姉さんが連れてきたのは、元・狡知の堕天司でした。

「んなっ……!」
「……へえ」
「あれ? もしかして二人とも知り合いだったりする?」
 都内の某マンションの一室にて。グランは姉であるジータが連れてきた男に言葉を失った。
 ──紹介したい人がいるの。
 そうジータに言われたのはちょうど一週間前。両親を早くに亡くしてしまったグランはたった一人の家族が将来、もしかしたら自分の兄になるかもしれない人を連れてくるということに緊張した面持ちで待っていた。
 それなのに、現れた男がまさかすぎる人物で。けれどどこか運命めいたものを感じ、口内に溜まっていた唾を音を鳴らして飲み込んだ。
 シンプルな格好に身を包んだ長身の男も、グランの姿を見ると片眉を上げた。この場できょとんとしているのはジータだけだ。
 もしかして知り合い? とカジュアルな服装をしたジータは二人を交互に見つめると、さらに言葉を紡ごうとリップが艶めく唇を開こうとしたが、場の雰囲気を壊すように鳴り響く着信音に慌てて鞄からスマホを取り出した。
 画面に表示されている名前に嫌な予感がしたジータはグランたちに一言断ってからリビングを離れ、玄関のほうに向かうとなにやら話し込む。残された男たちはそれぞれの反応を表情として表に出す。
 グランは困惑を、ダークブラウンの髪を逆立てている綺麗な顔をした男は優雅さを感じさせる笑みを浮かべる。
「お前……記憶があるのか……?」
「そういうキミこそ。弟がいるというのは彼女から聞いていたが……まさかこの世界でも姉弟とは。双子ではないようだが」
 ピンと張る緊張の糸。グランは己の口の中が急速に乾いていくのを感じていた。この世界にもし神様がいるならば、なんて残酷なんだと。
「──ベリアル」
 昔年と同じ血赤珊瑚の瞳を見てグランは男の名前を呟く。その脳裏に浮かぶのはかつての──前世の記憶。はっきりと覚えている空の記憶。その中にベリアルの姿があった。
 堕天司ベリアル。最低最悪の下劣な男。造物主ルシファーとともに終末をもたらそうとした男。だが次元の狭間に吸い込まれてからはグランが死ぬまで出てくることはなかった。
 そのあとのことは分からない。なにしろグランは死んでいるのだから。
「ごめん、ベリアル。会社から呼び出しがあって今から行かなきゃならなくて……また改めて紹介するね」
「せっかくの休日なのに大変だね。そうだ。弟くんと話をしていってもいいかな? 知らない仲じゃないし」
「そうだったの。なんだか拍子抜けしちゃった。うん。いいよ。グランもいいよね?」
「えっ!? ま、まあ……」
「じゃあ私、行くね」
 戻ってきたジータは若干疲れたような顔で呼び出しの件を話し、ベリアルはここに残ってグランと話したいと返せばすぐに了承した。一応の確認でグランに振れば、彼は頷くしかない。
 玄関の扉の開閉音が聞こえ、本当の意味で二人きりになってしまうと、グランはため息をついた。
 とりあえずこのまま立って話をするのも難だ。ベリアルにテーブルにつくように促すとグランはキッチンへ。
 棚からカップとスティックタイプのインスタントコーヒーを二つずつ手にすると、慣れた手付きでコーヒーを淹れていく。
 粉を入れたマグカップにウォーターサーバーのお湯を入れてスプーンで掻き混ぜれば完成だ。宿世すくせで仲間だった天司長がよく淹れてくれたモノとは比べるのもおこがましいが、それなりに香ばしい匂いを漂わせるカップの一つをベリアルの前に置き、向かい合う位置にグランは座った。
 手の中にある焦げ茶の液体に映る自分の顔はどこか不安げで……。グランは振り払うようにコーヒーを口にすると、おずおずと話しだした。
「まず……この世界で僕はまた姉さんの弟になれた。年は離れているけど。……両親はいない。僕が中学生の頃に事故で亡くなってしまったから。それからは親代わりのように姉さんが色々心配してくれて……」
「なるほどね。この世界でもお姉さんはキミのことが大切でたまらないらしい」
 現在グランは高校生。本当は少しでも家計の助けになればと思ってバイトをしようとしたが、ジータに勉強のほうが大事だからと止められている。
 なので将来少しでも彼女に──前世分を含めた恩返しができればといいなと心に誓う彼の学校での成績は、常にトップクラスだ。
「お前は? どうやって姉さんと知り合ったの」
「オレね。別に大きなきっかけはないよ。仕事の付き合いで知り合って、自然と。声をかけたのはこっちからだけどね。フフッ、あんなに熱く殺し絡み合ったのにまさか記憶がないなんてな。それより……笑えるだろ? このオレが人間の腹から産まれたんだぜ? せめてファーさんが産んでくれたらよかったんだが……」
「そういえばルシファーは?」
 生まれ変わってもなお、崇拝し続ける堕天司の王。
 ベリアルがいるのだ。彼がいてもおかしくないと考えたグランはその名を口にするも、ベリアルは彼らしくない、寂寥せきりょう感が宿る目をして首を横に振った。どうやらまだ出会えてないらしい。
