第一章 将来は、
陽が傾き始めている赤い空。柵の手すりに両腕を乗せながらどこまでも澄んでいる空を見上げる影がひとつ。ここは学校の屋上。生徒会の仕事を終えたジータはひとり空を見上げ、気分転換をしていた。
普段空を見上げることがないからこそ、たまに見たときの美しさに吸い込まれてしまう。どこまでも広い空を見つめていると疲れや悩みがどこかに消えていく錯覚さえ覚える。
夏の気配を感じ始めた今日この頃。爽やかな風がジータの頬を撫で、髪をさらっていく。そろそろ帰らないとな、と思い始めたところで背後から扉の開く音。誰かが来た、と首だけで振り向けばやってきたのは密かに想いを寄せているベリアルだった。
猫背にくしゃっとした髪の毛、くたびれた襟のシャツの上に着ている袖なしセーター。彼のトレードマークでもある瓶底眼鏡の奥に光る赤い目は穏やかな光を宿しており、ジータの口元はいつもと変わらぬ存在に自然と口角が上がっていく。
彼はジータの姿を視界に入れると「ジータさん!」と、どこか嬉しそうな声と顔で隣にやってきた。二人の間には人ひとりくらい入れる空間があり、それは教師と生徒の一般的な距離。正直に言えばこの無駄な空間を詰めたくなったがそこは我慢。
「先生も気分転換だったりします?」
「うん。ちょっと風に当たりたいな、なんて。それにしても綺麗な夕焼け空だね」
「そうですね。もうちょっと赤いと少し怖い気もしますけど」
「そう? 真っ赤な……一般的には禍々しいと言われるくらい赤い空もボクは好きだけどなぁ」
空を見上げる彼の横顔はジータからすれば空よりも綺麗で。正直後半の彼の好みは耳に届いておらず、心の中で綺麗なのは先生の方だよと呟いたところでベリアルはジータへと顔を向けた。どうかした? と小首を傾げて微笑むベリアルに脳内が真っ白になる。
これがベリアル以外ならば「なんでもないよ」とすぐに答えることができるし、そもそも横顔をまじまじと見ることもない。ベリアルだからこそすぐに答えることができず、どうしようかと内心焦るととっさに浮かんできたのは悩みのひとつ。話を逸らすためにはもってこいだ。
「えっと、あのね、先生。実は悩みがあって」
「悩み? ボクでよければ話を聞くよ」
「うん。私、もう受験生でしょ? 友達の中には将来の夢がもう決まっている子もいて。それに比べて私って“これ!”っていう夢がなくて。人を助ける仕事をしたいとは思ってるんですけど」
ジータはもう三年生。未来に向けてそれぞれの道を選択しなければならない。友人の中にはすでに進みたい道を決め、それに向かって努力している子もいるというのに自分にはふわふわとしたモノしかない。そろそろある程度は決めないとな、という思いがあった。
「人助け……ジータさんにぴったりだと思うよ。現にボクもたくさん助けてもらってるし」
「それは……困っている人がいたら助けたいですし。う〜ん……と、なると警察官とかよさそう?」
「…………」
パッと浮かんだ職業を口にすればベリアルはどこか憂いを帯びた表情をして黙ってしまう。なにか変なことを言ったかな? と思ってどうかしましたか? と探りを入れれば彼は逡巡し、重たい口を開く。
「警察官……は、やめたほうがいいよ」
「ちょっと意外。先生は賛同してくれると思ってました」
「実はボクの知り合いの警察官が若くして殉職していてね。素晴らしい職業だとは思うけど、できれば違う職に就いてほしいってのが本音かな。人助けなら他にもいっぱいあるだろう?」
てっきりベリアルならば賛成してくれるかと思いきや、返ってきたのは真逆の反応。少しばかり眉間に皺を寄せ、寂しげな表情で反対する彼の言い分はつらい経験をしているからこそのもので、彼の気持ちを理解できるのと同時にベリアルに心配されて妙に舞い上がっている自分をジータは見つける。教師の立場というよりかは彼自身の言葉だからこそ変に意識してしまうのだ。
「そんな顔しないでください。例え話ですし、正直将来どんな仕事に就きたいかまだハッキリとは決めてないんです。ふふっ、小さい頃はお嫁さんとか言ってたから、それもいいかも」
