第二章 珈琲はいかが?
「……うん。準備よし」
清々しい朝。小鳥のさえずりをBGMに支度を終えたジータは姿見の前でくるりと一回転。三つ編みにされた髪がふわりと揺れるもその表情は少々硬い。その理由は今までと違う生活が始まったせいだ。
ここ私立カナン女学園にはスール制度というものがある。上級生が下級生を妹に迎え、学園生活をサポートするというもの。
入学してもそういった縁がなく、姉という存在がいなかったジータはひょんなことからルシファーという名の絶世の美少女の妹になったのだ。
清廉な雰囲気を漂わせる純白の制服に汚れや皺がないことを確認し、自分の部屋から一歩外に出れば見えた光景に言葉を失ってしまう。
「ベリアル先生……!?」
ソファーには制服に着替えたルシファーが珈琲を片手に食事をしているところだった。その傍らにはベリアルというルシファーの世話役兼学園の講師である男が控えている。
朝ジータが起きたときにはルシファーは起きておらず、朝食の時間にもう一度部屋をノックしても返事はなし。直接起こすしかないと思い、扉を開けようとしても鍵がかかっていてどうすることもできなかった。
「やあ。おはよう、ジータ」
「お、おはようございます。ベリアル先生、ルシファーお姉さま」
朝の挨拶をするも、ルシファーは聞こえてないかのように無反応。外見も含め、今までに会ったことのないタイプの人間にジータは朝から心折れそうになるも、ググッとこらえる。
「初日だからオレが世話を焼きにきたけど……明日からはキミがファーさんの世話を頼むよ」
「頼むと言っても、私はなにをすれば……。起こそうとしても部屋に鍵がかけられていましたし」
「ファーさんはお寝坊さんでねぇ。まあ大体この時間には部屋から出てくるから。食堂からご飯を持ってきて、珈琲を淹れてあげて。道具は一式キッチンに置いてある」
(男の人……専属の執事が寮に出入りしてるってだけで異例なのに、食事も部屋で……。しかもこのままのペースなら完全に遅刻だし。本当にお姉さまって何者なんだろう。超が付くほどのお嬢さま?)
「ところでキミ、珈琲の淹れ方わかる?」
「えっ!? えと、少しなら……」
考えに耽るジータを呼び戻したのはベリアルの声。普段彼がしていたことと同じことが出来るか聞かれたが、ジータもそこそこのお嬢様。
メイドが用意してくれることが多く、自分で淹れたことはあれど基本的な手順しか分からない。どうすれば美味しい珈琲を淹れることができるのかという知識は皆無。
「ならオレが手取り足取り教えてあげるよ。じっくりとね」
「手取り足取りじっくりは遠慮しますが、お願いします」
「朝から辛辣だねぇ。さて、そろそろ行かないと間に合わなくなるぜ?」
「あっ! 本当だ! 行ってきます、お姉さま。また後で」
ベリアルに言われて時計を見ればいつもならばもうとっくに寮を出ている時間。ジータは慌てながらもぺこりと頭を下げ、部屋を出ていく。
小走りで学園へと続く道へ向かえば、ちらほらと生徒の姿が見え始めた。一人で歩く者、友人と歩く者、姉妹で歩く者。たまたま目に入ったスール関係の生徒たちの仲睦まじい姿を見て、ジータは少し羨ましく感じる。いつか自分もルシファーとああなれたらと。
(ここには綺麗な人がいっぱいいるけど……やっぱりお姉さまが一番綺麗かも)
生徒たちに混ざって通学路を歩きながら朝見たルシファーの姿を思い出す。涼し気なアイスブルーの瞳、一本いっぽんが太陽の光に反射してきらきらと宝石のように輝く銀色。膝より少しだけ長い純白のスカートから伸びる長い脚を包む黒いタイツ。
脳内にその麗しい姿を浮かべるだけで自然と大きな息が漏れてしまう。
ルシファーの性格には難があるが、その外見はジータの心を一瞬で射止め、放さない。
「おはよ〜! ジータ!」
「イオ! おはよう! ふふっ。また寝坊? タイが曲がっているよ」
「あっ、ありがとう……」
背後から元気よく声をかけられ、振り向けば同じクラスであり、友人でもあるイオがこちらに向かって駆けてくるではないか。
部屋を移動する前は部屋同士が隣だったので一緒に登校をしており、たまにイオが寝坊をしてジータが先に行くというのもしばしば。
今日はジータも遅めでてっきりイオは先に行っていたと思っていたが、違ったようだ。
