「私、だし巻き卵を作ってみたいです」
穏やかな空気の流れる休日の朝。そう言い出したのはセイカだった。
いつかの日。カラスバからこの家と事務所の彼の私室の鍵を受け取り、次第に帰る場所がホテルからカラスバの家に変わってもう随分経つ。
今では同棲しているに等しく、朝はカラスバの作ったご飯を食べるのが日常に組み込まれていた。
セイカは自炊をほぼしたことがなく、いつも料理はカラスバにお任せで自分は簡単な手伝いのみ。
かといってずっとこのままというのも……と、思い立ってセイカは作ってみたいと口にしたのだった。
朝食は和食が多く、コンロの前に立つカラスバはちょうど味噌汁を作り終えたばかり。
聞き間違いかと思い、隣に立つセイカを見れば、やけに真面目な顔で見つめてくるではないか。
「だし巻き卵?」
「はい。カラスバさんがよく作ってくれるアレです。ふわふわしていて、お出汁がとても美味しくて」
「それは嬉しいけどなあ……」
カラスバは腕を組み、少し考える。
だし巻き卵。コツさえ掴めば簡単なのだが、初心者には巻くのがなかなか難しい。
(巻くの大変やけど大丈夫か? せやけど、やらんと出来へんしな……)
セイカは料理に関しては完全な初心者だ。
普段の手伝いも盛り付けや炒めたり、鍋の中身を混ぜたりと簡単なものばかり。包丁だってまともに持たせたことがない。
だがやりたいと言い出した以上、止めるのも違う。失敗して、覚えて、少しずつできるようになればいい。
もう失敗することを咎める者はいないのだから。
カラスバは小さく息を吐いて、口元を緩める。
レンズの奥に光る目も柔らかく細められていた。
「なら早速やってみるか。オレが隣で見てるさかい、安心しぃや」
「はい。頑張ります」
「ふは、なんやねんその顔。もっと力を抜きよし」
「そうは言ってもですね……。緊張します」
きゅっ、と口を真一文字に結び、やけに真剣なセイカは冷蔵庫から使いかけの卵パックを取り出した。
カラスバもしょうがないなと困ったように口元を崩しながらも、ボウルを用意する。
白くて小さなそれを一つ手に取ると、セイカは手のひらの上でじっと見つめる。まるで初めて見る道具のような顔だ。
カラスバはセイカの過去を知りつつも、すべてを知っているわけではない。
自分を変えたいとミアレにやって来て、他の人間たちには快活な少女として振る舞っている彼女。
理想の己を演じ、いつかはそれが自然な自分になれたらいいと思っている。
だがカラスバの前では素を見せてくれ、本来の彼女の立ち振る舞いや丁寧な言葉遣いからして、相当なお嬢様だとは感じてはいた。
特殊な環境で育ってきた影響で欠如しているものが多いセイカは、現在進行系でカラスバに様々な初めてを教えてもらっている最中だ。
「まずは卵を割るところからやな」
「……はい」
「怖がらんでええ。ボウルの縁に、軽くこつんや」
「軽く……ですね」
「そう。軽く」
セイカは小さく頷く。
それから、妙に慎重な手つきで卵を持ち上げた。
ボウルが動かないように片手で固定し──いざ!
こん……。
弱々しい音が広がり、当然ながら卵はヒビすら入っていない。
「それは……弱すぎやなあ。もうちょい強くしてええで」
「分かりました」
セイカは頷くと再び卵を軽く持ち上げ、ボウル目掛けて振り下ろす。
ごんっ!!
