レッド・ルーム - 2/8

第一章

 閑静な住宅街を歩く三人の学生の姿があった。一人は太陽の光を反射して輝く金髪のショートヘアの女の子。紺色を基調にした制服も手伝って、他の二人よりも雰囲気が大人びている。
 もう一人の女の子は澄み渡る青空を連想させる蒼い長髪を二つ結びにしており、風にそよぐ姿が美しい。制服のデザインも金髪の少女と似ているが、この少女はどこか幼さが残っている。
 最後の一人は襟の詰められた黒い制服で頭には服と同じ色の学帽を被っており、短く切り揃えられた茶髪が健康的だ。
 三人で笑い合いながら仲良く下校途中。すると背後から迫る黒塗りの高級車。そのまま通り過ぎるかと思いきや、車は彼女たちの真横に止められ、運転席のガラスが下がっていく。
「やあ、キミたち。コンニチハ」
「あっ、ベリアルさん! こんにちは〜」
 窓が開かれたことで見えた男は黒に近い茶髪をワックスで固めており、白い肌に映える血のような赤い目は吸血鬼を思わせる。
 顔のそれぞれのパーツが完璧な位置に配置され、他人を惑わす声音はたまらないものがあった。
 蒼い少女にベリアルと呼ばれた男に対し、残りの二人は無言で険しい表情をする。男は「そんな怖い顔するなよ〜」と茶化すと、金髪の少女を見据えた。
「ちょっとお姉さんを借りるよ」
「ジータを?」
「……分かった」
「姉さん、今日はルリアの誕生日で……」
「大丈夫。それまでには帰ってくるから。グラン、ルリア。先にホームに帰って準備をお願い」
 ジータと呼ばれた少女はベリアルの言葉に静かに頷くと、心配そうな声が一つ。振り向けば血の繋がった実の弟であるグランが眉をハの字に曲げ、姉の姿を見つめていた。それはルリアも同じ。
 ジータは自分より年下のグランやルリアに対して安心させるように優しい笑みを浮かべ、大丈夫だからと微笑むと、助手席へと乗り込む。
「それじゃあ少し借りていくよ。なるべく早く返すからさ」
 スモークガラスが閉まり、車内が完全に見えなくなると車はゆっくりと発進し、二人を残して走り去る。
 楽しかった空気が一気に冷え、二人は顔を見合わせると力なく笑い、我が家である“ホーム”への道を再び歩き出すのだった。

   ***

 車は住宅街を抜け、郊外へと向かう。最初は家がたくさんあったが、徐々に少なくなっていく。
 移動中ベリアルがたまに話を振るが、ジータは素っ気なく返すばかり。最後の方は互いに無言のまま着いたのは高い塀に囲まれた一軒家だった。
 見た目は極々普通の家なのだが、中でなにが行われているのかを知る者は限られた人数のみ。そしてジータとベリアルは秘密を知る者かつ、中心人物でもある。
 門を通り中へ入ると玄関の目の前に車を停め、降りるベリアルに続いてジータも車を降りた。
 その場で家を見上げれば、周りの家に比べて少し大きい家なだけなのだが、中ではとても口に出しては言えない非日常的なことが繰り返されている。そしてここは──ジータの仕事場でもあった。
 広い玄関を抜けて中へ入れば、モダンな空間が広がっていた。無駄な物はなく、清掃も行き届いている。
 ジータはこの家を任されているベリアルの部下である青年の姿を思い浮かべた。闇の世界の住民にしては綺麗過ぎる心を持つ男。彼が言うには行くところもなく、ベリアルに助けられてからは彼の下で働いているらしい。
 学校帰りの荷物を食事用のテーブルと一緒に置かれている椅子に置く。その振る舞いは自分の家のようだ。
「仕事の前に……まずはこの間の映像を見ようじゃないか。なかなかイイ出来だぜ?」
 深紫こきむらさきのジャケットを脱ぎ、ジータの鞄が置かれた椅子とは反対側の椅子の背もたれに掛けたベリアルは飲み物を用意するためにキッチンへと向かう。
 冷蔵庫を開け、ジータ用にジュース。自分用にワインセラーからお酒を用意するベリアルを瞥見べっけんしつつ、ジータは大きなテレビの前に置かれている黒い革張りのソファーに腰掛けた。その顔にはなんの感情も宿っていない。ただただ無。
「今回もいい売り上げになりそうだよ」
「そう。よかったわね」
「相変わらずだねぇ。でもまぁ、このテのブツを求める変態たちを相手によくやっているとは思うよ」
 グラスを手にソファーへとやって来たベリアルは飲み物を目の前のガラス製のローテーブルに置くとジータと密着するように隣に座り、彼女の肩を抱いて自分の方へと引き寄せた。
 彼愛用の香水がジータの鼻腔を撫で、惑わす。ベリアルのことをなにも知らない女や男は極上の存在に今ジータがされていることと同じことをされれば即堕ちだが、彼女は違う。
 不快の意をはっきりとかんばせに表し、眉間に皺が寄る。体にも力が入り、ベリアルもジータが不愉快な思いをしているとは承知の上でリモコンを操作した。
 真っ暗だった液晶画面に映し出されるのは木製の椅子に縛り付けられている全裸の男の姿と、その隣で黒い衣装に身を包んだジータが男に対して拷問を加えていく映像だった。
 俗言う殺人ビデオ──“スナッフ・フィルム”。可愛らしい少女が残酷な方法で拷問した末に殺害する。その流れを収めたビデオはこの世の快楽を知り尽くした富裕層など特定の層に人気があるようで、この街の裏の支配者であるマフィアの収入源でもある。
「他にもトーメンターはいるが人気も売り上げもキミがトップだ。キミはよくやっているよ。頭がおかしくなる奴もいるってのに」
 腰にまとわりつく低音は上機嫌。よくできましたと、いい子だと言うようにベリアルはジータの金糸を撫でる。指の間をサラサラと髪が落ち、指先に巻きつけたりして弄るベリアルに体を預けながらジータはぼんやりと過去の──この仕事をするようになった出来事を思い出すのだった。