急いで来たのか胸元のタイが曲がってるのを見たジータは微笑みながら直し、イオは恥ずかしそうに視線を泳がせている。その様子は同年齢でありながらも姉と妹のようにも見えた。
「これでよし。さっ、行こっか」
「あ、ありがとう……。そうだジータ! 昨日いきなり引っ越しちゃうからびっくりしたわよ! バタバタしてて詳しい話も聞けなかったし……」
虹を連想させる色をしたツインテールを揺らしながらジータと共に歩く彼女は心配そうな顔で尋ねてくる。確かに昨日は突然過ぎてイオに話している暇はなかった。
「あはは……。まあ色々あって。時間があるときにゆっくり話すね」
***
「へぇ〜! あのルシファーさまの……」
「お姉さまのことを知っているの? イオ」
「有名よ〜! 逆にジータは知らなかったの?」
「う、うん……」
「まあいいわ。授業をサボることが多いのに毎回テストは満点、そしてあの美貌でしょ。プロフィールも謎に包まれているし、性格の冷たさも相まってミステリアスな雰囲気にファンクラブがあるくらいよ」
「し、知らなかった……」
時間は流れ、昼食の時間。学園の食堂はとても広く、味のレベルも高い。食に通じたお嬢さまも納得の料理を提供する憩いの場所は談笑に興じる生徒で溢れていた。
窓際の日当たりのいい場所で食事をしながらイオに事情を話していれば、彼女からジータの知らないルシファーの情報が出てきた。そんなに有名ならば知っていて当然なのだが、ジータは初耳。知らなかったことに対して恥ずかしさを感じるほど。
イオから話を聞いて納得した。登校してから妙に視線が痛く、ヒソヒソされているような気がしていたのだ。
学園の中にファンクラブがあるほどの人物の妹になったという事実が広がり、嫉妬や興味が注がれるのはさすがのジータも分かる。
自分自身でさえ未だに夢見心地。たったひと目見ただけで心奪われた人の妹に、あんなにもすんなりなれたのだから。
「で、一緒の部屋に住むことになったんでしょ? ルシファーさまはどんな感じ?」
「まだ一日だし分からないよ〜……。あぁでも明日からお姉さまのお世話をお願いってベリアル先生に言われたかな」
「えっ? なにそれ」
「ルシファーお姉さま、起きるのは遅いしお食事は部屋で食べるみたいなの。今まではベリアル先生……お姉さま専属の執事さんがしていたんだけど……」
「う〜ん……。先生が自分の仕事をジータに押し付けるために紹介したわけじゃなさそうだし……。そもそもルシファーさまってすごく気難しいの。だからジータが選ばれたってことはなにか理由があるのよ。ジータって可愛いし、気配りもできるから選ばれても不思議じゃないわね」
「そ、そうかなぁ……えへへ」
友達だからこそ恥ずかしいセリフも当たり前に言えるのかイオの言葉にジータの頬はほんのりと赤く染まり、はにかむ。誰もが見ても可愛らしいと思う面様にイオが“ほら、やっぱり”と言いたげに鼻を高くする。
親友同士の和やかな時間はゆったりと過ぎていき、午後の授業も終わって放課後。イオは用事があるからとジータに先に帰るように言い、ジータも特に教室に残る理由もないので寮に帰ることに。
一年生の教室は三階。三年生は一階。なので校舎を出る前にルシファーがいるか覗いてみよう。もしいたら一緒に帰れればいいなと思いながら。
窓越しに夕日が差し込み、ジータの横顔を照らす。その顔が赤いのは夕日のせいだけではない。ルシファーのことを考えると自然と顔に熱が集まってくる。きっと彼女は自分のことをそういう対象として認識はしてないだろうが、せめて大切に想うことだけは許してほしい。
「ごきげんよう。あなたがジータさんね?」
「ご、ごきげんよう。お姉さま方は……?」
三年生の教室へと歩いている途中。物思いに耽っていると突然前方から声がかけられた。名前を呼ばれ、ハッとしながらそちらを見れば、上級生らしき生徒が数人。初めて見る顔ぶれにジータは嫌な予感を肌で感じ、それは現実になる。
「ふぅ〜ん? こんな子がルシファーさまのねぇ……」
(すごく嫌な感じ……)
集まりの一人がジータを品定めするかのような目で見つめ、最後は鼻で笑われた。彼女たちはきっとルシファーのファンだろう。ぽっと出の少女が憧れのお姉さまの妹に選ばれたことに納得ができない……といった様子。
体や表情をこわばらせるジータに対して、グループのリーダーと思われる生徒が一歩前に出て口を開く。
