姉ジータちゃんに膝枕をしてもらう弟ベリアルくんの話

 研究所にはさまざまな星晶獣がいる。その中でも特に異質な存在がいた。黄金の髪をおさげにし、独特の形をした紺色のトップスに同じ色のスカートを身に着けた獣。名前はジータという。
 彼女は天司の前身として研究所所長のルシファーに造られたが、その特異性からデータを取り終えても廃棄をまぬがれ、現在は彼の世話という役割を得ている。
 彼女と他の星晶獣の違い。それは人工物とは思えないほど人間に近いことだった。感情も星の民以上に豊かで喜怒哀楽がはっきりとしている。
 他の星晶獣──特に人の形をした天司たちは感情を理解することはできても、それに寄り添うことは難しい。知性に制限がかかった世代は特に。
 だがジータは共感し、相手と気持ちを共有することができた。
 獣に懐疑的な星の民と星晶獣の間に入り、潤滑油の代わりになったりとその存在は大きい。
 また、道具として造られた星晶獣たちの心を癒やすことにも彼女は力を入れていた。誰に指示されたわけでもない。
 どんなに頑張っても生みの親である星の民は獣をねぎらうことはない。報われないのは悲しいと思ったからこそ、彼女は少しでも力になれればと積極的に自分より後に生まれた──弟や妹たちに声をかけ続けている。
 その姿は人間で言うところの“お姉ちゃん”だ。
「やあ、コンニチハ。二人とも」
「こんにちは、ベリアル」
「補佐官……? こんにちは」
 たまたま居住区に用事があり、公園近くを通ったベリアルが見つけたのはベンチに座ったジータとサリエルだった。
 背後に生える木々の木漏れ日を受け、煌めく金色は遠くから見ても目立つ。
 ジータの膝にはサリエルの頭部が乗せられ、彼女は慈しむように何度も長い黒髪を撫でる。一種の神々しさも感じられ、ベリアルは惹き付けられるように近づき、声をかけたのだった。
 膝に仰向けに寝ていたサリエルが視線をベリアルに向け、声をかけるも、知性にリミッターがかかっている彼はジータにならって挨拶をしただけだ。
「珍しいね。こんなところにいるなんて」
「次の任務まで時間があったから、ね」
 にこやかに笑いながらサリエルの髪を撫でれば、彼は眩しそうに目を細める。その様子は微笑ましく、ベリアルは人好きのする笑みを浮かべながらジータの隣に腰を下ろした。
「よかったな、サリィ。ジータの膝枕はレアモノだぜ? 正直羨ましいよ」
「れあもの? よく分からないけど、ジータにこうされると落ち着く。……あ、もう行かないと」
「行ってらっしゃい。サリエル」
「……?」
「こういうときは“行ってきます”って言うんだ。サリィ」
「分かった。行ってきます。ジータ」
「うん。気をつけて……」
 起き上がり、歩き始めるサリエルの背中にジータは声をかけるも、彼はなんと答えていいか分からず、ジータを見つめるばかり。そんな彼にベリアルは助け舟を出した。
 遠くなっていく大きな背中をジータは眩しいかのように目を細めて見つめ続け、完全に見えなくなると憂うような表情に変わった。
 それも一瞬だけで、いつもの元気いっぱいの姉の顔に戻ると隣に座るベリアルを見た。
「さっき羨ましいって言ってたけど、あなたにもしようか?」
「……ホントウに?」
 慈愛に満ちた微笑みを向ければ、ベリアルの目が大きく開かれた。どんなに性能は彼のほうが上でも、ジータにとっては後から造られた存在。つまりたくさんいる弟妹の一人。
 平等な愛情を向けるのは当然である。
「もちろん。でもまだ仕事中でしょ? それが終わって、気が向いたら私の部屋にきて」
 表情を変えずに告げ、ベリアルの答えを聞く前にジータは立ち上がった。来ても来なくてもそれは彼の自由。強制するつもりはない。
 サリエルに続くように公園から去っていくジータをベリアルは見送り、大きく息を吐くと膝に両肘をつき、前屈みになった。額には悩ましげに組まれた手。
 彼はもう一度だけため息をつき、しばらくそのままでいると、やがて重い腰を上げた。

 夕暮れ時の研究所の一室。窓から入る橙色が照らすのはアンティーク調の椅子に腰掛けながら本を読んでいるジータの姿。
 白い肌は柔らかな色に染まり、彼女の優しさを体現したようなブラウンの目は文字の羅列に向けられているため、半分ほど閉じている。どこかアンニュイな雰囲気が漂う彼女は規則的な動きで紙をめくり続ける。
