──体が、痛い。
ワイルドゾーン内。ミアレに集まってきた野生ポケモンをホログラムの壁で保護しているこの場所。
薄暗く、奥まったところ。ポケモンにも人にも見つかりづらい場所にセイカの姿はあった。
頭から血を流し、壁に寄りかかりながら荒い呼吸を繰り返す彼女は脂汗が頬を伝い、痛みに潤む瞳を伏せがちにしている。
常日ごろ野生ポケモンを相手に戦い、今日も戦っていたところだった。ポケモンの数が多く、さらにはオヤブンにも見つかってしまい場は混戦状態。
一旦退避した方がいいと行動しようとした矢先に攻撃を喰らってしまい、連続的にダメージを受けてしまったセイカはなんとか追跡を撒いてここまで逃げてきたが力尽きてしまったのだ。
(ポケモンの攻撃をモロに、何回も受けると、こんなにも痛いんだ……)
思い出すのは過去の罪。セイカはとある地方に存在していた組織のトップの娘。
娘だからといって後方で構えていたというわけではなく、直接任務にあたっていた際には組織の障害になる人間──つまり敵にポケモンをけしかけたりもした。
当時は歪んだ教育のためにまともな善悪がなかった彼女だが、組織崩壊後に施設に保護され一般的な判断がつくようになってからは、なんて残酷なことをしたんだと罪悪感に苛まれた。
それは、今も付き纏う。
「ぐぎゃぁ……」
「心配しないで……。大丈夫……だか、ら……」
今にも泣きそうな顔をしながら主人の様子を伺うのはバンギラス。セイカの手持ちの切り札でもある。
オヤブン個体である彼はセイカがこれ以上攻撃を受けないように自分の巨体で隠しながら周囲に気を配っていた。
そんな彼を安心させようと、硬い肌を撫でるもその手は下がっていくばかり。腕に力が入らずに最後は地面に垂れた。
(現役時代はこんなこと、ありえないのに)
組織から解放されてからは感情を得た代わりに当時の力を失ってしまった。
日頃から任務に就いていたときは周囲の気配に敏感で攻撃も回避できていた。そもそも後継者である自分に失敗など許されず、無意識下で常に気を張り続けることができていたのだ。
(っ……意識が……。……これは因果応報、なのかな)
薄れていく視界。冷たくなっていく体。血を流し過ぎたか。セイカの瞳からは光が消えていき、真っ暗に──。
「──ィカ、しっかりせえ! ぃま……!!」
(だ……れ……)
遠くから聞こえる誰かの怒声。駆け寄る足音。バンギラスの気配が緩んだことに見知った誰かが助けに来てくれたのだとは分かった。
目の前が完全に暗くなる寸前。抱きかかえられた際に香った心地よい匂いを最後に、セイカの意識は完全に途切れた。
***
×××。お前に失敗は許されない。
私の──後継者なのだから。
「ぅ……」
海の底から海面に浮上するようにクリアになっていく意識にセイカは抗うことなく目を開ける。
真っ白なシーリングライト。高い天井はホテルのものではない。目覚めたばかりでぼんやりとしながらも視線をさまよわせれば、右端に人の姿が映った。
「セイカ……! 具合はどうや? 傷も痛ないか?」
ベッドの脇に置かれた椅子に座りながら安堵の面様を浮かべるカラスバの顔を見て、セイカは思い出す。
ポケモンの攻撃を受けて意識が混濁して──。そうか。あのときの人はカラスバさんだったのか。
セイカは納得する。以前、ガイの借金の件で彼にいつでもちゃんと見ていると言われ、それが現在も続いているのですぐに駆け付けてくれたのも不思議なことではない。
「安心せえ。ここはサビ組の中にある、オレの私室や」
「サビ組の……。……カラスバさん。助けてくれてありがとうございます」
体に感じる違和感。試しに頭部に触れてみると包帯が巻かれていた。腕にも清潔なガーゼが当てられており、丁寧に傷の手当てもされたようだ。
「骨も折れてへんし、血を流し過ぎたくらいで見た目よりずっと軽うて助かったわ」
「……私、弱くなってしまったんですね。こんなこと……あり得ない。あってはいけないのに」
叩きつけられる現実。組織がなくなってから現在に至るまでの生活を振り返れば当然の弱体化といえるが、以前の自分の強さを知っているからこそ余計に恥じてしまう。