「ジータさん。ご自身がルシファーさまの妹に相応しいと本当にお思い?」
「そ、それは……」
思わず口籠ってしまう。見た目や家ならばジータよりも上の生徒はたくさんいる。成績も学年では上位に入るが、そんな理由で選んだとは考えられない。
一体ルシファーはなにを思って、自分を妹にしたのだろうか。
「答えられないとか。もう自分で答え出しちゃってるんじゃん」
含み笑いをしながら一人が勝ち誇ったように言う。その言葉の刃がグサリと胸に深く突き刺さる。
「貴方たち! なにをしているのです!」
「あっ、あなたは……!」
「入学したばかりの下級生を数人で囲んで追い詰めるなんて──恥を知りなさい!」
「……行きますよ。それではごきげんよう、ジータさん」
緊迫する場に割って入ったのは金髪の美少女。ジータには見覚えのある人物だった。彼女はジータを囲んでいた生徒たちを一喝し、追い払うと「大丈夫ですか?」と優しく声をかけてくれた。
思わぬ助けに泣きそうになったが、ジータはこらえ、大丈夫ですと頷く。
「助けていただきありがとうございます。あの、あなたはヴィーラさまですよね。生徒会長の……」
「はい。ヴィーラ・リーリエと申します。先日はハンカチを貸して頂きありがとうございました。……恥ずかしいところを見られてしまいましたね」
この学園に入学して数日。ジータは校舎から離れた場所、桜が咲き誇るところで彼女が人知れず涙を流しているところに遭遇したのだ。
理由は分からないが泣いている人を放ってはおけず、声をかけ、なにも聞かずにハンカチを貸して去った。その相手が生徒会長だと知ったのはつい最近だ。
「あの二年生たちはルシファーさんに憧れの感情を抱く者たちでしょう。また貴方に接触するはずです。くれぐれもご用心を」
「はい……」
「そうだ。私これを返そうと思って」
「あのときのハンカチ……」
受け取ったのは純白にワンポイントの刺繍が施されているハンカチ。紛れもなくヴィーラに貸した物だ。
「私にもお姉様がいました。けれど……彼女は遠くに行ってしまった」
(そっか、お姉さまを想って泣いて……)
ヴィーラは力なく笑う。ルシファーと姉妹になったばかりで実感はないが、もし今すぐ彼女と離れることになってしまったら──考えただけで青い気分になる。
だがいつかはやってくる別れ。今生の別れというわけではないが、大好きな人とずっと一緒にいるというのはなかなか難しい。それぞれの人生がある。
「そんな顔をなさらないでください。……私、お姉様と同じ大学に受験するつもりなんです。私のあるべき場所はお姉様の隣以外はあり得ません」
「そうなんですね。ヴィーラさまなら絶対に合格できますよ!」
「ふふ……。ありがとうございます。……あのときに声をかけておくべきでしたね」
「?」
「私にとってお姉様はカタリナお姉様ひとりだけですけど、私、ずっと妹も欲しかったんです。そう、例えば……ジータさんみたいな、とっても可愛らしい妹が……ね」
そう言って微笑みかけてくるヴィーラは年上の女性の色香が漂い、まだまだ小娘であるジータの頬はまたたく間に朱に染まり、胸が高鳴る。
もし、ルシファーと温室で出会う前に声をかけられていたら……。彼女の妹になっている想像に難しくない。
「どうです? 今からでも遅くはありません。ルシファーさんと姉妹関係を解消して、私の妹になりませんか……?」
ルシファーと姉妹解消。イメージした瞬間に浮かんだ言葉は“嫌だ”。まだ彼女がどういう人物なのかも分からないが、一目惚れなのだ。許される限りそばにいたい。
迫る美しい顔に心臓が痛いほどに脈打つが、目を軽く伏せるとその申し出を断った。
「すみません……。今はまだルシファーお姉さまと一緒にいたい、です」
「……そうですか。残念ですが、もし気が変わったらいつでも私のところに来てください。歓迎しますよ。では、これで」
顔を離したヴィーラは軽く会釈すると行ってしまった。ジータもなんだか疲れてしまい、三年生の教室を覗くことなくそのまま寮へと帰宅した。
***
次の日。ベリアルからルシファーの世話を託されたジータは彼に教わったとおりにしたが、いざ寮の部屋に戻ってみると食事が乗っていたトレイは片付けられていたものの、テーブルに残されたままのカップには並々と黒い飲み物が残っていた。この量ならば一口飲んで終了だろう。
