私はたまに不思議な夢を見る。それは自分の記憶から作られた夢ではなく、私の知らない私──別の世界の私が体験したことを、彼女の中から追体験するような。
私はなにもすることができず、ただ目の前の光景を見て様々な知識を得たり、それらに感情を抱いたり。ちなみにこの体の持ち主である別世界の私がなにを思っているのかは分からない。
「……どうして」
普段見る夢は比較的楽しい夢。空の世界で私は騎空団の団長として仲間たちと日々を過ごすというものだけど、今回は違った。
まるで閉じていた目を開けるように夢の中で覚醒すると、私はなにかを両手に抱えて呟いた。その声はこの世の全てに絶望したような、悲壮に満ちた微かな音。聞いているだけで私もコアを鷲掴みされたように苦しくなる。悲しくなる。
「ルシファー……っ……!」
(──ルシ、ファー……?)
異世界の私が発した言葉に自分の耳を疑う。眼下に転がる首なし胴体。まさかこの抱えているものはルシファーの首……!? でも、どうしてこんなことに! いったい誰が彼の首を切断したというの……!?
頭は混乱を極め、涙が止まらず、コアがどうにかなりそうなほどに脈動する。苦しい、苦しい……!
***
「────ッ!」
夜が深まった研究所内は静寂に満ちていた。ジータに与えられた私室、その寝室にて。顔を歪ませ、悪夢に耐えていたジータがハッ、と目を覚ますとそこは見慣れた部屋。
(あれは夢……夢、だよね……?)
頭では夢だと分かっている。別世界の自分の身に実際に起きたことだと。だけど本当に別世界の私のことだった? 本当はこの世界で起きたことで、過去の記憶を夢として見ただけかもしれない。
一回疑問を抱けばもう止まらない。最愛の人を喪ってしまったかもしれないという焦燥感に現実でも涙が頬を伝い、コアの苦しみから衝動的に彼女は部屋を飛び出す。
ルシファーの部屋はジータの隣。普段は夜に彼の部屋に行くときは妙な噂が立たぬよう、周囲を警戒するのだが、今はそんな余裕はなく。
与えられている合鍵を使って扉を開け、中に入る。必要最低限の物しか置かれていない質素な部屋は彼の性格を表しているようだ。
リビングに当たる部屋を通って彼の寝室へ。広々とした部屋の窓側には大きめな窓があるものの、今は分厚いカーテンによって外と中は隔てられ、隙間からわずかに漏れる月の光が薄暗く室内を照らす。
部屋の中心にはひとりで寝るには広すぎるベッドと脇にはナイトテーブルが置かれ、その上に設置されている就寝前の読書の際に使用するランプは当たり前だが消されている。
眠り姫はそこそこ大きな音を立てて入室したというのに起きる気配がない。薄い掛け布団の胴体部分は当然だが膨らんでおり、首も繋がっているが、本当に彼が生きているのか確かめるべくふらふらと覚束ない足取りでベッドへと向かう。
ベッドに上がり、馬乗りになると無防備な首に両手を伸ばす。少し力を入れれば簡単に折れそうなほどに細い首は確かに胴体に繋がっているが、夢の中の光景がフラッシュバックしてジータは一種の混乱状態へと陥る。
繋がっているはずなのに、正しく認識できない。彼は生きているの? 本当に? 呼吸が浅く、速くなって涙がぼろぼろと止まらずにルシファーの顔に雫が数滴。
「……なにをしている」
「るしふぁー、しんじゃいやっ! るしふぁー、るしふぁー!!」
ようやく目を覚ましたルシファーは馬乗りになっている被造物の姿を見ていつもの発情期かと考えたが、この世の終わりとも思える絶望の表情でしきりに首に触れる様子を見て、理由は不明ながらも正気を失っていると理解すると行動が早かった。
なんの加減もなくジータの頬を打つ。星晶獣であるジータからすればそれほどの痛みではないものの、外部からの刺激によって乱れた思考は一時停止し、それは肉体にも影響した。
石化状態に陥ったように体は動かなくなり、ノイズが走った脳内は少しずつ落ち着きを取り戻す。
目の前でルシファーが動いた。動いて、頬を平手打ちしてきた。薄暗い部屋ながらも星晶獣であるジータには昼間のようにはっきりと見えるため、胡乱げな眼差しを向けるブルースピネルの輝きに囚われる。
「るしふぁー……? ルシファー、生き……てる……?」
「俺が死人に見えるのか」
