結婚するの?私以外の人と

(今日はロワイヤルに参加しようかな。お母さんも仕事でいないし……少しくらい門限破ってもいいよね)

 夕暮れ。観光地として賑わうミアレシティの一角にセイカの姿はあった。
 今日は休日。朝からワイルドゾーンに行ったり、買い物をしたりとひとりの時間を満喫しながら、セイカはこれからの予定を組み立てていく。
 母親──カラスバも今日は仕事で遅くなると言っていた。
 いつもならば彼も休みなのだが、どうしても外せない仕事があるらしい。
 大好きな母親と過ごせないのは胸に冷たい風が吹き抜けるようだが、彼は組織のトップ。我儘は思っても口にすることはなかった。
 あと少しすればロワイヤルの開催時刻になる。その前に一旦家に戻り、荷物を置いて、準備する。
 まだ学生ゆえに門限の約束があるが、普段守っている分、ほんの少しなら。
 まだ始まってすらいないのに思い切りバトルできる時間を想像して、セイカは鼻歌交じりで建物の角を曲がると。

(あれって……)

 その姿を見た瞬間。胸の奥に重苦しい空気が満ちていくような気がした。
 サビ組ボスの姿をしたカラスバが、美しい女性と腕を組んで歩いている。
 ほっそりとしているが、カラスバよりも背が高くて出るところは出ているスタイルは、同性であるセイカでも魅力的だと感じた。
 ふたりはそのまま店の中へと消え、その背を見送ることしかできない。
 ただエスコートしているだけ。仕事だ。組織の長なのだから、しなければならない場面があるのは理解している。
 しているが、心に思うことは別。

(やだ……)

 胸の中心ががひび割れていく。
 初めてこのような場面に遭遇したせいか、数日前に耳に入った言葉が最悪の形で蘇る。

「ボスもそろそろ身を固める頃やろ」
「あの顔だし、相手なんか選び放題だろうな」

 偶然聞いてしまった、したっぱたちの会話。
 カラスバの年齢を思えば、相手がいてもおかしくない。
 彼に惹かれる者が多いことくらい、セイカだって知っていた。
 けれどセイカにとって彼は血の繋がりはないが母親。唯一の家族。と、同時に親に向けるには重いほどの執着があった。
 話を聞いたときだって鈍器で頭を殴られたような衝撃があったが、それでもただの会話。
 そのときは流したが、この目で見てしまうと妙に現実味を帯びてきてしまう。
 あの人は本当に仕事だけの人?
 身を固める。結婚する。
 ──お母さんが、誰かのものになる……?

(やだ、やだ、やだ……っ……!)

 ぎゅっ、と胸元の服を掴む。
 ここが酷く痛い。呼吸も浅くなって、足に力を入れなければ今にも崩れてしまいそうだ。
 本当はあの場に駆け寄って、腕を引き剥がしてしまいたかった。でもそんなことは絶対にしてはいけないのも分かっている。

(お母さんは、私のなのに)

 その一言が頭の中で何度も反響し、どうにもならない。
 じわりと目元が熱くなるのを感じて、セイカは衝動に任せて駆け出す。楽しかった時間、これから始まるはずだったバトルへの高揚感。すべてが黒く塗り潰されていく。

「あっ、お嬢──」

 途中でしたっぱの組員に声をかけられたが、セイカには聞こえておらず、気づけば自分の部屋へと戻ってきていた。
 どういうルートで帰ってきたのかも定かではない。しかし、安心して己をさらけ出せる場所に帰ってきたことで、ずっとせき止められていた青い感情が決壊した。
 服に皺が寄るのも気にせず、ベッドにうつ伏せになると次から次へと涙があふれて止まらない。
 声も漏れてしまい、まるで小さな子供のよう。
 あれはただの仕事。こんなことで取り乱すなんておかしい。
 でも、駄目だった。

「っ、ひ……ぅ、やぁ……」

 喉の奥から変な声が漏れる。止まることを知らない雫は枕に吸い込まれ、じっとりと湿っていく。
 鼻もツンとして、息を吸う度にぐずぐずと情けない音が鳴った。
 みっともない。こんな姿晒したくない。なのに、どうしても止まらない。

