ママと、それ以外の人たち

 冬の寒さは少しずつ去っていき、春の気配を感じるようになったのはここ最近のこと。
 外は夜の帳が下りており、自宅に帰ったり、夜の街に繰り出そうとしている者たちが行き交ってる。
 大きな歩道橋。それなりの人数の人間たちが各々の目的のために歩いている中、その隅っこで一人の男が欄干に腕を乗せながら虚ろな目で下を覗き込む。
 眼下には車が行き交い、もし落ちたら跳ねられるのは必至。仮に車がいなくてもこの高さだ。死は免れないだろう。
 髭を蓄えた中年の男は恐れるように姿勢を戻し、また少しすると覗くのを繰り返す。その行動は誰の目にもとまらず。そもそも彼の存在自体認識しているかどうか。
「おじさん、死ぬの?」
「!?」
 半身を屈ませるのはもう何度目だろうか。男の背に声をかける存在がいた。男は核心を突かれたのか大袈裟なくらいに体を跳ねさせ、振り返った。
 そこにいたのは制服姿の女子高生。銀髪のショートヘアに血を思わせる真っ赤な瞳が異質さを感じる。
「君はいったい……」
「今の時間帯、ここから落ちれば確実に車に跳ね飛ばされるけど……運転手の人が気の毒だからやめてあげて。どうしても死にたいなら手を貸してあげてもいいけど」
 謎の少女は男の隣に立って下を見るとうんうんと頷きながら、最後には物騒なセリフと一緒に信じられない言葉を吐き出す。
 あまりにも当たり前のように言うものだから言われた男は目を皿にし、深いため息を吐き出すと手すりに置かれている腕に顔を埋めた。絞り出すような声は相当な闇を抱えているように思える。
「……からかうのはやめてくれ。君のような子どもにも……俺は馬鹿にされるのか」
「馬鹿になんてしてないけどなぁ〜」
 少女は星空を仰ぎ見ながら横目に男を見る。その目は男が口にした感情は秘められておらず、逆になぜこんなことをしようとしていたのかと、男の背景が気になる様子。
「……死のうとしている人間にわざわざ声をかけたんだ。話くらい、聞いてくれるよな……?」
「ママもまだ来てないし、いいよ。聞いてあげる」
 少女は辺りを見回し、待ち人がいないことに男の話を聞く姿勢になる。一人で抱え込むのが苦しかったのか、男は話を聞いてくれる少女に対して力なく笑うと正面の景色へと目を向け、言の葉を散らし始めた。
「俺はとある製薬会社の研究員なんだが……本当はオメガなのにずっとアルファだと偽って働いていたんだ。……仕方がなかった。今も差別はあるが、昔はもう少しばかり強くてね。オメガだと希望する職につくには難しかった」
 当時を思い出しているのか、男の顔が悔しげに歪む。
「おじさんがオメガなのは分かっていたけど……そっか。嘘ついてたんだ。それがバレてクビに?」
「君は俺がオメガだと知っていたのか? 強い薬を飲んでフェロモンは抑制しているはずなんだが……」
「私は他のアルファより鼻がいいから。まあそんなことはどうでもいいじゃない」
「あ、ああ……。会社に虚偽の申告をしてずっと働いていたから懲戒解雇になるかと思ったんだが、その点は大丈夫だった。自分で言うのもなんだが結構優秀でね。会社にそれなり貢献もしていた。だが……」
「だが?」
 男はすぐに次の言葉を吐くことができない。ギリッ……! と手が白くなるほどに拳を握り、様々な感情からその身を震わせる。
「周りの人間は当たり前のようにアルファばかり。オメガだとバレた途端に風当たりが強くなって……! アルファの社長をヒート時の強いフェロモンで誘惑して会社に入っただの、他にもデタラメな噂を流されて……。人の目が、怖くなった」
「おじさん……」
「オメガがアルファより秀でているのが許せない人間の悪意に触れて……耐えられなくなった。……いいじゃないか。オメガがアルファより優秀でも。俺だって……俺だって望んでオメガに生まれたわけじゃない。せめて、せめてベータに生まれていたら、俺は……! なんで俺はオメガなんだ……!!」
「……なんで、神様は私たち人間をこんな不完全な存在にしたんだろうね?」
 少女は欄干に置かれた手で頬杖をつき、見てはいるが、なにも見ていないような目を景色に向けながら小さく呟く。それは神という存在を心底軽蔑するような声だった。
「え……?」
「私ね。オメガだとか、アルファだとか、余計なものをつけて苦しませる神様が許せない。だから中指立てて反逆してやろうと思ってるんだ〜」
「ええと……?」
「私の一番大切な人がオメガなの。その人の苦しみを間近で見て……こんな性別なくなれば、もうママも苦しまないんじゃないかって。その過程で私、抑制剤とか色んな薬を作ってるの」
 戸惑う男の方を向き、少女がにこっ、と笑う。白い肌によく映える薄桃色のカーブが妙に色っぽく、老若男女を魅了しかねない不思議な魅力に男の頬がほんのりと赤くなった。
「ねえおじさん! もしおじさんも一緒に神様に中指立ててくれるなら連絡ちょうだい! あなた優秀なんでしょ? 社長はバース性より個人の能力を評価してくれるからオメガの社員も多いし、今の会社より働きやすいかもよ? 社長には私が話をしておくから」
「えっ、え?」
「ジータ」
「あっママ〜!」
 怒涛の展開に男はついていけてないが、名前を呼ぶ声が聞こえたと思った瞬間にジータと呼ばれた謎の少女の顔はぱぁっ! と明るくなり、甘えた声を出しながら母親のもとへと駆け出す。
 男もジータを追いかけるように顔を向ければ、薔薇色の──着る人間を選ぶシャツに身を包み、大胆に胸元を開けている美青年。
 タイトめな黒いパンツが隠す脚は長く、肉付きもいい。細いながらも無駄のない筋肉が付いた体になるほど、この親ならばこの子の人を惹き付ける雰囲気も納得だと男はひとり理解した。
 ジータと呼ばれた少女は“ママ”と呼ぶ美男子の腕に抱きつき、人目も憚らずベタベタと絡んでいる。彼女と男の関係を知らない者たちからすれば二人が親子だとは考えづらいだろう。なぜなら親子というよりかは、恋人同士──それ以上に感じられた。
「もし死にたくなってもそこに電話して! 悪いようにはしないから!」
 “ママ”に夢中だったジータは最後にとんでもない言葉を残し、男と一緒に人混みに紛れて行ってしまった。
「……ふふ。嵐のような子だったな。ジータ、というのか。……これは、パンデモニウムグループ!? あの大企業の……!」
 その背を唖然としながら見つめていた男は軽く笑って気を取り直すと、渡された名刺を見る。さっきまで死のうとしていたとは思えないほどに清々しい顔だ。
 だがすぐにその顔色は変化する。なぜなら名刺には信じられないことが書いてあったからだ。
 パンデモニウムグループ。知らない人間などいないであろう大企業。まさかあんな若い子が……!? と男は目を白黒とさせた。

