もしも結婚するなら、

 あの子が泣くときは、大抵ひとりで泣こうとする。
 記憶をなくす前は泣いたところなんてほとんど見いひんかったし、それを体が覚えているのか、それともあの子なりの意地なのかは、分からへん。

   ***

 ──今日は休日やのに取引先との会食。仕事やさかい、しゃあない。それでも、セイカと朝から晩までおれるはずの一日が潰れたんは痛かった。

「おつかれさまです。カラスバさま」
「おん。思うたより早く終わって助かったわ」
「……ところで、部下から気になる報告がありまして」
「なんや」

 ジプソの運転する迎えの車に乗れば、口調から嫌な予感がした。これ以上の労働は勘弁してほしいところやねんけど……。そうも言ってられへん。

「この付近でセイカさんを見かけたそうで。声を掛けたのですが走って行ってしまったそうです。あんなことは初めてだと」
「は……、」

 嫌な予感がした。
 セイカは声を掛けられて無視するような子やない。それが身内ならば尚更。
 なんで早く言わんねん! と声を荒げる。仕事やとしても、セイカより優先することなんてあらへん。

「念のためカラスバさまのパソコンからセイカさんのGPSを確認したところ、ご自宅におられましたので緊急性は低いと判断しました」
「せやけどな……!」
「もしもセイカさんの身になにかあったとしたら。セイカさん自身がカラスバさま、もしくはわたくし──サビ組に頼ります。幼い頃からそう教えていたはずです」

 ジプソの言うとおりや。冷静になればすぐ分かることやのに。
 セイカを育てることを決めた日から、なにかあったらすぐにオレやジプソ、とにかくサビ組に頼ることを口が酸っぱくなるほどに言い聞かせとった。
 今のあの子は昔と違う。もしなにか……緊急のことが起きたとしたら。自分ひとりでなんとかできる力はあらへん。迷わず連絡するはず。

「っ……そうやな。怒鳴ってすまんな、ジプソ。今日は直帰させてもらうわ」
「はい。あとのことはお任せください」

 車は夜の顔を見せるミアレを滑るように走り出す。
 いったいセイカになにがあったんや。なにもないに越したことはあらへんけど……胸騒ぎがする。
 家に帰り、玄関を開ければ真っ暗やった。いつもはセイカが笑顔で迎えに来てくれるのに、それさえない。
 それだけで、セイカの身になにかがあったんやと思い知る。
 “でんじは”をくらったように体が痺れてくる。逸る気持ちを抑え、照明のスイッチを入れながらリビングへ。
 もちろんセイカはおらん。ジャケットとネクタイをソファに放り投げて向かうはセイカの部屋。扉を隔てた先には人の気配がある。ノックをしても、返事はなかった。

「セイカ? …………入るで」

 暗い部屋。ベッドの上にうつ伏せになった背中を見て、心臓がぎゅっと掴まれたような気がした。
 部屋の明かりを点けてセイカのそばに腰掛ける。弱りきった姿に自然と手が伸びる。髪を撫でれば、ぴくりとセイカが反応し、鼻をすすった。
 音からして泣いとるのが分かった。誰かになにかされたんか……? それとも具合が悪い? 

「どないしたん? 具合悪い? ……なんでそないに泣いとるんか、お母ちゃんに教えてえな」

 呼びかけると、大きく肩が揺れた。それでも顔を上げようとしないセイカの頬に触れ、少しだけ持ち上げれば、わずかに見えた顔は酷い有様やった。
 目の周りは真っ赤。頬は涙に濡れて、鼻先も赤い。いつもの元気な顔はどこへ行った?
 今のセイカは……泣き疲れた小さい子のようにぼろぼろやった。
 オレに顔を見られたくないのか、セイカはすぐに顔を枕に伏せてしもうた。
 あまりにも弱々しくて、なにがあったか聞き出す前にセイカを胸に抱きしめていた。
 安心させるために背中を撫でる。そうすればセイカもオレに抱きついてきた。
 胸辺りの服がじっとりと濡れていくのを感じながらもう一度聞けば、セイカはしゃっくりを上げながらも少しずつ話してくれた。
 オレが知らん女と歩いてたこと。
 腕を組んでいたこと。
 組員が前に、ボスもそろそろ身を固める頃や言うとったこと。
 そこまで聞いて、なるほどなと息を吐く。
 仕事相手をエスコートしとったのを見られたんやな。色んな不安が噴き出して、どうにもならなくなった……いうところか。

