その日、カラスバは少しだけ嫌な予感がしていた。
特になにが、という確たるものはない。ただ、なんとなくサビ組事務所に行きたくないような?
かといって異次元ミアレの調査報告もしなければならないので、気のせいだと己に言い聞かせてホテルZを出た。
昼下がりのブルー地区。事務所は特に変わりなかった。門番も、一階にいるまっさらアネゴも、いつもどおり。
目的はひとつ。顔を出して、要点だけ伝えて、さっさと帰る。
(……あん人、ちゃんと睡眠取ってんのか? オレにはベッドで寝ろゆうけども)
エレベーターに乗り込み、セイカがいる部屋のボタンを押せば動き出す鉄の箱。
無機質な駆動音を聞き流しながら、自然と脳裏に浮かぶのはサビ組ボスであるセイカの姿。
データ解析の他にもボスとしての通常業務もある。数日前会ったときは徹夜しているとも言っていた。
カラスバには睡眠を取るように促しても、自分のことになると途端に疎かになる彼女。無理をしていなければいいが……。
(……なに考えてんねんオレ)
別に恋人でもないのに。相手の距離感がおかしいだけで。
そうは言っても、毎回カラスバは絆されてしまっているわけだが。
浮かんだことを振り払うように数回かぶりを振ると、ちょうど部屋に着いた。
扉が開き、床を見ていた顔を上げて部屋へと踏み出せば。
「っ!?」
エレベーターの前に立ちはだかるようにいる女に、カラスバの肩が跳ねた。
──セイカだ。カラスバのことを待っていたように腕を組んでいる彼女は普段と少し……いや、だいぶ違っていた。
紫のドレスシャツにネクタイ。黒のトラウザーズ、そして肩に無造作に掛けた独特のデサインのジャケットは見慣れた姿だ。
だが、その目元にはクマが色濃く落ちている。
顔色はいつもより白く見え、不健康。瞳には妙なとろみがある。
眠気なのか、疲労なのか。それともその両方か。
とにかく。ろくでもない状態だというのはひと目で分かった。
──ああ、嫌な予感がする。
「……セイカさん?」
とりあえず呼びかけてみるも、返事はない。
カラスバを見ているようで見てない目をしたセイカは、無言のまま一歩。また一歩と近づいてくる。
パンプスが床を鳴らす度、こつ、こつ、と上品な音が奏でる。
(近いねんアホ!!)
近づかれるごとにカラスバは後ずさりしていく。しかし、背後はエレベーター。逃げ場はない。
ヒールの分だけ目線が高く、それがまた妙に怖い。
それに加え、ボスとしての圧があり、今日はそこへ寝不足の異様な気配まである。
背中には硬い感触。目の前には無言の女。
カラスバの顔の左右に手をつき、黒いまなざしが閉じ込めてくる。
口元が引きつってしまう。オレは殺されるんか……? と一瞬想像してしまうくらいには、セイカの威圧感は凄まじかった。
「……ちょ、待ってください。なんですの、その顔」
相変わらず返事はない。セイカは、じっとりと重苦しい眼差しをカラスバに向けたまま。
カラスバの頭に警鐘が鳴り響く。
あかん。やばい。逃げへんと。
けれどこうして至近距離で見るセイカの凛とした顔立ちに、謎に胸が高鳴ってしまうのも事実。
このままだとおかしくなってしまう。
なんとか距離を取ろうとセイカの肩を押そうとした、次の瞬間。
「わっ──!?」
セイカは壁についていた両手を不意に下ろし、そのままカラスバへぎゅうっと抱きついた。
背中に感じる腕の感触。頬に当たるセイカの瑞々しい肌。
カラスバの平らな胸に柔らかな膨らみが優しく潰れ、香水なのか彼女本来の香りなのか、とてもいい匂いが鼻腔をくすぐる。
全身を包み込む甘やかな熱にカラスバはショートしてしまうが、すぐに我に返ると、
「うわぁぁーーっ!! なにすんねん!?!?」
反射的に裏返った情けない声が部屋に響く。
普段から距離がおかしいとは思っていたが、まさかの展開に全身の穴という穴から変な汗が出てくるようだった。
セイカはカラスバの反応などお構いなしで彼の肩口へと顔をうずめると、すぅ……と大きく息を吸う。
「……いい匂いだねぇ、カラスバくん」
「は……? はぁ!? なにして……!?」
「はぁ……ちっちゃいのに、男らしいところもあって……」
匂いを嗅がれ、カッとカラスバの顔に朱が差す。
いくらなんでもやり過ぎだ。さり気なく失礼なことも言われたが、今のカラスバはそれどころではない。
朝、眠気覚ましにシャワーを浴びたのはいいが、それから時間も経っている。汗だって多少は掻いているはず。
