第五章 氷解
──次の日。ジータは例の一件がありつつも学校に行くことにした。適当な理由をつけて休むこともできたが家にいるよりかは学校に行き、友人たちと過ごした方が嫌な記憶を忘れられると思ったからだ。
あんなことが起きたので登校のときは細心の注意を払ったが、周りに他の生徒がいたこともあり、いつもと変わらぬ通学路だった。
(ッ……! ……あれ?)
教室に入ると窓側の席に固まっているクラスの問題児たちがすでに席についていた。普段はギリギリに来たりと余裕がある時間に座っている姿を見たことはない。加えて昨日のこともあり、身を固くしたジータだが視線が合った瞬間に一行は恐ろしいものでも見るかのように目を丸くし、縮こまって俯いてしまった。
見た目の様子から怪我はしてないようだが、あの男の人が来たときに上手い具合に逃げたのだろうか? とも思ったが関わりたくないので自分の席へと向かい、すでに登校していた隣席のルリアとの会話に花を咲かせた。
(やっぱり、安心するな)
友人とのたわいのない会話にホームルームのチャイムと共に教室に入ってきた担任であるベリアルの姿。猫背に寝癖が残っている髪、瓶底眼鏡、白シャツのくたびれた襟。ポジティブに言えば優しそう、ネガティブに言えば自信のなさげな表情はジータにとって当たり前になっていて。彼の変わらぬ姿に安堵しつつ、一日が始まった。
「今日の授業はこれでおしまいです。あっ、そうだ。君たち、昼休みに少し時間貰ってもいいかな。手伝ってほしいことがあるんだ」
ベリアルの授業はクラスの不良たちが茶化したりと邪魔をするのだが今日は教室にいるにも関わらず最初から最後まで誰も口を開かず、なにもしなかった。ジータは違和感を覚えつつも正直なところ彼女たちがいないときと同じように進んでよかったと思っていた。それは他のクラスメイトもだろう。
一番の驚きはベリアルが手伝いを頼み、不良たちが「はい……ッ!」となにかを怖がっているような引きつった声で返事をし、何度も頷いたことか。いつもならば「え~~、めんど~い」や「だるっ」など、拒否の言葉しかせず、手伝ったことなど一度もなくて代わりに自主的にジータやルリアが手伝うのが常だというのに。
それでもジータは今までの短い人生の中で一番恐ろしい出来事を記憶に刻みつける原因になった人物たちのことを考えたくなくて、無理やり思考をシャットアウトすると成り行きに任せるのだった。
その後も特になにも起こらずに時間は過ぎ、あっという間に一日の授業が終わってしまった。非日常を経験したジータはこれほどまでに平和な日常が幸せなのかと心の中でひとり噛みしめ、感謝する。この先も平穏が続きますように、と願わずにはいられない。
「ジータ。一緒に帰りませんか?」
「ルリア! ごめん、生徒会の仕事をちょっとしたくて」
「そうですか……。今日は用事があって手伝えませんけど、言ってくれれば私も手伝いますから!」
「ありがと。じゃあまた明日ね」
「はい! また明日!」
部活に向かう生徒や帰宅する生徒。各々の行動をとるクラスメイトに混じってジータも生徒会の仕事をしようと席から立とうとすればちょうど帰り支度が終わったルリアが話しかけてきたが、心苦しさを感じながらも断った。
やらなければならないことがあるのは本当だ。できれば早いうちに少しでも進めておきたい。と、いっても昨日のことがあるので明るいうちに帰るつもりではある。
ジータの答えに残念そうな顔をルリアはするが、すぐに明るい表情に戻ると言葉を交わし、教室を後にした。残されたジータも鞄を持って生徒会室へ。
何人かの生徒たちとすれ違いながら着いた部屋は誰もいない。がらん、とした部屋の窓の向こうからは運動系の部活をする生徒たちの活気溢れる声が響き、それをBGMに会長としての雑務をしていく。
「あれ? ジータさん?」
「……先生、どうしたんですか?」
作業に集中していたジータの意識を引っ張ったのはスライドドアを開ける音と、耳心地の良い男性の声。顔を上げればベリアルが立っており、きょとんとした顔をしていた。
