幻のひと、夏の日のあなたと。 - 4/6

第三章

 未来にとって大きな前進になった出来事から二日後。今日も今日とて彼女の姿は図書館にあった。
 自宅で昼食を済ませての来館。人の数は少なめ。そんな図書館でもはや例の女性の定位置となっている席には当然のように銀の人がいた。
 いつもと変わらぬ姿。今日の服は薄い青が混ざる白で夏に似合う爽やかなお嬢様なデザインは本当に似合っている。
 髪も普段はさらさらストレートだが今回は三つ編みハーフアップで清楚でクールなお嬢様という印象をより強調していた。
 毎度のことながら彼女の服装はどれも惚れ惚れするほど。見ていると頭がぼんやりとしてきて、記憶にその姿を焼き付けるように熱い眼差しで見つめてしまう。心臓の鼓動がうるさい。
 もし許されるなら、自分が今カメラを持っていたら、無の美しさを本へと注ぐこのワンシーンを切り取りたい。
 まるで彼女と自分以外の時間が止まっているような感覚が広がっていく。周囲の存在がフェードアウトし、ふたりきりの空間になりかけていると、彼女が動いた。
 首ごと動かし、未来を見つめるブルークリスタルに心臓が射抜かれる。どう反応すればいいのか一瞬分からなくなるも、思考停止状態の脳はかろうじて会釈をさせた。
 遠くに行きかけていた意識を現実に戻されたことで未来は勇気を出して女性の方へと歩む。
「こんにちは。お姉さん。今日は体調よさそうですね」
 女性の傍らに立つと他の利用者の迷惑にならないように小さな声で話しかける。ふわりと香る清潔な匂いに一体どんな香水を使っているのだろうと気になってしまう。
 もしこれが香水、もしくはボディミルクなど、手に入るものならば入手したい。例えば香水だったら枕に振り掛けて彼女の香りに包まれたい──けれど彼女が使うアイテムだから庶民の自分には手が届かないくらいの高額商品か。
 勝手に色々と想像しながらも体調を気遣えば、女性は未来を見上げながら頷く。顔色も昨日よりかずっと良いため、心配はなさそうだ。
「…………」
 女性が口を開きかけ、なにかに気づいたようにそのまま閉じると片手を持ち上げてペンを握って書く動作をするではないか。その動きで未来は彼女が求めているものを知り、トートバッグからメモ帳とボールペンを差し出す。
『休憩に付き合え』
 いきなりの命令である。人によっては失礼な人だと思う内容ではあるが、未来からすれば願ったり叶ったり。女性とプライベートな時間を過ごせることに対する歓喜に背中から羽が生えてそのまま飛んでいけそうなくらいだ。
 首がもげるのでは、と思ってしまうくらいに何度も上下にかぶりを振ると、思わず大きな声で「はい!」と口にしそうになったがここが図書館というのを思い出して喜悦に上擦った声を抑えつつ、返事をした。
 着々と女性との距離が縮まっていくのを噛み締めながら未来は女性とともに併設されているカフェへ。前回よりかは人がいるものの、まったりとした憩いの場は変わらない。
 さて今日はなにを頼もうかな。メニューボードとにらめっこしていると、女性に渡されたのは長財布。
「えっ、でも前も奢ってもらいましたし……」
 さすがにまた奢ってもらうのは気が引けるからと告げれば、女性に財布を無理やり押し付けられる。
 胸に当たる財布の先端に受け取るしか選択肢はなく、やむなく手にすれば女性はメニューのいくつかを指さして先に席に向かってしまった。
 すっ、と伸びた背に迷いのない凛とした足取りは会話中の客から言葉と視線を奪い、この狭い空間の誰もが彼女の虜になっていた。もちろん未来も例外ではなく。
 どうして自分はこんなにも綺麗な人と当然のように話をする仲になっているんだろうと、自分のことなのに他人事にすら思えてしまう。単純に住む世界が違うのだから。
 ただ、それにしても。
(すごいいっぱい食べるな……)
 今回の注文内容は厚切りトーストとコーヒーのセット、ホットドッグとスープのセット、ケーキにアイス。運動部に所属している未来も一回にこんなに食べれるかな? と思ってしまうほどの量である。
 そもそも休憩として食べるには──いいや、通常の食事でも多過ぎる。見た目の細さから少食だと勝手に思っていたのでギャップの差にドキドキとは違うキュンというむず痒い感情が胸に渦巻く。