昨日の朝見たときの珈琲は色からしてミルクが入っている様子はなく、ブラック派かと思ったが違うのかもしれない。
そもそも直接好みを聞けばいいのでは? と思うかもしれないが、彼女は無反応で答えなど返ってこない。
次の日はシュガーポットやポーションタイプのクリームなどを一緒に出してみたが、やはり一口で終わってしまった。自分で好みの味に変えられるように出した一式にも手を付けられた痕跡はなかった。
もしや珈琲の味自体に問題が? と思い、飲んでみるも特に不味いというわけではない。
いや、ずっとベリアルが彼女の珈琲を淹れていたのだ。彼にしか出せない味というものがあるのかもしれないと、ジータは時間を見つけてはベリアルの元に足繁く通った。
ここからはもう意地だ。なんとかして飲み干させたい。くじけずに毎朝珈琲を出しては一口で終わるを繰り返し、それなりに美味しい珈琲を出せるまでになった。しかし。
「やっぱりベリアル先生の珈琲じゃないと駄目なのかも……」
放課後。学園の広大な敷地のところどころに設置されているベンチの一つに座るのはジータだ。意地とは言ったものの、こうもずっと完飲されないというのは正直つらいものがある。
「キミはよくやっているよ。実際、味もかなり上達したしね」
その隣に座り、長い脚を組んでいるのはベリアルだ。自信を失くしているジータに対して励ましの言葉を送るも、彼女の気分は沈んだまま。
「それでもベリアル先生の淹れた珈琲には敵いません……」
彼の淹れた珈琲を飲んだことがあるが、まるで専門店、プロの味だった。とてもではないがそのレベルまで到達できそうにない。
「先生、なにかコツがあるんですか? もしあるなら教えていただきたいです」
「コツねぇ……。“愛”かな」
「愛……」
「想像してみて。未来の旦那様に愛を込めて珈琲を淹れる自分を」
言われて、想像が──できなかった。それには理由がある。
「先生、私……許婚がいるんです」
目線を膝で握られている手に向ける。
ジータには顔も名前も知らない許婚がいた。ただ、自分の家よりかもずっとお金持ちの家。これだけならば政略結婚かと思いきや、そうではない。
父親同士が幼馴染みで子どもの頃から非常に仲がよく、もし自分の子どもが異性同士だったら結婚させようと言っていたらしい。それが実現した。
母は気にしなくていいと言っているが、小さい頃から許婚のことは聞いていたため、いつか自分はその人のお嫁さんになるんだと漠然と思っていた。
ルシファーに出会う前、は。
今まで誰かに特別な感情を向けたことはない。それは自分にはもう結婚相手がいるからと思っていたから。しかし。
彼女と出会ってしまった。しかも一目惚れ。体中に電撃が走った。この世にこんなにも美しい人がいるなんて、と。
この気持ちが女学園という特殊な環境だからとは思いたくない。
「顔も名前も知りません。ただ、私より少し年上の男性としか。……ちょうどお姉さまくらいかと」
「その許婚とはココを卒業したら?」
「すぐ結婚……かは分かりませんけど、会う約束はしています」
「そう……。まぁでも、今はファーさんのことだけを考えればいい。キミのお姉さまなんだから」
「……それもそうですね。未来のことを考えてクヨクヨするより、お姉さまのことを考えていたいし。ところで……先生って好きな人がいるんですか? 愛する人に淹れるのを想像しながら、お姉さまに淹れてるんですよね?」
「ん〜? もちろん。オレはファーさんを愛してる。つまりキミとはライバルってことさ」
「えっ……えええっ!? 先生ってお姉さまの執事ですよね……? えと、その、一人の人間として彼女を……?」
反射的に大声を出してしまい、ジータは慌てて口を手で押さえた。周りを確認すれば幸いなことに誰もいない。もし誰かに──特に上級生に見られていたら後で注意されるかもしれない、はしたない行為なのだから。
まさかベリアルがルシファーに特別な想いを抱いているとは思わなかった。執事とはいえ人間。主人に恋愛感情を抱かないとは言い切れない。
デリケートな内容に自然と声も絞られ、ひそひそとベリアルに聞くも、彼はお得意のアルカイックスマイルを向けると去ってしまった。
「うそぉ……」
強すぎるライバルの登場に、めまいがするような気がした。
