星の民ルシファーには意外と敵がいるものだ。彼は星の民側に叡智を齎す存在ではあるが、いかにせん扱いにくい男であり自らに不要と判断した者を排除したり、結果が見込めない研究を早々に廃止させることも多い。
特に研究分野では担当者がどれだけ熱を持って日々勤しんでいようと、ルシファーにその気持ちを汲む感情はないので復讐に駆られて凶行に及ぶ者も過去にはいた。
時に暗殺対象となる彼だが一度も成功した者はいない。星晶獣という存在を造る前はあと一歩という場面もあったが、彼が一般の星の民よりかもハイスペックな星の獣──星晶獣を造ってからはその獣が未然に察知し、処理していた。
この話は一番最初に造られ、彼の手足となって稼働する一匹の獣“ジータ”が初めて人をその手で殺めたときの話である。
***
(最近、誰かの視線を感じるときがあるんだよね……。ルシファーは放っておけって言っていたけど)
本日は晴天なり。今日も今日とて研究所がある地域の天気は安定しており、ルシファーの獣であるジータは研究に使う素材が入った箱を腕に抱えながらひとり通路を歩いていた。
通路に等間隔に設置されている窓からは柔らかな日差しが入り込み、味気ない長いだけの廊下を照らしている。
そんな場所を神妙な顔をして歩く彼女はここ数日の出来事を思い出す。どこから感じるのかは不明だが、ルシファーと行動していると誰かの視線を感じるのだ。
周囲を確認しようとするとふっ、と隠れて分からずじまい。彼に相談しても現在取りかかっている研究が大事なのか、自分の身の危険かもしれないのに興味がなさげ。
ジータがひとりで行動している際は謎の視線を感じないことから、狙いはルシファーなのだと推測する。彼自身が対策を講ずる様子がないのだ。彼の身の回りの世話をする自分が未然に対処しなければとジータは燃える。彼の役に立ちたい──稼働から月日があまり経っていないために、より強くそう思うのだ。
彼との生活が始まって短いが、その期間でも彼のことを快く思わない人間は意外に多いと分かった。頭脳は飛び抜けていてもその性格ゆえに。
ジータもキツいなぁ……と思うことは多々あるが、優しいところもある。しかしそれが今のところ彼女限定で、しかもルシファーが無自覚ということにジータが気づくことはない。
とにかく自分が彼を守らなければ! ジータはやる気を強めるように鼻息を荒く吐き出すと、荷物を抱え直してルシファーのいる実験室へと向かう。
そんな決意から数日後。それは起こった。
この日実験室からルシファーとジータが出てきたのはとっぷりと夜が深まった時間だった。実験に一区切りついたということで自室へと戻る道すがら。外に面する通路だったため、ジータはルシファーの後ろを歩きながら夜空を見上げていた。
冷え冷えとする半宵の空。凜と輝く月は神秘的で月には人を惑わす魔力があるとなにかの本で読んだことがあると、ぼんやりと思った刹那。
(……?)
視線。今までよりかもじっとりと、体に纏わり付くような不快感があった。ルシファーは疲労で気づいていないのか、それとも敢えて無視しているのかは不明だが、思わず立ち止まってしまったジータを置いて先に行ってしまう。
ジータは角を曲がって行く彼の背中を見送ることしかできない。
今回まではどこから視線を感じるのか特定できなかったが、今は分かる。視線の持ち主はルシファーが去ったことで自分も移動しようとしているのか、気配が小さくなりつつあるが、全神経を集中したジータには居所が分かった。
──背後。ジータから少し離れた場所にある森の木々。ここは外に面している通路であり、時間が時間なので不審な行動をしても他の星の民に疑問を抱かれることもない。なので位置が把握できるほどに近い距離に現れたのだろう。
ルシファーの暗殺が目的なのか。とにかく犯人を逃がすわけにはいかないとジータは体を光の粒子に変えると高速移動をし、場所を移そうとしていた人物の目の前へと現れる。
「ひっ……!?」
「あなたは……」
