この世界には男女の性別の他に第二の性別がある。人の上に立つアルファ。一般人のベータ。そして男女ともに妊娠可能なオメガ。
オメガには発情期……ヒートがあり、その期間の間は異性同性関係なく、番のいないアルファを誘惑するフェロモンを撒き散らしてしまう。
それだけではなく、個体差はあれど強い脱力感や性欲増進などがあり、社会的なヒエラルキーは最下層に値する。
しかしそれも昔の話。完全には差別はなくなっていないが、現代ではヒートを抑える薬があり、オメガたちはそれを飲みながら日々を暮らしている。
薬だけで抑えられない場合も専用の休暇があったりと先人オメガたちの努力の末に今の世界があった。
また、このヒートをコントロールするには薬の他にもう一つ方法があった。それはアルファとオメガが番になること。そうすればヒート自体がなくなる。
中にはオメガのフェロモンにあてられるのが面倒だと、フリーのアルファが人身売買で気に入ったオメガを買い、無理やり番にする──という場合もあり、国ではそういった組織を潰すための機関が存在していた。
*
「この音……なに……? なにが起きてるの……?」
無機質な銀色の壁に囲まれたこの部屋はベッドとトイレしかなく、まるで刑務所の中のようだ。
ここに囚われていた少年は外からの怒号や発砲音に部屋の隅で頭を抱えて縮こまっていた。
彼はオメガであり、両親の借金のために売られ、人身売買されようとしていたのだ。
恐怖に震えているとやがて静けさが訪れ、遠くから靴音が聞こえてきた。それは真っ直ぐこの部屋へと向かっているのか、どんどん大きくなる。
浅く、早くなる呼吸。全身の穴という穴から汗が吹き出す。自分はこれからどうなってしまうのか。こんな恐ろしい目に遭うならオメガなぞに生まれなければよかった。
「ひっ……!」
低くて太い音を立てながら開かれるドア。ついに見開かれた双眸から涙が溢れ、視界が滲む。
「やあ、無事かい?」
「だ、だれ……?」
甘さを含む低い声は少年の無事を確認する言葉を軽やかに告げる。部屋に入ってきたのは背の高い男性で、逆立てている暗い茶髪と二つのルビーが印象に残る人物だ。
スーツ姿の男性は涙を流す少年の前に片膝をつくと、安心させるように頭を撫でた。その手つきは少年の荒んだ心を落ち着かせ、自分がどういう者なのかを説明した。
彼はこういった事件からオメガを救うための機関に身を置いており、助けに来たのだという。
少年は安堵したが、己の運命を呪わずにはいられない。ベータ同士の親から生まれた彼は自分もベータだと思っていた。
しかし就学前の検査でオメガだと分かると周りの環境は一変し、最終的に金のために売られた。別れ際の両親の疲れきった顔は今でも忘れられない。
オメガでなかったら、たとえ借金があったとしても親に売られることはなかっただろう。
「こんな目に遭うならっ、オメガなんかに生まれなきゃよかった……!」
忌々しいと吐き捨てる。止まっていた涙も再び溢れ、顔を濡らす。そんな少年に男性はどこか苦しげに表情を崩すと、口を開いた。
「キミにもいつか運命の出会いがあるさ。だから希望を捨てちゃいけない」
「お兄さんはアルファだからオメガの気持ちなんか分かるわけない!」
無責任な言葉にカッとなり、少年は激昂する。オメガを買うのはアルファだ。買おうとする側に言われたくはない。
「どうしてオレがアルファだと?」
「だって、どう見てもアルファだよお兄さん。ベータ、ましてやオメガだとは思えない」
首をかしげる男性は誰がどう見てもアルファ。アルファというのを体現したような男だった。なのになぜ疑問を口にする?