「おかあさんはっ……! 私の、なのに……っ!」

 セイカは泣きながらオレの服を強く掴む。
 小さな子供のような独占欲。オレの恋人やったセイカが感じることのなかった嫉妬の念。
 泣きながら、それでもまっすぐに「私の」と言い切るセイカのあまりの必死さに思わず目を見開く。
 記憶をなくしても消えない、オレへの執着。
 それほどに想われとったんか。

「セイカがおるのに身ぃ固めるとか、そんなんあらへんよ」
「ほん……とに……?」
「ほんまや」

 誤解だと伝え、セイカに真摯に向き合えば最後は自分の気持ちに整理がついたのか、オレの胸でセイカはまた泣いた。
 記憶をなくす前のセイカも……弱ったときはオレに寄りかかってきた。せやけどこんな無防備な甘え方やない。
 もっと静かで、もっと不器用で──。
 今、ここにおるのは同じ顔をした別のセイカなんやと思い知る。……当たり前や。見た目は同じでも中身は違う。
 オレをお母さんと呼んで、泣きながら抱きついてきて。
 安心したい一心で、ただただ体温を求めてくる。
 ──可愛い。どうしようもなく可愛い。
 守ってやりたいと思う。
 泣かさんようにしたいとも思う。

(でも、その度に……胸の奥のどこかが、酷く冷える)

 結婚。セイカと出会う前のオレは想像したこともなかった。日陰モンやさかい、縁が無いてな。
 せやけどセイカと出会って、欲しい言われて……この先も一緒におりたい思うたんや。
 もしも結婚するなら、セイカだけ。
 他の誰かなんか、一度も考えたことあらへん。
 でも今オレの腕の中におるんは……オレをお母さんて呼ぶセイカ。
 同じ顔。同じ声。同じ温もりで甘えてくる癖に。
 ──もう、あの日の約束を交わせる相手やない。
 いつかの日。子分たちの前でオレを娶るて宣言したセイカは。
 籍を入れるはずやったセイカは、もうおらへん。
 せやけどオレの前でこうして泣いてるこの子も、間違いなくセイカや。
 だからこそ余計に、どうしようもなく、切ない。

「っ……すき……っ、おかあさん……」
「うんうん。知っとるよ」

 知っとる。
 その好きが、オレの欲しかった好きとは少し違うことも。
 かつてのセイカが言うてくれへんかった言葉を、この子は何度も何度も伝えてくれる。それは嬉しい。
 でも……違うねん。この子の好きは親に対する愛情。
 それでええと思うしかない。それ以外は思ったら、あかん。

「だいすき……っ、だから……やだ、だった……の」
「……ごめんな」

 今回のことも。そしていつかまた、きっと同じように不安にさせてしまうことへの謝罪。
 だからその度に抱きしめて、言葉を尽くさせてほしい。

   ***

「せやからセイカ。オマエもオレをほんまのお母ちゃんみたいに思うてぎょうさん甘えてや。歳なんて関係あらへん。いつだってカラスバお母ちゃんが受け止めたる。大事な大事な子やさかい。当たり前やろ?」
「──うん……!」

 泣きすぎて熱を持った瞼に、そっと口づけた。
 こういうのも本当なら違う意味でしたかったんやけどな、なんて考えてしまう自分に苦笑する。
 オレはたぶんこの先もずっと、目の前のこの子を守るしかできへんのやろう。
 恋人として手を取ることはできへん。
 せやけど手放すことも、きっとできへん。
 それならせめて、泣いたときにはこうして抱きしめて、安心して眠れるようにしてやりたい。

「……お母さん」
「んー?」
「だいすき……」
「…………」

 泣き疲れて、とろとろに溶けた声でセイカはふにゃりと笑うと、そのまま意識を手放した。
 胸の奥がどうしようもなく熱くなる。この気持ちが顔を出さんよう、無理やり押し込める。
 これは遊びやない。オレはこの子のお母ちゃんになったんや。せやからこの気持ちを認めたらあかんねん。
 なあセイカ。オレもオマエのこと大事やで。
 せやけど、そんなヌルい言葉や足らへん。
 愛している。
 この世の誰よりも。
 でも、この言葉は親としては言えへん。だから、堪忍な。
 眠るセイカを抱きしめ、やわこい感触に息を吐く。
 今日もオレは、お母ちゃんとしてこの子のそばにおる。
 ほんまは別の呼び名で隣におってほしい癖に。
 それでもこうして腕の中におってくれるだけ、まだ救われとるんやろうなと、眠るセイカの体温を抱きしめながらオレはひとり静かに目を閉じた。