エピローグ 悪魔の先生
「あ~あ。カワイソウに。せっかく忠告してあげたのに彼女、全然聞く耳持たなかったねぇ?」
「ひ……っ!」
ジータが去って少しして。彼女に忠告した女子生徒の背後に音もなく忍び寄り、肩に手を乗せて耳元で囁くのはベリアルだった。しかし今はジータに見せた温厚な様子ではなく、凍てつく氷のような言葉と口調に女子生徒はブルブルと身を震わせる。
普段生徒たちに見せている弱々しい一面はなく、眼鏡の奥に光る赤いビー玉は鈍く光り、口角は邪悪に吊り上がっている。声も低くなり、今のベリアルはまさにジータを助け出したときの男そのものだ。
「キミとしては罪滅ぼし……なのかな? いずれにせよ、キミの言葉は彼女には届かない。たとえ本当のことを言っていてもね。あぁ、でもこんなにも彼女に想われているなんて。ヤバい、これだけで達しそうだ」
学校関係の人の前では牙を隠した人畜無害な草食系を演じているベリアルの本性に、女子生徒の額からは冷や汗が流れ落ちる。怖い。この人が怖い。まさかこんなことになるなんて!
過去の自分の行いをひたすらに呪う。そんな彼女の脳裏によぎるのは昨日の出来事だ──。
廃工場の奥の奥。染みのついた粗末なシングルベッドの上には手首を頭上で固定され、目隠しをされているジータと哀れな少女を今から自分の好きにできると興奮に股間を膨らませる半裸の男がいた。
その背後にスマホ片手に立つ女子生徒はいい気味だと下卑た声でまくし立てる。
「この動画、ネットにばら撒くから! クソ真面目な生徒会長サマの淫乱姿に学校中の男たち、ううん、世界中の男たちのオカズになってシコってもらえるんだから嬉しいでしょ? あははははっ! アンタもこれで終わりだね!」
「いやっ……! いやっ、やめてぇっ!! イヤァァァァッ!!!!」
ジータは嫌だ嫌だと悲鳴を上げながら自由を許されている脚を必死に動かして暴れるが男の両手に強く掴まれ、動けなくなると今度は縄をほどこうと腕をやたらめったらに暴れさせるが皮膚が縄と擦れて痛いだけ。それでもやめることはできなかった。
「ベリアル先生にあげたかったその処女も汚いオッサンに奪われ、綺麗な体もザーメンまみれになって……あー、カワイソ」
「汚いオッサンって、自分の男に向かってひっでぇなぁ!」
全く可哀想と思ってない声でジータをあざ笑い、男の方も少女の言葉に酷いと言いつつも真に受けてはおらずにゲラゲラと下品に笑った。
「助けてっ……、助けて! ──たすけて、ベリアルせんせぇっ!!!!」
「だ〜〜か〜〜ら〜〜! 助けなんて来ないって言ってんじゃん! っ……なに?」
親でもなくベリアルの名前を呼ぶジータに少女は苛々した口調で切り捨てるが、遠くから怒鳴り声が聞こえたことに一定の緊張が生まれる。次いで聞こえるのは男の悲鳴。誰か来ているのか。……まさか、本当に先生?