いつもならば彼のどこか幼く見える顔に自然と口元が緩むのだが、今回は事情が違う。彼ことを思って距離を取っていたのだ。けれど彼の優しい眼差しが自分だけに向けられていることに無意識に微笑みが浮かんでしまう。
──やっぱり自分に嘘はつけない。彼の迷惑にならないようには気をつけるが、元通りになろう。最近のことも謝らなければ。
「通りがかったらジータさんの顔が見えてね。今日も生徒会の仕事を?」
「はい。次に集まるときまでに進めておこうと思って」
「ジータさんは真面目だなぁ……。でも、今日はここまでにして──そうだ、ちょっと待っててくれるかい?」
「はい?」
なにかを思いついたような顔をするとベリアルは行ってしまった。どうしたんだろう? とは思うが、彼がここで待っているように言ったのだ。大人しくしていよう。
ちょうどキリのいいところで作業も終わったので片付けを始めれば外はいつの間にか夕焼け空。窓に近づき見上げれば綺麗ながらもほんの少しだけ怖さを感じる濃い夕焼けが地上を赤く照らしていた。どうやら自分で思っていたよりかも長い時間作業に没頭していたらしい。先生に声をかけられなかったら気づかなかったんじゃ? と苦笑いしてしまう。
「おまたせ」
引き戸を開けて入ってきたベリアルの両手には湯気が立つマグカップが二つ。わざわざ職員室まで行って飲み物を作ってまた戻ってきたのか。
「これ、貰い物のココアなんだけど結構美味しくてさ。帰る前に少し休んでいきなよ」
そう言いながらジータのそば、窓側の席にマグカップたちを置いたベリアルはそのまま近くの席に座った。彼の優しさに温かい気持ちになりながらジータも隣に座る。マグカップを両手で包めば普段飲むココアと違う大人の香りが鼻腔をくすぐった。
「熱いから気をつけて飲んでね。っ、あつ゛ッ!」
「もう、私に言う前に自分が気をつけてくださいよ」
こちらに言うや否や舌を火傷する先生のドジな一面にしょうがないな~、と笑いながらもココアを一口。温かい飲み物のビターな味は心を落ち着かせ、こくこくと数口飲むとそれが全身へと広がっていき、一旦カップを机に戻したジータは大きく息を吐いた。
「ねえ先生。私、先生に謝らないといけないことがあるの」
「ジータさんがボクに?」
「うん……。最近先生に嫌な態度とってたなって」
「あぁ、あれ? ついにジータさんにも愛想尽かされたか~と思ったけど、こんな頼りにならない先生じゃしょうがないよ」
マグカップを包み込むように持ち、深い茶色の水面を見つめながら言えば彼は癖のついた髪の毛を恥ずかしそうに掻きながらココアを飲む。頼りない自覚があるのならばもう少し改善したらどうなのかと思わなくもないが、ジータは続ける。
「私、先生があの子に転ばされたとき、恋人同士なんじゃとからかわれて……ハッとしたんです。他の人の目にはそういうふうに見えててもおかしくないんだって。……先生と生徒。もしなにかあったら責められるのは先生だから距離を取ることにしたんです。だから、ごめんなさい。……自分に嘘をつくって苦しいですね。明日、ううん。今からまたいつも通りに戻ります。ドジっ子なベリアル先生の面倒、卒業するまで見てあげますから!」
「ふごッ!?」
「きゃっ、なにしてるんですか先生! えっと、ティッシュ、ティッシュ!」
リラックスしていると隣でむせる声が聞こえ、慌てて彼を見れば顔がココアで濡れているではないか。近くにあったティッシュを慌てて箱ごと掴むと数枚取り、白いティッシュがココアを吸い取り色が変わっていく。
さっそくのドジにジータはしょうがないなと困った笑みを浮かべるも、変わらない彼を見ていて心が癒やされていくのを感じる。やはりベリアル先生はこうでなくては。
「ちょっとむせちゃって……。ごめんね、ジータさん。でもそこまでボクのことを考えてくれていたなんて。すごく嬉しいな~」
「ふふっ。ふふふっ……」
「ジータさん?」
「なんだか、いつもと変わらない先生を見たらすごく安心しちゃって」
