清々しいほどの晴天日。海に囲まれたここはアウギュステという島。ビーチには波が押し寄せては引き、それなりに賑わっている。
そんな場所に太陽の光を受けて煌めく黄金の髪を持つ少女の姿があった。肩辺りで切り揃えられた髪は彼女が歩くたびに小さく揺れる。
一歩進むごとにサイハイブーツが砂を踏み、独特の乾いた音を出す。ピンクのワンピース姿の少女が青々とした景色と心を癒やす音を楽しみながら歩いていると、突然男に声をかけられた。
彼女に話しかけた男性は獣の耳が生えており、少女が“エルーンだ”、なんて考えていると男はぺらぺら口を忙しなく動かす。
明らかにナンパなのだが、少女は疎いのかその反応は鈍い。
「ねえねえ。少しでいいからさ、俺と遊ばない? 一人でいるよりかずっと楽しいよ?」
「うーん……あなた、この島に詳しい?」
少女はその場で振り返る。彼女の背後、遠くには女性たちが不自然なほどに集まっている場所があった。
「もちろん。ご飯が美味しい店とか、雑貨屋とか……色々知ってるよ。案内してあげようか?」
「そっか。じゃあお願い──」
集まりの中心にいるであろう人物を思い、少しだけ表情を曇らせる。眉をひそめ、険しい顔をしている己に気づいたのか、少女はハッとして元の顔に戻すと男に向き直る。
了承の返事をしようと口を動かすが、最後までは言葉にならなかった。
「お待たせ、ママ。一人で寂しかった? 酷いじゃないか。オレを置いてイくなんて」
頭上にのしかかる重み。体に巻き付く黒い腕。背中に感じる筋肉の凹凸。鼻腔をくすぐる香水の匂い。老若男女を魅了する声。
「ベリアル……」
ママと呼ばれた少女が男の名前を口にすると、頭に顔を乗せていたベリアルは甘えるように少女の髪に鼻をうずめる。
少女を誘っていたエルーンの男は言葉が出ないようだった。それもそうだ。なんの前触れもなく現れたのだから。
「マ、ママってどういう……!?」
「言葉どおりだよ。この人はオレのママだし、見た目は少女だが子供がええと、一人、二人、一気に飛んで六人……」
「え、えと、す、すいませんでしたーッ!」
指折り数える男のただならぬ雰囲気に恐れをなしたエルーンは脱兎の如く逃げ出し、あっという間に見えなくなってしまった。
ぽかんとしている少女は何度か瞬きをするとその場で顔を上げ、ベリアルの名を呼ぶ。紅い宝玉は楽しそうに笑っている。
「私、あなたのママになった覚えはないんだけど」
「なにを言っているんだ。キミのデータからオレたち天司は造られた。ファーさんがパパならジータ、キミはママさ。現にオレやルシフェルが繭の中にいるとき、よく話しかけて撫でてくれたじゃないか。母親が胎の中の赤ちゃんにするようにさ」
ジータに絡みつきながらベリアルは心外だと大げさに肩を竦ませる。
──天司。それは一人の星の民の男が造り上げた星の獣。ジータはその前身だった。彼女のデータを元にベリアルたちが生まれた、という意味ではママというのは正しいのかもしれない。
実際、彼女を慕う天司は多い。ジータと名を呼ぶその目は母を見るように優しげで。また、ジータも当たり前のように愛を持って返していた。
「それより……もういいの? 随分楽しそうだったけど」
ベリアルの抱擁から抜け出し、向かい合う。
普段のベリアルの服装は白い軍服。上から下まで最低限の露出しかしていないぴっちりとした服だが、今の彼は違った。
黒いシャツに同じ色の革のパンツ、紫羽のファーストールとだいぶラフな格好だ。さらにシャツのボタンは腹辺りにある一つしかなく、膨らんだ胸元や割れた腹筋を惜しげもなく晒している。
身長差からベリアルを見上げる形のジータは先ほどの女たちの集まりを思い出す。あの輪の中心にいたのはベリアルだった。このビーチに来てすぐに囲まれ、ジータは輪から外れて一人歩いていたのだ。
だがそれは仕方のないことだと彼女は思っていた。ベリアルを含む天司たちはみな、美しい容姿を与えられている。見た目こそヒトの形をしているが、中身と同じく人間離れした造形美。
なので女たちが惹き寄せられてしまうのは当然なのだ。
けれど、少しだけ……胸が重くなったのは事実。言葉にすることはないが。
「まぁ……いつもなら誰か誘うけど、今日はキミの護衛兼移動手段だからね。しっかり虫除けしておかないとファーさんに怒られちまう」
天司は個体によって枚数が違うが、最低でも二枚の羽が与えられている。だがジータにはなかった。ルシファーに羽が欲しいと言ったこともあるが、必要ないと一刀両断。
それからはジータは羽のことを口にすることはなくなった。
羽があれば自由に空の世界を見て回れるのだが、彼女はそれができない。なのでこうしてたまにルシファーの許可を得て、気分転換としてベリアルやミカエル、ガブリエルたちに連れてきてもらっていた。