***
(今日も駄目だったなぁ……)
ルシファーとの生活も一週間が過ぎた頃。今朝も淹れてみたが駄目だった。どういう味が好みなのか聞いても相変わらず答えてくれず、なにがお気に召さないのかサッパリ。
放課後。とぼとぼと廊下を歩いていると不意に人の気配を感じ、顔を上げるとそこには先日絡んできた上級生のお姉さまたち。
嫌な予感がし、肌がピリピリと焦げていく感覚。
「ごきげんよう、ジータさん。少し、よろしくて?」
周りを見てもルシファーやベリアル、ヴィーラの姿はない。逃げればいいとは思うが、足が言うことをきかず。
「大事なお話がありますの」
表情は全員にこやかなのでジータ以外の誰も不穏な空気を感じ取ることはなく、それぞれの目的のためにジータの横を通り過ぎていく。
動けないでいると片手をとられ、強制的に連れて行かれる。多勢に無勢。ジータは恐怖を感じながらも着いて行くしかなかった。
「あれは……」
ジータがいる階よりも上の窓から見つめるのはヴィーラだった。今から向かえば助けられるとは思うが、いつまでも自分が面倒を見るわけにもいかない。
数秒思案したのち、ヴィーラは動き出す。
ジータの姉であるルシファーは同じクラス。先ほど教室を出る際にはまだいたのでもしかしたらと、来た道を戻っているとちょうど教室から出てきた銀髪の少女の横顔が見えた。
「ルシファーさん」
その背に呼び掛ければ、彼女は振り向く。美しい顔は無表情で氷のようだ。
「先ほど貴方の妹であるジータさんが貴方の過激なファンの方々に連れて行かれるのを見ました」
ぴくりとも動かぬ顔。寒空色の目からは“そんなことか”という感情が伝わってくる。まるで自らの妹に興味がないような。
どういった経緯でジータがルシファーの妹になったかは分からない。けれど姉ならば妹に危機が迫ったときには助けるのが当たり前とヴィーラは思い、また、自らの姉であったカタリナも騎士道を重んじる人物だったため、ルシファーの反応がとても冷たく感じる。
「……貴方が姉としての義務を果たさないのであれば、ジータさんとのスール関係を解消していただけませんか?」
わずかにひそめられる眉間。ヴィーラにとってのルシファーの認識は他人に興味がない人物だと思っていたので、この反応は少し意外。
「私、ジータさんのような可愛らしい方を妹にしたくてお誘いしたんですが断られてしまって。まだルシファーお姉さまと一緒にいたいと」
するとルシファーはふい、と体ごと顔を背けると行ってしまった。どんどん遠くなっていく背中を見て、ヴィーラは軽く息を吐く。微かに見えた瞳の揺らぎ。彼女は分かってくれたのだろうか。
どちらにしろ、ジータを助けに行かなければ。
「心配しなくても大丈夫」
「っ……!?」
振り返ったところでかけられた声にヴィーラの身に力が入る。いつからいたのか、背後にはすらりとした長身の男の姿。
ルシファーの執事であり、この学園の講師でもあるベリアル。白いシャツにタイトめな黒いパンツというシンプルな服装だが、神に愛されたその美貌によって女子の人気は断トツ。
だがヴィーラはベリアルが好きではない。表向きは爽やかなイケメンで通っているが、彼からは邪悪な獣の香りがしてならないのだ。
「ふふっ。驚くキミの顔も素敵だね? ヴィーラちゃん」
「盗み聞きですか? あまりいい趣味ではありませんね」
「相変わらずオレには冷たいねぇ。毛を逆立て威嚇する猫ちゃんのようでそれもソソるが……。ははっ、そんな怖い顔しないで。たまたま聞こえただけさ」
にこやかな笑みもヴィーラからすれば軽薄な笑み。見てくれだけは完璧だが、その裏の顔を知るのはこの学園にどれほどいるか。
美しい顔を険しいものへと変え、黙るヴィーラに対してベリアルは取り付く島のない様子にお手上げと言わんばかりに両肩を持ち上げ、すらりとした右手の中指で伊達眼鏡のブリッジを押し上げる。
この動作も彼に対して好印象を抱く者からすれば心を躍らせる動きの一つだが、ヴィーラの冷たい眼差しを変えることはできない。
廊下の窓から差し込む太陽の光が、眼鏡の奥に光る赤い目を一層輝かせる。
「あれでもファーさんなりにあの子のことは気にかけてるさ。ただ……キミも知るように基本他人に関心がない性格だから、まだ妹とどういうふうに接すればいいのか分からないだけ」