 すると外からノックが三回。気配で誰がきたのかは分かっているので本を閉じて頬を緩めると、ジータは扉の向こう側にいる人物に対して入室を促すのだった。
 回されるドアノブ。開かれた扉から見えたのは白い軍服。
「いらっしゃいベリアル。きてくれたんだね」
「当たり前だろう? キミのお誘いを断る奴なんていないさ」
「紅茶でも飲む?」
「いや……キミもそろそろファーさんの食事の用意をしないといけないだろうし、労ってもらうだけにするよ」
「あ、ほんとだ。もうこんな時間。じゃあベッドに行こっか。ここだと長椅子もないし」
「ハァ……キミって人は……」
「どうかした?」
「いいや。なんでもない……」
 扉を閉めたベリアルはどこか機嫌がよさそうな空気を纏いながらジータへと歩み寄る。
 その間の会話で彼の顔は苦労人のそれとなり、なぜ彼がそんな感情を表に出すのか分からないジータは首を傾げるも、ベリアルは答えを教えてはくれなかった。
 星晶獣には性別がある。ジータは雌。ベリアルは雄。だがジータにとっては異性の前に家族のようなもの。ベリアルの感情に気づくのはいつになるのか。
 ベリアルを連れて寝室の扉を開ければ、天蓋つきのベッドが中央で存在を主張していた。これが夜ならばサイドテーブルに置かれている間接照明がいい雰囲気を醸し出してくれるだろう。
 ジータは軽やかな足取りでベッドの縁に座り、さあどうぞ寝転んでと温かな笑みを向ける。
 あまりにもなにも考えていない彼女にベリアルはバツが悪そうに人差し指で頬を軽く搔くと、大人しく姉なるものの太ももに頭部を乗せた。
 仰向けに寝転んだ彼の赤い宝石を見てジータは美しいと顔を綻ばせる。どろりとした血のまなこはたしか魅了技を得意としていたはず。
 いつだったか。ベリアルの設計図を見たときにそんなことが書かれていた。
 なぜかは分からないが、ベリアルは力を伏せているようだった。戦場へ出るのはルシフェルのほうが多く、後輩たちが誕生してからはさらに顕著になった。
 能力的に最高傑作と言われるルシフェルと差はほぼないはずなのだが……。
 ベリアルの持つ能力の全てを知っているのは造物主のルシファー。そして全てではないにしろ、彼のそばで図面を見ることが許されたジータくらいだろう。
 秘匿としている理由についてジータは自分がなにかを言う権利はないと思っている。また、最近なにやら不穏な空気を感じるときがあるが、聞いてもなにも教えてくれないだろう。
 父親ルシファーも、ベリアルも。
「今日も一日お疲れさまでした。お父さまのそばで働くの、大変でしょう?」
「マァ、獣使いが荒いとは思うけど、彼のためならなんだってするさ。キミだってそうだろう?」
「うーん……。私は内容によるかなぁ……。いくらお父さまのためでも、酷いことはしたくないよ」
「自分は酷いことされても?」
「自分なら別にいいかな……。ねぇ、髪触ってもいい?」
「もちろん。キミに乱されるなら本望だ」
「本当にあなたって変なことばかり言うんだから」
 いくら彼の命令だとしても非道なことならば苦言を呈するし、拒否をする。これだけは譲れない。たとえそれで廃棄されるならそれでも構わないとジータは常々思っていた。
 さらに言えば彼ら天司たちが造られる前にあらゆる実験をされてきた。今さら怖いものはない。
 この話は終わりにしようと話題を変える。ベリアルの髪に触れたいと聞けば、彼は含みを持たせた返事。
 なぜ彼はこういった匂わせる発言をするのか。ジータには分からない。己を造った神はなにを考えてこういった性質を持たせたのか。
 考えを巡らせるが、答えなど出ないので目前の愛しい弟に集中することにした。
 見た目からして触り心地のよさそうなダークブラウンの髪は、予想を裏切らない。
 慈しむように瞼を半分ほど閉じ、柔い髪を何度も梳く。短い毛はさらさらと指の間を通り抜け、ベリアルもジータに触れられて安らぐのか、両目を閉じて浸っている。
「少しくらい、ねぎらいの言葉をかけてもいいのに」
「星の民にとって星晶獣はただの道具。そうする必要がない」
 ぽつりと出てしまった心の言葉。優しい言の葉でなくていい。ただ一言“よくやった”と言ってくれれば、救われる。
 ベリアルはジータが誰に対して言っているのかを見抜き、必要がないからと続ける。
 彼の指摘に、同時期に造られたベリアルにとって兄弟である存在を思い浮かべた。
 彼はいつも空の敵対者たちと戦っている。それなのに、星の民はなにも言わない。