「移動手段は分かるけど、護衛なんて大げさだよ。あなたたち天司よりかは劣るけど私だって星晶獣。人間や魔物に簡単に倒されないよ」
ジータの言葉にベリアルはそういう意味じゃないんだが……と思ったが、口にすることはなかった。
研究所がある島に悪くいえば軟禁状態の彼女。周りはジータを慕う獣ばかりで、たまに現れる不埒な星の民はルシファーの考えを汲んだベリアルが処理している。
あからさまに不機嫌になるのだ。本人が自覚しているかは不明だが、この件に関してルシファーに一度も咎められたことがないので……そういうことなのだろう。
綺麗なものしか知らない鳥かごの中の彼女が、外界の男の下卑た感情など分かるはずもなく。
今だってベリアルが割って入らなければ下心のあるエルーンに付いて行っただろう。仮に迫られても純粋な力でなんとかできるとはいえ。
「さて……と。まずはこの島の名物でも食べに行く? 案内なら任せてよ」
「うーん、じゃあ……」
「まっ、魔物だー! 魔物が出たぞー!」
平和なビーチに突如として響く男の叫び声。それを皮切りに辺りは大混乱へと陥る。だが、ジータとベリアルだけは取り乱したりせず、平静を保っていた。
星晶獣である彼女たちにとって魔物など恐るるに足らぬ存在。街のほうへと逃げていく人間たちを見ながら遠くの地を見れば、たしかに魔物の姿がある。数は十数匹。
「この島には自警団や傭兵がいる。キミが出る必要はない。人間たちに処理させるべきだ」
「でも……。──ぁ、駄目っ!」
今にも駆け出す体勢を取るジータの腕を制止するようにベリアルは掴む。あの程度の魔物ならば人間たちでどうにかできる。自分たちが助ける必要はないと言うが、ジータはとある光景を目にすると思い切りベリアルを振り払い、体を光の粒子へと変え、消えてしまった。
「おい! ジータ! ……ハァ、結局こうなるのかよ。お人好しすぎやしないかい……?」
向かった先を見遣り、ベリアルは彼らしくない大きなため息を一つすると、ジータの後を追いかけるように走り出した。
「きゃぁぁぁっ!!」
ジータたちがいた場所からだいぶ離れた砂浜。そこには逃げ遅れたのか、砂上に倒れる込む腹の大きなヒューマンが今にも魔物に襲われようとしていた。
絶体絶命。女性は襲いくるであろう痛みに反射的に目を閉じるが、いつまで経っても想像していた痛みはやってこない。
おそるおそる開眼すれば、金髪の少女が魔物の攻撃を剣で受け止めているではないか。
「はぁぁっ!」
「──! ──……」
あの場所から妊婦が襲われようとしているのが見えたジータは考えるよりも前に行動していた。助ける力があるのに見殺しになんてできない! と。
素早く体と武器を顕現させ、ジータは魔物の一撃を片手に持った剣で受け止めた。天司を思わせる羽があしらわれた剣は天からの光を反射して輝き、美しい。
そのまま袈裟斬りにすれば魔物は倒れ、動かなくなった。騒然とする場。当たり前だ。外見からしてただの女の子が容易く魔物を屠ったのだから。
「大丈夫?」
「え、ええ……ありがとう。助かっ……ああっ!」
地に伏す魔物を見下ろし、ジータはその場でくるりと回転すると女性を見た。どうやら怪我はしてないようだ。膨らんだお腹を見て微笑みながら声をかければ、女性は戸惑いながらも感謝の言葉を述べようとし──ジータの背後に見えた存在に甲高い声を張り上げる。
ジータへと迫る魔の手。しかし攻撃される直前で魔物の脳天を紅い剣が貫いた。
「おっとぉ……魔物に囲まれているのに油断しすぎだろ、ジータ」
「ベリアル……! ありがとう、来てくれたんだね」
「オレはキミの護衛だからね。まったく。お転婆で困るよ」
振り返れば、剣を抜かれて支えを失った魔物が体を小刻みに反応させながら砂の上へと倒れる。
攻撃をした人物はベリアルだった。手には禍々しいほどの色をしたひと振りの剣。ベリアルが戦闘時に使う魔力剣だった。
ジータはベリアルが来てくれたことに眩しいほどの笑顔とともに礼を言い、ベリアルもまんざらでもなさそうな顔で肩を軽く上げると、スッと表情を引き締めた。
「ん〜……このくらいならすぐに終わるな。オレはコッチを相手するからキミはソッチを頼むよ」
「分かった!」
魔物たちが二人を取り囲むなか、互いに背中を合わせると駆け出す。まるで踊りを踊っているような優雅な身のこなしに人間の女は釘付けだった。
まさに蝶のように舞い蜂のように刺す。魔物の攻撃をかわしながら確実に仕留めていく。
時間にして数分。ビーチを襲った魔物たちはすべて倒れていた。周りは血に染まっているが、ジータたちは一滴も返り血を浴びておらず、汗も出ず、呼吸も乱れていない。
「あ、あなたたちすごいのね……」
「まあね。あなたは大丈夫? お腹の子も」
「ええ。私もこの子も無事よ。本当にありがとう……」