   ***

 ジータには両親がいなかった。正確にはいたが、蒸発してしまった。残ったのはグランという名前の弟のみ。
 この国は表と裏の顔がある。中心部に住む者は裕福な暮らしができ、外へと向かうにつれて貧困の差があった。当時のジータとグランがいたのは貧困街。マフィアが街を支配し、喧騒や銃声は日常茶飯事。子供だけで生きるには困難な地区。
 だが神は彼女たちを見捨てなかった。両親が消え、幼い弟を連れて行く宛もなく彷徨う彼女を助けた一人の老婆がいた。彼女はジータとグランに「家族になりましょう」と言い、やせ細った手を優しく握り、安心させると歩き出した。
 ジータとグランは拒否することはなかった。もともと大人の助けがなければ生きられない自分たち。そして、老婆の優しい目を信じたのだ。
 荒れが目立つ地区を抜け、連れられた先にあったのは大きな家だった。未だマフィアが支配する地区なものの、ジータのいた貧困街よりはだいぶマシな場所に建つここが、彼女たちの新しい家となった。
 新しい家族と共に安心して生活ができるここを“ホーム”と呼び、心優しい老婆のおかげで学校にも通うことができたジータとグラン。
 二人と同じ境遇の子供も少しずつ増え、家族が一人、また一人と増えていく。救われる子供がいるというのは素晴らしいことだが、その分金銭の負担が増えるというもの。
 それに気づいたのはジータが中学生の頃だった。
 彼女が応接室のある廊下をたまたま通ったときのこと。中から聞えてきたのは不穏な会話。盗み聞きなどしてはいけないとは分かっていたが、客としてやって来た男の顔を思い出したジータは扉に耳を近づけた。
「来月にはなんとか……ですから……」
「悪いけど、こっちも慈善事業じゃないんでね。払えないのなら出ていってもらうだけだ」
「そんな! 子供たちはどうするんですか!」
「そう言われてもねぇ……。アンタがあと四、五十年若ければ体で稼がせてやるんだが……あぁ、そういえばジータちゃん、だったかな? あの子に稼がせればいい。体はまだ未熟だが顔は可愛いし、ポルノに出したらすぐに人気が出るだろう」
「なんてことを……!」
「まあそう言うことだ。出ていくか、彼女に稼がせるか。一週間後、また来るよ」
(まずい!)
 退室する気配を感じ取ったジータは慌てて部屋を離れ、曲がり角に身を隠せば扉の開閉音が聞こえ、靴音が遠くなっていく。
 窺うように顔を出せば、スーツ姿の男が玄関に向かって歩いていくのが見える。ジータは彼のことを知っていた。と、いっても顔とベリアルという名前くらいで素性は不明。しかしどう見てもカタギの人間とは思えないため、ジータはマフィアだと思っていた。
 だが先ほどの会話で確信した。彼はマフィアで、老婆はマフィアからお金を借りている。それはホームの子供たちのためで……。
 このままでは安寧の場所がなくなってしまう。もしそうなってしまったら……! 考えるだけで涙が込み上げてくる。
 ジータは考える前に行動に出ていた。外へと出た男を追って彼女も出れば、庭に置かれている黒い車に乗り込むところだった。
「待って、待ってください!」
「どうしたんだい? そんなに慌てて」
「私、働きます……! だから、どうか……!」
「立ち聞きはイケナイなぁ。……まあいい。だが分かっているのか? その仕事内容を」
 ジータはベリアルの真っ赤な目が苦手だった。こちらの全てを見透かすような目が。そんな目を力強くしっかりと見つめるジータは仕事内容と聞かれて返す言葉が見つからなかった。
 体を使う仕事とは言っていたが、老婆の声音からして子供にさせたくないものだとはなんとなく分かる。
「男のココを」
「っ!?」
 ジータの手を取ると、ベリアルはそのまま自分の股間へと触れさせた。自分のソコでさえ必要以上に触れないというのにましてや他人の陰部なんて。
 ジータは想像していなかったことにはしばみ色の目を見開くと、残りのベリアルの手が顔へと伸び、頬に触れた。
「キミのココや、胸、下のお口で気持ちよくする仕事さ」
 言葉と一緒に親指で唇を撫で、胸に触れたベリアルは顔から表情が抜け落ちたジータを見て爽やかに笑うと、内ポケットから黒い革の手帳とペン取り出すとさらさらとなにか書き、そのページを破るとジータの手に握らせた。
 呆然と立ち尽くすジータを置いてベリアルは車に乗って去っていき、ようやく動けるようになったのは数分後のこと。
 ジータが自分の手の中にある物を確認すれば、そこには電話番号が書かれている。働く気があるなら連絡をしろということなのだろう。
 いきなりのことでこの場で言えなかったが、ジータの中では答えなど出ている。仕事内容は少し前に彼女の身に起きた忌々しい出来事を思い出させるものだが、それでもやらなければ。
 ──次の日にはジータはベリアルに電話をし、学校帰りに彼の車で郊外の一軒家へと来ていた。
「ところで──セックスの経験は?」
「そんなの……あるわけない」
「なら練習だ。ベッドに寝て」
 ベリアルによって二階にある寝室へと案内されたジータは扉の前で立ち尽くしてしまうが、仕事を始めるにあたっての練習だ、と言われればベリアルの言うとおりにするしかない。