 ベリアルの言い分も分かる。だけれど、それはあまりにも寂しい。
「私たちだって心はあるのに。……空の敵を退け続けるルシフェルにさえも、彼らは言葉をかけない」
「だからキミが代わりにかけていると? ルシフェルにとって当たり前のことでも?」
 天司長の名前を口にすると、ベリアルの両眼が開かれた。濁った目は不愉快そうに細められ、ぶっきらぼうな口調で言葉を投げかけられる。
 他の者の前ではここまで負の感情を出すことはないのだが、今は二人きりだからなのか。
「あぁ、ごめんなさい。あなたの前で彼の話はしないほうがよかったね」
「べつに……」
「ふふっ。本当に苦手なんだね」
 彼がルシフェルを苦手──よりかは嫌っているのをジータは知っていた。
 よく見ていれば分かるそれら。ルシフェル自身が知っているかどうかは分からない。
 うっかりしていたと謝り、なだめるように頭を撫でる。
 ベリアルは視線を逸らして気にしていないように言うが、明らかに拗ねている。
 どこか可愛らしさを感じるそれにジータが口元に緩めの三日月を描くと、ベリアルの手が頬に向かって伸びてきた。
「なあ。与えるばかりのキミの心は、一体誰がねぎらってくれる?」
「私……? 考えたこともなかった」
 ベリアルに言われて気づく。たしかに自分をねぎらってくれる人はいない。いつも与えるばかりで。けれどそれで心が陰ったことはない。
 他の星晶獣より感情の主張が激しい自分にしては不思議だと、ジータはベリアルの髪を撫でる手を止めた。
 なぜかは分からないがいつも心は潤っている。その理由は?
「オレがキミを──満たしてあげようか?」
「わっ、」
「フフ……花のいい香りだ」
「ふふっ、やだ、くすぐったいよベリアル……。これはね、あなたがくれた石鹸の香りだよ」
 意識を違う場所に飛ばしていたため、ジータはベリアルに簡単に押し倒されてしまった。
 首筋に顔をうずめられ、匂いを嗅がれる。それでもなお彼女はうろたえたりせず、姉の顔を保ったまま。
 ベリアルがどこかから買ってきた石鹸。貰ったときちょうど体を洗う石鹸を切らしていたのでジータはありがたく受け取り、使っていた。
 香りも強すぎず、ほのかに香る程度なので気に入っており、購入した店をベリアルに聞こうと思っていたところだ。
(あれ……? この匂い……)
 ベリアルと密着状態になることで、馥郁ふくいくたる香りがジータの鼻腔を撫でた。
 この香りはいったい……? 彼はたまに香水を付けているのでその匂いなのか。
 もう一度、鼻で呼吸をする。変わらぬ匂いに全身から力が抜けていき、心が安らぐ。もっと、もっと欲しいと本能が訴えかけてくる。
「……ベリアル、もしかして香水つけてる?」
「いや、今日は付けてないよ。なに、話を逸らして。もしかして怖い?」
 問いかければ、ベリアルは顔を上げた。ジータを見つめる真っ赤な目はどこか楽しそうだ。
 なにも付けてないとの返答にジータは首を傾げる。ならばこのいい香りはなんなのか。自分と同じように石鹸? それとも彼自身のもの?
「あー……キミのところに行くまでファーさんと一緒にいたからかな? 新しい研究について話したりさ」
「お父さま……」
 ──あぁ。そっか。
 ジータは理解した。自分の心が常に潤っている理由が。言葉は要らない。ただ、そばにいさせてくれるだけでいい。それだけで自分は満たされる。
「ジータ? まさかキミから求めてくるなんて……は?」
「私を満たしてくれるんでしょう? だったら少しの間こうさせて。そう、少しだけ……」
 大人の男性の大きな背中を抱き、とん、とん、と一定のリズムで叩く。
 弟をあやす姉の姿にベリアルは熱のこもった目を皿にし、決して女の顔を見せてはくれないジータを見て、気怠げに双眸を半分ほど伏せる。
 ジータはというと、彼から香るルシファーの存在に瞼を閉じて感じ入っていた。胸を上下させるたびに心地よさが全身を駆け巡り、体から力が抜けていく。
 意識も途切れがちになり、やがてぷつりと切れた。

 とある民家。この家の家主である若い女は寝室の壁に立て掛けてある大きな箱の前で立ち尽くしていた。
 漆黒色の箱は縦に長く、幅もそこそこある。小柄な人ならば入れるくらいだ。
 側面には開かないようにだろう。大きめの留め具が三つ付いている。
 ふと、目を覚ましたら箱の持ち主が横にいなかった。遠くからシャワーの音が聞こえてくるので浴室だろう。
