蒼の迷い人

 それはとある雨の夜のこと。朝は爽やかな夏の太陽が肌を焦がしていたが、夕方からは天気が一変。土砂降りの雨が続いていた。
 ──織部明彦はひとり夜道を傘を差して歩いていた。中学生がこんな時間に、と咎めてくれる親は不在が常。彼は実質ひとり暮らしだ。ただ、生活に必要なお金は定期的に振り込まれているので困ることはない。
 むしろ今の状況を彼は楽だと思っていた。口うるさい存在は学校の教師だけで十分。
「ん……?」
 自宅まであと少しというところで前方に誰かが倒れているのが見えた。こんな天気に酔っ払いか? と思い、普段は面倒ごとを避けて無視するのだが、今回はなんとなく気になってその人物の方に向かえば驚愕する。
 街灯に照らされるのは夜の雨に溶け込むような黒い衣装に赤いショートパンツ。ここら辺ではまず見ないデザインの服は、まるでゲームの中から飛び出してきたようだ。
 そしてひときわ目を惹くのが美しい蒼い髪。夏空によく映えるような色をした髪は今はすっかりと濡れてしまっている。
(へぇ……結構美人じゃん)
 横顔を覗き込めば整った顔をしていた。今は閉じられているその目は一体なに色をしているのか。
「キミ、大丈夫?」
「ぅ……」
 肩を揺すりながら声をかければ鈍いながらも返事が返ってきた。普通に考えれば警察に連絡して対処してもらうのが一番だが、織部は普通ではないので彼女を抱き起こすと、自宅へと向かうのだった。

