血の匂い、紅茶の香り

 季節は四季を奏で、春から夏の気配を滲ませる今日この頃。気温も前日より高めで半袖姿の人間が多いのをセイカは横目に見ながら、サビ組へと向かっていた。
 無地の長傘タイプの日傘が作る陰の下。傘のハンドルを握る手には薄手の手袋。MZのロゴを背負うブルゾンに首まで隠すタートルネック。下も足首近くまで隠すワイドパンツ。
 はたから見れば紫外線対策を徹底しているな、くらいであるが、そうしなければならない体質なので仕方がない。

 太陽に嫌われたこの体を日に晒せば、即座に灰になることはなくとも、たちまち日焼けをしたように赤くなって皮膚に痛みが走る。
 日常的に血をたっぷりと摂っていれば耐えられるが、体を維持できる最低限しかセイカは吸血していない。
 そのため、今ここで日傘を外せばものの数分で露出している部分は赤くなるだろう。
 ようやく着いたサビ組事務所。
 こんにちは、と門番に挨拶をすれば身内相手にするような気安い挨拶が返され、顔パスで通れることから、彼女とサビ組──ひいてはカラスバとの関係が窺える。
 いつかのユカリトーナメントの際にいつでも遊びにおいで、とカラスバに言われたときは社交辞令と思っていたが、他意なくそのままの意味だと知ったのが随分前のように思える。
 セイカがミアレで日々を重ねている証拠だ。

「こんにちは、カラスバさん」
「おう。セイカか。よう来たなあ。ジプソ、この間貰ったお菓子出したって」
「はい。カラスバさま」

 カラスバがいつもいる部屋へと向かえば、カラスバは眉間に皺を作りながら書類と向き合っていた。
 忘れそうになるがサビ組は会社であり、彼はそのボス。つまり社長なのだ。彼にしかできない仕事はたくさんある。
 ジプソは処理済みであろう書類を手にセイカが出てきたエレベーターへと向かっていく。その際に軽く会釈され、セイカも同じく返した。
 カラスバに向き直る。すでに彼の表情は柔らかなものへと変わっており、右腕の男がいつかの日言っていた言葉を思い出す。
 なぜ自分が来てゴキゲンになるのかは分からないが、気分がよくなるならそれは素直に嬉しい。
 それに──セイカもカラスバと少しでも多くの時間を過ごしたかった。

 悠久の時の始まり。不老不死の強化人間の実験体だったセイカは中途半端に実験が成功し、体の時を止めた。
 完全な不死ではないが、普通に生きている分には死ぬことはない。
 しかし果てしない時間の旅に対して、記憶は砂のように手のひらからこぼれ落ちるばかり。
 かつての自分には大切な人がいた。その人物を捜すためにセイカは生き続けている。
 つい最近まで忘れていた目的。思い出したのはカラスバと関わるようになってからだ。
 なぜ彼がきっかけなのかは分からない。けれど、彼と一緒に過ごすことでいつか──忘れてはいけないはずの、大事な記憶を思い出せそうなのだ。

「出直した方がいいですかね?」

 大きなデスクを挟んでカラスバの前に立つ。
 彼の手元には数枚の書類が残っており、仕事の邪魔をするのは本望ではないので聞いてみる。

「あと少しで終わるからソファで待っとき。そしたら一緒に休憩しよか──っ……!」
「ぁ……!」

 口元に柔らかな感情を浮かべ、目線でソファを示した矢先のことだった。
 カラスバが一瞬痛みを漏らすと、右手の人差し指の先からじわりと赤い液体が滲む。
 紙で指を切ってしまったようだ。
 セイカの視界に広がる血液。鼻先に届く馥郁たる香りは奥底に封じていた“吸血衝動”を刺激し、表層へ出ようと突き上げてくる。
 ドクン!! とセイカの心臓が力強く鼓動を刻んだ。
 この体を維持するためには他者の血液が必要。
 しかし吸血行為を好まないセイカは毎回ギリギリのところまで耐えてから、少量の血液を取り込んでいた。
 最後に吸血したのはいつだったか。
 人間に例えればセイカのこの衝動は空腹による食欲と同じ。
 空腹状態の存在の前に、極上の料理が出されたら──結果は、言わずもがな。
 じゅわりと口内に唾液があふれる。意識していないと思わず垂れてしまうほどに。
 ごくり、と唾を飲み込む。
 駄目。目を逸らさないと。しかし体は言うことを聞かず、爛々とした眼差しは骨張った男の指へと注がれたまま。