 自分はそこまで空腹ではないのでケーキとドリンクのセットに決め、いざ注文。先に女性が座っていた席は最大四人座れる席でテーブルも広めだったが、比較的すぐに運ばれてきた料理で一瞬で大部分が埋まってしまった。
 また、店員が配膳をする際に注文した側を確認するときにはケーキとドリンクセット以外を彼女へ。と、未来が言えば目を丸くされてしまった。当然である。
 たくさんの料理を前にしても女性は淡々と食していく。見た目からしてもふんわりしている厚切りトーストの中心には十字の切れ込みが入っており、溶け始めているバターがパンに染み込んでいく。
 見ているだけで涎が出てきそうなくらいのパンを女性はナイフとフォークを使用して一口サイズに切るとそのまま口に運んだ。
 前もそうだがやはり一つひとつの所作が綺麗で思わず見入ってしまう。未来はストローでドリンクを飲みながらもその視線は女性に向いたまま。
 動きに無駄がなく、洗練されているのはもちろんだが……こうも夢中になってしまうのはきっとその白樺の手。健康的な色をした未来の手と比べて女性は日焼け知らずの白さ。爪はネイルこそしていないが乾燥知らずのツヤツヤ感。
「……」
「……えへへ。やっぱり綺麗だなぁ、って」
 さすがにこうも熱心に見つめられては気になるのか、女性が「なんだ」という眼差しを向けてきた。どこか呆れたようなひんやりとした視線に未来は恥ずかしそうに笑うと、素直に告げる。さすれば胡乱げな顔をされたが、女性に咎める気はないようだ。再び食事へと戻った。
「美味しいですか?」
「…………」
 一度はしまったメモとボールペンを彼女に差し出せば、なにかを書いて未来へと返される。
「糖質に感想などない。……独特の感性ですね」
 この感想にはさすがの未来も苦笑いするしかない。
 けれどそうは言いつつも女性は食事の手を休めることはない。口の中のものを咀嚼し、嚥下すると新たな料理を口に運ぶ。
 彼女にとって食事は楽しむものではなく、エネルギーや栄養補給目的といったところか。
(本当によく食べるなぁ……)
 ホットドッグは手に持ってかぶりつくかと思いきや。パンと変わらぬ器用な手つきで切り分け、小さな口の中へ。短い人生経験の中で見た初めての食事風景に、こんなふうに食べられるんだと新しい発見。
 次々と空になっていく皿を見ているとなんだか食欲が刺激され、ケーキを食べる未来の速度も上がっていく。味も女性の食べっぷりがプラスアルファとなってより美味に感じられた。
 彼女が醸し出す独自の雰囲気は伝染する。細身の美女が大食いしている姿を見て他の客たちも食欲がそそられたのか新たに注文をし、一時的に店員が慌てる場面も。
 外野など知らんぷり。自分の世界で食事を続け、全て平らげ──優雅に食後のコーヒーを口にしていると、女性は思い出したかのようにショルダーバッグから何かを取り出すとテーブルの上へ。
「これは?」
『この間お前に借りたタオルだ』
「あっ、そういえば。すっかり忘れてました。でも、こんなに丁寧に……」
『このまま渡せと言われたから渡しただけだ。ここに私の意思は介在しない』
 渡されたのは紺色の不透明な袋。中身がタオルというのを知り、そういえば貸したままだったと思い出す。
 彼女の話す内容からして彼女以外の誰かがわざわざ綺麗にラッピングを施してくれた。その人物の配慮に貸した側の未来の方が恐縮してしまう。

   ***

 未来と女性の関係はさらに深まっていく。
 女性の方から“休憩”に付き合うように頻繁に命令されるようになり、その度に未来は喜んで自分の時間を捧げた。
 未来の方から一方的に何気ない会話を振るばかりだが、それでも着実に距離が縮まっていると感じられて胸が躍った。
「さすがにお姉さんからの誘いといっても毎回は気が引ける……!」
『中学生の身で金銭に余裕があるようには思えんが?』
「中学生ってよく分かりましたね?」
『最初の自己紹介で自分が言ったのを忘れたか』
「……そうでしたっけ?」
 日常のお馴染みに加わった図書館内のカフェ。いつも女性に奢られてばかりの未来が見慣れた財布を渡されたところで呟けば、未来持参のメモ帳での筆談。
 あれ? 中学生って名乗ったっけ?
