青い空の海に浮かぶ太陽は今日も世界に燦々とした光を降り注ぐ。
平和そのものの空気を醸し出すが、数ヶ月前には堕天司の王と世界を賭けた大きな戦いがあった。
そんな戦いがあったという知らせも届かないような小さな島。ひと目で自然が豊かな土地だと分かる島の一点には、青々しい空には似つかない荒れ果てた村の姿が。
大きな魔物に襲われたのか。家屋は上から衝撃を与えたように潰れ、周囲には死の色と香りが染み付いていた。
「…………」
村の奥まったところにある小さな建物は奇跡的に無傷であり、診療所と思われる設備がある部屋の一室では絶望という言葉を体現する男の姿があった。
彼の目の前には天井からぶら下がるロープ、椅子。これがなにを示すのかは、言わなくても分かるだろう。
男はこの村で唯一の医者だった。愛する妻に心優しき住民たちに囲まれて平穏に暮らしていた。……つい先日までは。
突然変異の魔物。通常の魔物よりかも大きく、強い魔物は飢えを満たすために凶行に及んだ。逃げる村人たちを無差別に襲い、喰らい、破壊の限りを尽くした。
男は家に残していた身重の妻の安否を確認するため、逃げ惑いながらも自宅への道を走ったがその途中で魔物の攻撃で崩れた建物の一部に吹き飛ばされ、気絶。
意識を取り戻すと──自分以外の命はなかった。
幸か不幸か飛ばされた先が見えにくい場所だったのだ。
ひとり生き残った男は最初は生き延びた人間がいないか探した。しかしそれはすぐに無駄だと思い知った。
誰もいなかった。最愛の妻。生まれてくるはずだった我が子。
なにも、かも。
「なぜ俺だけ生き残った……!? なぜ……ッ! こんな、こんな思いをするなら……俺もみんなと一緒に喰われ、」
首を括るための縄の輪に向かって懺悔をするように声を絞り出したとき。
外から音がした。
今から死ぬというのに本能というのはどこまでも忠実だ。男は反射的にその場にしゃがみ込み、音の発生源を探るために耳をそばだてる。
なにかを引きずるかのように重そうな足取り。けれど魔物と違ってそこまでの重量は感じられない。
(まさか生存者……!?)
男は瞠目すると駆け出したい気持ちを抑えつつ、抉られた道が広がる窓際へと移動し外の様子を伺う。
するとどうだ。白いローブを羽織った若い女がゆっくりと歩いているではないか。しかもその腹は不自然に膨れ、妊婦だと男が知るや否や女性は苦しそうに地面に膝を付いてしまう。
脳裏をよぎるのは医者という使命感。身重の妻。
「っ……ッ……! くそっ!」
男は駆け出す。頭で考えるよりかも先に。
「さあ俺の肩に掴まって! 中に休める場所がある!」
「あなたは……?」
顔を上げた女性の顔は汗が止まらず、苦しげだ。それでもなお、美しいと感じさせる美貌の持ち主。
金髪のショーヘアに黒いヘアバンド。白を基調にしつつ黒も混ざるフードが付いたローブを羽織る体は、タイトな黒のミニワンピという非常に煽情的ながらもどこか気品を感じられた。
「俺は医者だ! 必ずあんたを助ける!」
腹の底からの叫びは男の決意の現れ。
戸惑う女性に肩を貸しながら中へと入り、清潔なベッドに寝かせると彼女を見る。
緊急事態に不埒かもしれないがやはり美しい。下心ではなく、芸術品を見ているような。
もしこんな美女がいたならば村の誰もが知るであろうが、男には見覚えがない。
やはりこの村の人間じゃない。外から来たのだと分かるが、なにもない島にわざわざ訪れる者は稀有。彼女はいったいなぜこの島に?
「ぅ……!」
「大丈夫か!?」
女性は額から汗を流し、苦しげに呻く。膨れた腹に両手を当て、その様子は今にも産まれそうな。
出産のときは助産師のサポートとして立ち会ったことが何回もあるので知識はある。
眉を寄せ、目には鋭さが戻っていく。これは医者として生きてきた本能だろうか。今の今まで死のうと考えていた人物とは思えないほどに決意に満ちた顔つきになると、必要なものを揃えるために動こうとするが。
「ぅま……れ、るっ……! あっ、ああああーーっ……!! あ……っぐ、あぁ……! あ、ぁぁあああッ!!!!」
「なっ……!?」
女性が叫ぶのと同時に腹部からは闇色の光が眩しいほどにほとばしる。
天へと向かう光に抗うことなく背を反らせ、腹部を強調するような体勢になると、膨らんだところから闇の球体が皮膚をすり抜けて浮かび上がった。
男は思わず腰を抜かしてしまう。自分は夢を見ているのか。こんな出産見たことがない。そもそもあれは人間なのか?