睡眠を邪魔されたと不機嫌な低い声。聞き慣れた彼のトーンにジータの胸中を満たすのは紛れもない安堵。目の前にいる人は生きているという事実に目元がじんわりと熱くなると大粒の涙が滲み、ジータはルシファーの胸に頭を擦り付けると彼の体を掻き抱く。
「ぅあ……あああああぁッ……!! 夢で、あなたが死んじゃって……、ひっぐ、でも夢かどうか分からなくなって私……!」
大きな声を上げ、みっともなく泣く姿は小さな子ども。ここまで感情を乱すことは今までの生活でなかったために、ルシファーは思わず呆気に取られてしまう。
きっと彼がもう少しばかり血の通った人間であれば恐怖によって涙する我が子同然の存在を抱きしめ「それは夢だ」と言いながら背や髪を撫でて安心させるのだろうが、彼にはそういった感情は乏しい。
なかなか泣きやまないジータをよそに、黒のインナーの胸元が水分を吸っていくの感じながらルシファーは起き上がる。
「どけ」
「っ……どこ、行くの……?」
悪夢によってルシファーの睡眠を妨害したことに負い目を感じているジータは本当は離れたくないものの、彼の言うとおりに横に下りて解放する。
泣き過ぎて真っ赤に腫れた目元。涙や鼻水でぐしゃぐしゃな顔は酷いことになっているものの、それはジータがどれほどルシファーのことを大切に思っているかの証拠。
ジータの至極当然の問いに彼は答えず、立ち上がって向かう先はリビングへと続く扉。このままベッドでひとり置いていかれるのは嫌だとジータも後に続く。
壁に設置されているスイッチをルシファーが入れれば、パッとリビングの照明が部屋を明るく照らした。彼はなにをしようとしているんだろう? と、不安げな表情で見つめると、
「ソファーに座って待て」
「うん……」
彼の人差し指が向けられた先にあるのは使い慣れたソファー。落ち着いた高級感のあるデザインになっているそれに座って待機していろという命令に、従うことに。
大きいソファーにちょこんと座るジータは普段の快活さは感じられず、弱々しい。キッチンへと向かう主の背中を見つめ終わると、今度は膝の上に置かれた手を俯き加減に見入る。
キッチンの方からはなにかを取り出す音、コンロの火をつける音が聞こえるが、ルシファーはなにをしようとしているのか。つらつら考えるものの、負の感情に囚われている今は思考が勝手に悪夢の脳内再生をし、ジータを苦しめる。
切断されたルシファーの首を抱える自分。事が起こる前にルシファーの身になにがあったのか。誰があんなことをしたのか。いつかこの世界の彼も夢と同じ末路を辿るのでは……? 押し寄せる不安感が大粒の雫となってぽろりとジータの頬を伝うと、
「ガキはこれでも飲んでろ」
思考の波に溺れかけていると意外と時間が経っていたようだ。キッチンから戻ってきたルシファーは泣きべそをかいているジータの前に白いマグカップを置くと、そのまま彼女の隣に腰掛け腕を組む。
ふわりと沈むソファーの感触や彼が──気まぐれでも隣にいてくれることに乱れた精神は徐々に安定していく。
過呼吸気味だったのも落ち着きを取り戻し、自分にとってどれだけルシファーという存在が大きく、大切な人なのか身に染みる。夢に見ただけでもみっともなく泣きわめき、こうして彼に迷惑をかけてしまった。
思わず首だけの彼の姿が脳裏をよぎりそうになるが、ジータは意識を別のところに向けようと目の前のローテーブルに置かれたカップを見る。
中身は乳白色の飲み物が入っており、温めたばかりの証拠に湯気が昇っていた。ほんのりと、どこか甘い香りに誘われるように両手で包むように持てば、ほどよい熱がカップ越しに伝わって心身がリラックスしていくようだ。
「ホットミルク……。ルシファーが、私に……」
「なにか問題でもあるのか?」
「ううん。ありがとう……」
ただ牛乳を温めただけではあるが、あのルシファーが他者になにかをしてやるということは基本ないので、驚きと嬉しさを同時に感じる。
恐怖によってすっかり縮み上がっていた心も、絡まった糸が解けるように和らぐ。
ジータはルシファーのことをひとりの人間として愛しているが、この行動にはどこか親らしさが感じられて不思議な気持ちになってくる。父さん、そう呼んだ瞬間に彼は胡乱げな目を向けてくるだろうけど。
