姫騎士堕落─乙女の証は二度穢されて─ - 5/6

第五章

「う、ぅ……」
 意識が少しずつ浮上する。重たい目蓋をゆっくりと持ち上げれば、見知らぬ天井に気づく。一気に覚醒したジータはその勢いに任せて起き上がり、慌てて自分の置かれている状況を把握するため周囲に目を配る。
 シーツや掛け布団、枕など全て黒で統一された上品さを醸し出すキングサイズのベッドに寝かされており、服装は金色の糸で細やかな刺繍が施された黒のネグリジェだ。まるで闇の世界のお姫様になった気分。
 はっ、として股間に手を当てる。違和感はあるが、痛みは特に感じられない。とりあえず下着を身に着けていることを確認すると、安堵の息を吐く。
(私はベリアルという堕天使──悪魔にさらわれた。ならここは……)
 意識を失う前の記憶では彼は魔法を使い、空間を開くと自分を抱いて闇に消えた。
 おそらくここは魔族の住まう魔界。普通の人間ならば混乱を極め、平静を保ってはいられないが、ベルとの初夜でこれでもかというほど驚かされたジータは無風の水面のように静かだった。
 想うのはグランやルリアのこと。自分はまた生きて彼らのところに帰れるだろうか。いいや帰るんだ。神界や魔界の事情など知ったことではない。自分は地上に生きる存在。絶対に帰るんだ。
 シーツを掴む手に力が入り、深い皺が刻まれる。
「やあ。気分はどうだい? ジータ」
「ベル……!? ……ベリアル」
 音もなく部屋に入ってきたのは黒ずくめの男。人間に近い姿に化けているのか、現在の彼には邪悪な紋様や悪魔という言葉を体現した角は生えていない。
 胸元や腹部が大きく開かれている黒シャツからは丸みを帯びた胸や幾つにも割れた腹筋が見え、自らの魅力を全面に出している。
 ベルトを尻尾のように垂らしているボトムは長く、引き締まった脚を包み込み、タイトめなデザインも手伝ってムチムチという擬音が聞こえてきそうだ。
 極めつけは深紫のファーストール。紫色の羽根が集まった柔らかな見た目を持つアイテムだが、同時にベリアルの妖しい魔力を纏っているのか、一つひとつが呼吸をするように小さく揺らめく。
 ジータは反射的に自分が愛したまやかしの人物の名を呼んだが、すぐに険しい表情となり、忌々しく彼の本当の名前を呼ぶ。
 取り付く島もないジータの反応もベリアルは意に介さず、ベッドの脇に腰掛けた。長い脚を優雅に組むその姿は本人の性格に反して高貴。ジータは自らの手元に視線を落としたまま、目を合わせようとしない。
「フフ。やはりキミには黒が似合う」
「ッ、触らないでっ!」
 肩へと伸ばされた手を叩き落とし、拒絶の意を示す。これが“ベル”ならばその手を受け入れ、寵愛に身を委ねるところだが、あの日々は全部ウソ。悪魔は陰でこちらを嗤っていたのだ。
「もしかしてマリッジブルー? それでもそんなに拒絶されるとさすがに傷つくな。オレたち、神サマの前で夫婦になることを誓ったじゃないか。観客たちの前で熱いベーゼを交わしてさ……」
 ベリアルの男ながらも繊細な指がジータの結婚指輪を愛おしそうに撫でる。
 この指輪は呪いの指輪。ジータの魔力を封じる役目を担い、外そうと思っても皮膚と一体化してしまったように外れない。
「……一つ。聞きたいことがある」
「ん? なんだい?」
「帝国を襲った魔物の軍勢。あれはあなたの仕業?」
 ジータが再び剣を握れるようになった出来事。幸いなことに死者は出ていないが、重傷者は多数。復興だってまだ途中だ。
 もし、あのとき剣を握ることができなかったら──。
「ああ、もちろん。キミの力を取り戻させるためにね」
「なんてことを……!!」
 想像はしていた。だが、それでも、なんてことないように告げるその顔に憎悪が募る。
 化け物にとって人間の命など塵に等しい。分かってはいるが、人の姿をしていてもその思考回路は人とは程遠い存在なのだとジータは痛感した。
 仮にあのとき自分が戦えないままだったらと思うと……どうにかなってしまいそうだ。
 もしかしたらルリアの力だけでなんとかなったかもしれない。でももし、そうじゃなかったら?