 美しい文字列に疑問を感じて思い出そうとするも、おぼろげで思い出せない。言ったかもしれないし、言わなかったかもしれない。
 金銭に関しては女性の言うとおり。毎回の電車賃も塵も積もれば山となる。仮にお小遣いが底をついても親に相談すれば追加でくれるとは思うが──ぐうの音も出ず、未来は大人しく奢られることに。
 もう当たり前になっているかのように女性はいくつかのメニューを指差し、先に席に行ってしまった。
 休憩に食べる量とは思えない品数を注文し、席についてしばらく。料理を運んできた店員ももう慣れているのか最初に未来の注文品を聞き、それ以外は全て女性の前へ並べていく。
 小さなカフェだが意外に種類は多い。それでも頻繁に通って、大量に注文している女性はもうメニューを一巡してしまっていた。
(見れば見るほど似てる)
 光を受けて輝くシルクのような光沢がある銀の長髪。うねったりせずに真っ直ぐ伸びた髪は丁寧にケアをしなければ得られぬ輝き。
 極寒の冷たさを閉じ込めた瞳。整った鼻梁。薄紅に色づいた唇。陶器の如き白い肌。それぞれのパーツが完璧な位置にある神に愛された容姿──。
 彼女を見ているとどうしてもクラスメイトである不破大黒を連想してしまう。彼の顔をじっくりと見たことはないが、パッと見た特徴が女性と一致する。
 彼の家族構成は分からないがなんらかの繋がりはあるのでは。それこそ、彼の姉、もしくは近い親戚。
「あの、お姉さん。お姉さんに弟っていますか?」
 ずっと気になっていたこと。まだこんなことを聞ける関係じゃないよね、と今まで遠慮していたがさすがにもう聞いてもいいだろうという判断だ。
『いない』
 食事の手を止めた女性はテーブルに出しっぱなしになっているメモにペンで短く書くと、未来に差し出す。
 返ってきた言葉は未来に驚きを与えた。こんなにも特徴が似ているのに違うだなんて。
「じゃあ“不破大黒”って男の子、親戚にいませんか? お姉さんに似て綺麗な顔をしてて」
『いない』
 トントン、とメモに書かれた先ほどの単語を指差す。まさか親戚の線も違うとは。
 誰かが世の中には自分に似た顔が三人はいる、と言っていたが遭遇する日が来るなんて思いもしなかった。
 女性に関するなにかが分かれば、とは少し思っていた。もしかしたら女性が嘘をついている可能性もあるが未来は彼女のことを信じることに。
 そもそもの話。こうして食事をする仲なのだ。名前くらい知っていてもおかしくないはずだが未だに未来は女性の名前を知らずに“お姉さん”と呼んでいた。もはやそれが彼女の名のように。
 聞けばいいとは思う。けれど、どうしてなのか。このままでいいと本能が訴えるのだ。お姉さんはお姉さん。どこに住んでいるのかさえも知らない謎の人。
「クラスメイトに不破君っていう子がいて。その子とお姉さんがそっくりだからなにか繋がりがあるかなと思ったんですけど……」
『その不破はお前にとってどういう存在だ?』
「えっ!? う〜ん……。どういう存在、ってほど深い関わりはなくて。でも……怖い人、かな。不良で喧嘩ばかりしてるし、なにを考えているのか分からないし……。ファンクラブがあるくらい顔は整っているけど、どちらかと言えば苦手……です」
「……………………」
(あれ……? 私、なにか変なこと言ったかな……)
 不破に関して思っていることを包み隠さず伝えれば、なぜか空気が冷え込む。もしかして変なことを言ってしまった? と不安になるも、自分の発言におかしなところはないはず。
 それなのに女性は目を細めると黙ってしまった。どうしよう。なにが気に触ったのか分からないが、この沈黙の雰囲気を変えたくて思考を巡らせればあることに気がつく。