「おい、お前見てこい」
「な、なんで私が……!」
「なんだぁ? 俺の言うことが聞けねぇのか!?」
「ッ! わ、分かったから怒鳴らないで……」
男に命令され、女子生徒は渋々ながらも退室して音が聞こえる方へと向かっていく。出入り口へと近づくにつれて男のやられる声が聞こえて極度の緊張に心臓が痛くなる。本当は行きたくないのに一体なにが起こっているのか知りたくもあり、少女の歩く速度は小走りへと変わる。
「なに……これ……」
工場の浅い部分に待機していた男たちはひとりが地面に倒れており、残りは原因の人間を前にして一触即発の状態。
工場の天井から降り注ぐ照明の光によって照らされる男は黒いシャツに細身の黒ボトムと全身黒ずくめ。大胆に開かれた胸元からは分厚い胸板が顔を見せており、色気を感じる。顔は男との距離が離れているために分からない。
物陰に隠れている不良仲間の男子生徒を見つけ、近寄ると小声で現状確認をすれば知らない男がいきなり現れ、殴りかかった組員の一人を逆に蹴り飛ばして倒したという。
「なっ……なんなんだよテメェ!」
「別にキミたちには用はないんだ。奥にさらってきた女の子がいるだろう? 悪いけど返してくれないかい?」
「いきなり現れて、はいそうですかって返すわけねぇだろ! 馬鹿か!」
「お前がなにモンかは知らねぇが始末しておいた方がよさそうだな。恨むなら自分を、」
仲間が一発で倒されたことに対する怒りと正体不明の男に対する不気味さに組員の一人が懐から銃を取り出して男へと向けるが、その瞬間に乾いた音が工場内に響く。
この光景を物陰から見ていた少女はなにが起こったのか理解できなかった。組員が銃を向けたら、乾いた音がして、そのまま倒れた。仰向けに倒れる男の額の中心には穴が空いており、頭部から血が広がっていく。
一同、男の死体に釘付けだったが元を辿ろうと自然と視線は謎の男へ。彼はどこに隠し持っていたのか伸ばされた手には銃が握られており、先端からは細い煙が漂う。
「あぁ、サリィ? 悪いけど今から来れるかい? 死体が数人出てしまってねぇ。キミの手を借りたいんだ。住所を送っておいたから誰かに連れてきてもらってくれ。それじゃ、頼んだよ」
男は銃とは反対の手でスマホを持ち、どこかへ電話をしながら的確な動きでトリガーを引いていく。なんともない顔で会話をしながら残りの組員を全員殺害し終えたところで電話は終わり、スマホをボトムのポケットにしまう。
人をあんなにも簡単に、作業的に殺す男に少女は全身が大きく震え、歯もガチガチと音を立てて収まらない。それは彼女だけではなく、仲間の男子生徒ふたりも同じ。
「ひ……!」
男と視線が重なり、少女は慌てて物陰に顔を引っ込める。逃げなくちゃ! 逃げなくちゃ! と頭では思うが体が恐怖にすくみ、動けない。そうしている間にも男はこちらに近づいてくる。それもそうだ。男の目的は奥に囚われているジータ。少女が隠れている場所は奥へと続く道の近く。必ず通る場所だからだ。
「…………」
「ぅ……!」
どうかこのままこっちに興味を持たずに奥に行って……! 小さな願いは神へと届かず。男が奥へと向かう途中、少女たちの横で足を止める。銃はしまわれており、撃ってくる様子はないが横目にこちらを見つめる男の目は血の色。底冷えする凍てつく眼差しは今までに多くの者を殺めてきた証拠。
自分たちも殺されてしまう……! どうしてこんなことに。死にたくない! 死にたくない! 極限状態の少女の股から溢れる水分が太ももを伝って流れ落ち、靴下や靴、地面を濡らす。
「駄目じゃないかキミたち。普段のヤンチャ程度ならまだしも、今回はさすがにヤりすぎだ」
「は……?」
男の妙な言いように男子生徒のひとりの口から疑問の声が漏れる。それは少女も同じだ。そんな言い方、まるで普段の様子を知っているような。
「あぁ、分からないか。ならこれならどう?」
男はスマートな動きでボトムのポケットからあるものを取り出し、そのまま目の部分に装着する。
「な、なんで……」
「どういうことなんだよ……!」
「どうして、」
────ベリアル先生。
彼がかけたのは瓶底眼鏡。それを見て少女たちの脳に浮かぶのは担任教師であるひとりの男。しかし彼は見た目から弱々しくて頼りなく、加えてドジばかり。見ていてイライラするからと彼の授業を妨害したり色々な嫌がらせ、少女たちからすれば憂さ晴らしのターゲットだった。
どんなことをしてもヘラヘラとしていた彼。それが目の前の男だというのか。あまりにも違いすぎる姿に言葉を失っているとベリアルは「まだ信じられないかな?」と今度は猫背になって表情も自信のなさげな優男風にすればますます先生の姿へと近づく。これで髪に寝癖があったら完璧だ。
「ぃ……いや、殺さないでっ……! 今までのことは謝るから、もうなにもしないから……!!」
「お、俺らは悪くないんだ! まさかこんなことになるとは思ってなくて」
「ジータさんには悪いと思ったけど、ヤクザの組長に逆らえなくて……!」