いいや。違う。もしや彼女は魔物で、これは魔物の子なのか? とも考えたがすぐさまそれも“違う”という言葉が浮かんだ。
少しずつ闇の光は収束していき、見えたのは羽に包まれたなにか。それはゆっくりと羽を広げていき、この世の終わりを感じさせる十二枚の羽を完全に開ききるとようやく姿を確認できた。
ひと目見たときの感想は人で例えるなら一歳ほどの大きさをした人型の炎。闇色の炎。顔はパーツがはっきりとあるわけではないが、ぼんやりとは分かる。
手足の一部は鎧に包まれ、口のない顔から赤子の「きゃっきゃっ」という無邪気な声を出しながら母のそばに寄ると、甘えるように身を寄せる。
疲労困憊ゆえに女性は言葉を発することはなかったが、我が子の誕生に涙ぐみながら子の頭を撫でた。
異常な出産。異形の存在。恐ろしいはずなのに男はまるで神の生誕を見ているような感覚に陥る。神秘的な場面に立ち会えたことに感動すら覚える。
だが和やかな時間は終わりを告げた。大きな地響き。揺れる部屋。ズン……ズン……! という音と揺れは大きくなる一方。まるで死の気配が向かってきているようにも思えた。
(アイツだ……!)
例の魔物。耳にこびりついて離れない人々の悲鳴が響く。自分には魔物を倒す力なんてない。女性も無理だろう。残るは異形の存在だが……。
「あ、おい!」
どう行動すべきか逡巡していると、殺気を察知した異形は不機嫌そうに声を上げると母から離れ、外へと向かう。
あんな小さな体でなにができるというのか。男は女を見るが我が子のことを信じているのか、その顔は安心しきっていた。
「無茶だ! あんな小さな体でなにが……! 外にいる魔物は……村を壊滅させた突然変異の魔物だ。今まで見たことがないくらいに大きく、強い力を持っている! あの子が特別なのは分かる。だが生まれたばかりの子どもが……!」
「大丈夫。あの子は強いよ。私とルシファーの子どもだから」
本当になにも心配していないのか女性は身を起こすとヘッドボードに寄りかかり、形のいい唇を艶っぽく持ち上げ我が子が消えていった廊下を見遣る。
「グオオォォォッ!!」
空気が震えるほどの叫び。地の底から出しているかのように低い声は威嚇をしているように感じられ、なにも役に立たないと分かっていながらもここで待っていることなどできず、男は外へと駆け出す。
来訪者はやはり殺戮の限りを尽くした魔物だった。異形の赤子と比べ何倍もの大きさを誇る巨体は恐れるものなどないはず。
しかし動けないでいた。肝心の赤子は男に背を向ける形で浮遊しているために様子は分からないが魔物に怯んでいる様子は微塵も感じられない。
──先に動いたのは赤子だった。遊ぶように軽く片手を振るえば空気が一瞬震えた刹那、魔物がいる地面から巨体を軽々と飲み込むほどの極太の光の柱が轟音とともにほとばしる。
一瞬にして勝敗は決した。
咆哮すら飲み込む極光。その衝撃波で男は屋内へと飛ばされ、壁に体を強く打ち付けてしまうがその目にしっかりと魔物の幕引きを焼き付ける。
神の御業と言っても遜色のない一撃は天を貫き、最後は収束するように消えた。魔物は塵すら残さずに光に飲み込まれ、赤ん坊はコトが終わると何事もなかったように母親の元へ。
男も痛む体に鞭を打ち、思考が追いついていないながらも女性のもとへ。そこには母に甘える赤ん坊と、腕に子を抱く女性の姿。
窓からは太陽の光が親子に向かって差し込み、宗教画でも見ているような錯覚に男は陥る。
まさに聖母と神の子。
白のフードを被り、天の落とし子をいだく様子は神聖さを際立たせ、清らかなまま出産したのだと感じさせる。そんなこと分からないというのに。いいや、でも、きっとそう。
──処女懐胎。そんな言葉が浮かんでくるほどに。
「あなたはどうしたい?」
「え?」
女性は我が子の頬を繊細な指先で撫でながら聞く。その際も柔和な眼差しは子どもが独り占め。
「あなたに運ばれる途中の部屋で椅子とロープを見た。あなたが大切な人たちの元へ逝きたいのなら……助けてくれたお礼。苦しませずに逝かせてあげる」
「俺、は……。…………。」
浮かぶのは大切な人たちの顔。今ここで願えば言葉どおり安楽を得られるだろう。
けれど、と男は思い留まる。
(分からない、俺は……! 分からない……が、彼女──強いては子ども方に強烈に惹き付けられる。……俺にとっての救世主。あなたに……!)
深淵を表すような禍々しい人ならざるモノ。便宜上彼とするが、彼もまた自分の母しか見ていない。
だというのに男は息が詰まり、自然と跪く。
仕えたい。この子のそばにいたい。
まるで自分は彼に出会うために生きてきたのではないか。この惨劇も彼と邂逅するために必要なことだったのではとさえ──。
男は深く頭を垂れる。その様子を視界の端で捉えた女は榛色の奥に宿る暗い色を男へと向け、うっそりと笑う。
男の考えていることなど見透かしているように。
「私の名前はジータ。そしてこの子は……うん。そうね。ラプチャー。……ダーク・ラプチャー」
終