 彼に言われ、制服のままベッドへと横たわれば紺色のスカートが扇状に広がった。ジャケットを脱いだベリアルがジータに覆いかぶさると、忌まわしい記憶がフラッシュバックしたのか、彼女は目を強く閉じた。
 明らかな拒絶にベリアルは喉奥で笑いながらもジータの緊張をほぐすように額に口づけると、唇を重ねた。
 ジータにとってはこれがファーストキスであるが、今はそんなことを考えている余裕はない。
 生温かい舌が真一文字に結ばれた唇を舐め、口を開けろと無言の圧。仕事を得るためにもベリアルの機嫌を損ねるわけにはいかないので少しだけ唇の力を弱めれば、そこからにゅるりと入り込む舌。
 他人の体温をダイレクトに感じ、ジータの脳内に瞬間浮かんだのは“気持ち悪い”という感情。力いっぱい握られたベッドシーツの皺がさらに深くなり、彼女の精神を表していた。
 我慢しなくてはという気持ちと、男に襲われたときの恐怖がぜになってジータに襲いかかる。
(がまん、我慢……! これからはこういうことを知らない……たくさんの人とするんだ。慣れないと……みんなのためにも……)
 口の中から広がる卑猥な水音に涙が滲みそうになるが、ひたすらに耐えているとベリアルの片手が制服の上からいやらしく胸を撫でつつ、下へと移動していく。
 制服の上着の裾から手が入り込み、ブラジャーをずらし、直接胸を包まれた。大人の男の大きな手の中にある柔らかな果実はまだまだ成長途中だが、平均より少し大きめ。
(怖い……! だっ、駄目! 大人しくしてないと! で、でもっ……!)
 我慢しなくちゃ、気持ち悪い、受け入れないと、怖い、嫌だ──嫌だ!
「やだぁっ!!」
 家族のために働くという気持ちを強く持っていてもジータもまだまだ子供。根本的な恐怖に打ち勝つことができず、ベリアルを突き飛ばすとベッドの上を転げるようにして距離を取った。
 ベリアルに背を向け、ぶるぶると震えながら泣くジータに彼は前髪を掻き上げると、ふう、と息を吐く。それを呆れの意味として受け取ったジータは体をビクつかせ、次の瞬間にはベリアルと向き合って懇願した。
「ご、ごめんなさい! ちゃんと、ちゃんとやりますから……! 私に仕事をさせてください! お願いします!」
「いや、キミが自分の性を売ることができないのは分かっていたから問題ないよ」
「え……」
 予想だにしていなかった発言にジータの涙が止まった。なぜ彼はそんなことを知っているのか。
「数ヶ月前だったかな。公園で男に襲われただろ」
「ッ!? な、なんで……」
「キミは逃げるのに必死で分からなかっただろうが、泣きながら公園から走り去るキミとすれ違ってね。これはなにかあると公園を少し探したら……」
 ジータは青ざめる。まさかベリアルがいたなんて。彼の言うように逃げるのに必死で気づかなかった。それよりもあの男はどうなったのか。未だに新聞にも載らず、警察が動いている様子もない。
「心配することはない。死体はコッチで処理したから。キミのもとに警察が行くこともないよ」
 ベリアルはジータの望む答えをサラリと口にする。ジータは彼の言葉に安堵するも、自分が──仕方がないとはいえ、人を殺してしまったのだという事実が胸に重くのしかかる。
「……ありがとうございました」
「どういたしまして。さて、ここからが仕事の話だが……紹介できる仕事は実はもう一つある。どちらかと言えばコッチが本命。けど最初に言わなかったのはポルノよりも肉体的・精神的にツライ仕事だからだ。この仕事をした奴の中には数日で自殺した人間や頭がおかしくなった奴もいる」
「自殺……」
「だがコレにはコアなマニアもいてね。正直ポルノより売り上げがよかったりする。肉欲に飽きた金持ちがね……」
 一体どんな仕事なのか。だがやるしかない。ベリアルの話の内容から性を売り物にする仕事ではなさそうだが……。
 リビングで見せてあげるよとベリアルは言うと、ジータの涙を拭ってやり、乱れた服や髪を優しく直してやると手を繋いで下へと向かう。
 革張りのソファーに隣同士で座ると、リモコンを操作して大きなテレビにとある映像を映し出す。
「な、なに、これ……」
 内容は少女が男を拷問していくもの。想像を絶するものにジータは瞠目し、目を逸らしたいはずなのに逸らせない。
 それよりも、妙に落ち着いている自分をジータは見つけた。すでに人を殺しているせいか。
「これはスナッフ・フィルム。簡単に言えば殺人ビデオ。少年少女が相手を惨たらしく殺害する映像に喜ぶ変態たちがいっぱいいるのさ。オレはそんな奴ら相手に商売している。ここら一帯のマフィアを纏める首領ドン、その椅子にファーさんを座らせるためには金はいくらあっても足りないくらいだよ」
「ファーさん?」
「そう。名前はルシファー。オレのボスさ。それよりもキミ、この映像を見ても泣き叫んだりしないんだねぇ。やっぱり人を殺していると違うのかな?」
「……たぶん。そうだと思います。自分の身を守るためとはいえ、この手で人を殺した。その時点で私の中の“なにか”が壊れちゃったんだと思います」
「で、どうする? この仕事──トーメンターとして闇の世界で生きる覚悟はできるか?」