それぞれ保身に走るがベリアルは最初から殺すつもりはないのか軽く息を吐き、にっこりと不自然に笑うと教師に扮しているときの少しばかり高い声で言う。
「今日はもう帰りなよ。外は暗いから気をつけてね。それじゃあまた明日。ちゃぁんと朝から学校に来るんだよ? キミたちのことを──先生は待ってるからね」
「ひぃっ……!」
ベリアルの本当の姿を知った今なら分かる。両目を閉じ、頬の筋肉で無理やり持ち上げた口角は笑っているが笑っていない。ただ貼り付けただけ、偽りの笑み。先生は待っているからねという最後の言葉は細く開眼し、本来の声の低さで言われ、少女たちに“これは命令だ”と暗に告げている。それが分かったのか三人とも壊れたおもちゃのように首を何度も縦に振ると、ベリアルは自らの目的のために奥へと消えていくのだった。
***
ベリアルの命令どおり三人は朝から登校した。逃げるという選択肢もあったがとても実行には移せない。もし命令を無視したらどうなるか。少女たちは震えながら一日を過ごすことに。今までなら彼の授業に茶々を入れたりと邪魔をしていたが今日はそれもしない、否、できなかった。彼の本当の姿を知った今なら分かる。今までなんて馬鹿なことをしてきたのかと。
彼の授業の最後に実質呼び出し命令を下された一行は昼休みの時間にひと気のない空き教室にベリアルといた。昼の彼は草食系の無害な教師を演じ、今もその雰囲気を纏っているがそれがまた怖くて怖くて、三人とも彼の顔を見れずに視線は自分たちの上履きへと注がれている。
「さて。キミたちを呼んだのはこれからのことを話そうと思ってね」
少し高い先生声で言うものだからより恐怖を煽り、今まで好き放題やってきた三人は絶望的な言葉に肩をすくませ、生唾を飲み込む。ベリアルはそんな子どもたちを見て「怖いかい?」と笑うと本来の自分に戻って会話を始めた。
「まずは彼のことを伝えておこうか」
「彼……?」
「キミの彼氏、ヤクザの組長の話だよ」
ベリアルに言われたことで思い出す。自分のことを考えるので精一杯で忘れていたが、彼はどうなったのか。あのあと連絡を入れたが折り返しもなく、メッセージも既読がつかない。もしや彼も殺されて……?
「廃工場での出来事のあと、頭を丸めた彼が事務所に来て……あぁ、こう見えてオレも彼と同業でね。全裸で土下座して命乞い。どうか、どうか命ばかりはお助けを~~! って、いい歳したおっさんが泣いて喚いて」
ベリアルが男と同業。つまりヤクザだと明かしたが少女たちにすれば正直どうでもよかった。そもそも考える余裕すらない。
「それで……どうなったんですか……」
「オレとしては未遂で終わったし、彼自身に興味はないから許すもなにもなかったんだが……オレの上司の上司、そのまた上司がお冠でねぇ。彼を引き渡したあと、どうなったかは聞いてないけど今頃は海に沈んでいるか、生き地獄を味わっているか……」
ベリアルの言葉に一同に戦慄が走る。てっきりベリアルにとってジータは恋人かなにかだと思って助けに来たのだと思っていたが、どうやら違うらしい。恋人ならば未遂とはいえ男を許せないと思うが彼は興味がないという。さらにはなぜか彼よりも階級が上の人物が猛烈に怒っており、組長はどちらにしろ、もう。
「彼の話はこのへんにして、キミたちのこれからだが……。オレが上から仰せつかっているのは“キツいお灸を据えること”。端的に言えばオレに任せるってことだから、さっそく今日から仕事を手伝ってもらおうかな」
「い、命は助けてもらえるんですか……?」
ひとりの男子生徒の問いにベリアルは慈悲深い聖母を連想させる柔らかな笑みで「もちろん」と肯定する。その答えに三人は心の底から安堵したのか、うっすらと涙目になりながら互いに喜びを分かち合う。
「まずキミたちふたりは学校が終わったら動きやすい、汚れてもいい服に着替えて指定した場所に来るんだ。そこからは車で移動。山の中で穴掘りをしてもらうよ」
男子ふたりを指差し、仕事の内容を告げるが山で穴掘りというのを聞いた瞬間に彼らから喜びの感情が消える。
「昨日の……あの人たち、を……俺たちが埋めろ、と……?」
言葉を震わせる男子生徒の頭に自然と浮かんでくる仕事内容は死体を埋めること。野犬など、動物に掘り返されないようにとても深く掘る必要があるとなにかで見たことがあった。
「当たり前だろう? 今回の誘拐計画はそこのおしゃべりな彼女から聞いていたはず。なら止めようとしなかったキミたちも同罪。キミらが殺したも同じ。彼らが安らかに眠れるように墓を作ってやらないとね?」
「…………」
「うん? 組長の彼がジータのことを知ったのはそこの彼女から。痛い目に遭わせたいと零したのと、彼自身の欲から今回の計画を立てたと言っていたが……。ジータのことが嫌いな彼女だ。そういう話を嬉々としてキミたちに話しているものだと思ったが、違うのかい?」
「き……聞いて、いました……」
「なら、頑張って穴掘りしないとな?」
ベリアルは両目を閉じてにっこりと笑うと当然のように言い放つ。
(私は、どうなるの……?)