脳内に勝手に再生される言葉たち。失敗は許されない。常に正しい選択をし続けなければならないという根深い教育に呑まれそうになったとき。
「…………。……なあ、セイカ。オマエ、自分を過信しすぎてへんか?」
己の弱さを責めるセイカにカラスバは俯き、黙り込むと顔を上げた。額には青筋が浮かび、怒りに双眸が見開かれるも、その瞳の中には哀憐が垣間見える。
「オマエ自身が、そこらの一般人より強いことは、よう知ってる。けどな……野生のポケモン相手には、そうはいかへん」
カラスバは身を乗り出し、彼の片手がセイカの頬を鷲掴む。視界いっぱいに広がるのは怖いと同時に端正な顔。
怒鳴りたいのを抑え、凄みのある声でゆっくりと言い聞かせる彼の怒りはセイカの肌をちりちりと焦がす。
組織時代には欠落していた感情が戻ってきている今、ゼロ距離での怒りは本能的な恐怖をセイカに自覚させた。それほどにカラスバは本気、というわけだが。
「死んだら、もうそれきり。……セイカ。もうオマエを縛るもんはなんもない。もっと自分を大切にせえや」
「…………」
「……オレを心配させるなや。ほんまに」
椅子から身を乗り出していたカラスバが離れていく。
独り言のように呟く彼の言葉にセイカの思考は停止していた。
今まで生きてきて心配されたことなんてない。今回のように失敗すれば父からは失望させないでくれと呆れの言葉しかなかった。自分の娘がしくじるなんてあるわけがないのだから。
組織時代の周囲の人間もカラスバのように身を案じて怒ってくれたり、心配してくれる者はいなかった。
幼い頃から完璧を求められすぎて、麻痺していた。
「っ……?」
体が震える。目の奥が熱い。呼吸が浅くなる。
(これは……身体の異常……? 違う……胸の中心……、もっと内側……?)
頬を伝うこの水分は、なに?
「セイカ、泣いて……!?」
「え……? あ、なにこれ……涙……?」
意識すると逆に止まらなくなる。泣くつもりなんてなかったのに、ずっとせき止められていた心の壁が崩れ、内部に溜まっていた感情の波が一気にあふれ出す。
今まで出会ってきた大人の誰よりかも心の距離が近い人に叱られ、心配されて、揺らぐことがなかった感情の柱が大きく揺れる。
「うぁ……あああぁっ……! 今までッ! ひっぐ、心配なんてされなくてっ、私はッ、出来て当たり前でっ……! っ、ああぁぁぁああっ……!!」
「セイカ……。今はオレしかおらん。思いっきり泣いて、すっきりせえ」
両腕で目元を隠して小さな子どものように声を上げて感情を発露させるセイカにカラスバはあやすように優しく髪を撫でる。
小柄ながらも手は骨張った男のもの。大きな手にどこか慈しむように触れられて、それが愛を知らぬ少女の深層に突き刺さる──。
***
(やっと寝たか)
泣き疲れて眠るセイカを見てカラスバは静かに息を吐く。
常に冷静沈着。肝も据わりすぎているほどに据わっていた少女の仮面が崩れた際は少々驚いたが、彼女の言葉からして想像以上に厳しい道を歩かされてきたのだと知った。
褒められもせず。心配もされず。常に完璧を求められ。
「セイカ。オマエは全部ひとりで抱え過ぎや」
誰かに頼ることを許されず。なまじ本人も心身ともに強すぎるせいなのもあって、変わりたいと自分の意思で歩き出した今になっても何でもひとりで抱えてしまう。
疲れたときに誰かに寄りかかることさえも──。
上に立つものは孤独。誰の言葉か、それとも本の内容だったかは定かではないが印象に残っている。
セイカも組織の後継者として、未来の長として育てられたからこそ、ずっと孤独の中で生きてきた。
ポケモンも当時の彼女にとっては道具。本当の思いを打ち明けられる者は誰もいない。
(似た者同士やんなあ、オレら)
カラスバもサビ組のトップ。頼れる右腕はいるが、己の全てをさらけ出せるか? と聞かれたら難しい。
幼い頃からの凄まじいまでの重圧によく耐えてきたなとセイカの精神力には感心するほどだ。感情を犠牲にすることで心を守ってきた、とも言えるが。
「辛かったら、たまには寄りかかれや。オレは逃げへん」
眠るセイカの手をそっと握れば、無意識下での反応か。軽いながらも握り返され、固かった表情も安らぎへと変わった。
終