   ***

「はい、これ。キミのお給料」
「こ、こんなに……!? 桁が違いませんか……?」
「いいや。これでも借金返済のために本来の額より少なくなってるんだぜ? キミが自分で稼いだ金だ。今日は美味しい物でも食べたらどうだい」
「いいえ。家族たちに必要な物を買って、残りはホームに寄付します」
「キミらしいねぇ」
 初めて貰ったお金で買ったのは自分よりも年下の家族の服や靴だった。新品のそれらを匿名でホーム宛に送り、残りのお金はホームに寄付をした。
 謎の人物からの贈り物や寄付は定期的に届き、ホームでの生活も潤っていく。その代わりにすり減っていくジータの精神。ただの人殺しでさえも精神的負担が凄まじいが、拷問の末に殺害するという方法は急速に彼女を蝕んでいく。
 ときには悪夢を見て悲鳴を上げながら目覚めるときもあった。グランや他の家族、老婆が心配するものの、ジータは決して弱音を吐いたり、涙を流したりせず、仕事も辞めなかった。彼女の支えはただひたすらに家族の存在。それだけで肉体的・精神的に苦しい闇の仕事に耐えることができた。
 そんな生活を送っていたある日、老婆が病で倒れてしまった。病院で治療を受けるも、年齢が年齢ということもあり、日に日に弱まっていく。
「ジータ、みんなのことをお願い……。そして、ごめんなさい……」
 病室で家族全員がその時を静かに待つなか、ジータに向けられた最期の言葉。謝罪の言葉は子供と大人の間にいる少女に全てを任せてしまうことへのものか、それとも彼女の仕事を知っていてのことか。
 そう言い残して静かに息を引き取った老婆の真意を知ることは叶わず。
 そしてこの言葉は呪いのようにジータを雁字搦めにし、残された家族の幸せのためにも、トーメンターとしてさらなる闇へと身を沈める覚悟を彼女にさせた。
 悪夢も、この日を堺に見なくなった。