 脳裏をよぎるのは死の気配。嫌なイメージにジータは身震いした。
「終わったことなんだから。今更サイアクなパターンを妄想する必要なんてないだろうに。マァ……実際にキミが勇敢な姫騎士に戻れなかったら、そこまでだったケド」
「確かにあなた、嘘でも言っていたものね。私の強さに惚れたって。弱い私に用はない」
 ベリアルは答えない。しかし緩やかなカーブを描くその口元が、彼の答えを示す。
「キミが剣を握れなくなり、魔法で戦っていたのは知っていたがやはり剣術には敵わない。無理やりにでも克服してもらいたかったからねぇ。キミが民を想う気持ちを利用させてもらったよ。オレの目論見どおり力を取り戻してくれてよかった」
「──ッ!」
 湧き上がる怒りのままに身を乗り出し腕を振り上げたジータだが、その手は宙に固定されたまま。ベリアルはジータを静かに見つめるばかりで平手打ちに対して特に抵抗する様子はない。
 紅玉に映るジータはなにか葛藤するように震え、やがて諦めるように腕を下ろすと双眸を閉じる。
 ベリアルの頬を打つことは、できなかった。
 こんな男殴って当然だ。実際にそうしようと思って行動した。だが、偽りだったとはいえ一度は愛した男。その感情を捨て切れなかった。
「キミに会わせたい人がいる。コレに着替えて」
 ベリアルの声にジータが開眼すれば、膝にドレスが置かれる。一体どこに隠し持っていたのかと思ったが、相手は常識に縛られない存在。考えても仕方ないので服に注目してみる。
 よく見れば黒を基調にしていること以外は自分が愛用していた純白の衣装に酷似していた。
「キミひとりで着替えられる? オレが手伝ってあげようか」
「ふざけないで。出ていって」
「怒った顔も可愛いねぇ。……はいはい。部屋の外で待ってるよ」
 着替えはいつも専属メイドのルリアに手伝ってもらっていたが、別に一人で着れないという訳ではない。
 ルリアの仕事を奪うようなことをしたくはなかったし、そもそも着替えながらの会話は本当に楽しくて。ああ、今日も新しい朝が来たと、ジータにとっては気持ちを切り替えるひとときでもあった。
 ベリアルに対し、睨み、冷たく突き放すものの逆に彼はジータをからかい、仕方がないなと言いたげに両肩を上げると大人しく退室した。
 部屋の扉の向こうに消える長身を見送り、ジータは大きく息を吐く。自分に拒否権はない。言うとおりにするしかないだろう。
 剣を握れるようになり、昔と同じように戦えるようになったといえど、あの男には敵わない。仮に魔法が使えたとしても同じ。悔しいが、今の自分にはベリアルを超える力はない。
 大人しく渡されたドレスに身を包み、ベッドの下に置かれていたサイハイブーツを履く。こちらのデサインも色を白から黒に変えたもの。全体的に見ればかつてのジータの服装を黒色に変えたデサイン。
 部屋に備え付けられていた姿見の前に立てば、漆黒のドレスに身を包んだ淑女がそこにいた。黒にするだけでこんなにも違うだなんて。
 認めたくはないが、似合っている。
 乱れたところがないか、一通りのチェックを終えるとジータは寝室から出た。向こう側の空間はリビングルームになっており、様々な調度品が飾られている。
 王族の部屋までの華美さはないが、上品な雰囲気を醸し出していた。
 肝心のベリアルは黒革のソファーに座り、こちらを見て微笑み「似合っているよ」と一言。その際の表情がベルと重なって見え、ジータの心が一瞬だけ反応してしまう。
「会わせたい人って?」
「ナイショ。キミの驚く顔を見たいからねぇ」
 もったいぶったように呟くとベリアルは組んでいた脚を直す勢いで立ち上がり、外へと続く扉を開けた。
 どうやらここは二階のようだ。眼前には木製の柵が左右に伸びており、少し離れた両側にある階段に沿って一階へと続いている。
 ジータが出てきた部屋は真ん中に位置する部屋で、他にも幾つか部屋があるようだ。木製の扉が並んでいる。床には暗いレッドカーペットが敷き詰められており、洋館という言葉がぴったりの建物。