「ジータ。一旦ここを離れたほうがよさそうだ。面倒ごとに巻き込まれるぜ」
「あー……うん。そうだね。それじゃあ、元気な子を産んでね」
「はい。ありがとうございました」
砂に倒れたままの女性をジータは助け起こしてやり、言葉を交わせばベリアルがそっと耳打ちした。人間たちがこちらに向かってやってくる。ジータの外出は時間制限があるために余計な時間を取られるわけにはいかない。
ジータはベリアルに頷くと、女性に別れを告げてビーチから離れていく。そのときの表情がなにかに思いを馳せるように切なげだったのには誰も気づかない。
*
現在彼女たちは今までの喧騒が嘘のように静かな場所へと来ていた。他の人間の姿もない。心を癒やす音と砂を踏む音だけが場を支配している。
「赤ちゃん、か」
「キミにはすでに子供がたくさんいるじゃないか、ジータ」
「……私なにか言ってた?」
「赤ちゃん、か。って言ってたぜ?」
サク、サク、と鳴っていた音が鳴り止むと、ジータはベリアルの言葉に首をかしげた。どうやら無意識の言葉だったらしい。
ベリアルは彼女が口にした言葉を教えてやると、ジータは俯き、腹を撫でた。中身は人間と同じものが詰まってはいるが、生殖機能はない。それは雄のベリアルも同じ。
星晶獣には子供を成せる機能はつけられていない。けれど欲してしまったのは常々そう思っていたからかもしれない。
ベリアルが言ったようにジータを母のように慕う獣は多いが、本当の意味での母ではない。自分と血の繋がった子供が欲しい。その相手は──。
考えて、ジータは悔しげに下唇を噛んだ。
「ファーさんに言ってみたらどう? 案外乗り気になってくれるかもよ? それにオレもキミとファーさんの子供ならいいオニイチャンになれる気がするよ」
「どうしてルシファーなの?」
「キミはファーさんの獣だろう」
至極当たり前のように言われ、ジータはそう思わない自分がおかしいのかと思ったが、すぐに否定する。自分は間違ってないと。
ジータの役割はルシファーの身の回りの世話。だがそのような親密な関係ではない。たしかに他の獣に比べて行動制限が厳しいが、彼にはそういったヒトらしい情などないと思っていた。
ルシファーはジータにとっては創造主。遥かに上の人で、隣に立って寄り添う相手ではない。
「……まさかキミがファーさん以外の子を孕みたいと思っていたとは。……もしかしてルシフェル?」
「違う」
「四大天司の誰か? ガブちゃんやミカちゃんだったりする?」
「違うよ」
「他の天司か……? あとは星の民という選択肢もあるが……」
否定続きに一人でぶつぶつ言うベリアルを見てジータは目を細めた。自分を含めないのはベリアルにとってジータという存在は母親であり、ルシファーの番だということ。それが無性に悲しくて、ジータは眉をハの字に寄せた。
「その人は天司だけど……私のことは母親と思っているからこれは一方通行な想い。たぶん、この先もずっとそう。永遠に変わらない」
「母親とその子供。随分と唆るが……その感情はキミの中にしまっておいたほうがいい。相手を大切に想うなら、ね。ファーさんに知られたら……」
「ルシファーにとって、私はただの獣の一人だと思うんだけど?」
「それがそうでもないんだよねぇ……。ところでジータ。キミが想う相手って誰? オレにだけ教えてくれよ……」
体を寄せ、甘い声音で囁かれ、ジータはビクリと肩を震わせてしまう。普通の反応であって、変な意味に受け取られていませんように……! と願うジータはベリアルのほうを向くことができない。
だから気づかない。彼の瞳が紅く輝き、どこか苛つきが滲み出ていることに。
ベリアルにとってジータは母であり、ルシファーの番。それは揺らがない。本人がどう言おうと覆らぬ関係。
ルシファーは一度も言葉にしていないが、ジータに並々ならぬ執着があるのは明白。
そんな彼女が誰に想いを寄せているのかが知りたい。ジータの口ぶりからして一線を超えた関係にはならないとはいえ、目を光らせておく必要がある。
「ベリアルって案外鈍感?」
「……は?」
狡知を司る彼。普段はとても鋭いのだが、まったく気づいてないようだ。この場で答えを言ったら彼はどういう反応をするだろうか。普段から乱れている彼なら受け止めてくれるか。それとも……。
「あだっ、」
「この話はおしまい! ねっ、そろそろ騒ぎも収まった頃だろうし街に行こう? 色々見て回りたいし!」
弱々しい乙女の気持ちを奥底に押し込めると、ジータはベリアルの鼻を摘んだ。痛みを訴える彼に明るい笑顔を向けると歩き出すが、その言葉は自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
ベリアルに背を向け元気よく歩く彼女だが、それは無理やりのもの。彼女の心を表したその陰った顔を知るのは──頬を撫でる潮風だけだ。
終