「……貴方の言葉、信じても?」
「信じて。と、言ってもキミはオレの言葉なんて信じないだろう? ……彼女が校舎裏に連れて行かれるのを見た。あとはキミの好きなように行動するといい」
軽く口角を上げながらそう言い残して、ベリアルは去っていく。嘘と真を綯い交ぜにして話す彼であるが、最後の言葉はさすがに真実だと思いたい。
ベリアルの言葉が事実ならばルシファーはジータを助けに向かったはず。しかし確実ではない。ヴィーラは迷った末に彼女なりの行動を取るのだった。
***
「先日はヴィーラさまの介入によって話が途中で終わってしまいましたが……。今回も助けが来るとは思わないことです」
「…………」
ジータは現在ルシファーのファンである上級生たちに連れられて校舎裏のひと気のない場所にいた。背後には校舎の壁。目の前にはジータに対して妬みの感情を宿らせる少女たち。
「ジータさん。率直に申し上げます。ルシファーさまの妹をやめていただけませんか?」
「っ……!」
そう言われるとは前回の様子からして分かっていた。しかしここで分かりましたと引き下がるわけにはいかない。まだルシファーのそばにいたい。彼女自身に言われたら大人しくその決定に従うが、他人に言われて言うとおりにするほどジータは物静かな性格ではなかった。
一人に対して数人。しかも上級生ということで怖いという感情もあるが、勇気を振り絞り、ジータは自分の考えを述べることに。
「お……お断りします。ルシファーお姉さまが言うならまだしも、お姉さま方に言われてスール解消なんて……私を選んでくださったルシファーお姉さまに失礼です」
ジータの言葉に分かりやすく場の空気に怒気が加わる。正直今すぐにでも逃げ出してしまいたい。けれどここで逃げたらなにも解決しないと、ジータは震えそうになる体に鞭を打ち、胸を張って主張する。
「ルシファーお姉さまの妹は、私です」
しっかりと相手の目を見て告げれば、ジータと会話をしていた少女の目は憎悪に見開かれ、美しい顔を怒りに歪ませながら心を支配する衝動に任せて片手を振り上げる。ジータも叩かれるのが分かり、反射的に目を閉じたが、やってきたのは痛みではなく少女の小さな悲鳴。
どよめきが広がり、なにが起きたのかと恐る恐る開眼すれば眼前にいたのは白銀の美少女。その傍らに倒れ込むのは平手打ちをしようとしていた生徒。
「ルシファー、さまっ……?」
「…………」
涙目になって見上げる女生徒に対し、ルシファーは凍てつく視線を向ける。冬を連想させる色の瞳からは静かな怒りが発せられ、眼力で人を殺せてしまいそうな……。
あまりの恐怖に少女は動けなくなってしまう。ジータも目の前で起きていることに頭がついていかず、ただ見ているだけ。
「お姉さま……? きゃっ、」
ルシファーは呆然と立ち尽くすジータの右手首を掴むと、なんの反応も見せぬまま歩き出すではないか。見た目の華奢さとは裏腹な強い力にジータはぐいぐいと引っ張られるばかり。
残された者たちは嵐のような出来事に全員唖然としていたが、弾かれたように我に返ると地面に座り込む少女を立たせてやり、気遣いの言葉をかけるも肝心の本人は憧れのルシファーにいきなり突き飛ばされたことにショックを受けているようだ。その目からは小さな雫が幾つも零れ落ち、肌を濡らす。
「貴方たちもこれで懲りたでしょう」
「ヴィーラさま……!」
ルシファーたちが去ったところで木の陰から現れた生徒会長に全員の表情が青くなる。それもそうだ。一度お叱りを受けたというのにそれを無視して再びジータに接触したのだから。
「ルシファーさんは他人に興味を持たない性格。その彼女が興味を持った人物に危害を加えようとすればどうなるかは、さすがに理解したようですね」
黙り込む少女たちにヴィーラは淡々と続ける。
「貴方たちは知らないかもしれませんが、ルシファーさんが一年生の頃……あの性格です。上級生の反感を買って──どうなったと思いますか?」
ざわつく少女たち。互いの顔を見合わせるばかりで答えは出そうにない。ヴィーラはそれを承知の上で言葉を紡ぐ。
「その生徒は自主退学なさいました。なんでもご実家が大変なことになったそうで。今までそんな気配すらなかったというのに、ルシファーさんに絡んだ途端に……。証拠がないので彼女がなにかをしたとは言い切れませんが、少なくともルシファーさんの怒りを買うことはおやめになったほうが宜しいかと」