今度は、鈍い音がした。
「あ……」
「あぁ〜……」
殻は無残に砕け、黄身と白身が指の間からぐしゃりと潰れてボウルの縁を伝った。
ボウルと台に散らばる残骸にセイカは己の手元を見つめたまま、ゆっくりと瞬きをした。
指先には卵液が絡み、殻の欠片まで張り付いている。
まさかこんなことになるなんて。と、予想外だった様子。
「……卵を割るの、意外と難しいですね」
ぽつりとした呟き。あまりにも真顔で言うものだから、カラスバは堪えきれずに肩を震わせた。
「く、くく……っ、オマエなあ」
「笑うところですか?」
「いや、堪忍。せやけど今のはなかなか見事やったで」
「もう少し強くと言われたので、私なりに調節したつもりです」
「あれでなあ……。卵相手に一撃必殺技を狙うたんかと思うたわ」
「狙っていません」
セイカはむっとした顔をする。
だが、指先から垂れる卵液のせいでどうにも締まらない。
カラスバは笑いを噛み殺しながらキッチンペーパーを取ると、セイカの手を軽く拭き、水で洗い流すように伝える。
その間に汚れたところを掃除し、ボウルに入ってしまった殻を丁寧に取り除いていく。
ずっと昔。料理を始めたばかりの頃の自分も最初は思うように割れず、よく殻が入っていたのを思い出す。
自炊した方が節約になるからとなるべく自分で作り、ミアレの裏社会を牛耳るようになってからは仕事も忙しく、テイクアウトや作るにしてもとりあえず腹が膨れればいいと簡単なものばかり。
それがセイカと暮らすようになり、彼女が美味しいと言ってくれるのが嬉しくて。その笑みが見たくて、可能な限り料理を作るようになった。
「もっと優しくやらんとあかんで」
「優しくですか……」
「そう。割るんやけど、壊したらあかん」
「難しいですね」
「セイカならすぐ出来るようになるよ」
「目指すはカラスバさんのように片手で、ですね」
「ほな、まずは綺麗に割るところからやね」
カラスバは新しい卵をひとつ取り出すとセイカに持たせ、今度は背後からそっと手を添えた。
ぴくっ、と反応する体。
密着すればセイカの柔らかさや香りを感じ、普段はクールな彼女の可愛らしい反応につい浮かれてしまいそうになる。
あかんあかん。今はたまご割る練習や。
自分に言い聞かせ、カラスバは卵に向き直る。
「卵割るにはこのくらいの力でええねん」
セイカの手はカラスバに導かれ、卵がボウルの縁に触れると小さなヒビが入った。
もう片方の手にも同じように重ね、セイカに動きを丁寧に教えていく。
「ここに親指入れて、そっと開く」
殻を左右に開く。すると今度は中身が崩れず、つるりとボウルの中へ落ちた。
たったこれだけのことでもセイカは嬉しいのか「できました……!」と告げる声はわずかに弾む。
「上出来やな」
「カラスバさんが手伝ってくれたからですよ」
「ほんま、さっきの惨事から考えたら大成長や」
「大げさに言わないでください」
そう言いながらも、セイカの顔はほころぶ。
使う卵はあとふたつ。今度はカラスバに見守られながら、セイカは自分で割ってみた。
一度手本を見せれば加減も分かったようで、ひとつは少し殻が入ったものの、カラスバが取り除いた。
残りは綺麗に割れ、セイカの口元はどこか誇らしげだった。
人によっては些細なことが、彼女にとっては違う。
年相応な顔を見せるセイカを見ていると、カラスバも胸が温かくなっていく。
血の繋がった親がくれなかった愛情。カラスバも親のことはほとんど覚えていないが、セイカとの時間を大切にしたいというこの気持ちを、彼女も感じてくれるのなら。
どこか遠くを見つめるような眼差しで隣のセイカを視界に閉じ込めていると、次の工程に入るために声をかけてきた。
「カラスバさん。次は?」
「次はだしやな。白だしを少し、水も入れる。砂糖は好みやけど、今日はちょっとだけ甘めにしよか」
引き出しから調味料を台に広げ、計量スプーンも並べた。
セイカと暮らすようになって調味料やキッチンツールは目に見えて増えた。
時間があるときは他の地方の料理を調べたり、通販サイトで器具を見たりとあれこれポチポチしていたら、ひとり暮らしのときと比べ収納スペースがかなり圧迫してしまうほどに。
慣れている料理に使う調味料の量は、今では目で判断しているのでカラスバはあまり使わない。が、初心者であるセイカは別。
初心者だからこそ、量をしっかり計った方が失敗が少ない。
セイカはカラスバに言われたとおりに調味料を加えていく。最後にとぽぽ……と透き通った白だしをスプーンに注げば、和の香りがふんわりと広がった。
「混ぜるときは、切るように」
「切るように」