「ん…………、甘くて、あったかくて……美味しい」
ふうふう、と少し冷ましてから口に運べば熱が全身に染み渡っていくような感覚が広がり、牛乳そのものの甘さにホッと息をつく。恐怖状態は安らぎ、何度かカップを傾けるジータを横目にルシファーは静かに口を開いた。
「お前が見た夢だが。仔細を話せ」
びくり、とジータの華奢な肩が跳ねる。あまり思い出したくない内容だ。だが鮮烈な印象を植え付けたあの映像は忘れたくても簡単には忘れられそうにない。
ジータはカップをテーブルに戻し、膝で握られた手を見ながら口を開く。
「詳しくと言っても……ただ、私は胴体と切断されたあなたの首を胸に抱えて泣いていただけで……。意識は首に集中していたからあそこがどこなのか、誰があんなことをしたかは分からない。……ごめんなさい」
汚れた場所ではなかったはずだが、なにしろ夢を見てすぐに飛び込んできたのは愛するルシファーの頭を抱えて絶望に涙する自分だった。意識は全て彼へと向き、他のことなど考える余裕なんてなかった。
ひたすらに悲しくて。眼下に倒れる首なしの胴体を見て打ちひしがれながら、首を大切な宝物のように深く抱きしめていた。夢のはずなのに今でもはっきりと思い出せるほどに手や腕に感触が残っている。
「そうか。……お前が時折見る夢。別世界のお前が実際に体験したものならば俺は……」
夢の中のジータは騎空団という人間たちの集団の団長をしており、見たことのない人たち、いつも行動をともにする空のように美しい髪を持つ少女や赤い子竜に親しげに名前で呼ばれていた。
体は勝手に動き、喋る声は己の声だが“自分じゃない”。けれど夢はとても楽しくて。見る度にルシファーに話をしていたのだ。
今回の夢はいつもの空ではなく、内容も衝撃的だったが、どこかの世界の自分はルシファーと悲劇的な別れを経験した。もし、それが現実になったら──想像するだけでコアがどうにかなりそうだ。
「違う世界のルシファーは活動停止状態に……」
「フ。俺の首を刎ねるとは。どこのどいつなのか興味があるな」
微笑しながらの言葉はジータからすれば縁起でもないこと。顔を上げ、ルシファーを見る目は悲しげに歪められている。
冗談でもそんなことを言うべきではない。ルシファーは分かっているのか。どれほど自分が大きい存在なのか。
だがもし、もしも。ジータは思考を巡らせる。現在でもルシファーを狙う輩はわずかながらもいるのだ。星の天才の頭脳を恐れる者や彼の残酷な研究内容、他者を排斥する態度に憎悪を募らせ──。
自分に向けられる感情には疎すぎるほどに疎いジータだが、ルシファーに向けられるものとなると話は別。周囲の彼に対する悪意を敏感に察知し、現在進行形で彼を守っている。
蜘蛛の巣のように細かな網をくぐり抜けてルシファーを活動停止に追い込まれたとしたら、自分はどのような行動を取るか。
最初は絶望に嘆き、悲しむだろう。夢の中でもそうだった。だがいつまでも泣いているわけにはいかない。次に取る行動は相手への報復? いいえ。即座に否定する。相手を始末してもルシファーの活動は停止したままなのだから。
「嫌なこと言わないでよ。けど、もしも……あなたが夢のとおりの状態になってしまったら──私はどんな手を使ってでもあなたを蘇らせる。たとえあなたが受け入れた死だとしても、私はあなたを生かすことに全力を尽くす」
ジータにとってルシファーの死は到底受け入れられないものだ。たとえ彼が自分で望んだり、受け入れたとしても。
あぁ、でも本当に、心の底から彼が死にたがっていたのなら、一緒に心中をしてもいいとは思う。
どうしようもないくらいにこの男が好きなのだ。自分を造った造物主だからという陳腐な理由ではない。気づいたときには愛していた。この人のそばにずっといたいと思うようになった。
「俺が受け入れても、か。とんだエゴだな」
「女の子は我儘なんだから」
ルシファーは清らかな水を連想させる澄んだ青を閉じると呆れたように呟くが、ジータはどこか得意気に笑い、ミルクを口にする。普段はそこまで我儘を言わない分、これだけは譲れない。
あれだけ泣いていたのもどこへやら。ジータの心はすっかりと回復し、ルシファーとの真夜中のひとときに身を委ねた。
終