昨日の非日常も彼を見ているとどうでもよくなってきてしまい、ジータはくすくすと笑いながらベリアルの顔を優しく拭いていく。彼もマグカップを置いた手を自分で拭きながら安心したような微笑みを浮かべ、ジータの手を大人しく受け入れる。
「今日のジータさん、なんだか元気がないように見えたから。そう感じてくれたなら嬉しいよ。……熱かったけど」
「……顔はよし。あとは眼鏡……っと」
自分としては普段と変わらないよう努めており、親友のルリアにも悟られることはなかったというのに彼は……。些細な変化も見逃さない優しいところが好きだとジータは照れを隠しつつ手を動かす。
つるりとした卵肌をちょっぴり羨みながらも顔を拭き終え、最後に残ったのは眼鏡。服まで汚れなかったのは幸いか。彼のトレードマークでもある眼鏡の両側を親指と人差し指で摘まむことで顔から離し、ティッシュに水分を吸わせていく。
「なんだかジータさん、ボクのお母さんみたいだね」
あはは……、と笑う眼鏡を取った彼の顔はどちらかといえば整っていると思うが、本人の自信のなさが表情に出てしまっているために頼りなさそうで実際に恋愛系の噂をひとつも聞いたことがない。
意外と身長が高いので猫背を直したり色々すればモテるだろうなと思いつつも、女子たちに黄色い声を上げられる彼の姿を想像したらなんだか胸がもやもやとしてしまう。
「私はこんな大きい子を産んだ覚えはないですよ~」
ベリアルのお母さん発言に自分の行動を思い返せば確かにそう言われもおかしくはなかった。普通、生徒が教師の顔を拭いたり眼鏡を拭いたりするだろうか。いや、ないな。彼の発言を軽く受け流す裏でそんなことを考えつつ、眼鏡を拭き終わったジータは再び彼の耳にかけてやろうとするが。
(なんとなく似てはいるけど、雰囲気とか全然違うよね……)
ベリアルの顔をまじまじと見つめ、記憶の中の男と比べてみるも一致しない。髪色や目の色は似ているかもしれないが、目の前の優男があの悪人たちを一人で倒せるかと考えれば答えはノー。逆に大怪我をさせられそうだ。もしかして兄弟がいるのかも? と思って聞くが「い、いないよッ」と妙に上ずった声での返事。
「う~ん……ってあれ? 先生熱でもあるの? 顔赤いけど……」
唸りながらも眼鏡を掛け直してやり、意識を謎の男から彼へと向ければ顔に夕焼けとは違う赤さがあることに気づき、指摘するも彼が恥ずかしそうに視線を逸らしたことでようやくジータは自分の顔が彼の目と鼻の先にあることを知った。
もう少し顔を近づければキスしてしまいそうな距離。無意識の行動に反省しつつも年の離れた成人男性の困り顔にジータの中にいる小悪魔がその姿を現す。
彼から離れ、パイプ椅子に座り直すと残っているココアを一口。
「先生ってもしかして童貞?」
「どっ、どどどど童貞なわけないじゃないかっ……!」
(童貞なんだ……)
カップを持ちながら横目に見れば彼は虚を突かれたのか軽く仰け反ると激しく動揺し、それを誤魔化すように眼鏡のブリッジを何度も中指で持ち上げる。まるで漫画のようなベタな反応にさすがのジータも苦笑い。
「先生、自分で言って空しくならない?」
「うぅ……どうせボクは陰キャな非モテですよ~。はぁ……。まあでも、何はともあれジータさんが元気になってくれてよかった。ボクもさ、キミの笑顔に元気を貰ってるから」
がっくりと肩を落とすベリアルだが、元気になってくれてよかったと告げるかんばせはとても優しくてジータは逆にキュン、としてしまう。けれどここで照れるのはなんだか恥ずかしくて強がってまた茶化す方を選んだ。
「先生。それ、告白ですか?」
こちらがなにも思っていないように装うため、正面にあるスライドドアを見つめながらマグカップに残っていたココアを流し込み、先ほどと変わらぬトーンで告げる。彼がどういう反応をするかは想像に難しくないが、もし想像を裏切って「そうだよ」と言われたら今度はこちらが固まってしまう番だ。
「ちょっ、あ、あんまりからかわないでくれっ……! ふぅ。正義感溢れる真面目な子だと思っていたけど結構お茶目な面もあるんだね。……さて、と。そろそろ暗くなり始めるし、この辺にしようか。じゃあジータさん、また明日。気をつけて帰るんだよ」