「…………」

 セイカが動けないように、カラスバもまた動けないでいた。ただ指を少し切っただけ。日常で誰でも起こりうることだ。
 だというのにセイカは双眸を見開き、灰茶の瞳には隠しきれない欲望の揺らめきが秘められていた。
 視線だけで火傷してしまいそうな熱気が、自分の手から外されることはない。
 時間にして数秒。カラスバはようやく動き出す。

「堪忍な。……血ィ、苦手か──なんて。好きなやつおらんわな」
「いえ……」

 どう返事をすればいいか分からなかった。
 血が怖いわけじゃない。むしろ惹かれる側だ。
 生きるために必要で、味も人間からすれば不味い以外にないだろうが、セイカからすれば美味そのもの。
 だが正直に話すわけにはいかない。セイカは曖昧に笑いながら濁すと、ズボンのポケットを探りながらカラスバのそばに回った。
 まるで踊りを誘うように彼の片手を丁寧に取ると、手に持っている白いハンカチで怪我をした指を包んだ。
 上からギュッと力を入れて離せば、真っ白なハンカチには少量の赤が広がっていた。
 次いで腰のポーチを探ると慣れた手つきで絆創膏の封を切る。
 もちろん自分用ではない。だがこうして忍ばせていると時々役に立つのだ。
 くるくるくる。巻かれていく絆創膏。すると手に取ったのは偶然フシデの絆創膏だったようだ。
 デフォルメされた小さなフシデがたくさん散らされていて、非常に可愛らしい。

「これでもう大丈夫ですね」
「随分かいらしいモン貼ってくれたやん」
「子供受けもいいですよ」
「くくっ……なんやねん、そのフォローは。……ありがとさん。ハンカチも汚してもうたな。クリーニングして返すさかい、預かるわ」
「帰って洗うからいいですよ」

 嘘をついた。
 自分でもこの行動は驚きだ。血を欲する衝動のせいか。彼の血液が染みたハンカチを入手してしまうなんて。
 洗うと言いながら、脳内では反対の言葉が浮かぶ。
 ホテルの自室に帰ったとき。きっと堪え切れずにハンカチを鼻に当ててしまうのだろう。
 浅ましく、おぞましい自分の姿が簡単に想像できる。けれど……どうしようもない。

   ***

 あれからすぐにジプソが戻ってきて、今はテーブルを挟んで向かい合いながらお茶の時間。
 ジプソも気を利かせたのであろう。ごゆっくりと自分は早々に退室し、部屋にはセイカとカラスバだけだ。
 今回のお菓子は色とりどりのクッキーに飴色の紅茶だ。カップを持ち上げると、湯気に乗って花のような香りが立つ。
 渋みは少なく、口に含めば舌の上をすべるようにして喉へ落ちていった。
 いい茶葉を使っているのだろう。紅茶に詳しくないセイカでも、ひと口でそれくらいは分かる。
 けれどその澄んだ香りの奥。ポケットにしまった血の染みた白いハンカチの存在だけが、熱を持つように意識へ残っていた。

「なあ。セイカの地元はどこなん? 忘れそうになるけど、ミアレには観光で来たんやろ?」

 たわいない話をぽつぽつと続けていると、思い出したようにカラスバが言う。
 セイカはクッキーを片手に数回瞬きをした。
 ああ、そうだった。自分でも忘れていたが、一応は観光客ということになっている。

(地元、か)

 自分の生まれた国はすでに滅びているのだ。なので故郷はない。
 セイカはまた曖昧に笑った。

「遠く──すごく、遠くです」
「遠く、なあ……」
「私、ずっと旅をしていて。ミアレに来たのは……なんとなくです。ポケモンと人間が共生する街。風景も美しいですから」
「ならまたどっか旅に出るん?」
「それは……」

 すぐに返すことはできなかった。
 ミアレに来ようと思ったのは本当に偶然。けれどカラスバに出会ったことで、忘れていた記憶を少しだけ思い出すことができた。
 いつの日か尋ね人を見つけることができたら、自分の旅も終わるのだろうか。
 その人の命の終わりまで寄り添い続けるのか。AZとフラエッテのように。
 もしも彼らと同じように互いを慈しみながら、命を終えるそのときまで一緒にいられるのなら。
 それは最高の幸福なのだと思う。
 悠久を生き続け、酸いも甘いも噛み分けた上でそう言い切れる。