ダイレクトに羞恥心を刺激してくるセイカに怒りやらなんやらが湧き上がり、どうにかなってしまいそうだ。
肝心のセイカは再び深呼吸をするようにカラスバの香りを自らの肺へと送り込む。
「なにまた吸っとんねん!」
「ふぅ……いつも異次元の調査、ありがとうねぇ……」
アカン。会話が成立してへん。
カラスバは腕に力を込め、引き剥がそうとするもこれが意外に離れない。
華奢な見た目に騙されがちだが、セイカはストリートチルドレンとして厳しい環境を生き抜き、裏社会のボスとしても場数を踏んでいる女だ。
しかも今は──普段もカラスバに対して理性があるのか不明だが、思考がどこかに吹き飛んでいるせいで遠慮というものが欠片もない。
「離せやー! アンタはまず寝ろ!」
「うん……」
お、とカラスバは一瞬だけ希望を見た。が。
「じゃあカラスバくんを抱き枕にするね……」
「なんも聞いてへんやないか! じゃあ、てなんやねん! じゃあ、て!!」
ピカチュウのようにほっぺすりすりを繰り出しながら、甘ったるい声でセイカは呟く。
カラスバはもちろん抗議するが、その抗議も空しくセイカはカラスバの手首を掴んだ。
そのまま半ば引きずるようにして、近場のソファへ連れ込まれる。
もちろん踏ん張ろうとしたが、引っ張る力が強すぎて止まれない。本当にどうなっているんだ、この人は。
「待っ、待てや! いやほんま、待っ──」
どさり。
あっという間にカラスバはソファの奥側に押し倒され、セイカが隣に滑り込むように横になる。
がっしりと抱きかかえられ、カラスバの脚の間にはセイカの片脚が差し込まれた。
こんなことをされたのは当然初めてであるカラスバは、いつもの生意気さはどこへやら。混乱状態に陥っていた。
「よし……」
「よし、やあらへん! っ、く……! こンのぉ……馬鹿力がッ……!」
セイカは満足そうに息を吐くと、そのままカラスバの頭を自分の胸元へぎゅう、と押しつけた。
完全に抱き枕扱い。が、それよりも。
──柔らかい。
柔らかいし、温かい。
遠い昔。こんなふうに母親に抱きしめられたことがあるような懐かしさを感じる。昔すぎて記憶なんてほぼないのに。
ほのかに甘い香りもするような気がして、カラスバの意識がぼうっと遠くなっていく。
当たり前だ。相手は怖さと色香を兼ね備えた年上の女で、アンニュイな雰囲気を纏う毒使い。
しかも普段なら絶対こんな距離にならない。なってたまるか。
「……落ち着く」
「オレが落ち着かへんねん!」
じたばた暴れてみるが、しっかりと抱きしめられていて抜け出せない。
疲労困憊しているはずなのに、逆にビクともしないのが腹立たしい。
誰か──。必死に顔を逸らし、助けを求めるように視線を泳がせる。
エレベーターから出ていきなりセイカが襲ってきたので忘れていたが、この部屋にはジプソがいるはず。
セイカの右腕である大男。
「ジプソさん! おるんやろ!? 助けてくれへん!?」
遠くの方。こちらに向かってくる気配と靴音にカラスバは救われたような気がしたが、彼は大事なことを失念していた。
ここで助けてくれるなら、そもそも最初からボスの暴走を止めに入っている。
つまり。
「カラスバさん。セイカさまをよろしくお願いいたします」
顔を上げた先にぬうっ、と現れた強面の男はなぜか非常に穏やかな顔をして一礼すると、そのまま静かにエレベーターへと消えていく。
助ける気は、ゼロである。
「な、ちょお待って──」
カラスバの叫び虚しく、鉄の箱が閉まる音が聞こえた。
「裏切りもんが……!」
吐き捨てるように言っても、当然返事はない。そもそもジプソは裏切ってなどいない。彼の主はセイカなのだから。
当のセイカはというと、もう半分くらい意識が飛んでいるようだった。カラスバの頭へ顔を寄せ、呼吸がゆっくりになっていく。
「……ん」
「おい、寝るなや」
「……すぅ」
寝た。
いや、マジで寝るんかい!
カラスバは脱力しかけた。だが現実問題、このままでは自分が困る。
セイカの腕の中から抜け出そうと、もう一度だけ慎重に体をひねる。
すると押してしまっていたのだろう、セイカの体がソファの縁から落ちそうになった。
「っ!」
その瞬間。カラスバの片腕がセイカを抱きとめていた。寸でのところで落ちずに済み、ふぅ……と胸を撫で下ろす。
(いや、なに安心してんねんオレ!)
