全部熱のせい

 カーテン越しに入り込む柔らかな光。厚い壁を隔てた向こうで微かに聞こえる街のざわめきをセイカはベッドに沈みながら感じていた。
 体力には自身がある方だが本人も気づかぬ内に疲労が溜まっていたようだ。
 明るい内はワイルドゾーンに行ったり、人助けなど結果的にはミアレのために働き、夜はZAロワイヤルでバトルを楽しむ。
 ベンチで眠ることも多々あり、一般人から見ればなぜ今まで体調を崩さなかった? と驚かれる生活リズムがついに祟ってしまったのだ。
(喉、乾いた……)
 熱に蝕まれ、喉の乾きを覚えるも水が入ったガラスのボトルはベッドから離れた場所にある。
 かといって倦怠感や頭痛が酷いこの状況では体を動かすのが非常に億劫だった。
 セイカが体調を崩したことに同性であるデウロは看病を強く申し出たが、セイカはありがとうと気持ちだけ受け取ることにしたのだ。
 別に死ぬわけじゃない。このくらい薬を飲んで寝ていれば治る。子どもの頃だってそうだ。最低限の看病は受けたが基本は独り。
 なにより大事な仲間に移りでもしたら本末転倒だ。デスマス取りがデスマスになる事態は避けたい。
 熱に浮かされた視界は曖昧で天井の模様がゆっくりと滲んでいく。
 意識も引っ張られ、いま自分が起きているのか寝ているのかの境界線も不明瞭。
「み……ず……」
 飲みたいという気持ちが掠れた声とともに出た。
「──ほら、起き。水や」
(あれ……?)
 低く、柔らかな声。
 首の後ろに差し込まれる腕に体を起こされ、セイカは重たく目に覆いかぶさる目蓋を持ち上げる。
 するとそこには水の入ったコップを持ったカラスバの姿が。
 いつから部屋に? そもそもなぜ彼がここにいるの?
 これは夢かと思ったが、浅く傾けられたコップから少しずつ流し込まれる水がヒリついた喉を癒やしていく感覚は紛れもない現実。
「ん……んぅ……」
 こく、こく。喉を数回上下させ、セイカがもういいと口を閉ざせば再びベッドに寝かせられる。
 その動きは病気の子どもを看病する親のような──実父にこんなふうにされた経験なんてないけれど、きっとそうなんだろうとセイカは茹だる思考で考える。
「どうしてここに……?」
「なんでやろなあ?」
 カラスバのセイカへの監視は今も続いている。
 別に見られて困ることもないのでセイカ自身もなにも言わず、対策もしていなかった。
 むしろ恋人関係になっても監視されていることに彼からの執着、言い換えれば見守られていることに悪い気はしない。
 カラスバがここにいる理由。たまたま様子を見たらセイカが体調を崩しているのを見て……というところだろう。
 熱を測るように額に触れてくる大きな手は少し冷たくて、気持ちがいいとセイカの表情が緩む。
「仕事、は」
「全部キャンセルや。オマエが倒れてんのになにを優先せぇ言うんや」
 間髪を入れずの答えにセイカは瞠目する。
 体調を崩しただけなのに、どうしてそこまでしてくれるの?
 カラスバにとって自分はそこまでしてもいいと思えるほどの存在なのか。
「……すみません」
「謝るとこちゃうで。こういうときはな“ありがとう”て言うんや。……オマエはミアレを救ったあともぎょうさん頑張っとる。正直働き過ぎやねん。少しは休めいう天の思し召し。まあ、これに懲りたら寝るときくらいベッドを使うてな」
 タワーの暴走を止め、ミアレを救ってからの復興。それも落ち着くと日常が戻ってきた。
 思えば休もうと思って体を労ってこなかった。カラスバが言うように神様が──形はどうであれ、強制的に休ませてきたのかもしれない。
 コップを片付ける男の後ろ姿にセイカは言いようのない感情に駆られる。ただ片付けのために離れただけ。それなのに行かないでと思ってしまう。
 セイカがそんなことを考えているとは知らず、カラスバはくるりとこちらに戻ってくるとベッドに腰掛けた。
 若干沈むマットレス。見下ろしてくる眼差しを受けてつい数秒前の不安感は霧散していく。
「カラスバさん……今日、ずっと?」
 もしかしていてくれるの?