 それでも城暮らしをしていたジータにとっては狭く感じられる。実際、ざっと内装を見ただけでも建物の規模はそこまで大きくはないと分かった。
(外の様子は……カーテンが閉められていて分からない、か)
 設置されている窓は全て厚めのカーテンで遮断されており、外がどうなっているのかは不明。昼なのか、夜なのかさえも。そもそも魔界に明るい時間があるのかはなはだ疑問に思うが。
「ついてきて」
 ベリアルが歩き出す。向かう先の廊下はT字になっており、突き当りを曲がるとさらに奥へと進む。
 自分たち以外の気配が全く感じられないこの洋館の最奥が、目的の部屋だった。
 ベリアルは軽やかな動きでドアノブを回し、開けると「さあどうぞ」とジータを招く。
 扉の向こうはベッドと少しの家具がある程度。先ほどの部屋と比べると殺風景だが、その少ないアイテムのどれもが洗練されており、彼の美的感覚が優れていることを示す。
 一人で寝るには大きすぎるベッドが少し気になる程度で他におかしなところはなさそうだ。ジータは大人しく入室し、続いて入ってきたベリアルは後ろ手で扉を閉めた。
「ベッドに座って待ってて」
 従うしかないジータをベッドのマットレスが優しく受け止める。
 するとベリアルはテーブルの上に置いてある箱を持って、ジータの隣に座った。何の変哲もない黒い箱。なにを見せようとしているのかと緊張の面持ちでそのときを待っていると、ベリアルは膝の上に箱を置くと両手で蓋を持ち上げた。
「なあ、綺麗だろう? まるで眠っているように安らかなカオだ」
「ひ、人の首……!?」
 中身を取り出したベリアルは箱を傍らへと移動させ、改めて両方の手で包み込むように持つ。
 それは銀髪が目を惹く人の首。整った顔の目は閉じられており、男性にも女性にも見える。
 ジータは言葉を失い、体をこわばらせるものの、悲鳴を上げたりはしなかった。ここに至るまでに普通に生きる人間ならばまずしないような経験をしたせいだ。
「ルシファー。これがこの人の名前だ」
「ルシファー……。あっ……! 大昔、天使たちと人間が力を合わせて魔族と戦ったときに死んだと伝えられている魔王の名前……」
「死んだ、ね。あながち間違いじゃない。ファーさんの肉体はキミの言う戦いで消滅した。かろうじて残っているのは……この首だけ」
 静かに告げると、ベリアルは銀糸を撫でた。その横顔はどこか憂いを帯びており、残酷な性格をしているのが嘘のように思えてくる。
 そして直感する。ベリアルはルシファーのことを愛している。
 気づいて、なぜか胸が痛くなった。チクチクと鋭い針で心を刺すように。
「……なに? 慰めてくれるのかい? フフッ。ちょうどここはベッドの上だ」
 虚無感を漂わせる濁った赤でルシファーを見つめるベリアルに、ジータは無意識の内に片手を彼の手に重ねていた。
 意外だとベリアルは目を丸くするも、すぐに見慣れたかんばせに戻り、ジータは慌てて手を離す。
(なんで、私……)
 とても寂しそうに見えたから。体が勝手に動いてしまっただけ。だけなのだけど。
(酷い人なのに、どうして)
 未練という名の鎖に心をがんじがらめにされて、身動きが取れない。
 本当の意味では、愛されていなかったというのに。
「あなたは私をどうしたいの……? なにが目的なの……?」
「オレの目的はただ一つ。ファーさんの復活。その後は……成り行きに任せるさ」
「……ルシファーはあなたみたいに体を再生できないのね」
 首から上を吹き飛ばされたベリアルが再生できたのだから、彼以上の力を持つルシファーも……とは一瞬思ったが、それならばとっくに肉体を取り戻しているはず。ベリアルが特別なのか、再生できない理由があるのか。念のための確認だった。
 するとベリアルはジータの肩に腕を伸ばし、脇の下から抱え込むように前へと手を回すと心臓部分に手のひらを合わせる。
 密着し、ふわりと漂う香水はベルと同じ匂い。同一人物なのだから当たり前とは分かっているが妙に意識してしまい、それは命の鼓動を速め、体温も微かに上昇してしまう。
 この変化に気づかれませんように……! と願うが、ベリアルは特に反応することなく冷静な口調でジータの疑問に答えていく。