このまま落とせばこの状況から脱することはできた。けれど、体が無意識に動いていた。
数秒考えたカラスバはため息をつくと、自ら奥へと体を押し込み、セイカを抱き寄せる。
もう落ちないように、しっかりと背中に腕を回しておく。
視線でセイカの目元を辿ると、さっきよりもはっきりと濃いクマが見えた。
普段なら隙なく美しい顔立ちが、今は疲労に削られている。
おそらく何徹目かの状態で、それでも無理して仕事をしていたのだろう。そう思うと、ここで本気で振りほどくのも気が引けた。
「……なんでオレが」
ぼやく。
もちろん答える者はいない。
だが、抱きつかれたままじっとしていると、セイカの呼吸は少しずつ穏やかになっていった。
完全に安堵しきった寝息。
人を抱き枕にしておいて、本人だけ気持ちよさそうに眠っている。
理不尽である。
理不尽だが。
「っ……はぁ〜〜。ほんま、高くつくで?」
最後には小さく息を吐いて、カラスバは抵抗をやめた。
どうせ力づくで離れたところで、後で面倒なことになる気しかしない。だったら大人しく抱き枕になってやる方がマシだ。
──いや、マシかどうかは怪しい。
(…………最悪や)
落ち着いたところでじわじわと、否応なしに染み込む様々な感覚。
相手は裏社会では高嶺の花のような人物だ。あまたの男が手を伸ばす女。
ふわふわとした感触。温もり。おまけにいい匂いまでして、カラスバの理性にはだいぶ悪かった。
この状況で平常心を保てる男がどこにいるのか。一応は健全な男であるカラスバには無理だった。
視界の端で天井の一点だけを見つめる。
考えるな。なにも考えるな。
そう念じても、腕の中で眠るセイカが時折むにゃ、と動くたびに余計に意識してしまう。
時間が経つのが、やけに遅い──。
***
「ん……」
どれくらい経ったのか。
ようやくセイカの意識が浮上してきたようだ。
ぴくぴくと動く目元。持ち上げられるまぶたは酷く重そうだ。
対するカラスバは額に青筋を立て、怖い顔をしたまま修行僧のようにひたすら耐えていた。
ようやく解放される……。カラスバの体から一気に力が抜けた。顔もずっと同じ表情をしていたせいか、筋肉が痛む。
「やっと起きたんか……」
「……カラスバくん?」
セイカはまだ半分眠たそうな顔でカラスバを見つめ、まばたきを繰り返すと状況を認識したらしい。数秒だけ黙ると、
「……抱き枕」
「分かっとるならはよ離せや!」
即座にツッコむと、セイカは小さく吹き出した。
「ふふ……ごめんね?」
「ごめんで済むか……」
視線を細め、まろやかな笑みを浮かべるとセイカは起き上がった。
まるで彼女に体力を吸い取られてしまったような、酷く疲れた緩慢な動きでカラスバも起き上がり、ソファの背にぐったりともたれ掛かった。
心身ともに激しく消耗している。体中、特に顔が熱いのできっと赤いのだろうと容易に想像できる。
頭もモヤが掛かったように全然回らない。
とにかく疲れた……。一日中ワイルドゾーンを駆け巡った気さえしてくるほどに。
「ありがとう、カラスバくん。君のおかげでよく眠れたよ」
「……まあ、眠れたんならええです。あとで料金請求さしてもらいますわ」
「うん。請求書が届きしだい払う……というか、いま払うよ。いくらかな?」
もともとハイライトの少ない瞳がカラスバを閉じ込める。口元の微笑みからは、なにを考えているのか分からない。
カラスバとしてはただの冗談で言ったつもりなのだが、セイカの様子からして本当に払う様子だ。
そこで思い出す。お金の話でなあなあは駄目でしょう? という言葉。
なのでこれはセイカらしい反応といえば反応である。
仮に百万と吹っ掛けてもセイカは払うだろう。
カラスバは数秒、無言になる。
そして深く、深く息を吐いた。
「今回はツケにしときますわ。……次からはちゃんとベッドで寝てください」
「うん」
「オレを巻き込まずに」
「それは考えておくね」
「絶対考えてへんやろ」
言い返しながら、カラスバは項垂れた。
セイカはそんな彼を見て、また小さく笑う。
寝不足のセイカに振り回された午後。
今日のことは早く忘れてしまおう。それがいい。
けれど、忘れてしまうのが惜しいような気も……。
そんなことを思ってしまった自分に気づいて、カラスバはますます疲れた顔をした。
終