「っ、ふ……おかあ、さん……っ」

 縋るように呼んでも当然来てはくれない。それが余計に苦しい。
 今頃なにをしているのか。あの人とまだいるはず。
 想像力豊かな脳は嫌な想像ばかり勝手に流していく。
 ひっく、ひっく、としゃっくりも出てきた。うまく息が吸えない。
 泣き止みたくて、手の甲で乱暴に目元を拭ってもすぐにまた顔はぐしゃぐしゃになってしまう。

「やだ……っ、やだよぉ……っ」

 お母さんが盗られる。自分の知らない人と、どんどん遠くへ行ってしまう。
 たとえあの女性でなくても。いつかは結婚してしまうかもしれない。
 泣き続けているうちに、こめかみの奥がじんじんと痛み始めてきた。喉もヒリつき、しゃっくりが出る度に酸素がうまく吸えない。
 鼻水は垂れてくるし、目の周りは熱を持ってずん……と、重たい。
 苦しい。痛い。つらい。体よりも心の方が今にも砕けてしまいそうなくらいだ。

   ***

 ──どれくらいそうして泣いていただろうか。不意に扉の向こうで足音が止まった。
 控えめなノック音でぼうっとしていたセイカの意識は引っ張られ、顔を上げれば部屋が真っ暗なことに気付いた。帰ってきたときは薄暗かったので、だいぶ時間は経っていそうだ。

「セイカ? …………入るで」

 優しい声だった。
 聞き慣れた、大好きな声にセイカはびくりと肩を揺らす。そばにいてほしいと願った人が、帰ってきた。
 嬉しいはずなのに、酷い顔を見られたくなくて会いたくないという気持ちも湧いてきた。
 セイカが返事をできないでいると、部屋の外にいる人物が扉を開けた。
 ジャケットやネクタイを外した姿のカラスバが照明のスイッチを入れた。パッ、と部屋が明るくなり、セイカの視界に光が広がる。
 足音が近づいてくる度に、先ほどまでの苦しさとは違う意味で胸がいっぱいになっていく。
 ベッドの端が沈み、大きな手が髪に触れた。落ち着かせるように往復する動きからは慈しみが感じられ、カラスバの愛情に枯れたはずの雫がまた滲んだ。

「どないしたん? 具合悪い? ……なんでそないに泣いとるんか、お母ちゃんに教えてえな」

 髪を撫でていた手がセイカの頬に触れ、少しだけ顔を持ち上げた。
 真っ赤になったぐずぐず顔。
 気遣いの言葉がどうしようもなく嬉しくて、今すぐにでもその胸に飛び込みたいのに。セイカは取り乱した理由を恥じて顔を冷たい枕に押し付けた。
 カラスバには幸せになってほしい。なにも覚えていない自分を育ててくれた彼には。でも、その隣に知らない誰かがいるのは耐えられない。たとえ彼が選んだ人だとしても。
 彼の隣には自分がいたい。いつまでも、ずっと。自分の手で幸せにしてあげたい。離れることなんて考えられない。
 なにもなかった自分に、ただひとつ残っていた感情。
 カラスバのそばで育っていくうちに、それはもはや、執着と呼ぶしかないものになっていた。
 彼に対するこの強い想いを捨て去ることなんて──できない。

「セイカ。ほら、おいで」
「や、だ……っ、ぐすっ……」

 腕を引かれ、セイカは半ば無理やり体を起こされた。酷い顔を見られたくないという乙女心を知ってか知らずか、そのままカラスバの胸に抱き寄せられる。
 ワイシャツ越しに感じる胸筋。彼の香り。背中を撫でる手はセイカに安心感を与え、セイカは縋るようにカラスバの背に腕を回して抱きついた。

「なにがあったん?」
「っ……」

 答えようとして、また喉が詰まる。勝手な想像をして、勝手に泣いているだけなのだ。
 けれど一度持ってしまった疑いは、そう簡単には拭えない。本人の口から聞かなければ解決しない。
 なのに、うまく喋れない。