まだ目指すと決めたわけでもないからと付け加えればベリアルは少し安心してくれたのか安堵したような柔らかい表情に戻ってくれた。少々頼りなさがあるものの、彼の優しい顔つきはジータの心を癒やす。
「ジータさんがお嫁さんかぁ〜。きっとしっかり者のいい奥さんになるんだろうね。旦那さんは幸せ者だよ」
(叶うなら、未来の旦那さんはあなたがいいんだけどな)
正面の景色に顔を向けるベリアルの横顔を見つめ、口の中で吐露する。声にならぬ言の葉を散らしながら浮かぶのはもしもの未来。もしも、彼と結婚したら……。
「ただいま〜」
「パパー! おかえり!」
「おかえりなさい、あなた。今日もお疲れ様」
夫の帰宅に合わせて子どもと出迎えればベリアルは抱きついてくる我が子を抱き上げ、笑顔で言葉を交わす。手が塞がっている彼の手からジータは鞄を受け取り、一緒にリビングへ。
「今日はパパの好きな物をたくさん作ったの。この子も手伝ってくれて。パパのご飯作るー、って」
「わあ、こんなにたくさん……! 嬉しいな〜!」
リビングと繋がる形で設置されているキッチンに用意されている晩御飯のメニューはベリアルの好きな料理ばかりなのと、子どもが自分のために手伝ってくれたことが嬉しいのかベリアルの顔がほころぶ。
それを見てジータの胸も温かくなる。大好きな人たちに囲まれた時間は至上の幸福。
(あぁ、でも先生には家にいてほしい気持ちがあるかも……。俗に言う専業主夫)
王道な妄想もいいが抜けた部分が目立つベリアルはどちらかといえば家にいて安全に暮らしてほしいという願いもある。家にいて、自分の帰りを待っていてほしい。彼を養えるくらいお給料がいい職に就くから。
もわんもわん、と新たな妄想が広がっていく。
「ただいまぁ……!」
今日も激務だった。心身ともに疲れきっており、脚を引きずってゾンビのように歩きながらようやく帰ってきた我が家。玄関の扉を開けて中に入ればリビングの方から足音が聞こえ、黒いエプロンを着けたベリアルが迎えてくれた。
「おかえり、ジータ。今日もお仕事頑張ったね。食事もちょうどできたし、お風呂も沸いてるよ。それともボクにする? ……なーんちゃっ、」
「ベリアルにするー!」
漫画や小説の中に出てくる定番の文句にジータはベリアルの胸にダイブする形で抱きつく。エプロンから漂う料理のいい匂いと彼自身の香りが直接感じられてそれだけで彼に対する愛情メーターが振り切ってしまう。好きすぎておかしくなってしまいそう。それほどに彼のことを愛している。
ベリアルは抱きついてきたジータの頭を撫で、労ってやる。年上から甘やかされて極度の疲労もどこへやら。身体が羽のように軽くなっていく。
「ねえベリアル。一緒にお風呂入ろ?」
「っ……!」
分かりやすく紅潮する頬。一緒になってそれなりに経つというのにいつまでも初心な彼の反応が面白くて、ジータは靴を脱いで上がると妖しい雰囲気を纏いながらベリアルに絡みつき、親指で彼の下唇をなぞったところで「わかった、分かったよ」と彼が観念した。
「キミの着替えとか用意して行くから先に入ってて」
「ん、分かった。」
ベリアルの方が年上だというのにどうも彼にはグイグイいきたくなり、その妄想が豊かになってしまう。本人を目の前になんて不埒な想像をしているのだと雑念を振り払うように首を左右に振ったところでベリアルに「どうかした?」と視線を向けられてしまい、ジータは逃げるように慌てて正面の景色に顔を向ける。
「な、なんでもないです! べっ、別になにも……!」
なにもなくはない反応なのだが、ベリアルは特にそれ以上聞くことはなく「そっか」という反応だけ。それが逆にありがたかった。言えるわけがない。あなたを題材にイケナイ妄想をしていたなんて。
「ところで明日、抜き打ちテストをするから予習をしておいてね。ふふっ。ジータさんならその必要もないか」
「先生、それを言っちゃったら抜き打ちの意味ないですよ」
「ジータさんには日頃お世話になってるからね。ちょっとしたサービスさ」
二人だけの空間に和やかな会話。これがずっと続けばいいのに、と片隅で思いながらジータは大切な人とのひとときの会話にもう少しだけ花を咲かせるのだった。