 現にグランもかつての仲間とは巡り会えていない。一部の仲間は過去の偉人として歴史に名前を刻んではいるが……。
 この広い空で蒼穹の記憶を持つ者と直接話すのはベリアルが初めてだ。
「ベリアル。お前は姉さんを本気で愛しているのか? 面白がってのただのお遊びなら……僕はお前を許せそうにない」
「ほう?」
「僕の記憶だと、お前とルシファーは僕が死ぬまで次元の狭間からは出られなかった。そんなお前は知らないかもしれないけど姉さんは──最期までお前を想って死んだんだ。僕以外に誰にもその想いを言葉にすることなく、墓まで持って逝った……」
 今でも鮮明に思い出すことができる。世界の敵である堕天司を愛してしまったと……涙ながらに謝罪するジータの姿を。あのときほどやるせない気持ちになったことはない。
 なぜなのだと。彼よりも素晴らしい人格を持ち、真っ直ぐで清らかな愛をくれる人などたくさんいるのに。なぜ──あの男を選んでしまったのかと。
「姉さんは生涯誰とも結婚することなく、体が動かなくなるそのときまで騎空士として空を旅して……最期は仲間たちに看取られながら、安らかに……」
 決して叶わぬ恋だと分かった上でジータはベリアルを想い続け、眠るように息を引き取った。
 それを覚えているからこそ、グランはせめてこの世界ではジータに幸せになってほしいと思っていた。心優しい人と結ばれ、あの空で彼女が得られなかった愛に包まれてほしいと。
 それなのに。
「神っていうヤツが憎いよ。心底ね。いるのならこの手で殺してやりたい」
「キミ、ファーさんみたいなことを言うんだな」
「笑いごとじゃない!」
 在りし日の男と同じく飄々としているベリアルに激昂したグランはテーブルを両手で思い切り叩き、その衝撃でコップの中の水面が揺れた。
 立ち上がったグランの目は怒りに満ちていて、普段温厚な彼とは思えないほどに血走っている。
「頼むっ……頼むからぁっ……! 姉さんのことを想ってないならっ、別れてくれ……! あの空のしがらみから解放された姉さんには今度こそ……今度こそ幸せになってほしいんだよっ!」
 真っ赤に潤んだブラウンの目からはぽろぽろと雫がこぼれ、卓に水滴を作る。グランの必死の思いに一瞬だけ瞠目したベリアルだが、すぐにお得意の笑みを浮かべると彼の頭を優しく撫でた。
「落ち着きなよ、特異点」
「……僕はもう特異点じゃない」
「ハイハイ、じゃあグラン」
「なんだよっ……!」
 弟を慰める兄のような手付きにグランは心がそわそわするのを感じながら椅子に座り直した。口を尖らせ、ぶっきらぼうに吐き捨てれば大きな手は戻っていく。
「彼女のことは──いいオンナだと思うよ。そこら辺の有象無象よりかずっとね。……人間に堕ちた影響かねぇ。オレにもヒトのような感情が芽生えたらしい」
「は……?」
 ベリアルの言葉の真意が読み取れず、グランは訝しげな視線を向ける。
「そんなに見つめるなよ、ぼっ」
「言わせないぞ! というか姉さんの前で下品なこと言ってないだろうな!?」
「安心しなよ……。これでも彼女に捨てられたくないからイイ子ちゃんでいるんだぜ? ハァ、人間ってモンは厄介極まりないな。こんなにも感情を乱されるなんて」
 星晶獣だった頃と同じく卑猥な言葉を口にしようとしたベリアルを咎めると、彼は大げさに息を吐く。
 その言葉と様子にグランの心がほんの少しの希望を持ってしまう。早くその先の言葉を言ってくれ──!
「彼女が他の男と楽しげに話しているとイライラするし、いつも独り占めしたくなる。腕の中に捕えて、甘言を囁いてもすぐに抜け出してしまう。他のヤツらは堕ちる一方なのにジータだけは堕ちてくれない。ファーさん以外でオレを乱すのは彼女くらいだよ」
 頬杖をつき、天井を見つめながら吐き出す言葉はベリアルらしくない言葉だが、グランにとっては希望の種が少しずつ実にとして膨らんでいく言の葉。
 だがまだ喜べない。この男は狡知を司っていた。もうその役割はないとしても油断はできない。
「つまり……なんだよ」
「キミたちと“家族”ってやつになるのも悪くない」
 まさかこの男からこのような言葉が出てくるとは思わなかった。彼が言うようにヒトに堕とされたせいなのか。
 グランはベリアルの瞳を見つめる。二つの猩々緋しょうじょうひはグランのアンバーと重なり、ずっと見ていると魅了されてしまいそうになる。彼はもうそんな力は持ってないというのに。
 人間に堕ちても人を惹きつけてやまない宝石からはウソとマコトを見極めることはできない。が。
「……姉さんを悲しませたら殺してやる」
 今の彼は人間。簡単に死んでしまうだろう。もし姉さんを悲しませるようなことをしたら自分の手で直接始末してやる。そう自分に言い聞かせるようにして、グランはベリアルを信じてみることにした。
「弟くんは怖いねぇ。まあ、これからよろしく頼むよグラン。あっ、そうだ。オレのことは“お兄ちゃん”って呼んでいいぜ」
「誰が呼ぶかーっ!」