「私は……誰かを捜しているんです。ずっと。その人のことは忘れてしまったけど、ここにいればいつか思い出せそうな気がして。それまでは……ミアレにいますよ」
「思い出せない誰かを捜しとる……。オレも協力したいけどさすがに誰か分からん奴は無理やなぁ……。ほんま、不思議な子や。初めて会うた時もただモンやない思ったけど」
「懐かしいですね。私はあのときからカラスバさんが本当は優しい人だって分かってましたよ」
「あんなぁ……こんな仕事しとる奴が優しいわけないやろ」
「じゃあ私が勝手に思ってるってことで」

 出会いはよくなかったかもしれない。だがあの借金の件があったからこそ、今があると思うと感慨深いものがある。
 ふたりとも小さな笑いをこぼすと、スッ、とカラスバの表情が引き締まった。

「──セイカ。オレはオマエに……ミアレにずっとおってほしいと思うてる」
「それは……」

 真剣な目。本心の言葉をいきなり告げられて、セイカは続きの言葉を言えなかった。
 セイカは年を取らない。死ぬ方法はあれど、人間と同じ速度で歩むことはできないのだ。
 三千年を生きたAZも歳を重ね、ゆっくりとだが老人の姿になった。けれど自分はそれすらも……。
 でも、AZという前例。Fという新たな悠久の旅人の存在。もしかしたら懐の深いカラスバは受け入れてくれるかもしれない。
 もし尋ね人が誰なのか思い出さなかったら。ほんの少しだけ、ミアレに根を下ろしてもいいのではないか。
 人間の一生はせいぜい百年。セイカからすればそこまで長くはない。彼を見送ってから、また旅を再開するという選択肢もある。
 それに記憶の件を抜いたとしても、カラスバのそばは心地いい。理由は……分からない。

(もしかして恋、とか? …………そもそも。恋ってなんだっけ?)

 過ぎ去りし時のわずかな断片で感じ取る。
 人と違う存在になって、最初は寂しさから寄り添ってくれる人を求めたように思う。だが年を取らず永遠に少女のままのセイカを前にして、相手は恐れて去っていった……ような気がする。
 果たして自分が最後に恋というものをしたのは、いつなのか。
 気づいたときには恋とは無縁の世界で生きてきたために、セイカは分からなくなっていた。

「……できない約束はしないことにしているんです」

 未来はどうなるか分からない。だからこそ、できなかった。
 だがいざ言葉にすると、胸に隙間風が吹き抜ける。
 彼のそばにいるのもミアレでの穏やかな日々も、嫌いではないのだ。
 エムゼット団や上位ランカーたち。ミアレの個性的な住民との日常はセイカの時間に彩りを与え、色褪せたキャンバスに鮮やかな色を載せていく。
 AZのように終の棲家にはならないだろうが、もしこの地にいられるのなら──少しでも長くいたい、とは思う。
 カラスバは言葉を選ぶように沈黙すると、ふっ、と口角を緩く上げた。

「今はそれでええわ」
「……え?」
「ずっと、が無理なら今だけでええ。今日ここにおる。明日も、気が向いたら来る。それくらいでええんちゃうか」

 カラスバは貼られたばかりのフシデの絆創膏を見て小さく笑う。
 ああ。やっぱりこの人は優しい。
 太陽の光に拒絶された自分を彼は当たり前のように包み込んで、胸の奥を柔らかくしてくれる。
 だからこそ、胸が痛む。
 ポケットの中にある血の染みたハンカチ。
 彼の血の匂いは布越しでも薄く香り、忘れかけた飢えを今もなお静かに起こそうとしてくる。
 白い布の奥に残る赤は、彼に知られてはいけない自分の浅ましさそのものだ。

「そう、ですね。……じゃあ毎日遊びに来ちゃおうかな」
「ええよ。セイカなら大歓迎や」

 ふたりして笑みをこぼし、話はポケモンのものへと変わっていく。
 いつかはきっと……この部屋も、この紅茶の香りも、彼の声も。記憶の底へと沈んでいく。
 けれど今だけは。忘れてしまう未来を憂うより、この時間を大切にしたいと──セイカは思うのだ。