「お、おかあさん……っ」
「うん」
「きれ、いな……ひと、と……っ、ぁ、歩いて……たっ……」
「あー……」

 しゃっくりを上げながらも頑張って訳を話してくれたセイカの背を撫でながら、カラスバは状況を察した声を出した。
 だが冷静な状態ではないセイカはそれどころではない。一度出してしまったら、もう止まらなかった。

「やだ……っ、おかあさん、結婚したらやだぁっ……!」

 カラスバの胸に強く顔を押し付け、イヤイヤと首を振りながら懇願する。

「ほ、他の人の……ものに、なったら……っ、やだ……っ」

 しゃくり上げる度に肩が上下し、大粒の涙がワイシャツに大きな染みを描いていく。

「セイカ」
「おかあさんはっ……! 私の、なのに……っ!」

 どうしようもない独占欲。
 みっともなくて、情けなくて。それでも止められない本音。
 ──カラスバは目を丸くした。まさかそんなことを考えていたなんて、と驚いたように。
 けれど次の瞬間にはふっ、と表情を和らげると、セイカの肩を優しく離した。
 くしゃくしゃの泣き顔は、普段は元気いっぱいの彼女とは思えないほどに乱れている。
 ぼろぼろとこぼれ落ちる雫をカラスバは親指で拭うと、語りかけるように紡ぐ。

「セイカ。誤解や」
「っ……ふ……」
「あの人は仕事相手。それ以上でも、それ以下でもあらへん。エスコートせなあかん場面やっただけや」

 濡れた瞳が見開かれる。
 彼のその言葉だけで、内部に巣食っていたネガティブなイメージは霧散していく。

「セイカがおるのに身ぃ固めるとか、そんなんあらへんよ」
「ほん……とに……?」
「ほんまや」

 視線が交わる。
 優しく言い切られ、セイカの体から少しだけ力が抜けた。それでもまだ、不安の種は完全に消えきらない。母を疑うなんて、という気持ちはあれど、大事なことだからこそ納得いくまで聞きたい。

「どこにも、いかない……?」
「行かへんよ」
「わたしの……おかあさん……?」
「当たり前や」

 堂々と言い切るカラスバにセイカの顔がぐしゃりと歪む。心の奥底で張り詰めていたものが、ぶつりと切れたような気がした。

「ぅ、あぁ……っ、おかあさぁん……!」

 セイカはたまらずカラスバの胸に飛びついた。
 もう泣きたくないのに。今度は安堵の涙が止まらない。
 ぎゅうぎゅうとカラスバを抱きしめれば、彼もセイカをしっかりと抱きとめて安心させるように背中を撫でた。

「ほら、ゆ〜っくり息吸いや。まずは落ち着こ。な?」

 大きな手で触れられると、呼吸も少しずつ整っていく。

「っ、ひ、ぅ……ふ、ぅ……」
「せやせや。その調子。ええ子やね」

 小さな子をあやすような声音で頭をよしよしと撫でられた。もうそんな歳じゃないのに。でも、甘やかしてくれるのが、どうしようもなく嬉しい。
 確実に落ち着いていく呼吸。それでもまだ少し涙が出てしまう。
 セイカだって早く泣き止みたいのだ。こらえるように声を抑えると、

「泣いてええから、ちゃんと息しぃ」

 ぽん、ぽん、と背中を叩かれる。
 その優しいリズムに合わせるように静かに息を吸って、吐いて。
 目を閉じれば感覚が鋭敏になり、背から広がる温かさはまるでチルタリスの羽毛に包まれているような。

「っ……すき……っ、おかあさん……」
「うんうん。知っとるよ」
「だいすき……っ、だから……やだ、だった……の」
「……ごめんな」

 頭を抱き寄せられ、深く抱きしめられる。
 小さな呟きだった。
 様々な思いが込められた謝罪なのだと、セイカにはすぐ分かった。
 きっとこれから先も不安定になる度にカラスバはセイカと真摯に向き合い、言葉と行動を尽くすのだろう。
 アズール湾よりも深い愛情を受けてセイカはようやく泣き止むと、胸を撫で下ろしたが、泣きすぎたせいか。頭の痛みがぶり返す。
 喉もカラカラに乾いていて、鼻詰まりも酷い。
 カラスバの胸の中でセイカは眉を寄せ、小さく呻いた。

