようで聞いているのか、時折面様を微細に変える。こっそりと横目に女性を見上げる未来は最初の頃とだいぶ違う反応にどうしようもなく嬉しくなってしまう。
話しながら歩いていると祭りの会場が近づくにつれて飾りや店の明かり、人々の楽しげな声が聞こえてくる。だが未来が行こうとしている場所は祭り会場ではない。
女性が人混みを好きではないと知っているので、花火を見る約束を取り付けた未来はひと気の少ないであろうのと同時に見晴らしがいい場所を見つけていたのだ。
会場に続く道から逸れた未来に黙って女性はついていく。徐々に人の気配も少なくなり、賑やかな声も小さくなっていく先に着いたのは神社へと続く階段だった。
「階段、気をつけてくださいね」
まだ薄暗い程度で視界には困らないが女性に促すと未来は先に上っていく。古びた神社は明るい時間にくると田舎の夏特有のノスタルジックな雰囲気があり趣が感じられるが、暗くなり始めると途端にどこか不安になってしまう空気がある。
だが高い位置にあるので花火を見るにはいい場所なのだ。それは未来以外の人間も考えること。階段を上りきった先、境内にはちらほらと人がいた。
友人もしくは恋人、家族。人々は大切な人と花火の開始を談笑しながら待っている。
「やっぱり同じことを考える人いるよね。お姉さん、まだもう少し歩きます」
未来は女性に声をかけ、神社の周囲に広がる森の中へと足を踏み入れる。木々が支配する場所はさすがに明かりがないと厳しいので、巾着から小さめの懐中電灯を出すと足元を照らしながら未来は進んでいく。
鬱蒼とした森の中は昼間でもなかなか近づかないのに、わざわざ暗くなってから入る人間などあまりいない。だからこそ誰にも邪魔されない、ふたりだけで花火を見て過ごせる穴場があるのだ。
まず神社に目星をつけ、それから明るい時間にいい場所がないか探索したのだ。子どもの頃、冒険ごっこをすることが多かった未来は久しぶりの感覚に楽しみながら、人混みが苦手な女性と静かに過ごせる場所を見つけ、今に至る。
大丈夫だと思うけど、誰もいませんように。前日になんとなく神社にお賽銭を投げ、姿なき神という存在に願ったほどに今日という日は未来にとって特別。
時折女性を気にしながら数分歩けば前方に開けた場所が見えてきた。未来が願ったとおり周囲には人の気配はない。だけど実際に着かなければ分からないという不安を抱えながらも到着。少し先は斜面になっており、危険ながらも見晴らしの良さは十分。
「よかった。他の人はいないみたい……。前は急な坂になっているのでここら辺で見ましょうか」
数歩遅れて隣にやって来た女性に未来は柔和な笑みを浮かべ、遠くの景色を見た。すっかりと暗くなった空の下、会場付近は煌々とした明かりが映え、まるで蛍のよう。
本当は会場に彼女と行ければよかったのだが代わりに二人きりで、静かな場所で花火を見れるということに心が満ちる。
とくん、とくん、と心臓の鼓動が速くなっていく。いつからだろうか。彼女と一緒にいるとこんなにも胸が高鳴るようになったのは。
未来にとって初めての経験。今まで恋というものとは無縁だった自分でも分かる。これが初恋というものだと。
気づかれぬように未来は隣に立つ女性を見ると、彼女もこちらを見ていた。背の高い彼女は必然的に未来を見下ろす形になり、青い星を閉じ込めた瞳は心なしか優しげ。
彼女の手で直に掴まれたように心臓が痛い。邂逅時は冷たい眼差しだったが、偶然とはいえその後も何回か会い、いつしかカフェに行ったりとプライベートな時間を過ごすようになった。
少なくとも彼女にとって未来は自分の時間を使ってやってもいい存在にはなっているはずだが、どのように思っているのだろうか。
一般的には友人止まりだろう。けれど、もし、もし自分と同じ気持ちが少しでもあるのなら……。