──無事卒業したいのなら。
直接口にされたわけではないのに、ヴィーラの言葉にはそう感じさせるほどの圧があった。少女たちはようやく自分たちが大変な過ちを犯してしまったと表情を青くするのを傍目にヴィーラは踵を返す。
「薔薇に棘ありと言います。彼女の場合、棘どころでは済みませんが」
遠くで見る分にはいいが、一度でも触れるとこちらが傷ついてしまう。
今回のことはきっと他の過激なファンにも広がるはず。これで少しはジータに嫌がらせをしようと考える者たちが減ればいいのだが……。
(ルシファーさんなりに、ジータさんのことを想ってはいるのですね)
靴が地面を踏む乾いた音を鳴らしながら校舎への道を戻るヴィーラ。いくらベリアルが大丈夫と言っていても不安なものは不安。なので急いでジータがいるであろう場所へと向かったのだが、ルシファーの姿が見えたので近くの木に隠れて様子を伺っていたのだ。
結果としてヴィーラが出る幕はなかった。ルシファーのやり方は少々乱暴だが、彼女たちにお灸を据えるという意味で今回は目をつむることに。
まだ姉妹になったばかりの二人。これから彼女たちがどんな道を共に歩んでいくのか、それを見届けようという気持ちが自然と湧き上がってくる。
(……それでも、ジータさんを諦めたわけではありませんが)
***
ルシファーに腕を掴まれたままのジータは行き交う生徒たちの好奇の目に耐えながら、ようやく寮の部屋へと帰ってきた。
ほのかに残る珈琲の香りは緊張状態を保ったままだったジータの精神を優しくほどいていく。他人からの妬み嫉みの感情を受けるのは初めてで、とても怖いと感じた。憧れの人の一番近い場所にいるだけでこんなにも辛い思いをするなんて。
それでも、この痛みを受け入れた上でもなお、ルシファーのそばにいたい。彼女が許してくれる限り。
ジータの手首を掴んでいた手が離れ、ルシファーがこちら側を向く。意外としっかりとした手の感触を少し寂しく思いながらも、大好きな姉の顔を見たことで鼻の奥がツン、としてくる。
ずっと我慢していた涙腺が崩壊し、夕日を反射して輝くブラウンの目からは大粒の涙が次々と零れた。
「ルシファーお姉さま……うぅっ、お姉さまぁっ……!」
その薄い胸へと飛び込めば、ルシファーという存在にぴったりな清潔な香りがジータを包み込む。それがまた安心感を与え、涙の量を増やしてしまう。
抱きつき、小さな子どものように泣くジータに対して最初こそ戸惑い顔をしていたルシファーだが、彼女なりに思うところがあったのか手を添える程度ながらもジータの背中を抱く。
「っぐ……ひっぐ、お姉さまが来てくれなかったら、私っ……」
「…………」
当然ルシファーからアクションは返ってこない。それでもこうして抱きつき、弱音を吐露することを許してくれるだけでジータは救われていた。
こんなにも泣くのはいつ振りか。声を押し殺しながら感情を吐き出す自分を黙って受け止めてくれるルシファーは大きな大きな湖のように思える。
顔を押し付けている部分の制服がじっとりと湿る頃、徐々に落ち着きを取り戻してきたジータがようやく顔を上げると、ルシファーと視線が交差する。
相変わらずの無表情ながらも、あの女生徒に向けていた怖い目が嘘のように今は静けさに満ちており、どこまでも透き通った青からは優しさも感じられた。
「ルシファーお姉さま……」
「…………」
「わっ……! お、お姉さま……?」
ルシファーは眉ひとつ動かすことなくジータの手を取るとソファーへと向かう。いきなりの行動に動揺しているジータの両肩に手を置き、力を加えるとジータの体は上質なクッションへと沈む。
頭上に疑問符を浮かべているジータを置いてルシファーはキッチンがある方向へと消えていく。
ルシファーがなにを思い、行動に移ったのかは分からないがとりあえずそのまましばらく待っていると、片手にカップの載ったソーサーを持つルシファーが戻ってきた。
純白に金色のラインが入ってる受け皿とカップ。黒々とした飲み物は薫り高く、ジータは無意識の内に大きく息を吸い込む。
鼻を通り抜ける爽やかな香り。まさかお姉さまが淹れてくれるなんて……と、ジータの頬はすっかりと和らぎ、優しい気持ちに満ちたまま一口飲めば。
(んんッ!?)