白いローブにフードを深めに被った男。顔はよく見えないものの、研究所で見たことがあった。どこで見たか記憶を巡らせれば、数ヶ月前にルシファーによって研究を終了させられた研究員ではないか。もしやその復讐でずっと彼を見ていたのか。隙を突いて、彼を殺めようと。
「……ルシファーの獣。お前、俺が彼を殺そうと隙を伺っていたと、そう思っているのか? だとしたら愚かな推測だ。俺は彼を殺そうとなんて思っていない」
「あなたは、ルシファーに研究を終了させられました。その復讐のためにずっと彼を見ていたのでは?」
「ほう……。俺のことを覚えていたのか。さすがは所長の獣といったところか。だが違う。俺はただ“見ていただけ”だ。彼を……所長のことを」
ジータの登場に怯んだのも一瞬。研究員の男は崩した体勢を元に戻し、ジータと向き合うと身長差から彼女を見下ろす形になり、あざ笑うような笑みを口元に浮かべて話し出す。
星の民の中には造られたばかりのジータ──獣に懐疑的な者も当たり前だが大勢おり、彼もまたその中のひとりなのだろう。ジータはそういった偏見をまだ見ぬ後輩たちのためにも少しでもなくそうと努力をしているが、道は遠い。
「最初は所長に研究を打ち切りにされたことに憤りを感じた。俺が心血を注いだ我が子のような存在を否定され、廃棄され……。だがあのときの所長の塵を見るような冷たい目がどうしても忘れられなくなった。憎んでいたはずがいつの間にかまたあの目を向けられたいと思うようになった。気づけばいつも彼を目で追っていた。だから見るだけでよかったんだ。あの美しい顔を。誰をも萎縮させる氷の瞳を。頭から離れないんだ。いつもいつも俺の中にはルシファーがいて俺を惑わすんだ。そう──この月みたいに!」
徐々に早口になり、興奮混じりに口に出す男の気持ちにジータは共感できる部分があり、息を呑む。自分もいつだって彼の姿をこの目に映していたい。頭の中は彼のことばかり。自分の行動は全て彼のために。彼のためならばこの身がどうなっても構わない。
「お前もルシファーのことを愛しているんだろう? 獣のクセに。獣は彼にとってただの道具に過ぎないと分かっているのか? 彼がお前のことを愛してくれる日が来ると本気で思っているのか? あぁ妬ましい。道具だからこそ彼のそばにいることを許され、俺の知らない彼の一面を知っているというのか」
「もう、いいから……! 喋らないで……!」
男の言葉に頭痛がしてくる。気持ち悪くて吐きそうだ。普段は考えないようにしていることをどうして赤の他人である男が分かったようなふうに言うのか。ジータは片手を額に押しつけ、今にも崩れてしまいそうになる膝に力を入れながら声を搾り出す。
その間にも月に狂わされた男はジータを貶す言葉を連ねるが、自分が攻撃されるよりかもこの男の口から“ルシファー”という単語が出る度に胸の辺りが気持ち悪くなって仕方がない。
男はルシファーに対する歪んだ愛情を持っているだけで、直接なにかをしようとは思っていない。……今のところは。だがいずれ彼を自分だけのモノにしたいなどという身勝手な理由で傷つけるかもしれない。
一旦拘束するに留めてルシファーの判断を仰ぐべきか。けれどこの黒い気持ちはどうしてくれようか。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!
男の声は酷いノイズとなってジータの思考回路を乱す。獣はただの道具。そこに愛もなにもあるわけがない。お前は実験に使う道具にいちいち愛情を抱くのか? などとジータが思考せずにいたことを平気で言の葉として散らすこの男の口を、今すぐにでも封じたい。
(うるさい……うるさい、うるさいっ……! うるさいっ!)
男から距離を取り、耳を両手で塞ぎながらかぶりを振るジータ。そんなこと言われなくても分かっている。道具でも主を愛してしまった。彼を求めてしまった。この気持ちを誰かに触れられることに酷く憤りを感じる。お願いだからもう喋らないでほしい。放っておいてほしい。どうしたら黙ってくれる?
そうだ──そのべらべらと要らぬことを音にするこの喉がいけないんだ!