自然と熱を持つ顔。このまま視線を交差させているとどうにかなってしまいそうだ。その刹那、弾けるような轟音がふたりの視線を誘った。
「わぁ……! 綺麗……!」
夜の帳が降りてくるように黒に近い青と沈みかけている夕日がグラデーションになっている空に巨大な閃光が散り、一瞬の輝きののちに消えていく。
様々な色が組み合わさった光の花は途切れることなく次々と打ち上がり、周囲に邪魔するものがなく、はっきりと見えるこの場所に未来は本当にいい所を見つけられてよかったと歓喜が湧く。
間違いなく今までの人生で一番の思い出だ。友達と見る花火も大切な記憶になるが、やはり隣にいる女性の存在が大きい。
偶然出会った彼女。その後も不思議な縁でこうして一緒にいる。素性は一切知らないながらも、未来の初恋は白磁の美少女に奪われたのだから。
空気を揺らしながら煌めく花火は人々の目を惹くものがあり、未来も例外ではない。わぁ……! と歓喜の声を上げながら見入っていると肩に触れる手。そのまま力を入れられ、未来は女性と向き合う形にされる。
正面にある顔は夜に咲く花の輝きを受け、普段よりも美しく見える。表情からはなにも読み取れないものの、彼女のもう片手が頬に触れ、未来の熱がひんやりとした手に吸い取られていくようだ。
「おねえ……さ……」
冬の空を閉じ込めた瞳が未来だけを映す。少しずつ近づく美の女神になんの迷いもなく両目を閉じる。
彼女を拒絶するなんていう考えは最初からないし、むしろいつか女性とこうなりたいという願望があったからだ。
近づくにつれて強く感じる香りは未来の好み。心臓がおかしくなってしまいそうなくらいに鼓動を打ち鳴らし、極度の緊張から汗がじんわりと滲む。
(ぁ……っ、)
ふわっ、と柔らかいものが触れたと認識したとき。未来はキスという特別な行為をしているのだと理解した。荒れの無いなめらかな唇が重ねられ、あまりの気持ちよさに体が蕩けてしまいそうになる。
花火の音も、なにもかも。唇以外の全ての感覚が遠ざかっていく。体から力が抜け、手に持っていた巾着も落としてしまう。
いきなりの行動ではあるが好意を抱いている相手だからこそ許せるし、未来の心を幸福で満たしていく。塞がれていた唇から彼女が離れれば素直に寂しさを感じ、もっと触れていたいと感じた刹那、角度を変えて塞がれたことに再びの多幸感。
未来の唇の感触を確かめるように下唇を食まれ、意識が全てキスへと持っていかれる。
こんなこともうないかもしれない。彼女がどういった意図で口付けをしてきたのかは分からないが、せめて今この瞬間の一つひとつを記憶に刻もうと、未来は女性の背中に両腕を回してしがみつく。
まるでついばむようにちゅっ、ちゅ、と角度を変えて合わさる唇。頬に触れていた手も今では後頭部に回され、逃げられない。逃げるつもりもないが。
彼女が今どんな顔をしているのかは目を閉じているために分からない。開けようとは、思わなかった。目を開いてすぐに彼女がいると想像すると、どうしようもなく両目蓋が重くなってしまう。
花火の音と振動を背景に絶え間なく続くリップ音が耳をくすぐり、背筋にぞわぞわとした甘い痺れが生まれる。こんなにも甘美な電流は知らない。こんなの、一度体験したらもっと欲しくなる一方だ。
(体が、熱い……。ん……っ、ぁ……舌が……!)
ぬるりとした感触を唇に感じた一瞬。割れ目から舌先が入り込み、受け入れるという選択肢しかない未来の体は歓迎するように口を開き、白の麗人を迎えた。
唾液でぬるついた舌は直感的に自分より大きく感じ、未来の口内を隅々まで調べるように這いずり回る。下顎の歯ひとつ一つの形をなぞり、上のざらついた場所に肉厚な部分が当たるとこそばゆい感覚が未来を苛む。
じんじんとした疼きが全身に広がる熱の燃料となっているのを女性が知ることはない。今度は上の歯列を舌で思うがまま舐め、時折未来の小さな舌と戯れるという淫らな接吻に耽る。
(お姉さん、お姉さん……っ……!)