口内に広がる激烈な甘さに思わずむせてしまいそうになったが、なんとか堪える。
(味は私が淹れるのと同じだと思うけど、なるほど、この甘さが……)
なんとか口の中に存在する液体を飲み込み、ルシファーがいつも一口で飲むのを終えていた理由をジータは理解した。自分の淹れる珈琲はここまで甘くない。
足りなかったのは、きっと信じられないくらいの甘さ。いったい角砂糖を何個入れているのか。体に悪いのでは? と思うほどの甘味に内心苦笑いするも、こちらから好みの味を聞いても無反応の極みだったルシファーが自ら振る舞ってくれたことで、彼女の味を知ることができた。
「ありがとうございます。ルシファーお姉さま」
向かい側に設置されているソファーで読書をするルシファーに言えば、一瞬だけ視線をジータの方に向け、再びその目は文字の羅列へと戻る。
数秒のやり取りでもジータは嬉しく思い、ルシファーへの愛情をまた一つ深めるのだった。
──それから数日後。ジータは放課後、広大な敷地の中に幾つか設置されているベンチに、いつかと同じようにベリアルと隣同士に座って会話を交わしていた。
「もう。どうしてお姉さまがものすごく甘い珈琲が好きだと教えてくれなかったんですか」
例の一件でルシファーの珈琲の好みを知ったジータはさっそく次の日に角砂糖を何個も入れた激甘珈琲を出したところ、ルシファーはようやく完飲してくれたのだ。
味ではなく、砂糖の問題だったと知ったときは正直ガックリとくるものがあったが、密かに想いを寄せる人の好みをひとつ知れたことは喜ぶべきことだと気を持ち直し、今では砂糖がたっぷりと入った珈琲を毎日出している。……体に悪いのでは? と思いつつ。
それよりも意地悪なのはベリアルだ。真剣に悩んでいたことを知る男に対して口を尖らせながらなじれば、彼は片手を口元に当ててクスクスと笑いだす。
「手取り足取りは結構です〜って言ったのはキミだぜ? にしても……あのファーさんが自ら珈琲を淹れてあげるだなんて」
「そんなに珍しいことなんですか?」
「あの人は興味のないことに関してはとことん興味がないからねぇ。それは人でも同じ。そのファーさんが自らの労力を使って他人になにかをする。少なくともオレは見たことがないね」
彼の言葉は単純にルシファーと過ごした重み──年数を感じられて、ジータは羨ましく思う。自分の知らないルシファーの顔をたくさん知っている。そして、ここを卒業した後も彼女のそばにいられる。
対して自分はどうだ。彼女の隣にいられるのはたった一年。彼女の卒業まで。さらには顔も名前も知らない許婚もいる。そう簡単には諦められないが、相手が悪過ぎる。
「……ベリアル先生は本当にお姉さまことを愛していらっしゃるんですね」
「もちろん。あの人はオレのメシア。だけどファーさんはオレに興味を持ってないよ」
そう呟くベリアルの言の葉は寂しいものだが、その横顔はどこか嬉しそうで。ルシファーもそうだが、ベリアルのことも分からないとジータは内心ため息ひとつ。
そんな悩みを抱えていても、まるで些末だと言うように今日も頭上にはいつもと変わらぬ清々しい青空が広がっているのだった。