「そういえば不破君の漢字、よく分かりましたね?」
 無理やり笑顔を作って話しかける。実際に字に書いて見せたわけでないのに女性はひらがなやカタカナで書かず、いきなり正解の漢字を書いてきた。
 偶然かもしれないがとにかく今はなんでもいいから話のネタが欲しかったので聞いてみれば、女性は意外にもすぐに答えてくれた。
『一般的にこの字だと考えただけだ』
「そ、そうなんですね〜」
 やばい。会話が終わってしまった。どうしよう。内心汗だらだら状態で思考を巡らせている未来は非常に分かりやすい。
 快活な印象の双眸は泳ぎ、女性を直視できないでいる。普段と変わらぬ温度の低い眼差しを向ける女性は少女が困っているのを見て目を細め、軽く息を吐くと、
『ところで。読書感想文の題材にする本は決まったのか』
「あ、いやぁ……そのぉ……」
 新たな話題は未来にとってありがたいものの、同時に痛い内容だ。建前としての理由は夏休みの宿題のためだが、本音は女性に会いに図書館に来ている。
 本を探そうとはしている。だが女性のことが気になって内容が入ってこない。
 こうして考えれば相当重症なのではと思う。日常の中に女性が侵食してきて、いつかは全て彼女で埋め尽くされるのでは──あぁ、でもそうなったら素敵だなぁ。
(私……お姉さんのこと、やっぱり恋愛の意味で好きになってる……)
 こんなにも気になってしょうがないのだ。憧れなんじゃないと信じたい。でも自分は女で、彼女も女で。
 かといって仮に彼女が“彼”だったら異性ということでここまで親しくはなれない。知ってる人ならばまだしも、知らない男性とは難しい。
 初めて恋に落ちた恋愛初心者だというのにこの恋はハードルが高過ぎる。
 それに……お姉さんが好きになるとしたら、きっと男の人。
 下手に告白してこの関係が壊れてしまうのを想像するともう動けない。だったらこのままでいたい。
 なににせよ、勇気の一歩が踏み出せないというだけのこと。
『週に何度も足を運んでいるというのに未だに決まらんとは……』
「返す言葉もございません……」
 図書館に来る目的が本探しよりかも女性に会いに行くというのが理由のためにそちらがすっかり疎かになっていた。だがさすがにそろそろ本腰を入れて探し、宿題を終わらせなければ。
 恥ずかしそうに目尻を下げながら頬を人差し指で掻き、乾いた笑いを発すれば女性は呆れたように息を吐くとメモ帳になにやら書き始めた。
 止まることなく動く手。長文を書いているのかずっと視線を紙に落としたまま。伏目がちの目元は未来よりも豊かなまつ毛がよく見え、近い距離で見つめているということで体の芯から熱が広がって少女の体を熱くさせる。
 両膝に置いた手にきゅっ、と力が入る。女性が気づいていないからと熱に浮かされるように蕩けた眼差しを向け、文字を書く行為でさえも美しい人を目に焼き付けていく。
『お前の読解力でも読むのに苦労せず、内容も悪くない本をピックアップした』
 返されたメモ帳にはいくつかのタイトルと著者の名前が書かれていた。どれも見たことも聞いたこともない作品。けれど彼女がわざわざ自分のために挙げてくれたのだ。この中から気に入る本が見つかるはず。
「ありがとうございます。嬉しい……」
 メモ帳を両手に持つと、指で文字列をなぞりながら呟く。
 嬉しい。彼女が特別な感情はないにせよ、自分のことを考えてくれたことが心の底から嬉しい。
 どこかうっとりした声音と目を細めながらメモを見つめる表情に女性が刹那、瞠目したことに未来が気づくことはない。
 休憩が終わったら探してみよう。女性に対してもはや絶対に等しい信頼を向けている未来は少し先の未来を思い描いて、笑みをより深めた。