力仕事を男の彼らに振ったのだ。じゃあ女の私は? そう考えて少女の顔は今にも倒れてしまいそうなくらいに蒼白になる。
「次はキミ。学校が終わったらオレの部下が迎えに来るから車に乗って、そのあとは……客しだいだな」
「っ、ひ……! せ、先生やだ、わ、私……そんな……!」
「今さらヴァージン面なんて萎えるだけだぜ? マァ、そんなに嫌なら身体を使う仕事がもう一つある。ファーさんの実験体。彼、組のトップなんだけど研究者の一面があってねぇ。人体実験用のモルモットが足りないんだよ」
少女自身遊んでいて組長の男以外も経験済みだが、すべて自分の意思でしていた。だがベリアルから与えられる仕事は自分の意思で選んだ相手ではない。全く知らない相手に好きなようにされる。自らの体を抱きしめ、泣きながら懇願するもベリアルは意に介さず。逆にさらにキツい仕事を提案され、少女は黙るほかなかった。
「キミたちは本当に運が悪かった。ジータ自身は知らないが彼女の親族の中にひとり飛び抜けてヤバい人がいてねぇ。高校生になる彼女に変な虫がつかないか心配で、オレを教師として学校に潜り込ませるくらいに彼女を溺愛している。そんな人の逆鱗にキミたちは触れたんだよ」
***
「さあ、お迎えが来たよ。車は校舎裏の道路に停めてあるから早く行くんだ。お客様を待たせるわけにはいかないからねぇ」
走馬灯のように昨日から今日にかけての出来事を思い出していた少女を現実に引き戻したのは死刑宣告のように告げられた言葉だった。励ますように何度か肩を叩かれ、背中を押されれば少女の足は操られるように昇降口へと向かう。その背を見つめていたベリアルはふと窓の向こうを見る。
三階から見える景色はとても広く、緩やかに夜の帳が下りつつある空の下にジータの姿を見つけた。なんとなく見つめていればなにか感じるものがあったのか、彼女が振り返り、ベリアルの姿を視認すると大きく手を振ってくる。
ベリアルも先生の仮面を被って軽く手を振る。自然と笑みが深くなってしまうのは彼女が哀れだから。
(キミはオレの演技に本気で心配してくれて、世話を焼いて……あぁ、早くキミに全部ブチ撒けたい! 頼りない先生は嘘で塗り固められた偽りの姿、キミが好意を寄せる“ベリアル先生”は最初からいなかった。キミのおもりも結局はファーさんのためだと!)
全部知ったら彼女はどういう顔をしてくれるのか。美しい色をした目は濁り、涙を流しながら絶望するのか。
はたまた、それでもいいと言うのか。まぁどちらでもいいかと悪魔は嗤う。彼女が自分から離れていっても彼女の高校生活をずっと見守ってきた実績は評価され、ルシファーの手柄となる。
彼女が真実を受け止め、それでもベリアルを選んだとしてもルシファーの評価は確実に上がるのだから。
満足したのか去っていくジータの背中を、人の姿をした悪魔のような男は狙いを定めた蛇の目で見つめ続ける……。
終