「ぐるぐる泡立てるんやなくて、白身をほどく感じやな」
「ほどく」
「料理用語、いちいち真面目に受け止めるなあ」
「なにしろほとんど初めてなので」
くすっ、と微笑みながらも言い方が真剣そのもので。
カラスバは返す言葉に一瞬迷った。
──初めて。
セイカはなにげないことでもそう言う。
それがまた彼女の過去を想像させ、些細なことでもセイカの体験一つひとつを大切にしようと、より強くカラスバは思うのだ。
「……よし、次は焼くで」
「はい」
コンロにセットしたエッグロースターを温め、セイカを前に立たせると油を薄く引かせる。
経験がなくとも言えばすぐに理解し、吸収しようとするので、きっと次からはなんなくこなすであろう。
温まった角型のフライパンにカラスバは箸の先で卵液を少し落とし、じゅ、と小さく固まるのを確認した。
「火が強すぎたら焦げる。弱すぎたら巻きにくい。中火よりちょい弱めくらいやな」
「難しいですね」
「ま、なにごとも慣れや慣れ。セイカは筋がええし、すぐできるようになるで」
カラスバは笑って、小さなレードルと一緒に卵液の入ったボウルをセイカへ渡した。
「慣れたら要らへんけど、最初はレードル使おか。これで薄く流す。全部入れたらあかんよ」
「……全部入れたらどうなりますか」
「でかい卵の板ができる」
「それはそれで……」
「あかんよ。焦げるわ」
冗談を交え、和やかな雰囲気ながらもセイカは気を引き締め、レードルで卵液を少しだけ流し入れた。
じゅう、と耳心地のいい音を奏でながら黄色い液体が薄く広がっていく。
フライパンを傾け、全体にまんべんなく広げれば端の方がすぐに固まり始めるが、中心は少しとろりとしている。
まだ巻くには少し早いか。
卵と向き合うカラスバの横顔と、フライパンの中身を交互にセイカは見つめる。彼の合図があるまで大人しくしているしかないのだから。
「……うん。こんくらいやな。そしたら、奥から手前に巻くんや。これでやってみ」
カラスバとの生活で箸は使えるようになったセイカではあるが、それで巻くとなるとなかなか難しい。
なのでターナーを渡し、セイカは受け取るも表情は相変わらず固い。
「……破れそうです」
「破れてもええ。最初から綺麗にできるわけないやろ」
「ですが」
「初めてなんやから、失敗は当たり前。人は失敗を経験して少しずつできるようになってくんや。……もう、完璧にこだわる必要はないねん。セイカ」
セイカはとある組織の後継者として幼少の頃から厳しい教育を受けてきた。失敗は許されず、常に完璧を求められる。できて当たり前だと。
けれど今は違う。どんなに失敗を重ねてもカラスバはセイカを受け止める。できないのなら、成功するまで何度でも支えよう。
カラスバの言葉は、長年の教育が未だ完全には抜け切っていないセイカに染み渡り、彼女の頬が少し緩んだ。
「ありがとうございます。……そういうふうに言ってくれると心強いです」
「なんぼでも言うたるよ。それに焦げてもカラスバさんが全部食べるさかい。安心して失敗してええで」
「焦がす前提ですか」
談笑しながらもセイカは息を詰め、ターナーを卵の下に差し込む。
ゆっくり、しかし焦がさないスピードで。
端を持ち上げ、手前に返すと──。
「よし……」
一回目の折り畳みは成功。しかしまだ卵は残っている。二回目も破れずに巻けたが、あと少しで巻き切るというところで黄色い層は折れ損ね、途中で裂けてしまった。
「あっ……」
「大丈夫や。全然修正できる。こうやって奥へ押し込んだら、下にまた卵を流す」
カラスバは大したことないと、再び油を薄く引く。
流れるような手つきで卵液を流すと、不格好な卵の下にも液を行き渡らせるように箸で持ち上げ、ロースターを傾けた。
「この繰り返しやな。ほら、気張らんで気楽にやり」
「……あの、カラスバさん。さっきみたいに後ろに立ってお手本を見せてくれませんか?」
「そう……やな。なら、一緒にやろか」
セイカのお願いにカラスバは先ほどと同じように後ろに立つと、手を添える。
重ねられた手は大きく、力が入りすぎていたセイカの体がリラックスしたように緩んだ。
無防備に委ねてくる恋人への思いを募らせつつ、カラスバは彼女の手元を導くようにゆっくりとターナーを動かし始めた。
「こうやって奥を持って、少し持ち上げて……手前に倒す。焦らんでええ」
ふわり、と卵が返る。じゅわじゅわと空腹を誘う音を聞きながら、カラスバはセイカに感覚が伝わるように丁寧に教えていく。
「こう……ですかね」
「ん。ええ感じや」
セイカは分かってるだろうか。途中からカラスバは本当に手を添えるだけで、ほとんど彼女が動かしていることに。