   ***

 女性に選んでもらった本はどれも未来の琴線に触れるもので読書感想文の一冊に決めるのにかなり迷ったが、最終的に決めた作品を借りると順調に宿題は進んでいった。
 あと少しで夏の──未来にとっては最後になるかもしれない大会が始まり、今よりも部活に専念することになるので落ち着くまでは図書館には来れない。
 女性に会えないと思うと針でチクチクと刺されるように胸が痛むが、部活といえど剣道を疎かにするわけにはいかない。最後まで真剣に取り組み、夏を終えたい。
「そろそろ夏祭りね〜」
「あ、そういえば……」
 とある土曜日の昼。母親と一緒に昼食を食べているときの会話。なにげない一言に未来は壁に掛けられたカレンダーに目をやる。
 日付の下の余白には黒のマジックペンで“夏祭り”と書かれており、毎年のことでも今の今まですっかり忘れていた。
(夏祭り。お姉さんと行けたら……)
 浴衣を着て、屋台を一緒に回って。夜空に輝く花火を隣同士で見て。それはきっと素敵で幸福な思い出になること間違いなし。
「な〜にニヤニヤしてるの」
「べ、別になんでもないよ……! 私、出かけてくるね」
「今日も図書館?」
「うん。夕方頃には帰ってくるよ」
「今まで図書館に通い詰めになることなんてなかったのに。なにかあった?」
「なんにもないよ。いってきまーす」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 誰にも言えない秘密の恋をいだきながら家を出て、電車に揺られ、歩いた先に着いた図書館。大体いつもは利用者はお馴染みの顔触れが多いのだが、土曜日にしては駐車場に車が多い。
 なにかイベントがあったっけ? 図書館に通っている未来ではあるがそういった情報には疎かった。
(うわ……! 今日は人が多いな。カフェも一応席あるけど、家族連れが多くて少しうるさいかも)
 出入り口近くに設置されているカフェを見ればほぼ席は埋まっている状態。いつもと全く違う雰囲気に未来は女性との“休憩”という時間がないかもしれないと、かんばせが曇る。
 かといってこのまま帰るなんて嫌だ。女性に会いたい。その気持ちのまま中に入れば普段の静寂とはやはり違っていた。仕方がないこととはいえ、きっと静かな場所を好むあの人だ。すでに帰ったかもしれないといつもの席を見れば、遠目から見ても女性は不機嫌な様子。
 本を閉じたところで横目に未来の姿を見つけた女性は顔をこちらに向けた。青の瞳に閉じ込められた未来は軽く片手を上げて反応を返すと、女性は立ち上がって本を棚へと戻したのちに真っ直ぐ未来のもとへ。
 彼女が近づくにつれて自然と上向きになる顔。圧倒的な美という圧につい怖気づきそうになりながらも、足に力を入れることで耐える。
「…………」
「あっ、はい! どうぞ」
 片手がペンを持つ形になり、未来はトートバッグからお馴染みのメモ帳とボールペンを渡す。
『今日は外で休憩する』
 メモを未来に向け、内容に半分振り返って併設のカフェを見た。人の多さは変わらず。とてもではないが休もうとは思えなかった。
 顔を正面へと戻せば、彼女がジッと見つめてきていた。答えなんて、ひとつしかないのに。
「ぜひご一緒させてください」
 未来にとって当たり前の答えを返せば女性は意外そうな顔をしたが、すぐに普段の無に戻るとメモ帳とペンを未来に返して出入り口へと向かって歩き出す。
 初めての外での休憩。いつもと違う日常にそわそわとしながら着いていく。
 外に出れば女性は手に持っていた日傘を開いた。折り畳みタイプではなく、雨傘と同じ形をしたものなので女性をすっぽりと覆い、夏の太陽から彼女を守る。