   ***

「休憩ですか? ジータさん」
「あ、おじさん。うん、ちょっと風に当たりたくなって」
 雲ひとつない青々とした空。春を感じさせる優しい風を感じながらジータはパンデモニウムの所有する研究施設の屋上から景色を眺めていた。
 すると背後から男の声。隣に立った白衣の男はいつの日かジータが声をかけたオメガの男だった。
 後日名刺に書かれていた番号に電話をしてきた彼は本人の経歴を買われ、見事このパンデモニウムグループの一員となり、ジータの部下として働いていた。
 男にとってバース性に振り回されず、才能を発揮できる今の職場はだいぶ働きやすいようで表情もすっきりとしたものだ。
「本当にジータさんには感謝してもしきれない。あなたのお陰で俺は救われた」
「救っただなんて、そんな大袈裟な」
 ジータの行動原理は自分の運命である母親、ベリアルのため。正直ほかの人間がどうなろうと興味はないのだが、それでも男はジータに多大な恩義を感じているのか真剣な面差しだ。
「いいえ。本当です。あなたの優しさに俺は……。元の職場のアルファたちにもあなたの爪の垢を煎じて飲ませたいくらいですよ」
「私、優しいかなぁ……?」
 声をかけた理由は本当になんとなくだった。
 学校帰り。今から帰ると電話したところ、近くにベリアルがいるということであの場所で待ち合わせをしていた。
 その際にオメガの彼を見つけ、今にも飛び降りそうだったのと、まだベリアルが来ていないということで話しかけた。まさか自分と同じ分野の人間だとは思わなかったが、優秀な人材ならば何人いてもいいと名刺を渡した。
 仮に死にたくなって連絡をしてきても使い道はある。男がどちらを選ぼうとジータにとっては有益な存在。
 だからこそ内に秘める感情を苦笑いで隠すと、優しいかな? と疑問を口にした。
「少なくとも俺はそう思ってますよ。現にあなたはお母さんのために神に抗おうとしている。……俺も見てみたい。オメガがその性別ゆえに苦しむことのない未来を」
「だいぶ期待されてる感じ? うふふっ。オメガの人たちのためじゃなくてママ一人のためにだけど、頑張らないとね」
 ベリアルをオメガの苦しみから解放する。そのために研究と実験を繰り返す日々。
 いつか絶対に実現してやるんだ。ジータは力強い眼差しで空を見上げ、姿も名も知らぬ神に宣戦布告。
 男もジータの顔を見て、同じように空を仰ぐのだった。