セイカが、子どもになってしまった。
ホテルZでのある日の朝。セイカは突如として四、五歳ほどに体が小さくなり、さらには自分のことや今までの人間関係の記憶も失われていた。
なにもかも分からずに泣くばかりのセイカにエムゼット団のメンバーは困り果て、頼ったのがカラスバだった。
彼はセイカの恋人。もしかしたらと。
そしてその考えは当たっていた。カラスバのことは分からないままであるが、セイカは心を開き、彼に保護されることになった。
いずれ元に戻るだろう。希望的観測ながらも幼いセイカとの日々は過ぎていき、やがて──。
「なあセイカ。オマエ恋人とかおらへんの?」
セイカを引き取って十年と少し。時間の流れはふたりの関係を一組の親子へと変化させていた。
自宅のキッチンでコーヒーの用意をしていたセイカにかける言葉は冗談交じり。
小さかったセイカも今ではもう成人し、かつてと違いカラスバよりも少しだけ背が高い。
カラスバ本人も世間でおじさんと呼ばれる歳ではあるが、微塵も感じさせないほどに若々しい。二十代と言われても誰も疑わないくらいだ。
「いるわけないじゃん」
肩をすくめ、呆れ半分でセイカは笑う。
「そもそも。恋人の有無を聞いて実際にいたら、お母さんは平然としていられるの?」
「そら喜ばしいことやろ。オレのこと大好きなんは分かりきっとるけど、オマエもそろそろ親離れせんとなあ」
セイカが淹れたコーヒーを受け取りながらの言葉。
学生の頃からセイカには浮いた話がひとつもなかった。
しかも告白されても自分はマザコンだから、つまりカラスバ以外に興味がないと断っていたほどだ。
かつては恋人。今は娘であるセイカが変わらず求めてくれることはカラスバからすれば正直嬉しい。
しかしセイカは娘。恋人にはなれない。
親離れとどこか自分に言い聞かせるように、寂しげな面差しでコーヒーを口にする母親の横顔を見て、セイカは「ふぅん……」と目を細めた。
***
それからしばらくして。セイカに恋人ができた。
身長も高く、すらりとした男。たまたま街中で仲良さげに腕を組んで歩いていたのを見かけたのだ。
セイカに聞けば恋人だと明言はされなかった。大切な人。けれどその単語はカラスバにとって恋人と同義。
娘の初めての恋人。親としては見守るべきだ。
しかし実際に湧き上がる感情はマグマのように煮えたぎる赤い感情。
重苦しい黒も混ざった、どろりとした粘着質な気持ちはカラスバを蝕んでいった。
カラスバにとってセイカは元恋人。
記憶をなくし、体も小さくなってしまった彼女を自分の子として育てると決意したとき、親になると覚悟したはずだ。
いつかの日。カラスバが結婚するのでは? とセイカが勘違いしたときは大泣きをされた。
こういうこともあり、無意識下ではあるがカラスバもセイカは自分の元から離れないと考えていた。
恋人がいないのかという発言は冗談半分。しかし残りの半分はこのままセイカを自分に縛り付けていていいのか? という親心。
今となってはなんて愚かなことを言ったんだと後悔しかない。
彼女の“お母さんは平然としていられるの?”という言葉が深く突き刺さる。
胸を掻きむしりたくなるほどの暗澹とした感情。
それはセイカのことを娘ではなく、未だ恋人として認識しているという事実をカラスバに叩きつける。
親になったつもりだった。まっさらになったセイカを自分なりに愛情を込めて大切に育ててきたはずだった。
記憶をなくす前は笑うことが得意でなかったセイカも、今はよく笑う快活な少女へと変わった。
丁寧な言葉遣いも、一般的な女の子の口調になった。
組織の後継者として育てられた、カラスバの恋人だったセイカはもういない。
だというのに。愛娘に対して人には言えない感情を持っているという事実は男として、親としてカラスバを乱す。
──部屋は電気がついておらず、闇が広がっていた。
リビングのソファに座るカラスバは頭を抱えながら俯き、歯噛みをしていた。
その顔は苦悶に満ち、奥底で燃え盛る嫉妬の炎を抑えているような。
今日はセイカが例の男の家に遊びに行くと言って未だに帰ってきていなかった。
防犯のために彼女のスマホに仕込んであるGPSを確認しても、同じ場所から動いていない。
いつもならば今頃、夕飯を食べ終えてゆっくりとしている時間だというのに。
(オレは……なんでこないな気持ちになっとるんや……!? あの子はもう恋人だったセイカちゃう。今のあの子は……血の繋がりはなくてもオレの娘。そう思わんといけへんのに……!)