   ***

「──聞いてる?」
「聞いてない」
「酷いなぁ。……なにを考えていたんだい?」
 ベリアルの声で現実に引き戻されたジータは平坦に返すものの、ベリアルは特に気にせず、逆に彼女の髪に顔を寄せて洗髪剤の香りを楽しんでいる。
 映像の再生はいつ終わったのか、テレビの画面は真っ暗だ。
「昔のこと。この仕事を始めたきっかけとかね」
「後悔してるか? 相手は殺しても誰も困らない、あるいは逆に感謝される人間だとしても殺しは殺しだ」
「──周りの大人は誰も、国さえも、私たちに救いの手を差し伸べてはくれなかった。そんな私たちをあの人が拾ってくれた。そして私は……家族に普通の生活をさせたい。そのためならいくらだってこの手を汚す」
 ジータの瞳に昏い色が宿る。大人も、国も、彼女を助けてはくれなかった。あの生活から助け出してくれたのは老婆ただ一人。そんなジータにとって大切なのは残されたホームの家族だけ。家族のためならば血で汚れた道を進むのみ。
 口には決して出さないが、ベリアルにも少しだけ感謝はしていた。互いにメリットがあるからとはいえ、普通ならばジータの年齢で稼ぐのは難しい金額を稼がせてくれるのだから。
 貧困街から抜け出せない者たち、表社会から見捨てられた者たちの受け皿がマフィアだった。光の世界に生きる者たちからすれば恐ろしい存在だが、こちらも生きるために必死なのだ。誰だって死にたくない。
「ところでこの間の話、考えてくれた?」
「……あなたとの愛人契約?」
「そう。金ははずむぜ?」
「──たしかにあなたは顔も」
 くるりと体勢を変えると逆にベリアルをソファーの上に押し倒し、顔に触れた。ムダ毛一本もない、つるりとした卵のような肌は正直触り心地がよく、ジータは目を細める。
「声も」
 頬に触れていた右手を滑らせ、隆起した喉仏に触れる。神に愛された顔によく合う声は、老若男女問わず魅了する不思議な力を持っている。その声で紡ぐ言葉は嘘の中に真を交えたものなので、なにが本当なのか誰にも分からない。
「体も」
 するりと下がっていく手は男性にしては大きい胸へと移動し、シャツの上から触れた。ベリアルはジータの無表情の顔や冷えた視線とは裏腹に温かい人肌の熱に熱い息を漏らす。
「最高の人だと思うけど性格が好きじゃない。そもそもただヤりたいだけなら私よりいい女がたくさんいるはず。あなたなら簡単に誘惑できるでしょうに」
 ベリアルの手がジータの頬へと伸びるが、その手が届く前にスッ、と体を起こしてジータは離れた。元の位置に座り直し、そっぽを向きながら突き放す猫のような少女にベリアルも起き上がると、じゃれるように横から抱きつく。
 男からのこういった触れ方は過去の出来事があってもなくても好きではないが、ジータは昔のように悲鳴を上げたりしなかった。単純に慣れてしまったのだ。ベリアルはこういう人間だと。
「人間の禁忌を犯している処女を穢すのがいいんじゃないか」
「ほんっ、とうにその性格は無理! ……それより仕事は? あるから私を連れてきたんでしょう?」
 ジータを胸に抱きながら鼻歌交じりに、当たり前のように言ってのける男にジータは今度ははっきりと拒絶の言葉を口にすると、その場で顔を上げて本来の目的を聞いた。ここに連れてきたということはなにかしらの仕事があるはずだ。
 ベリアルもジータに言われて思い出したようで「ああ」と漏らすと、マフィアというのが嘘と思えるくらいににこやかな笑みを浮かべた。
「今日はナマ配信しようと思ってね」
「生配信……って、ええっ!? そんな、聞いてない……」
「言うのを忘れてたよ。ごめんごめん。だけどキミならヤれるさ。期待してるよ“トーメンター”」