「ッ゛……が……! ぁ……」
「…………ぁ、」
完全に意識の範囲外だった。片手が男の喉を掴んで、少し黙ってもらうつもりで力を入れたら──簡単に、それはもう本当に呆気ないほど、まるで果実を握り潰すように掴んだ場所が弾け、首から上が地面に転がった。
手の中に広がる生暖かさに不愉快を感じ始め、ジータは目線だけで眼下に広がる惨状を視認する。
胴体と頭部が地面に転がり、もともと首が繋がっていた場所からは砕かれた骨や肉片が見えている。恐る恐る自分の片手を見れば真っ赤に染まっており、細かな残滓がこびり付いていた。
それが自分が人を殺めてしまったとジータに自覚させる。
「あ……ぁ……」
少し黙ってほしいだけだった。殺すつもりはなかった。だがそれ以上に恐怖したのは自らの力の強さ。制御を間違えればいとも容易く人間の骨を砕いてしまうほどの力。もし、ルシファーに触れる際に力加減を間違えてしまったら──。
想像して震えが止まらなくなる。まるで世紀の大発見のように自らの危険性を思い知り、立っていられなくなったジータは尻餅をつく。
鈍器で何度も殴られているように頭が痛い。混沌としている感情に涙が止まらない。人を初めて、しかも自分の意思とは関係なく殺してしまった。
造られてから時間は経っているといっても人間でいえばまだまだ生まれたばかり、赤ん坊の年齢であるジータは初めての経験にどうすればいいのか分からなかった。
「……こんなところでなにをしている」
「ルシファー……!」
そんなとき。救いの神が現れた。月を背にジータの横に立つルシファーは神秘的な魔力の光に照らされ、まるで夜の女神の如き美しさを纏う。さらさらとした白銀は輝き、底冷えのする青の瞳は気だるげにジータを見下ろしていた。
ジータはよろよろと、赤子が這うように両手を地面についてルシファーへと近づく。神の救いを得ようと手を伸ばす信奉者のように。
「これはお前がやったのか」
「そ……れは、」
ルシファーの言葉を皮切りにジータは男となにがあったのかを洗いざらい話し始める。神へ自らの罪を告白するように、頭に思いついた言葉を懺悔する。
平常時の彼女ならば纏まりのない報告を嫌う彼に対して内容を適切に要約して話すのだが、今はそんなことをしている余裕はない。ルシファーもそれが分かるのか、珍しく黙って聞いてやるもやはり無駄話は好まないようで。
最後はジータの言いたいことを極めて簡素に訳し、確認する様子は親が子の伝えたいことを分かりやすく言語化してやったといっても過言ではない。
ルシファーの言葉を肯定するようにジータは何度も首を縦に振る。涙でぐしゃぐしゃな顔は彼の審判を待つようにジッ……とルシファーの顔を見つめるばかり。その目は迷いに満ちていた。自分にはどのような罰が下されるのだろうかと。
「まさか、お前……この男を殺したことに対して罪悪感を感じているのか? そのような感情は不要だ」
「でも……!」
ルシファーは男のことなどまるで気にしておらず、呆れるような目でジータを見るが、彼女からすれば感じるなというのが無理な話。だがルシファーのとある一言で考えは一変する。
「ならば、お前を造った俺が“許してやる”」
ルシファーは手に持っている杖の先端でコツ、と一度地面を叩くと改めてジータの意識を自分の方へと向けさせ、宣言した。許すと。
「ぁ……!」
その言葉を聞いた瞬間にジータの中の罪悪感は霧散し、頬を撫でる夜風に吹かれて消えていく。
まるで神の言葉。彼のたった一言で心を蝕む負の感情が最初からなかったかのように胸が軽くなる。
「お前は正しい選択をした。いずれこの男は俺に危害を加えようとしただろう。お前は事前にそれを察知し、対処したまで。──よくやった」
ルシファーはジータに近づくと片膝を地面につき、しゃがむと杖を傍らに置いてジータの後頭部に手を回し、抱き寄せた。褒美として抱擁を与えるような行動に、彼の胸に顔を寄せる形になっているジータは涙が溢れる。
「……ルシ、ファー……」
自分は悪いことはしてないんだ。彼の役に立ったんだ。こうして彼が褒めてくれるんだから。
ジータの中に彼を抱きしめ返したいという欲が生まれたが、自分の力の制御に不安があったためにその気持ちにそっと蓋をする。
これから先も彼のために稼働するのだ。未熟な精神を鍛え、自身の想像を超えた強大な力を完璧に己のものにしよう。この程度のことで弱ってなんていられない。
彼を守護する獣に。いつまでも彼に求められる獣であるために。
自分は、ルシファーの獣なのだから。
終