ベリアルの反応は想像の範囲だったが、どこかホッとしている自分を認めつつ、ジータは鞄を持って立ち上がる。
「は~い。また明日。さよなら、先生」
「ああ。また明日」
片手を上げれば彼も穏やかな声と笑顔で手を上げてくれる。ほとんどの人は彼を頼りないというけれど、私は好きだなとジータはしみじみと思うと廊下に出た。生徒会室に入る前は生徒たちの往来が多く、騒がしかったというのに今はそれが嘘のように静まりかえっている。
茜差す廊下。自分としては普段どおりに振る舞っていたつもりだったが、まさか見破られていたなんて。けど先生と話せてよかったとジータは幸福を感じながら廊下を歩いて行く。するとしばらくして背後から控えめに「ねえ……」と呼び止める声が聞こえ、ジータは立ち止まり、振り返った。
少し離れた場所に居心地悪そうに立っているのは一生の心の傷になってもおかしくはない忌々しい記憶を植え付ける原因となった張本人。しかしつい昨日までは強気だった彼女が今では教室にいたときと同じようになにかを恐れている様子。
「……なに」
基本親切なジータもあんなことがあったのだ。未遂で終わったとはいえ、とても恐ろしい経験をした。ぶっきらぼうな冷たい声になるのも当然だ。ジータとしてはそこまで怖い声を出したつもりはないが、こちらを伺うように見つめるクラスメイトは大げさなほどに肩をすくませながらも、ぽつりぽつりと話し出す。
「あ、あの先生……ベリアル先生が、怖く……ないの……?」
「ベリアル先生が怖い? なにを言って……」
ベリアルは怖いという感情の対極にいる存在。そもそもあなただって今まで先生を軽んじて色々悪さをしていたじゃない、という言葉をジータはそっと呑み込む。
「あの人は人の形をした悪魔だよ……! だから今のうちに離れた方がいい……! 取り返しのつかなくなる前に!」
「ッ……!」
この子はなにを言っているんだ。あのベリアル先生が悪魔のような人? ジータは少女が言っている言葉の意味が全く理解できない。次いで心の奥底から湧き出るのは夕焼けよりも濃くて赤い感情。
他人に対して怒りというものをそこまで多く経験してはいないが、今までの怒りの中でこの感情は一番強い。火山が噴火するように心から溢れ出す怒りという名のマグマは瞬く間にジータの精神を染め上げ、激しい思いと共に叫ぶ。
「ベリアル先生はっ……! ──私の先生はっ! 頼りなくて、弱くて、いつもドジばっかりだけど! 生徒の些細な変化に気づいて寄り添ってくれる優しい人だよ!! 私は……私には、あなたの方がよっぽど人の形をした悪魔に見える……ッ!」
夕日に照らされるジータの横顔に一筋の線が流れる。涙と共に叫ぶ言葉は本心から。自分ことならば悪く言われたって構わない。ベリアルのことだって他の生徒が言うように情けないや格好悪い程度ならば気にしない。だが自分の変化に唯一気づいてくれた彼を悪魔だなんてどの口が言うのか。最後は溢れてしまった怒りを少しでも抑えようと声を絞り出し、ジータは悔しさに奥歯を噛みしめ、眉間に思いきり皺を寄せながら睨み付けるが、スッと真顔になると踵を返して昇降口へと向かう。
こんな最低な人にこれ以上なにか言っても無駄だと己に言い聞かせながらゴシゴシと腕で乱暴に涙を拭う。未だに怒りで頭や顔が熱く、せっかく幸せな気持ちで帰宅できると思ったのに! という気持ちが収まらず、下駄箱から靴を取り出す動作も荒くなってしまう。もしこの場に他の人間がいたならばまさかあの会長が……!? と思わずにはいられないほど、彼女は怒っていた。
顔をしかめ、カッカしたまま外に出れば気持ちのいい風がジータの髪をさらう。まるでもう怒るのはおしまいと言っているかのようだ。少女をなだめる涼しい風にジータは空を見上げる。そうすれば夕焼け空がだんだんと暗くなり、蒼と赤のグラデーションになっていることに気づく。
こうして空をまじまじと見上げることは久しくなかったが、その美しい情景に怒りはどこへやら。目の間の皺も消え、すっきりとした顔に戻ったジータは軽く息を吐くと歩き出すのだった。