   ***

「ぅ、ぅうん……」
 ぼんやりと意識が覚醒する。ゆっくりと目蓋を持ち上げれば見慣れない天井が目に入った。次いで感じるのは倦怠感や熱。ここはどこなのか。自分は一体なにをしていたのか。思い出そうにも思い出せない。
「目が覚めた?」
「……ベリアル!?」
 夢心地の意識が完全に覚醒し、全身の毛が逆立つ。反射的に体を起こすと、壁に背を張り付けるようにしながら目の前の男を睨みつける。
 学生を思わせる服を着たベリアル(?)はキャスターの付いた椅子の背もたれを前にし、足を投げ出してこちらを見ていた。
「お姉さん大丈夫? まだ熱があるようだけど」
 目の前の男は確かにベリアルの顔をしているのだが、彼と比べてどこか幼い印象。なんともいえない違和感を抱きながら注意深く周囲を確認する。
 部屋はそこそこの広さで、理由は分からないが自分はこの男が使用しているであろうベッドに寝かせられていた。
「あれ……? 服が……」
 今の自分は上下ともにジャージ。男物なのでかなりゆったりとしている。
「キミ、この大雨のなか外で倒れてたんだぜ? それをオレが助けたってワケ。服もずぶ濡れだったからジャージを着せておいたんだけど……」
 分からないことが多くて混乱を極めるが、今のところベリアルらしき男からは敵意を感じないので警戒を解くと、一つ質問をすることに。
「まず……助けてくれてありがとう。私の名前はジータ。あなたは……ベリアル、じゃないよね?」
「ベリアル? 知らない名前だな。オレは織部明彦。……ジータさんね。もしかして田尻未来の親戚だったりする?」
「たじりみく? 知らない……」
「そう……。オレの学校に似ているヤツがいてさ。もしかしたらと思ったけど、やっぱり違うか」
 ベリアルにそっくりな男は織部明彦という聞き慣れない名前。田尻未来もそうだ。
 もしかしたら……。と、ジータの中で一つの可能性が生まれる。もし、ここが別世界だったら……。
 ベリアルそっくりの織部明彦。自分に似ているという田尻未来。別の世界のベリアル・ジータならば頷ける。
 そもそもこの状況自体が夢という線も捨て切れないが、今は別世界の線で考えることに。
 けれど、彼にどう説明をすればいいのか。別の世界から来ました。なんて頭のおかしい人間だと思われかねない。
「もしかしてジータさんって、この世界とは違う世界から来てたりする?」
「えっ!?」
 まさか織部の方から言ってくるとは思わなかった。返答に困っていると彼は緩やかな笑みを浮かべながら続ける。ベリアルと違ってこちらを揶揄からかう様子は見られない。
「なぜかな。なんとなくそう思っただけ」
「…………」
 彼の態度にジータは逡巡した果てに自らの知る情報を彼に包み隠さず話した。ベリアルがルシファーと共に世界に終末を齎そうとしたことは伏せて。
 黙って聞く織部はどこか楽しそうだ。
 会話をしながら織部と認識と擦り合わせていくと、ジータにとってここは別世界。織部からすればジータは別世界の迷い人という結果に落ち着いた。
「すんなりと受け入れてくれたみたいだけど、私が嘘を言っているとか思わないの? 普通頭のおかしな人間のたわ言だって思うものでしょう?」
「他人の嘘を見抜くのは得意でね。ま、たとえ嘘だとしても退屈しのぎにはなったさ」
 異常なことが起きているというのに冷静なのは別世界といえど、さすがベリアルだ。
「で、ジータさんはこれからどうするつもり?」
「分からない。けど、織部くんにこれ以上迷惑をかけるわけには……」
 自然と視線が織部から自らの手元に下がる。ここは別世界。どうすればいいのか手探り状態だが、彼の世話になりっぱなしというわけにもいかない。
「ハァ……。ジータさん、これなにか分かる?」
 ジータの様子に織部はため息をひとつ。机の上に置いてあった鞄から財布を取り出すと、一枚の紙切れを差し出してきた。
 ジータにとってはただの紙なので素直に「紙?」と首を傾げれば、織部は返ってくる反応が分かり切っていたようにうなだれる。
「これはこの世界でのお金。キミの世界とは色々常識が違うんだ」
 ──そんな世界で、一人で生きていける?
 そう言われ、返す言葉が見つけられずに黙ってしまう。織部からこの世界のことを簡単に聞いたが、元の世界と違うことが多々あるのにいきなり一人で……そもそもこの世界の人間ではないのだ。身元を証明するものがない。こんな状態で生活できるのかと聞かれたら、ノーと答えるしかない。
 がっくりと肩を落としていると、視界の中で織部が動いた。ベッドの端に腰掛けた彼の片手が伸び、顎を持ち上げられると強制的に上を向かされる。
 織部にもベリアルと同じ魅了の力があるのだろうか。その血のような目はずっと見ていたくなる不思議な力があった。
「オレがお姉さんを飼ってあげる」
「飼うって……」
 やっぱりこの子ベリアルだ。新しい玩具を見つけた子どものような顔をしながらの言葉に脳裏に浮かぶのは狡知の堕天司の姿。正直苦笑したくなったが、ここは我慢する。
「オレの庇護下にあればこの世界での生活に困ることもないし……そうそう。オレの親のことなら心配しなくていい。もう何ヶ月も帰ってきてないし」
 帰ってきてないという点が引っかかったが、織部の言うとおりだ。“飼う”という言葉はいただけないが、しばらくは彼に頼った方が安全だ。
「じゃあ……お言葉に甘えて。改めて、ジータです。少しの間お世話になります」
「ならオレも改めて……。織部明彦。十五歳の中三だ。ヨロシク、ジータさん」
「十五歳!? その見た目で!?」
 てっきり十八くらいだと思っていたが、まさかの年齢に素っ頓狂な声が上がってしまう。肝心の彼は腹を抱えてケラケラと笑っている。
 年下と分かった途端、織部に少しだけ胸がキュンとしてしまう。
 この感情がなんなのかジータはまだよく分からないが、こうして年下の少年に飼われる年上女性という奇妙な同棲生活が始まりを告げた。