「オレだって──そう、人間でいう“心臓”がなければ再生できない。だからあのときキミの魔力があれだけしか残ってなくて助かったよ。正直ヤバかった」
 ヤバいと言いつつもそれが真実なのかは眉唾物。
 彼の言葉から推察するとルシファーは生命の核を失ってしまい、ずっと首だけの状態。それでも腐敗せず綺麗な状態を保っていられるのは、魔の王と呼ばれる存在だからか。
 首からはベリアルの魔力は感じられず、彼が魔法で肉の劣化を防いでいるとは考えられない。
 異質な存在。もし彼が復活したら世界はどうなってしまうのかと嫌な想像をしてしまったが、我に返るとさらなる疑問を吐き出す。
「どうやってルシファーを復活させるつもり」
「天使長ルシフェルの体を使う。頭のいいキミならもう分かるだろ?」
 心臓部に触れていた手が髪を数回撫で、彼の当たり前のように口にする言葉に体が固まる。
 他者の肉体を使う。人外なのだから可能かもしれないが、重要なのはルシフェルの体が必要だということ。
 それが意味するのはルシフェルの死。そして自分は天使との戦いに駆り出される。人間の身でありながら。
「まぁ、キミが不安がるのも無理はない。今すぐ天使たちと戦えなんて言わないさ。オレがキミを強くしてあげる」
「つよ、く……」
 悪魔の甘言に心臓を鷲掴みにされる。
 力。いくらあっても満足しないバケモノ。それを追い求める理由は大切な人を守るため。どんなにあっても困ることはない。
 その考えから姫という重要な立場でありながら日常的に鍛錬を積み続け、第一線で戦ってきた。
 ベリアルはジータの様子が変化したことに両目を三日月に歪めると、唇を耳元に寄せてさらなる誘惑をかけ始める。
「キミは力を渇望している。どんなに高みへと至っても満足することのない永遠の欲望をね」
「そんなこと、」
「オレには分かる。力を追い求め続ける果てしない欲求。そしてキミにはそのポテンシャルがある。……オレがキミの力を引き出してあげる」
 揺れる心。自らの内側にある可能性を示唆する言の葉に屈してしまいそうになる。
「別にキミにルシフェルと戦えなんて言わないさ。そこはオレに任せればいい。彼の体を手に入れられたら──キミを人間界にかえしてあげる」
「みんなの、ところに……」
 ルシフェルの死の果てに待っているのはルシファーの復活。人類のためには回避しなければならないことは分かっている。それでもなお、ベリアルの言葉はジータにとっては喉から手が出るほどに欲しいものだった。
(グランやルリアたちのもとに帰りたい。けど、その代償は計り知れない……。なら)
 俯き、目を閉じながら一人の人間では大きすぎる選択で揺れ、それは握られた拳を微かに震わせる。
 帰りたい。ただそれだけなのに彼らと自分の間を巨大な壁が隔て、分かつ。それを乗り越えた先に待っているのは幸福と絶望。
 ベリアルのことも己の中で決着をつけなければならない。
 ちっぽけな存在でありながら、多くを望む自分に頬が力なく上がる。
「自分の望みを叶えるためには力が必要。……あなたに、従う」
「……てっきり、拒否するかと思ったんだが。嫌だ、嫌だって」
 下を向いていた顔を上げ、ベリアルをしっかりと見つめる。はしばみ色の瞳からは力強い決意が読み取れ、ベリアルは想像と少し違うジータの様子にルビーの瞳を大きく開く。
「騒いで、みっともなく喚き散らしたらあなたは私を解放してくれるの?」
「自分にとって圧倒的に不利な状況でも気丈に振る舞う高潔な精神。フフ。嫌いじゃないぜ? そういう人間ほど堕とし甲斐がある」
 近づく顔。閉じられる赤い尖晶石。触れ合う唇をジータは抵抗なく受け入れる。
(ルリアたちへの想い、ベルへの未練、天使たちと敵対する罪、ルシファーの復活の業。全部、背負う)
 ジータは密かに決意し、目を閉じる。どこまでやれるかは未知数。それでも偽りの存在だったベルと決別し、ルリアたちのいる人間界に帰るためには辛く厳しい現実と向き合わなければならない。
 今ここに、一人の少女の孤独な戦いが幕を開けた。