ふざけんなや! という気持ちがあふれて止まらない。
セイカはオレのもの。オレだけのセイカ。
歪んだ嫉妬の炎はカラスバ自身を包み込む。
「──酷い顔だね。お母さん」
パッ。と部屋の明かりが点く。
弾けるようにしてカラスバが顔を上げれば、男の家にいるはずのセイカがスイッチのそばの壁に腕を組んでもたれ掛かっていた。
愛憐を秘めた眼差しで母親を見つめ、どこか嬉しそうに呟くとソファに向かって歩みを進める。
「セイカ……? オマエ、なして……あの男の家におるはず……」
愛娘の動きを追うように動く視線は最後はセイカがカラスバに跨ったことで、目と鼻の先で止まった。
「っ!? セイカなにして……!?」
「その顔。やっぱりお母さんは親になりきれなかったんだね」
男に女が跨る。恋人同士ならば睦み合いの範囲だが、セイカとカラスバの関係は親子だ。
カラスバはセイカの行動に驚愕し、やめるように反射的に手を伸ばしかけるがその前にセイカの両手がカラスバの頬を包むのが早かった。
にっこりと笑顔を向けられ、それが責められているような気がしてカラスバの顔から感情が抜け落ちる。
しかしセイカは逆に高揚しているのか、熱がこもりギラついた視界にカラスバを閉じ込めた。
ぐい、と顔を近づけるセイカに思わずカラスバは腰が引けてしまうが、背後はソファ。逃げ場はない。
獲物を前にする捕食者のような熱視線に、カラスバの黄金色は縫い止められる。
「ごめんね。揶揄しているわけじゃないんだ。嬉しくて──ふふふっ。どうしようもないの。あなたの中のセイカへの“恋”は失われていなかった」
歓喜を極め、込み上げる笑いを抑えようとしつつなんとか落ち着いて喋ろうとするも、セイカの声は上ずるばかり。
「知ってるよ。私とお母さんが昔は恋人だったこと。記憶を失い、体も子どもになってしまった私を引き取って育ててくれたんだよね」
「オマエ、まさか記憶が……!?」
「ううん。なにも」
セイカに余計な混乱を与えぬよう、体が縮んだことや恋人だったことは徹底的に伏せていた。
一部でも記憶を取り戻したのかと一瞬思ったが、それは違うらしい。一体どこから漏れたのか。
「でもお母さんに対する強烈なまでの執着はずっとあった。初めて会ったはずなのに安心感があって。あなたの庇護下で年齢を重ねる内に独占欲という名の愛が強くなっていった」
セイカはうっとりと目を細め、親に対して向けてはいけない意味の愛情を込めながら口にする。
「なんでこんなにも、言ってしまえば異常なほどにお母さんが好きなんだろうって思って調べたら……納得しかなかった。記憶をなくす前の私、どれだけお母さん──カラスバさんのことが欲しかったんだろうね? なにもかも忘れてしまっても、あなたのことだけは忘れなかったんだから」
記憶をなくす前のセイカもカラスバに対して強い執着をいだいていた。カラスバが欲しい。逃げても地の果てまで追いかけると宣言するほどに。
まさかその強烈なまでの執着が残っているなんて。強すぎるからこそ、とも言えるが。
「セイカ、あかんよ……! オレはお母ちゃんで、オマエは娘。今ならまだ引き返せる」
「そう? 私に恋人ができたって勘違いしてぐちゃぐちゃになっていたのに?」
「セイ、んぅッ……!」
一線を超えるわけにはいかない。しかしそんな当たり前のこともセイカの口づけによって崩壊する。
噛み付くようなキス。ぬるりとセイカの舌がカラスバの唇を割り深く踏み込むと、隅々まで堪能するかのように口の中を辿る。
カラスバの手はセイカを離そうと持ち上がるが、“セイカ”とキスをしているという現実に酔い、うまく動かせない。
(なして……オレ、セイカとキスしてこんなに気持ちよぉなっとるんや……!?)