大人のキスは恥ずかしい音を奏でながら未来を虜にしていく。
これは現実なのだろうか。都合のいい夢を見ているだけだろうか。未来は今までに感じたことのない幸せに包まれながら、たどたどしく舌を絡ませる。
こうしている間にも夜の花は力強い煌めきののちに散り、ふたりの横顔を照らす。誰も彼女たちの蜜なる時間に気づくことはない。
──濃厚な唾液交換をしながらぬるぬるとした舌愛撫の快楽に酔っていると、ようやく女性が離れた。それに合わせて未来は目を開くも、若干酸欠気味のとろんと蕩けた瞳は煽情的。
けれどそれ以上に女性は艶めかしかった。静かな熱を秘めた冬空。どちらのものか分からぬ体液で濡れた、ほんの少しだけ開かれたままの唇はまだ十年と少し生きているだけの小娘には刺激が強すぎた。
「ッ……!!」
ぶわっ! と全身を巡る灼熱。彼女に対して露骨なまでの“欲情”という感情が脳を埋め尽くす。初めての性的な激情にどうすればいいのか分からなくなった未来は、
(……うわぁぁ〜っ!? つい勢いでお姉さんに抱きついちゃったよ私!)
自分でも意識しないうちに女性を抱きしめていた。身長差から彼女の肩口からほんの少しだけ未来の目元が見えている状態。
ゼロ距離で密着する体からは彼女のひんやりとした香りが鼻腔を満たし、自分の熱で彼女をも溶かしてしまいそうな。
むしろ溶け合って、混ざり合って、ひとつになれたらいいのにとさえ思う。
女性は一瞬身を固くしたが、すぐに力を抜くと片手を未来の腰に軽く添えた。たとえ力強い抱擁でなくても彼女の同意を得たと感じられて未来の顔が嬉しさに緩む。
(ねえお姉さん。私、あなたのことが好き。……お姉さんも、私と同じ気持ちだったら嬉しいな)
一般的に考えてキスをするということは少なからず相手に対して特別な感情があるから……なのだが、直接言葉にされることはないので想像の域を越えることはない。
未来はずっと触れたいと思っていた人のほのかな熱に感じ入るように双眸を閉じると、この奇跡のような時を記憶に刻みつける。
彼女の息遣い。彼女の体の感触。彼女の香り。なんて幸せなのだろうか。今までの──まだ短い命ではあるが、こんなにも幸福を感じたことはない。断言できる。
祝福するように次々と上がる花火の煌めきと音を背景に、この世界にふたりきりになったような気分になりながら、未来はたったひとつだけの特別な心を彼女へと捧げた。
***
「……そろそろ帰りましょうか。お姉さん、人混み苦手ですよね?」
あれからどれほどの時が経っただろうか。実際には十分にも満たない時間ではあるが、未来からすれば数時間にも思えたひととき。
まだまだ花火は夜空を彩り続けているも、このまま最後まで見て帰るとなると人混みの中を歩かなければならない。
人混みが嫌いだと言っていた彼女のことを考え、未来は後ろ髪を引かれる思いを抱えつつも体を離した。
近い距離で見つめる彼女は普段と同じように見える。ただ……少しだけ、その目が優しいような。
そんなことを思いながら未来は地面に落としてしまった巾着を拾い、軽くはたいて土汚れを落とすと中から小さめの懐中電灯を取り出す。
スイッチを入れれば問題なく明かりはついた。花火の光があるとはいえ、さすがに懐中電灯なしでは森を抜けるのは困難。
「歩きながら見る花火も綺麗ですよ」
本当は、本当はもっと違うことを言わなければならないのに。言葉にしてしまうのが怖くて当たり障りのないことしか言えない自分にもどかしさを感じつつ、懐中電灯を持つ手とは反対の手を差し伸べれば自然と握られる手。
言葉はない。沈黙が苦手な未来がいつも色んな話をして、相手がそれを聞くというスタイルがふたりの定番になってはいるが今はなにを話せばいいのか全く浮かばない。