カラスバが黙って見守っていくと、形は少々歪みがありつつも、今度は途中で破けずに最後まで巻くことができた。
「……!」
「できたやん」
「今のはカラスバさんが、」
「オマエの手でやったんやろ」
さらりと言われ、セイカはエッグロースターの中を見る。
形は整っておらず、カラスバが作ってくれるものとは似ても似つかない。だが、巻かれているのには違いない。
これで自信がついたのか「よしっ」と小さく頷くと、セイカは残りの卵液も同じように流し、巻いていく。
途中破れることがあっても、もう手が止まることはなかった。カラスバに教わったように直していき、巻いては溶いた卵を流し込むの繰り返し。
ようやく完成しただし巻き卵の形はやはり歪んでいたが、初めてにしては充分。
カラスバが褒めると、セイカは照れ隠しのようにはにかむ。
出会ったばかりの頃を思えばだいぶ表情も柔らかくなり、それだけ彼女が心を許しているのだと思うとくすぐったい気持ちになってくる。
体だけ年齢を重ね、中身は幼い印象だった少女が少しずつ心も成長しているのを目の当たりにし、感慨深いものがあるというもの。
「あとは形を整えて──完成や!」
焼き上がっただし巻き卵をキッチンペーパーを敷いたまな板に移し、形を整えれば出来上がり。
包丁で切り分ければ見える層は乱れているが、ふわっとした甘いだしの香りが鼻腔をくすぐる。
食欲をそそり、無性に白米が食べたくなってきた。炊飯器の中で保温されている炊きたての米。
他の地方からわざわざ取り寄せている白米は、噛めば噛むほどに甘さを増す。
ああ、早く食べたい。
「やっぱりカラスバさんのように綺麗にはできませんね」
「なに言うとんねん。初めてでこれなら上等やで。……少し味見しよか」
カラスバはひと切れを箸で半分に割り、摘むと息を数回吹きかけて冷ますと、そのまま自分で食べるのかと思いきや。
「ほら。あーん」
セイカの口元へと運ぶ。
まるで雛鳥に給餌する親鳥のような手つき。セイカも当たり前のように口を開け、ぱくり。
「どうや? 自分で作るとまた格別やろ」
「はい……! とっても美味しいです!」
「手間暇かけて作るとな。それだけで美味く感じるモンや。ほな、オレもいただこか」
カラスバは残りの半分を口に運ぶ。
瞬間口に広がるのはふんわりとした柔らかさ。軽く噛めば、口いっぱいにだしと砂糖、そして卵の調和の取れた味わいが広がった。
そしてところどころで感じる微かな焼き目の香ばしさ。もちろん焦げているレベルではないので、美味しく頂ける。
(普通のだし巻き卵のはず、なんやけど……)
セイカが自分で作りたいと言い、卵を割るところから覚え、初めてながらも頑張って巻き上げた。
それを思うと、ただ美味いだけでは留まらない。
胸の中心が、だし巻き卵の熱とは別の温度でじんわりと満たされていく。
「どうですか……?」
「あぁ……美味い。ほんまに……」
カラスバはだし巻き卵を見つめ、呟くように告げた。
短い言葉の中には、次々に湧き上がる色々な感情が込められていた。
「それならよかったです。……また、初めてを貰ってくれましたね」
カラスバの動きがわずかに止まる。
セイカはよく“初めてを貰ってくれた”とカラスバに対して言う。
特殊な生き方を強いられていたセイカは、ある意味では世間知らず。
なのでカラスバとの生活で色んな“初めて”を彼に捧げていた。
もう何度も言われてはいるが、やはり慣れない。特別な感情をいだく相手だからこそ。
「だし巻き作ったくらいでそない大層に言うほどか?」
「私にとっては大事なことです」
セイカは真面目に返すと、だし巻き卵へと視線を流した。
「自分で作りたいと選択し、卵を割ることも、調味料を混ぜることも、誰かに教わりながらこの手で朝食を作ることも。全部──私にはなかったものですから」
「……ほんま、そういうことをさらっと言う」
「本当のことなので」
カラスバは小さく息を吐いた。
照れ隠しのように視線を逸らしてから、セイカの頭にぽんと手を置く。
「なら、次はもうちょい綺麗に巻けるように練習やな」
「また教えてくれますか?」
「当たり前やろ。……さて。もう一品なんか作って飯にしよか」
「はいっ」
なんでもない休日の朝。
それでもふたりにとってはきっと、きらきらと輝く思い出になる。
朝のキッチンには、焼きたてのだし巻き卵の香りがほんのりと漂う。
その優しい匂いの中でセイカは皿を並べ、カラスバはもう一品作るために冷蔵庫を開ける。
またひとつ、ふたりの日常に新しい初めてが増えた。
終