 真っ直ぐ伸びた背筋。歩みに合わせてなびく白銀は見る度にため息が出てしまうほどに美しい。
(お姉さんが行くお店……どんな店なんだろう)
 置いていかれないように足を動かしながら想像してみる。人混みが好きじゃないから落ち着いた店なのは確実として。
 今まで歩いたことのない道をきょろきょろと見渡しながら黙って着いていくこと十分と少し。入り組んだ道を出た先、閑静な住宅街の一角にあったのは“隠れ家”という言葉がぴったりな店だった。
 洋風な外観に肝心の看板は小さめでよく見なければここが店というのが分からないほど。彼女に連れてきてもらわなければ一生縁がなかっただろう。
 店をまじまじ見つめる未来を放置して女性は先に入っていく。扉を開ければカランカランと乾いた鐘の音が店内に響き、どこか懐かしい気分になってくる。
 置いていかれたことに気づいた未来も慌てて店内へ。鐘の音が迎えてくれた先に広がるのはドラマの中に出てくる喫茶店そのものだった。
 レトロな内装は実際にかつての時代を経験したわけではないのに懐かしさを感じ、今まで行ったことのないタイプの店に未来の背筋が自然と伸びる。
 コーヒーのふんわりとした香ばしい香りが漂い──あまりコーヒーを飲まない未来ではあるが、ここ店のなら飲んでみたいという気持ちになってくる。さすがにブラックはレベルが高いので、ミルクたっぷりのカフェオレで。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
 バーカウンターでカップを拭いていた老紳士な店主が穏やかな笑みを浮かべて話しかけてきた。心地よい低音は店の雰囲気によく合い、小さめな音量でかかっているBGMもぴったり。
 入った瞬間に連れてこられたのが納得できるほどだ。落ち着いていて、喧騒とは無縁の空間。ここならば外界のストレスから解放されて心からリラックスできる。しかも彼女が選んだ店。食に興味がないといえど、一定の味は保証されているという確信めいたものがあった。
 女性はもう慣れているかのように奥側のソファー席へと向かう。向き合う形で座れば未来が最初にすることといえばメモとペンの用意だ。女性との会話にはこれが必要不可欠なのだから。
 さて。なにを注文しようか。女性はすでに頼むものが決まっているのか壁側に設置されているメニュー置き場に手を伸ばすことすらしない。それほどにこの店に来ているということなのか。
 さっそくメニューを開けばドリンクはコーヒーを中心にしつつもソフトドリンクや紅茶の取り扱いもある。
 喫茶店の定番ともいえるクリームソーダもあり、惹かれるものがあるがこういった本格的な店に来たのだから最初はコーヒー系にしたいところ。もちろんカフェオレだ。
 ミルクとコーヒーが混ざり合った甘さと苦さが味わえる飲料はスーパーにも売っていて馴染みがあるが、喫茶店のものはまた格別のはず。
 さあ飲み物は決まった。次は軽食。メインで食べれるナポリタンやカレー、オムライスなどがあって名前だけでもお腹が空いてきてしまう。昼ごはんを食べたばかりだというのに。
 軽く食べられるものならばピザトーストやたまごサンドのパン系があるが、今回はデザート欄にあるパンケーキにすることに。
 これで自分の分は決まった。あとは彼女の食べたいものを教えてもらって、注文をするのみ。メニュー表から視線を外せば、いつ書いたのか。すでにメモ帳にはいくつかの品名が書かれていた。
 綺麗な文字で書かれたメモはメインに該当する料理に対して飲み物はブレンドコーヒーのみ。こんなにたくさん食べてよく太らないなと羨ましく感じながらも、控えめな声で「すみません」と軽く手を挙げれば気づいたマスターが注文を取りに来てくれた。