頭の中を埋め尽くすのはお姉さんのことばかり。キスの意味を知りたい。自分が考えている意味でいいのか。けれど不思議な女性なのだ。もしかしたら違う可能性も……。
思い悩みながらも体は自然と動くもの。はっ、として意識を現実へと戻せばすでに森どころか神社からも出ており、人のいない田んぼ道歩いていた。
「あっ……!」
ひと際大きな花火が上がると未来は音と振動に引き寄せられるように空を見上げた。女性の方もそれに倣い、顔を上げる。夜空に燦然と輝く閃光は刹那の命を咲かせて散り、光の華はふたりの顔に様々な色を残す。
「──本当に、綺麗」
未来の視線を奪うのは花火ではなく。麗し人の涼しげな横顔。冷たい美貌は光を受け、未来の目にはこの世のものとは思えぬ美しさに映る。
「……?」
「ぁ、えと……花火、終わっちゃいましたね」
最後の花火だったのか次が上がる様子はない。
未来は視線の意味を誤魔化すと、この場所が見慣れた分かれ道になっているのに気付く。ここから自宅にも行けるし、駅にも行ける。
「ここの道を行くと私の家があるんです。時間があったら夜ご飯でも……と思いましたけど、もうすぐ次の電車がありますし、駅に行きましょうか。……お姉さん?」
駅に向かって歩き出す未来ではあるが、女性は立ち止まったまま。
どうしたんだろう? と振り向けば女性は握っていた手をほどくとそのまま未来の手のひらを上へと向け、指先で文字を書き出す。
「こ、こ、で、い、い。……ここでいい? たしかにこの道を真っ直ぐ行けば駅ですけど、ひとりで大丈夫ですか?」
まさかの提案に不安になるも、女性はゆっくりと首を縦に振った。もしかしたら遠慮している……? と、一瞬考えたが、どちらかといえば彼女はそういうタイプではない。
彼女の意思は変わらないとは思いつつも念のために再度確認すれば、やはり答えは同じ。
「分かりました。じゃあここで……。今日は私に付き合ってくれて本当にありがとうございました。一生忘れない……素敵な思い出になりました」
ぺこりと頭を下げて気持ちを述べれば女性は頷いてくれた。それが感謝を受け取ったという意味なのか、自分も同じ気持ちという意味なのかは不明ながらも彼女は未来に背を向けて歩き出す。
少しずつ遠くなっていく背中────駄目だ! ちゃんと伝えなきゃ!
「お姉さんっ!」
内側から突き上げる衝動のままに叫び、一歩前に出る。女性は振り返ってくれたが未来は、
「っ……、ッ……! …………また……また今度!」
違う。本当はこんなことを言うために呼び止めたんじゃない。ただひとこと“好きです”と伝えればいいだけ。それなのにどうしても喉につっかえて言葉が出てこない。
女性に変に思われたくなくて。とっさに出てきたのはまた会いましょうの約束。
せめて笑顔で別れようと手を大きく挙げて振れば、女性は手を振ることはないが未来をしばらく見つめたのちに去っていく。
遠くに見える駅の大きな光に向かって小さくなっていく背中。彼女が振り返ることはないのにいつまでも視線が外せない。
初めての恋はドラマや映画よりも不思議で。名前すら知らない女性への一途な想い。年上と思われる絶世の美女への耐性がまともにない故の一時的な感情とは思いたくない。
(……また、会えるよね?)
なにしろ連絡先すら知らないのだ。それなのによくここまで関係を深めることができたものだと感心する。
普通ここまでの仲になったら名前はもちろん連絡先を交換してもおかしくないのだ。けれどどうしてか彼女に対してはその“普通”ができずにいた。なぜか聞いてはいけないような気がして。
──背後からこちらに向かって歩いてくる人々の声が聞こえ、未来は考えに耽っていたのを中断すると一抹の不安を胸に宿しながらも自宅へと続く道を歩き始めた。