ベリジタ前提サンジタ

「オレが払うから先に車に行っていてくれ。くれぐれも足元には気をつけるように」
「ふふっ。本当に心配性なんだからベリアルは。じゃあ店長、また来ますね」
「ああ。また……」
 店を出ていくジータの背を二人で見送ったところで互いに向かい合う。その顔は今までの和やかな雰囲気とは正反対のもの。サンダルフォンはベリアルに嫌悪の眼差しを向けるも、ベリアルが気にしている様子はない。
 逆に人の感情を逆撫でする笑みを貼り付けており、サンダルフォンの眉間には縦筋が何本も刻まれる。
「彼女に近づいてなんのつもりだ……! 子供まで……!」
「キミは──考えたことがあるかい? なぜこの世界には救世主メシアがいないのか」
「は……?」
「この世に生を受けて数十年。ずっと探し続けた。きっとどこかにいるはずだ。そんなわずかな可能性を信じて。……でもいないんだよ。この世界には、ファーさんがいないんだ」
 まさか新たな命としてこの世に生まれてもなお、ルシファーを求めるのか。ベリアルのルシファーへの忠誠心は言葉では言い表せないほどのもの。
 彼が言いたいことはサンダルフォンにも分かった。ベリアルがルシファーに出会えないように、サンダルフォンもルシフェルには会えないでいた。さらに言えばジータ以外のかつての仲間たちにも。
 そのジータも空の記憶はなく、一人の人間として全く新しい人生を歩んでいる。団長や特異点などの、彼女を縛り付けるものはなにもない。
 蒼茫の記憶を共有できない寂しさはあったが、ジータの幸せを一人の男として願っていた。それなのに……よりにもよってこの男の毒牙にかかってしまうなんて。
 目を半分ほど伏せ、どこか虚無感を漂わせるベリアルであるが、次の瞬間にはその双眸を鋭く光らせ、悪辣な笑い声を上げた。
「クッ……ハハハハハッ……! そんなときに彼女を見つけた。運命なんてものは信じないが、あのときだけは信じてもいいと思ったものだ」
「貴様はなにを考えて……まさか」
「フフフ……キミも一度は考えたことがあるんじゃないか? いないのなら、産ませればいい。きっと特異点ならファーさんを産んでくれる」
 喜々として告げるベリアルにサンダルフォンは言葉を失う。この男は狂っているのかと。どうしてそんなことが考えられるのだろうか。
 ジータはジータではあるが、もう自分たちの知る彼女ではない。ただの命として今を生きる彼女になんて残酷なことを。
 ベリアルはジータを愛してなどいない。彼が求めるのはルシファーだけ。彼女のことはただの道具としか見ていない。そんな男の真の目的などジータが知るわけがなく。
 これから先の生活に胸を膨らませ、偽りの幸せだとも露知らず、ベリアルを生涯の伴侶だと信じているジータの心中が分かるからこそ、爆発的な怒りがサンダルフォンを支配した。
「このッ……下衆がッ! そんな理由のために彼女を利用するのか!? 彼女はお前のことを本当に愛しているんだぞ!? その気持ちを踏みにじるのか!?」
 カウンターから乗り出し、ベリアルの胸ぐらを掴んで激怒する。かつての世界では誰かと一緒になったりせず、最期のそのときまで騎空士でいた彼女。
 空の世界を何度も救った英雄になんたる仕打ち。このままでは彼女がベリアルに傷つけられるのではないか。ルシファーを産んでも産めなくても、彼女が本当の意味で幸せになれることはないのではないか──。
「そんなにカッカするなよサンディ。オレが幸せにできないのなら、キミが幸せにしてあげればいい。……彼女はファーさんを産んでもらったら放流する。そのあとはキミの好きにするといい。傷ついたオンナは堕としやすいぜ? ──キミも、ルシフェルを産んでもらえばいい」
 瞬間、サンダルフォンの目の前は真っ赤に染まった。
「ふざけるなァァッ!!」
 客のいない店内に鈍い音が響き渡る。サンダルフォンに殴られ、床に倒れたベリアルは口の中が切れたのか、口の端から血を流していた。
 それを指で拭うと不敵に笑いながら立ち上がり、軽く服の汚れを落とすと痛みを感じていない様子で財布から一万円札を取り出し、静かにトレーに置いた。
「珈琲、ご馳走様。美味しかったよ」
 踵を返してドアに向かうベリアルは手をひらひらさせ、出て行ってしまった。サンダルフォンはというと、人間の人生で初めての凄まじいまでの怒りに荒い呼吸を繰り返し、緋色の瞳に憎しみの色を滲ませていた。
『──キミも、ルシフェルを産んでもらえばいい』
 ベリアルの言葉が脳内に繰り返し浮かぶ。
 最低だ。そう強く思うが、サンダルフォンにとってもそれは強烈なまでの誘惑。
 もし、ルシフェル様に再び出逢えるのなら。
「くそっ……! クソッ……! 俺はっ……!」
 どんな形であれ、それが叶うならば。
 手を伸ばしそうになってしまう自分を見つけ、サンダルフォンは忌々しげに拳を振り上げ、カウンターに振り下ろした。