 棺のような箱の中身を聞いたとき、持ち主の男は“オレの宝物”としか言わなかった。あと、触らないでくれとも。
 女性は駄目だと思いながらも、少しくらいなら……と悪魔の囁きに耳を傾けてしまい、一つ、また一つと留め具を外していく。
 おそるおそる片開きの蓋を開くと、内側は光沢があり、ひと目で高級品だと分かるレッドベルベットでできていた。緩衝材としてなのか、白い花が箱の中身を包むように敷き詰められている。
「なにこれ……人形? それにこの首は……」
 中に入っていたのは金髪の女性──よりかは少女だった。頭部には桃色のヘアバンド。髪は緩いながらも綺麗な三つ編みにされ、肩に向かって垂れていた。
 紺を基調にした服を着た、等身大のビスク・ドールと思われる彼女の双眼は閉じられ、どこか悲しげな表情をしているような気がする。
 さらに胸で組まれている両腕には、美しい顔を持つ性別不明の首があった。
 引き寄せられるように女性の手が伸び、人形の頬に触れた。なめからな肌触りの中に低いながらも温もりを感じる。
 さらによく見れば胸が小さく上下しているではないか。
「え……? 息、してる……!?」
「そりゃあそうさ。彼女は生きてるんだから」
「あぐっ……!?」
「オレの宝物だから触らないでくれって言ったじゃないか」
 背後から伸びる影に女性は気づけず、首を掴まれ、嫌な音がすると床に投げ捨てられた。
 箱の持ち主──ベリアルは先ほどまで快楽をともにした女性に一瞥もくれず、彼女が触れた場所を上書きするかのように綺麗なほうの手で宝物に触れた。
「寝てるかと思っていたら……。すまない、ジータ。汚してしまって」
 赤い目を細め、何度も撫でるが、ジータはなんの反応も返さない。
「キミの心を癒やす唯一のモノ。それはファーさんという存在そのものだった。理由はどうであれ、愛する父親を喪ったキミの心は深く傷つき、摩耗するばかり。そして……ついに深い眠りについてしまった」
 ベリアルはかつての記憶を脳内に巡らせる。
 逃亡後、ルシファーがどうなったかを知ったベリアルは星の民に化けることで残された彼の首を回収しに向かったのだ。
 彼の首を持っていたのはジータだった。夜の闇に紛れながら部屋に向かえば、彼女は窓の正面に置かれた愛用の椅子に座っていた。
 ベリアルから見えたのはジータの頭部だけだが、この時点で嫌な予感がしたのを今でも鮮明に思い出せる。
 彼女に近づき、回り込むと、カーテンの引かれていない窓から月光が降り注ぎ、ジータを柔らかく照らしていた。
 だが……彼女の目からは光が消えていた。感情も消え失せ、涙を流し続ける目元は赤く腫れている。粛清から何ヶ月か経っていたが、その間もずっと泣いていたのだろう。
 彼女の膝にはルシファーの首があり、眠っているかのように両目は閉じられている。
「迎えに来たよ。お姉サマ」
 深く被ったフードを取り、ジータに顔を見せながら頬を伝う涙を親指で拭うも、彼女の視線はベリアルと交わることはない。
 ただただ真っ直ぐ向けられているだけで、なにも見てはいない。
 何度拭っても彼女の心を映したものは止まらず、ベリアルの手を濡らしていくばかり。
 ジータとの付き合いは第一世代の天司ということで長い。その中で涙するところを見たことはあるが、ここまで闇に堕ちた彼女は見たことがなかった。
 それほどまでにジータにとってルシファーという存在は大きかったのだとベリアルは思い知る。
 彼はジータを抱きかかえると窓から闇夜に飛び立った。向かうは隠れ家がある辺境の島。天司たちの目の届かぬ場所だ。
 未だ完全には癒えぬ体を再生しながらジータを気にかける日々が続く。心が壊れた人形のようにただそこにいるだけの彼女。
 少しでも意識があれば、ベリアルに寄り添って傷が癒えるのを待ってくれるだろう。
 いつか、いつかはその目に自分を映し、柔らかな声で名前を呼んでくれるだろうという希望的観測を胸にベリアルは毎日を過ごすが、彼の思いとは裏腹にジータは眠ることが多くなった。
 最初は目を覚ましていたが、やがて目を閉じている時間が長くなり、そして──。
「ユメの中でもキミは泣いているのか」
 瞑目した目尻からは悲しみのカケラが流れ落ち、胸に抱いたルシファーの銀髪へと吸い込まれていく。
 自分では永遠に止めることのできぬ雨を思い、ベリアルは静かに目を閉じた。