背徳感と快楽にゾクゾクと背筋に甘い痺れが走る。思考にモヤがかかって正常な判断を奪っていく。
娘とのキスなんて嫌悪や忌避しかないはずなのに。それしかあってはならないのに。
舌先を触れ合わせ、唾液を甘く奪われ。
乾き、ひび割れていた心がセイカに求められることで癒やされていくような。
ああ。早くやめさせへんと。思考の片隅で浮かんだ案は狂いそうなほどの激情の波に押し流されていく。
いけない。奥底に封じていた気持ちが、親になると決めた日に手放したはずの恋人への愛が、表層へと姿を見せる。
最後にセイカはふっくらとした下唇を甘く食み、ようやく顔を離すとふたりの間に透明な繋がりが引き、ぶつりと落ちた。
「お母さん。すごくエッチな顔してるね。気持ちよかったんだ?」
「っ!? いやや、見んといて……!」
カラスバの顔は火照り、目は蕩けて唇は卑猥に輝いている。まるで情事を連想させるような煽情的な面様。
セイカの指摘にブワッ! と羞恥心が湧き上がり、カラスバは顔を逸らす。それさえもセイカにとっては可愛らしい反応だと知らずに。
「ふふふっ……。そうだ。ここでひとつ誤解を解いておくね? お母さんが恋人だと思っている男の人、実は女の子なんだ。“友だち”なの」
「友……だち……?」
「そ。友だち。友人関係だって大切な人って表現してもおかしくないでしょ? あまりにもお母さんが酷いことを言ったから……お仕置きとして協力してもらったの。それに確かめたかったし。あなたの本当の気持ち」
女の子。友だち。その言葉がじわじわとカラスバに浸透する。
──最初から、恋人なんていなかった。
ネタばらしにカラスバの中に生まれるのは安堵。まるで地獄に垂らされたアリアドスの糸だ。
「結果は……私の想像どおり。お母さんは私を娘と思いながらもセイカへの恋は残ったまま」
「そんな……オレはオマエのこと、ほんまの子と思うて育てて……」
「まだそんなこと言うんだ? ここ、硬くなってるよ?」
「っッ!?!? 嘘や……! オレ、娘になんてこと……!」
つんつん、と人差し指でつつかれたのはもうずっと反応することがなかった場所。
ストリートチルドレン時代は生きるのに必死で。サビ組のボスになってからは守るものや組織を大きくするために女にかまけている暇はなかった。
──セイカに出会うまでは。
もともと性欲が薄いのもあって、セイカが子どもになってからは生理的なこと以外で勃起することはなくなっていた。
大きくテントを張る“そこ”は硬く、悪戯をするように軽く撫でられるとぞわぞわと甘い悦楽が腰から這い上がり、カラスバ思わず漏れそうになる声を歯を食いしばることで耐えた。
「いい加減認めなよ。お母さんは私が好き。私はお母さんが好き。それだけでいいじゃない。現に私に恋人ができたと勘違いしただけで、今にも死にそうな顔してたよ?」
セイカはカラスバの頬を包むとこつん、と額をくっつけた。互いの呼吸が感じられるほどの距離。
娘から性愛を向けられている現実。親としては目を覆いたくなる光景だが、カラスバというひとりの男としてはまるで天国に昇るようだった。
ああ、やっぱりオレはまともな親にはなれへんかった。
自嘲しながらも、心は目の前のセイカに強く惹き付けられる。
喉奥からせり上がってくる言葉を言ってしまいたい。その言葉を告げれば、もう後には戻れなくても。
「…………。………………ええ、の?」
とても小さな声だった。空気をわずかに震わせる程度の声量はこの距離でなければ聞こえないだろう。
「オマエのことをまた、恋人と思て。オカンやなくて……ひとりの男に戻って」
「お母さんは、私に恋人が出来たと思ってなにを感じた?」
「ふざけんなやと思たわ。セイカはオレが大事に大事に育てたおひいさん。オレのモンなのに。ポッと出のガキが出しゃばるんやないぞ……! てな。……男の嫉妬ほど醜いモンはあらへんよ」
「わあ〜! 嬉しい! そんなふうに思ってくれていたなんて!!」
本心からそう思っている声音。セイカはカラスバをぎゅっ、と抱きしめ、甘えるように頬をすりすり。
カラスバも救いを求めるようにセイカの背を掻きいだき、その肩に顔を預けた。
「情けないやろ? オマエを焚き付けたのはオレやのに。いざ出来た思たら嫉妬て……」
「……お母さん。私たち、両想いだよ。お願い。私をまた受け入れて。また私を愛して。世界で一番あなたが好きなの」
セイカに顎を取られ、片手を合わせるようにして握られて。懇願されて。
かつてのセイカに言われることがなかった“好き”という言葉。
愛を知らぬ彼女はカラスバのことを欲しいと表現することは多かった。愛という感情がよく分からないゆえに。
彼女の中で好意に値する言葉だとは分かっていたが、こうして実際に伝えられ、親と男の境界線とも呼べる壁が音を立てながら崩壊していく。
カラスバの脳裏に浮かぶのはいつかの日。在りし日のセイカとのひととき。
彼女はカラスバに対して「カラスバさんが私のお母さんだったらいいのに」と口にし、それにカラスバはオマエのオカンにはなれへんよと返した。
オカンは娘に対してこないな感情を向けたりせえへん。つまり、恋愛の念を向けることはないと。
セイカをひとりの女性として愛しているのだ。母親の真似──“ママゴト”はできるが、本当の意味では親になれない。
それは、間違っていなかったのだ。
「セイカ……」
「カラスバさん……」
交差する視線。どちらからともなく重なる唇。
深くなることはなく、ただ触れさせるだけ。
誰にも祝福されなくていい。互いの愛があれば、それだけでいい。
永遠を誓うようなキスはとても長く感じられ、やがてセイカの方から離れていき、名残惜しさにカラスバは胸が苦しくなる。
まるで宝物に触れるようにカラスバの片手を取り、セイカは自分の頬に添えた。
その顔は恍惚に染まり、瞳は媚毒のような甘さが宿っていた。
「──ずぅっと一緒にいようね。お母さん」
終