困惑に縁取られた双眼を向けていると、男性は口元を緩めた。
「ふふっ。オレもキミと同じさ。同じように売り飛ばされそうになり、とある人に助けられた」
「え……?」
「ベリアル。ここは他の人に任せて私たちは残党がいないか確認しに行くわよ」
アルファのような男がオメガ。その衝撃に言葉を失っていると彼らの背後、冷たい扉から女性の声。
凛とした声の持ち主に目を向ければ、金髪のショートヘアが目を惹く女性が立っていた。
小柄ながらも堂々としており、逆にこちらが萎縮してしまいそうだ。
男性に気を取られて気づかなかったが、外からは先ほどまでの静寂と打って変わって何人かの話し声が聞こえる。内容からして男性の仲間だろう。少年の他に捕まっているオメガがいないか探しているようだ。
「オーケイ、ジータ。じゃあな、ボウヤ」
半分だけ首を動かし、返事をしたベリアルという名の男は最後に少年の頭をわしゃわしゃと撫でると、立ち上がって踵を返す。
少年は直感した。ジータと呼ばれるこの女性がベリアルの番……ただの番ではない。きっと運命の番なのだと。
だってあまりにも、彼女の名を呼ぶ声が愛おしさを纏っていて、顔は幸福に満ちていて。
──運命の番。それは魂と魂の繋がり。その絆は強く、恋人がいるにも関わらず運命の番を見つけると、そちらに惹き付けられてしまうという。
「ま、待ってお兄さん! お兄さんは……いま、幸せ? 生きててよかったって思える?」
「あぁ。もちろん。……だから生きるんだよ、ボウヤ」
ベリアルは片目をウィンクさせると、先に行ってしまったジータを追いかけた。入れ替わりで入ってきた男性に保護されつつ、少年は生きる希望を見出す。
いつか自分も素敵な番と出会って、彼と同じような顔をしたいと──。
*
港近くの倉庫。ここが少年が囚われていた場所だった。中の確認が終わり、ジータと一緒に外へ出たベリアルの頬を夜風が波の音とともに撫でる。
じっとりと重い空気が肌に纏わりつき、不快指数を少しばかり上げる。今日の天気予報はなんだったか。
「なにを話し込んでいたの?」
思い出そうとしたとき、横を歩いていたジータがぽつりと呟いた。ベリアル自身、初対面の相手にあそこまで語ることはまずない。だが、あの少年だけはどうしても放っておけなかった。
「いや、昔のオレみたいだったからさ。つい」
「そう。……なに? 私の顔になにかついてる?」
ベリアルが立ち止まると、ジータもつられて歩みを止める。赤と茶が混ざり合い、ベリアルの鼓動が早くなる。
どうしようもなく、目の前の女性に惚れている。愛でたいという気持ちもあるが、それ以上に彼女に愛でられたい。
己は男のはずだが、彼女に対してのみ女のような感情が浮かんでしまう。運命の番、だからか。
「いいや。本当に生きててよかったなぁ、と思って。あのとき、キミが助けに来てくれなかったら……オレは今頃どうなっていたか」
「…………」
アルファに買われ、無理やり番にさせられて、子供を産むだけの道具にされていたかもしれない。
あり得たかもしれない未来。想像すらしたくないとベリアルはジータに後ろから抱きつき、頬と頬をぴったりと合わせた。
「まさか助けに来てくれた人が運命の番だなんて。おとぎ話も真っ青だ。今でも鮮明に思い出せるよ。男どもを蹴散らしながら囚われのオレを助け出そうとするキミは……王子様そのものだった」
永遠に忘れないであろう、あのときの記憶。
ベリアルはオメガでありながら完璧だった。見た目もよく、賢かった。アルファならば誰でも喉から手が出るほどに欲しい存在。
ベータだった両親は幼いながらも他者と比べて秀でていたベリアルを見て、最初はアルファが産まれたと喜んだが、検査でオメガと分かった途端に環境は変わった。
自分を見る周りの目がギラつき、誘拐されそうにもなった。それでも両親は必死に彼を守ろうとしたが、最後は心が壊れてしまい、ベリアルを手放した。彼が中学生の頃だった。
今はジータたちの手によって潰されたが、金持ちのアルファ向けに容姿の整ったオメガをオークション形式で売る組織があった。
檻の中に入れられたベリアルには信じられないくらいの高値がつき、場のボルテージが最高潮まで上がったのを覚えている。
欲望にまみれた目でベリアルを見つめる客たちに、まだ幼かった彼は本能的な恐怖を感じ、己の運命を憂いた。
そんなとき、場に冷水を浴びせるようにオークション会場の扉が開かれ、何人かのスーツ姿の人間が声を張り上げた。
その中にジータはいた。ひと目見て、体が熱くなった。欲しい。彼女が欲しい。彼女に触れたい。彼女に触ってほしい。
初めてのヒートだった。運命の番だったゆえにベリアルのフェロモンはジータにとって強烈なものだったらしく、魂の繋がりを持つオメガを守るアルファらしく彼を捕らえていた檻に一直線に向かい、その場にいた組織の人間をほぼ一人で倒してしまった。
「おっと、髪を乱すならベッドの上でしてもらいたいね」
ひとり想起しているベリアルを引き戻したのはジータの手だった。セットされた髪を無造作に撫でられ、髪型が崩される。
彼としてはジータに触れられて嬉しいのだが、やはり愛を交わしながら乱されたいもの。
「まだ仕事中よ。ベリアル」
「いてっ」
蠱惑的な色を含んだ目で誘えば、手の甲を抓られた。
男の緩んだ腕からするりとジータは抜け、一歩踏み出した先で空を見上げる。
分厚い雲に覆われ、月と星の見えない空が一面に広がり、遠くでは雷の音もしだした。
「早く仕事を終わらせましょう。これは降ってくる」
「あー……そういえばそうだった」
ようやく思い出した天気予報は、夜は激しい雷雨だった。
終