ハレマエ

 どこまでも澄み渡る空。頬を撫でる穏やかな風。
 ここはグランサイファーの甲板。柔らかそうな茶髪が風の流れに沿って流れる。この少年の名前はグランといい、今は一人でのんびりと気分転換中。
 次の目的地まであと少し。街についたらなにをしようか、なんて考えていると半身である蒼の少女、ルリアの姿を見つけた。
 グランと離れた場所にいる彼女。ルリアも気分転換に来たのだろうか? 想像していると、彼女に声をかける人物。
「ねえルリア! ハレマエしよっ!」
「わっ! ジータ、驚かせないでください〜! ハレマエですか? いいですよ」
 ルリアに声をかけたのは金髪の少女だった。彼女の名前はジータ。グランの姉でこの団の副団長だ。グランはジータの言葉に最近団内の女性たちの間で流行っている挨拶を思い出す。
 ハレマエ。ネモネとメルゥの故郷クフアの伝統的な挨拶で鼻先をくっつけるというもの。グランも初めてされたときはそれはそれは驚き、赤面もした。
 勇敢な騎空士である彼もまだ十五歳の健全な男の子なのだ。
 それからは少しずつ団内に広がっていき、今ではハレマエが当たり前になっている。しかししているのは女性同士ばかり。もともと女性のほうがスキンシップが過激だからかもしれない。
 ジータもその中の一人。色んな同性の団員たちとハレマエという触れ合いを楽しんでいた。
 ルリアを見つけたジータは早速ハレマエをしようと提案し、ルリアも頷く。彼女たちは普段から仲がよく、ハレマエを一日に一回は必ずしていた。
 恥ずかしいのかルリアは目を閉じ、鼻を突き出す。ジータはその様子に可愛いと思っているのか、頬を緩ませると顔を近づかせる──と。
「きゃっ!」
「はわっ!?」
 横薙ぎの一陣の風が吹き抜け、重なるのは鼻ではなくて少女の唇同士。グランはその光景を目にすると慌てて物陰に隠れた。隠れる必要はないのだが、反射的に行動してしまった。
 なんだか男の自分が見てはいけないような気がして……。
 ドクドクと心臓がうるさい。見るぶんには鼻同士をくっつけるハレマエを可愛らしい……なんて思っていたが、それが唇に変わっただけでここまで違うとは。
 息を殺して気配を最大限まで消しつつも、彼女たちが気になって仕方のないグランはそっと、顔を出す。バレないように気をつけながら様子を伺えば、互いに俯き赤面していた。
 やがてジータが「ご、ごめんね、ルリア!」と一気に口にすると逃げ出し、一人残されたルリアはそのあまりの速さに言葉を失っていたが、細い指で唇を撫でるとどこか嬉しそうに微笑むではないか。
 火照った頬に喜悦に満ちた表情は、誰が見ても恋する乙女の顔で……。
 グランは再び身を隠し、物を背にして己の胸に手を当てた。自分がされたわけではないのに変に意識してしまう。
 ルリアと命のリンクで繋がっているからだろうか。
「やあ特異点。少女たちの淡い恋心はいつ見ても美しいな」
「わぁっ!? べ、ベリアル!? いつの間に!」
 完全に自分の世界に入り込んでいたグランを呼び戻したのは甘く蕩けるような声。反射的に顔を上げれば、そこには暗い茶髪を逆立てた黒ずくめの男の姿。
 体に纏う紫のファーストールが風に揺らめき、彼から香る香水がグランの鼻腔を蕩かす。
 顔もよし、体もよし、声もよしのこの男は本来であればグランたちの敵のはずなのだが、こうしてちょっかいを出しに艇にやって来るのはもう何十回目か。正確な回数も思い出せない。
 仲間であるサンダルフォンがいるときは最悪だ。全力で止めなければ艇が沈むのではないかと思うほどの騒ぎになる。
 一度本当にそうなりかけ、グランとジータに烈火の如く怒られてからは彼なりに多少思うところがあったのか、サンダルフォンがいないときに来ていた。
 そして、今日も。
 ベリアルの登場にグランは慌てて周りを見る。どうやらルリアも艇内に戻ったようで甲板には二人きりのようだ。もう慣れたとはいえ、ベリアルのことを快く思わない団員などザラにいる。余計な騒ぎは起こしたくない。
 ホッとすると気を引き締め、改めてベリアルを見る。この男はルリアたちの関係を美しいと言った。それはグランも同意だが、この男は不埒。純粋にそう思っているわけがない。
 ベリアルもグランの考えていることがなんとなく分かったのか、やれやれと肩を竦めた。
「オレにも花を愛でる趣味はあるんだぜ? これでも花屋をしていたこともあってね」
「嘘つき」
「ああ、もちろん嘘だ。だがいつの時代も咲き始めの赤い花や白い花を見るのは結構好きでね。邪魔をしたくなるときもある」
 ベリアルがなにを言っているのかよく分からないが、最後の言葉を聞いたグランの顔は険しいものへと変わる。姉さんとルリアの邪魔をするのは許さない。健気な弟の表情だ。
 身長差からグランを見下ろすベリアルは突き上げるような鋭い視線に体を意味深にぶるりと震わせると、グランを閉じ込めるように彼の顔の横に両手をつく。
 嫌な予感を察知したグランは逃げようとするが、背後には物の壁。左右にはベリアルの腕。完全に閉じ込められてしまった。
 ベリアルが腰を折って顔を近づけてくる。一体なにをしようというのだと脳内では警鐘がけたたましく鳴り響くが、グランの意識は目の前の眉目清秀に釘付けになる。
 星の民ルシファーの作品である彼。他の天司もみな容姿が整っているが、その中でも彼が一番美しいとグランは密かに思っていた。
 この男は敵だ。いつかまた終末をもたらすために動き出すだろう。残酷な性格の酷い男。それなのに。
(綺麗な、目……)
 冷たく輝く二つの洋紅色。こんなに至近距離で見たことはなく、あまりの美しさにグランの意識は完全にベリアルのものへと変わる。
 息をするのも忘れ、上の空でただ見つめていると、ベリアルは止まることなく顔をどんどん近づけてくる。
 このままキス……されるのだろうか。腕を前に突き出せば止められるのに体は動かない。
「ハレマエ」
 ちょん、と鼻先をくっつけられ、グランは夢見心地の表情からハッとして我に返る。
 なぜか期待を裏切られたような気持ちを胸に抱えていることに気づいたグランは額からつぅ、と汗を流すと、ベリアルを思い切り突き飛ばした。
「いきなりなにするんだよっ!」
「ナニって、ただの挨拶だろ? キミの団の女のコたちの間で流行ってる。さっきキミのお姉サンもしてたじゃないか」
 ──それとも、違うことを期待していた?
 少年の心を見透かしたようなニヤついた笑みを浮かべるベリアルに、グランの体が一気に熱くなる。
 彼の言葉のとおりだ。自分は別のことを期待してしまった。それを認めるのが悔しくてグランは言い返そうとするが、なにも言葉が浮かんでこない。
 金魚のように口をパクパクさせるばかりの彼は最終的には姉のジータと同じように顔を赤くさせ、この場から逃げ出してしまった。
 取り残されたベリアルは小さくなっていくグランの背を見て喉奥で笑うと、ぽつりと呟く。
「言っただろ? 花を愛でる趣味があるって。キミという花を愛でてみるのも面白い」
 機嫌よさげに口にすると、ベリアルは漆黒の羽を広げて空へと舞う。
 次は、どんなふうに愛でてやろうか。

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