胎内回帰願望

 週末の昼下がり。リビングのソファには一組の親子の姿が。
 かつての恋人が記憶喪失に加えて体が縮み子どもになってしまい、育て直した果てにカラスバは恐るべき執着に囚われた。
 娘であり恋人でもあるセイカ。
 関係は変わったはずなのに、日常は不思議と変わらなかった。
 もともと濃いめだったスキンシップがさらに濃厚になったくらいで。
 ソファに深く体を預けながら本を読んでいるカラスバの膝にセイカは頭を預け、仰向けになりながらネットサーフィン。
 ふたりは無言ながらもページをめくる音や互いの息遣いが、静寂の空間のBGMにちょうどいい。
 ちらり。セイカは横目にカラスバの腹部を視界に入れる。
 今日は仕事も休みなので普段着。その服の下を想像して喉が鳴る。
 小柄ながらも意外とたくましい肉体。まごうことなき雄の身体だというのに、セイカはどこか思いを馳せるように目を細めた。
 あり得ないことなのに。そうだったらいいなという“もしも”のことが脳裏に浮かぶ。
 スマホをポケットにしまうと、そのままカラスバの腹部に顔を押し付け、腰に腕を回す。
 すり、すり。頬ずりをすれば割れた腹筋の凹凸が布越しに感じられた。

「どないしたん、セイカ」
「…………」

 セイカは答えず、甘えるように頬を擦り付けるばかり。カラスバは微笑ましいものでも見るように柔和な眼差しを向けながら、セイカの髪を撫でる。

「ふふ。甘えたさんやね」
「あのね。……お母さんのお腹から産まれたかったなあ……、って」

 少しの沈黙のあとの発言に撫でていた手が止まる。
 セイカに母と呼ばれるカラスバではあるが、男だ。なので発言自体矛盾するが、理解した上でこの腹から産まれたいとセイカは考えてしまう。
 より強い絆。誰にも覆すことのできない関係を求めて。
 カラスバは言葉を選ぶようにセイカを見下ろすも、腹部に密着している彼女の顔は見えず。

「さすがにそれは……無理やなあ」

 苦笑まじりだった。執着という名前の狂気にも似た純粋な愛を持つゆえの発言だとは思うが、体の仕組み的に──否。
 もっと根本的な部分で不可能だ。一度生まれ落ちた命は母の胎内に還ることはできない。

「お母ちゃん男やさかい」

 なだめるようにセイカの頭を撫でる。その手は腹にしがみつく愛しい女を真綿で包み込むような優しさが込められていた。
 ──どうしようもないくらいに好き。
 母に愛されていることを表現されて、嬉しい以外の気持ちはないが……どんなに愛を語られても完全に満たされることがない欲求。
 血が繋がっていれば、この渇きも消えるのかな。
 セイカは腹に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟く。

「来世。来世では──私を産んでね」

 顔を上げる。今世では無理でも、来世ならば。
 普通の男ならば愛しい女の発言でもさすがに顔を引きつらせるだろうが、カラスバはセイカの重苦しいほどの執着を受け止め「せやな」と口元を緩めた。

「ええで。来世でオレが女やったら、腹痛めてセイカを産んだるわ」
「……ぁ」

 望む答えではあるが、とあることに気づきセイカは顔を曇らせる。
 子を宿すには男の遺伝子情報が必要になる。たとえ行為を伴わない方法だとしても。
 ──嫌。
 率直な思いだった。カラスバが受け入れるのは自分ひとりだけでいい。
 底なしの渇望。
 セイカの指先がカラスバの服をきゅっと掴む。

「お母さんが私の知らない誰かとそういうことして……たとえしなくても、誰かの遺伝子と結ばれて私を産むの……」

 自分で言っていてとても苦しいのか、セイカの表情は歪むばかり。
 カラスバはただ黙って続きを待っている。

「……すごく、やだな」

 絞り出すように言葉を吐き出し、セイカは顔を再び腹にうずめる。
 自分でも呆れてしまうほどの執心。記憶を失う前のセイカのカラスバへの想いをさらに煮詰めたような。

「やっぱりいいや。今のままで」

 独りごちるとセイカは体を少し起こし、カラスバの胸に抱きつく。
 なにも付けていない、彼そのものの香りに包まれれば暗くなっていた気分も安心感に和らぐ。

「今のまま。ずっと一緒がいい」
「……ほんまに。セイカは欲しがりさんやなあ。ヨクバリスもびっくりやで」

 責めるわけでも、呆れるでもなく。
 小さな子どものような我儘を言いながらも、自己完結したセイカの背中をカラスバは大きな手で撫でる。
 ゆっくり。ゆっくりと。
 あやすような手つき。セイカがもっと小さい頃だ。記憶もなく、言いようのない不安で押し潰されそうになったとき。
 カラスバはなにも言わず膝にのせ、包み込むように抱きしめながら、背中を撫でてくれた。
 胸の奥のざわつきが落ち着いていくのを感じながら、セイカは目を閉じる。
 とくん。とくん。と、一定の速度で刻まれる心音に意識が引っ張られていくようだ。

「セイカはオレのもの。オレはセイカのもの。……どこも行かへんし、行ったらあかんよ」
「うん……」

 穏やかに流れる時間。母と呼ぶ男の愛に包まれながら、その温もりを逃がさぬように抱きしめたまま。
 セイカの意識は微睡みに堕ちていった。