「あたま……いたい……」
「まあ……これだけ泣いたら痛なるわな。ちょっと待っとき。薬と水もってくる」

 そう言ってカラスバはセイカから離れた。行かないで、とセイカの心は訴え、喉元までせり上がってきたが我慢。
 ひとりの部屋は当たり前のはずなのに。今はとても寂しい。
 お母さんにいっぱい甘えたい。たくさん抱きしめられたい。落ち着きは取り戻しても、未だセイカの中には小さな子供がいた。
 ──カラスバはすぐに戻ってきた。手には水の入ったコップと痛み止めを持って。

「ほら、先に少し飲み。喉もひりひりするやろ?」

 ベッドサイドに腰を下ろしたカラスバに促され、セイカはコップに口をつけた。
 冷たい水が喉を通れば、痛みがわずかに和らぐ。薬も飲んだのでしばらくすれば痛みは引いていくだろう。
 けれど泣き過ぎて熱を持ったまぶたは重く、思考にモヤが掛かっている。全身から力が抜けていき、指先まで気だるい。

「きもちわるい……ねむい……」

 こうなったらもう寝てしまおう。ウトウトとセイカのまぶたはくっつきそうになる。
 隣に座るカラスバの胸にこてん、と頭を預ければ彼はセイカを抱いたまま足を引き上げ、ヘッドボードにもたれ掛かった。
 セイカの顔はカラスバの胸元に。うつ伏せの状態で耳を澄ませば、一定の速度で脈打つ音が聞こえる。
 心音がもたらす安らぎに意識が遠くなっていく。

「起きる頃には薬も効いとるやろ。せやから今はおねんねしよか」
「……お母さん」
「ん?」
「迷惑かけて……ごめん、なさい……」

 あと数年で成人だというのに、このていたらく。結婚するかもしれないという勝手な思い込みで泣き喚いて、みっともない姿を見せてしまった。
 実子でもキツいものがあるだろうに、血を分けていない子ではどれほどだろうか。
 血の繋がりのない子供を引き取って育てる。その大変さは分かっているつもりだ。
 甘えつつも、極力面倒をかけないようにしてきた。それなのに。
 カラスバはそんな薄情な人間ではないと分かっている。それでも謝らずにはいられなかった。
 セイカの言葉に、彼女の背を撫でていた手が止まる。

「…………オレはな。セイカ。オマエと血の繋がりはあらへんけど、自分の娘や思うて一緒におるんよ。この先だって、ず〜っとや」

 セイカの背を抱き、後頭部も包み込む。
 深く抱きしめられ、セイカが顔を上げるとサビ組のボスとは思えないほどに穏やかな目でこちらを見ていた。

「せやからセイカ。オマエもオレをほんまのお母ちゃんみたいに思うてぎょうさん甘えてや。歳なんて関係あらへん。いつだってカラスバお母ちゃんが受け止めたる。大事な大事な子やさかい。当たり前やろ?」
「──うん……!」

 セイカが頷けばカラスバはたまらず目を細め、泣き腫らしたまぶたにそっと口づけた。
 触れるだけの優しいキス。母が子にする愛情表現に、胸の奥にわだかまっていた黒いものがようやく静かになっていく。
 まだ少し痛む頭も、ひりつく喉も、泣きすぎて重たくなったまぶたも、今はもうどうでもよかった。
 カラスバの腕の中は温かくて、背中を撫でる手はどこまでも優しい。
 お母さんはここにいる。
 私のそばにいてくれる。
 それだけでもう、充分だった。
 頬を胸元に押しつけると、安心した体から力が抜けていく。
 このまま眠ってしまっても大丈夫だと、なんの疑いもなく思えた。

「……お母さん」

 蕩けるような眠気の中で呼べば、頭の上から「んー?」と柔らかな声が降ってくる。
 それが嬉しくて、セイカは小さく笑った。

「だいすき……」

 返事を聞くよりも早く、意識がふわふわと沈んでいく。
 最後にもう一度だけ背中を撫でられた感触を覚えながら、セイカは安らかな眠りに落ちた。