 女性ふたりで食べるには多すぎる量ながらも特に驚いたりせずに注文を復唱し終えると店の奥へ。誰かと話している声が聞こえたため、キッチンの方に他の誰かがいるようだ。
 店主が表に戻ってくると彼はさっそく豆を挽き始め、本格的なお店なのだと改めて知る。
 値段もリーズナブルで店の雰囲気もいい。また来たいと思う店だ。
「すごく素敵なお店ですね。私も好きになっちゃいました」
「……」
 フ、と小さく口角を上げる女性を見て、胸を中心にして熱が広がっていく。
 もしも自分が男だったらこんなにも苦しい思いはしなくていいのかな。だけれど逆にここまで親密な関係にはなれなかったかもしれない。彼女が異性だったとして、自分がこういった関係になる想像ができないように。
「そうだ……。私、少しのあいだ図書館に行けないかもです」
「…………」
 女性の冬空の輝きが未来を見つめる。その目からはなぜ? という疑問が感じられるような気がして、彼女の日常に少しでも自分の存在があるのかなと勘違いしてしまいそうになる。
「私、部活が剣道部で。中学最後の大会があって、練習も今より集中したいんです」
『そうか』
 メモに書かれた短い返事。簡素ながらも女性らしい返事が会えないという事実をありありと感じさせ、言った本人が寂しさを感じてしまう。かといってずっとやってきた剣道を疎かにしたくない。
(そういえば、大会が終わってすぐに夏祭りがあるからそれに誘ってみるのも……)
 また会えるようになって一番最初が夏祭りだとする。
 図書館で偶然──ほぼ女性がいるのである意味では必然にはなっているが、いつもの場所で会うより普段と違う、しかも夏祭りというイベントで会うのはロマンチックな部分もあるのではと未来は考える。
 けれど問題は彼女が人が集まる場所は好きではないこと。
 ここに来た理由も図書館がいつもと違って人が多く、落ち着いて読書するには気になったからだ。
 未来が住む地域は田舎ではあるものの、イベントとなれば会場に人が集中する。
 花火を見に遠くから会場に来る人だって。なので誘ってもきっと断られる。でも、わずかでも可能性があるのなら……。
「お姉さん、あの……私の住んでるところで今度夏祭りがあるんです。もしよかったら一緒に行きませんか?」
 駄目元での誘い。喉がカラカラになりながら言葉を紡げば女性は数秒思案したのちに。
「…………」
 首を横に振った。
「……………………そう、ですよね。駄目ですよね……」
 断られるだろうと思って誘ったが、未来自身も驚くくらいにショックが大きかった。こんな顔したくないのに表情は悲しい色に曇り、萎れた花のように俯き加減になってしまう。
 人混みが好きではない彼女なのだ。夏祭りという人が集まるイベントに来ようとは思わない。分かっていた。分かっていたが……。
 トントン、と机を指で叩かれた音で弾かれるように未来は顔を上げた。すると目の前にはいつの間にかメモ帳があり、なにか書かれている。
『花火なら付き合ってやってもいい』
「花火……。……ぁ、ありがとうございます! えっと、日時は……あとは待ち合わせ場所も──」
 女性のたった一言で未来の気持ちは日本晴れ。今の今まで曇り顔をしていたのが信じられないくらいだ。
 これはある意味ではデート。当日は目一杯おしゃれをしなくちゃ! まだ先のことだというのに未来は脳内で夏祭りに思いを馳せ、心は幸せで満ちる。
 ああ、恋というのはこうも苦くて、切なくて、そして甘い。
 この恋が実ることはないだろうけど、せめて、せめて想うことだけは……許してほしい。