 そう目で訴えるセイカは酷く幼く見える。体は大人でも心は小さな女の子。
 カラスバはどこか縋るような瞳を見て視線を細めると、安心させるように髪を撫で付ける。
「せや。看病役はオレ。言うとくがデウロのように引き下がらんで。オマエが嫌やゆうてもおるからな」
 弱っているときに独りは心細いやろ。
 彼の言葉の裏からは思いやりの感情が見え、セイカの胸が詰まる。
 心細い。言われて思い出す。過ぎ去りし時に置いてきた気持ち。
 今のように苦しいとき。誰かそばにいてほしいと独り涙を流したあの頃。
 頭を撫でる手が優しくて、セイカは思わず泣きそうになった。こんなにも温かい気持ちになるなんて。
 父がくれなかった優しさ。母は名前すら、いま生きているのかどうかさえ知らない。
 でもなんとなく分かる。もしも。もしも自分が普通の家に生まれていたら。お母さんがこんなふうに──。
「カラスバさん、お母さん……みたい」
 勝手に口から出てしまった呟きにカラスバは一瞬固まったが、困った子やなと言いたげに口元を緩めた。
「……誰がオカンや」
 そう言いながらも、手は離れない。
 一定のリズムで何度も撫でる手は子どもを寝かしつける親のようだ。
「安心して寝よし。オレはここにおる」
 セイカはゆっくりと頷く。彼の言葉だけで、セイカの意識はまどろみへと急速に堕ちていく。
 熱で思考がふわふわしている。
 夢と現実の境目が、薄紙が揺れるように。
 静寂の中にあるのはふたり分の息遣い。セイカは目を閉じたまま耳を傾け、胸の中心。そのさらに奥がじんわりと温かくなるの感じていた。
(嬉しい……の、かな。この気持ちは……)
 道具扱いじゃない。なによりカラスバに大切にされているという感覚に言いようのない熱が全身に広がっていく。
(……本当に)
 喉の奥で、言葉にならない思考が転がる。
(カラスバさんが……私のお母さんだったらいいのに)
 変だ。こんなことを考えてしまうなんて。
 なまじ母親という存在がいなかったから、彼の優しさに母性を感じているのか。
(全部、熱のせいだ)
 自分に言い聞かせる。何度も。必死に。
 普段と違う状態かつ、弱っている──弱った姿を見せてもいいと思う人だからこんなことを考えてしまうんだ。
「……カラスバさん」
「ん」
「私が寝るまで……頭、撫でて……ほしい、です」
「……なんや今日は甘えたさんやなあ? ええよ。なんなら子守唄も歌うたるで」
 一拍置いての返事はどこか嬉しそうで。
 静かで低い鼻歌のメロディはセイカの知らない曲。
 慈しむような柔らかな手つきで撫でられ、安らぎに包まれていく。
(お母さん……)
 自分に母親がいないこと。気にしなかったことがない、と言えば嘘になる。自分を産んでくれた人がいないなんてありえないのだから。
 けれどすぐに考えることはやめた。それ以上に日々の教育がつらかった。皮肉なことにその教育が今の彼との毎日に役立っているが。
 一般的に言われている父性。端的に表現すれば社会に出る力に関しては実父から与えられていた。そこに愛が感じられなかっただけで。
 母性を知らないからこそ、カラスバの行動に強く母親という存在を見出してしまうのだ。
(…………)
 ぐるぐると廻る思考を手放す。
 彼から与えられる包み込むような安心感に身を委ねながら、セイカは意識を落としていく。
 撫でる手は、変わらずそこにあった。